自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 生きづらさを抱えていると、自分の状態をわかって欲しい、理解、共感してほしいと望みます。

 

その際に、いろいろな事項がありますが、

 結局のところ、
 生きづらさを抱える人にとって、本当に言いたいことはなにか、といえば、「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい!」ということではないか、と思います。

このことを言いたいし、わかってほしいけども、前回の記事でも書きましたような神話、虚構がそれを封じてしまう。

(参考)→「神話と虚構

 

 

「おかしいって思いたいけど、周りの人たちは自分よりも安定していて、社会でも活躍しているし・・」
「自分はこんな症状が出ていて、実際に働くこともままならないし・・」
「客観的に見たら、自分がおかしいし・・」

というように、

あるいは、人に自分の違和感を伝えたら、暗にあなたがおかしい、という反応が返ってくることもあります。それによっても封じられてしまいます。
 

でも、これらは虚構によって、ある条件下で、そのように見えているだけで、(他人は立派で、自分はおかしい)実際はそうではない。

例えば、家族療法などでも指摘されるように、家族の病理が一番弱いメンバーに病気として現れる、ということがあります。
 

あるメンバーがおかしいということがあることで、他の人が立派でいることができたりする。

では、病気のメンバーがおかしいか、といえば、もちろんそうではありません。

 

たとえば、アメリカ史の常識ですが、アメリカの民主主義は、黒人や先住民の差別することで白人がまとまることができ、成り立っていることは知られています。
そうしたなかで黒人は意欲も奪われ、低層にいることを強いられています。しかし、表面的には「やる気なんて、個人のせいだ。チャンスは平等なんだから自分が努力していない言い訳だ」として、マイノリティの人々はさらに追い込まれてしまうし、当人もそのように感じてしまう。

 

そうした状態で、生きづらさが抱えている人たちが言いたいことは、「自分の取り巻く世界はおかしい!」「わかってくれ!」ですが、そういう意欲も封じられるし、もともと意欲の高い人ほど、「自分のせいだ」と思いやすいので、言おうとしても、自分を監視する別の自分がいて、「そんなこというけどさ~」と言ってダメ出しが入る。

だんだん、本来「言いたいこと」が、当人もわからなくなってしまいます。そうして、「自分はここがダメなんです」「ここがおかしいんです」という話になる。

治療者や、支援者が「いや、家族がおかしいと思いますよ」といっても、「う~ん、ピンとこないんです」ということになります。

そうして、本当に言いたいこと(自分の取り巻く世界はおかしい!)が奥底に押しやられてしまい、解決が遠のいていってしまうのです。

近年話題のオープンダイアローグなどは、関係者の対話が劇的な改善をもたらす、ということですが、じつは、こうした「自分の取り巻く世界はおかしい!」という理解が進むからではないか?

あるいは、対話を通じて、取り巻く人たちが「まともになる」からではないか?修正されているのは、周囲の人たち(世界)ではないか?と感じます。

 

 

「発達性トラウマ」でも取り上げた、自殺が少ない地域では「病は市に出せ」が合言葉ですが、病気は、取り巻く世界のおかしさからやってきているから、それを世界に返す、ということではないか?

トラウマとはわかりやすく言えば、環境、他者の闇(ストレス)を抱えてしまうこと、と言えます。
個人の視点で見ればストレス障害+ハラスメントであり、社会の視点で言えば、社会、環境問題ということになります。

 

親が問題なら親が問題だと言って何が悪いのか?

環境が悪いなら環境が悪いと行って何が悪いのか?

原因を原因というのは、とっても科学的な態度ではありませんか。

逡巡している間に自分のせいにされていることになぜおかしさを感じないのか?

