「文化づくり」という視点

 昔、私が夕方、マンションの階段を上っていたら、人がいないはずのスペースに人がいたことがありました。ドキッとして鼓動が早くなります。なんだ??と。

 どう考えても、人がいるはずもないところに人がいて何やらスマホを見ている。

 たぶん、泥棒か何かなんだ、と思い、どうしようか?と逡巡します。

 そこで、勇気を振り絞り、何やってんだ!と声をかけると、その人物は、すみません、とかなにかを言い、一目散に逃げていきました。

 

 

 そのあと、この事態をどうしようか?と考えていました。
警察に通報するべきか、別に何も起こらなかったからそのままでいいか?と。

 その時点で私は人生で110番通報をした経験は一度もありません。

 その後の手間などを想像したり、あと、昔に自転車を取られたときの面倒くさそうな交番のおまわりさんの対応を思い出すと、どうせ通報したって、、という気持ちもわいてきます。

 

 しかし、この時に浮かんできたのは「文化づくり」という観点です。

 ここで、私