 

 

もしかしたら、「自分の取り巻く世界はおかしい!」と言えて、生きづらさを社会に押し返すことが、改善のためのキーファクターと言えるかもしれません。

 

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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飽きる、疲れる、愛想が尽きる、は健全・健康的

 

 「三日坊主」という言葉がありますが、飽きてしまう、続かないことは良くないことだとされます。

日記などは典型的ですが、続けようと思っても続かずに終わってしまう。

 ブログなども更新されずに日にちが数年前のままのものがたくさん転がっています。
 

 「疲れ知らずの~」ということも、なにやら良いように考えてしまいます。

疲れずに続けられる。働き続けられる。

 3日徹夜して頑張った、なんて武勇伝を耳にすることがありますが、そんなことを真に受けるとすぐに疲れてしまう自分が駄目なように感じてしまいます。

筆者も昔は、疲れない、飽きない状態に憧れて、毎日遅くまで仕事をしていました。

 自己啓発などの世界でも、常に好奇心があってやる気があって、「ワクワク」しているのがいい、というような価値観があります。

 人に対する関心についても、愛想が尽きるというと、なにか情が浅く、冷淡な感じがします。
 
 永遠の愛、永遠の友情というように、困難があっても続く感情こそが上位であり、変わるものは良くないことのように感じてしまいます。

 

 

 しかし、実は、トラウマという視点から見れば逆です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 飽きない、疲れない、愛想が尽きない、というのは、トラウマの特徴と言えるものです。

 「トラウマは無限の世界観を特徴とする」、と拙著でも書きましたが、ずっと物事が続くように捉えています。
 通常ならば、疲れ、飽きが来るタイミングでそれらがこない。
 だから、不眠症になったり、依存症になったりしてしまうのです。

 ずっと食べても飽きが来ない、満足がないのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 愛想が尽きないというのもそうです。「そんなひどいことをされれば普通は愛想が尽きますよ」というような人間関係を続けてしまう。

 家族などは典型的ですが、「家族だから・・」という理屈のもと、おかしなことをされても自分を犠牲にして関係を維持してしまう。

 健康な世界で当たり前の有限の循環ギブアンドテイクが機能していないためです。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 
 なぜ無限か?といえば、一つには、他者や自己の不全感(痛み)に支配されているためです。

 不全感は暗闇のように底(限り)がありません。

 物事はDoing(行為) Being(存在) とに別れますが、
 DoingとBeingとは別の次元にあります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 基本的にDoing(行為)によっては、Being(存在)レベルの不全感を満たすことはできません。
しかし、その区別が曖昧にさせられ、Beingレベルの不全感に巻き込まれると、自分のDoingを動員してBeingの欠損を埋めようとしますが、次元が異なるので、いくら穴に土砂を放り込んでも限りがなく、満たされることがないのです。
 (アルコールなどの依存症などはまさに”底なし”に飲んでしまう。)
 

 そのために、ずっと”無限”の飽きない、疲れない、愛想が尽きない状態が続いてしまうのです。
 

 

 

 もう一つは、安心安全の欠如です。

 安心安全がない、世の中への信頼感がないために、ずっと危機の状態が続くように感じられてしまう

 

 さらに、時間間隔の歪みです。
 
 これは、頭で全てを捉えようとすることから起きます。
 健康な状態では、身体も含めて、世界のダイナミクスを捉えようとします。
 誤配、偶発性も含んで世界が展開していくという感覚があります。

 しかし、トラウマの世界は、頭で認識できる歪んだ範囲が、「現実」「事実」とされ、「どう考えても、良い展開になるはずがない」となってしまうのです。
 
 こうした感覚も、無限さを産みます。 

(参考)→「未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 

 

 トラウマケアをしていると、徐々に、疲れが感じられたり、愛想が尽きてくることを感じられたり、飽きが来たりするようになります。

 
 クライアントは、「~~に飽きてきました」「疲れるようになってきました」ということを自身では良いこととは思っていないのですが、カウンセラーからすると、「良くなってきましたね」ということになります。

 私もよく、「”飽きる、疲れる、愛想が尽きる”はとても良いことです」とお伝えしています。

 飽きたらどうなるか?といえば、次の展開がやってきます。

 疲れたらどうなるか?といえば、休んでエネルギーを充填し、次の取り組みに取り掛かることができます。

 愛想が尽きるとどうなるか?といえば、おかしな関係からは抜け出すことができます。

 いずれも、無用な固着にとどまることを防いでくれます。とても健康で有用な機能であることがわかります。

 

 

 

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王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。

 

 トラウマを負うと、しばしば自分の言葉が失われてしまいます。

問題の核心を言語化できなくなる。そのまま表すことができなくなります。

 眼の前のりんごと、「これはりんごです」とは言えなくなる。

 

 「ええっと、赤くて、丸いもので、人によってはそうは見えないかもしれませんけど、なにやらそのようなものがあるような気がする」

 

 

 となったり、あるいは、

 「テーブルがあるんですけど、私がそこが気になっていて、うーんと、よく人間は、そこでご飯を食べますよね?たまに、そこにいろいろなものを置いたりすると思うんですけど、例えばお菓子とか、お皿とか、あるいは、まあ、ええっと、そうですね、 別に私は気にならないんですけど、例えば、果物とかが置かれたりすることもありますよね。 でまあ、あの、私が子供の頃に、妹が・・」
 
 みたいに、さらに周辺を描写したり、

 結局言いたいこと、言うべきことは「これはりんごです」だけなのですが、これだけ回りくどくなってしまう。

 

 

 まだ、準備が整っていないと、カウンセラーが「りんごじゃないですか?」といっても、「そうなんですけど、妹が・・」といって、無意識にそらしてしまう。

 

 

 昔、京極夏彦か誰かが書いた推理小説などで、死体がそこにあってもそれが認知の具合から見えない、みたいなストーリーのものがありましたが、まさにそんな感じ。「そこにある」と第三者が言っても、どうしても目がいかない。

 

 これらは、いろいろなものに拘束されているために生じています。
 

 例えば、人を傷つけてはいけない、ぐちを言ってはいけない、 弱くてはいけない、とか、いろいろなニセモノの”前提”が入っていたりするためです。

 

 まさに、前提を支配され、相手の問題を自分のものとして、言葉の主権が奪われているために問題の核心にたどり着くことを妨げられています。

 いくら知識で、第三者が「これが核心だ」としてもあまり意味はなく、土台となる前提のねじれを解消していく必要があります。

 

 

 前提を見ないままにしているから、言葉が多くなってしまう。理屈が増えてしまう。

 ”オッカムの剃刀”という言葉がありますが、説明はシンプルなほうが良い。事実、真実というものはさっぱりしています。
 
 

 トラウマの世界観は妙に複雑に見えますが、実は、それは、真実が複雑なのではなく、ただ、前提がねじれていて、「王様は裸だ」「これはりんごだ」といえないために、ぐるぐると言葉が複雑になっているだけなのです。

 論理とは、前提があってこそ成り立ちますが、前提を操作されると、操作されたねじれた前提の上で、延々、答えの出ない連立方程式を解かされ続けるようになるのです。

 まさに、賽の河原の石積みのようです。

 

 

 複雑になってしまうと、その複雑さを理解、共感しない他者が無理解に見えます。
 しかし、それは他者が無理解なのではなく、他者は「これはりんごだ」ということが見えているだけ、ということがよくあります。

 
 他者が「りんごでしょ?」というと、なにやら細やかな情緒を汲めない、理解のない、がさつな人に見えたりもします。

 しかし、他者のほうがよほど真実に迫っていて、トラウマを負っている側が、無用に物事をこねくり回されているだけだったりするのです。

 他者の“無理解さ”身も蓋もない切り捨て方にこそ、真実があったりします。
 ぐるぐると回る”説明”やそれに伴う悲しさ、苦しさ、怒りに付き合わず、「王様は裸でしょ?」という他者の態度にこそ救いがあったりします。

 ですから、治療者は時に、回り回る言葉や感情にはあえて共感せずにスルーすることがあります。いっしょにトラウマのダンスを踊らずに、ログインする方向に進めるためです。
 
 

 こうした核心を突けずにループさせられてしまう、というのは、実は悩みにある場合に誰しもに共通します。

 

 

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“足場(前提)”の複雑なねじれ

 

 

 トラウマとは、ストレス障害+ハラスメントの大きく2つで構成されています。
 

 その中でも、ハラスメントは厄介で、簡単に言えば、より良く生きようとする意思を悪用し、その方の土台(足場)となるものを狂わせてしまいます。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 ハラスメントは、矛盾するコミュニケーションを使って、相手を支配しようとします。

 簡単に言えば、不全感から発した言動をルール、常識でコーティングして、呑み込ませようとする。

 自分が単に自分の不全からイライラしているだけなのに、それを「お前が悪いからだ」といってねじ伏せようとする。

 人間はDoingレベルではミスをする生き物ですが、Beingレベルでは無謬、無答責の存在です。

 しかし、Doingレベルでのミスを盾にして、Beingレベルを侵害して良い、というごまかしを行って、相手を支配する根拠とします。

(参考)→「哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 そうしたことを長い時間行われると、経験、体験レベルで”足場”が歪められてしまうようになります。

 さらに、より良く生きようとする意思や、世の中にある表面的な道徳が邪魔をします。

 道徳とは、
 「相手のせいにせず、自分に原因を求めて、改善しなければならない」
 「嫌なことをされても、相手を恨んではいけない」
 「感情は抑えなければならない」
 「家族は大事にしなければならない」
 「友人は大事にしなければならない」
 といったようなことです。 
 

 そうしてくると、段々と土台がねじれてきます。

 直感(本来の自分)では、相手に対する怒りや憎しみを感じていますが、それを直視してはいけない、それは抑えるべきものだ、としており、そのこともねじれの原因となります。

 さらに、問題の根源に怒りが向かずに、眼の前の人や物に怒りが向くという現象も起きると、もう訳がわからなくなります。

 

 

 

 ねじれとは例えばこのようなものです。

 1.親からハラスメント、マルトリートメント(不適切な関わり)を受けていた。
 
 2.しかし、それは自分がいい子ではないせいだ、自分が可哀想な親の代わりに頑張らなければ、しっかりとしなければいけない。
   (親は何をしてほしいかは言わずに、子供に忖度させるような関わりしかしないため、責任は忖度した側に負わされてしまう)

 3.機能しない親への怒りを感じる。

 4.しかし、それは抑えなければならない。感情は抑えるべきものであるし、親は可愛そうな人だから。

 5.親に認めてもらいたいのに、認めてもらえない。

 6.親に認めてもらうためには、いい子でいなければいけない、そのためには自我を抑えなければならない。

 7.認めて、と言うことも自我だから抑えなければならない。しかし、親は認めてくれない。更に怒りを感じるがそれは抑えなければならない。

 8.7までのことと、世間で流布されている道徳にまつわる表面的な言葉が結びついて、区別できなくなってしまう。
   「親は大事にしなければいけない」
   「人のことを悪く言ってはいけない」
   「愚痴を言ってはいけない」
   「努力して頑張らなければならない」など

   ※親が宗教などに傾倒しているなどの影響がある場合は、家の中でもそのような言説が通っているために、”道徳”の影響はより強く作用します。

 

   
 9.7までのことは、家の秘密として外ではうまく言語化できない。言語化できないためと、秘密であるため、とで自覚が薄れていく。
   (言語化困難はトラウマの影響もある) 

 10.社会恐怖、対人恐怖も相まって、世の中とはそのようなものだ、として家の中の出来事は「大したことがない」として記憶されていく。

 11.解放の足場となるべき外の大人が機能不全。親戚や学校など。
    場合によっては、親戚も巻き込まれていて、表面的な道徳を言われて混乱する(「いい子でね」「親を大事にね」など)
 
 12.7までのことは問題としてもはや自覚できなくなる(アプリオリ=所与の前提となってしまう)。

 

 

 ※社会に出てから

 13.他者に投影されてイライラが向く。眼の前の人が悪いからだとどうしても怒りが湧く

 14.他者に問題がないとすると、自分に問題がある、自分が負けたということになって、それは受け入れられない。

 15.現実の生活や仕事、学校でミスやハラスメントが続いて、自分が駄目な証拠が積み重なってしまう。
    (自分のだめな原因が、1~7のせいだとは言えなくなってくる。)
 
 16.自分を改善するために自己啓発などに励んで、一瞬良くなるが、だんだんそこで書かれた道徳が自分を縛るようになってくる。

 ※あるいは、

 16.自分の問題を解決しようとして、心理学セミナーや本をたくさん読む。
    そこに書いてある俗な理論や言葉(クリシェ)を当てはめて、状態を説明しようとしてしまい、逆に身動きが取れなくなる。
       
   ※言葉というのは慎重に使わないといけません。
    例えば、私達の生きづらさを特定の宗教やマルクス主義などの言葉で当てはめていくと、最初は良くても段々と窮屈になって、現実をそのまま捉えられなくなりますが、それと同様です。

 17.本来足場となるべきパブリックルールに対して気後れと反感があり、そこに足場が置けず、迂回ルートを通ろうとしてしまう。

 

 
 このような状態の方は少なくありません。多くの方に当てはまります。

 ですが、見ての通り、わけがわからない状態になっています。

 そうして、世の中の道徳とごちゃごちゃになった状態に足場を置いているために、問題を覆すための”支点(足場)”を得ることもできなくなっています。

 こんなにごちゃごちゃしていれば、スピリチュアルなどに頼って、「ログアウト」したくなるのも無理はありません。
       

 解離性同一性障害(多重人格状態)にある人などは、この上にさらに、内面化した人格が喋り続けたりして、カウンセリングが困難になります。
 「1~7に目を向けましょう」と提案しても、ごまかしたり、邪魔をしたり、退行(幼児返り)したりするようになります。

 

 ねじれを起こすのは、
 前回の記事でもかきましたように、

 ・表面的な道徳の言葉が当てはめられてしまって、反論ができなくなってしまっている
 ・経験や体験として、複数箇所で「自分が悪い」を感じてしまっているために前提を疑えなくなっている。「自分は本当は大丈夫」ということを捉えきれない。
 ・「これは絶対に正しいはずだ」として所与のもとして、初めから疑う、検討から除外、している。
 ・前提を見たくない、前提を疑うことは自分が間違っているということを認めることになる、という感覚
 ・加害者との”共犯関係”(加害者のマネージャー役、お世話係)になっている。
 
 というようなことがよくあります。

 

 最後の、共犯関係というのはやっかいで難しいものです。
 
 自分が属するグループ(家族)自体がおかしい場合には、自分もその構成員として属しているために、「自分も共犯」と言う位置に置かれてしまうことがあります。

 これは、その方にも問題がある、ということではありません。
 そのように思わされてしまう、ということです。

 
 戦時中やコロナ禍などもそうですが、社会全体がどこかおかしくなってしまう場合、例えば、個別の事象について違和感を感じても、それを全面的に表明することは難しく、最低限は社会に適応しなければならなくなります。

 そのために、完全に身ぎれいであることは難しく、反対したら「変人」扱いとなり、批判され、いじめられる。
 積極的に関われば「体制に順応した」となり後で責められる。
 消極的に無視をしても、「無視は加害といっしょ」ということにもなります。

 それぞれはなかなか難しい。マスクをしているだけでも、同調圧力に協力したことにもなりえます。

 

 家族についても同様で、賢い子供ほど、自分の責任と感じて、家族の問題の解決に積極的に取り組もうとして巻き込まれ、共犯化され、「お前もおかしなことをした」と言われたり、あるいは、抵抗して「あいつは変わり者だ」とされたり、するようになります。

 長年、おかしいなモノ扱いされ、あるいは、親の代わりに責任を引き受けしていくうちに、足場がねじれていきます。
 
 
 自分が問題解決に頑張ってきて「敗れた」プロセス全体としてですから、これを自分だけできれいに制することは難しく、さらにそこに屋上屋を架すようにして、さらにねじってしまう人もいます。

 屋上屋には、俗な心理学も含まれます。

 
 多かれ少なかれ、こうしたねじれは誰にでも存在し、そこから抜け出すことができるかどうかが、解決がスムーズに進むか否かに関係してきます。

 

 

 

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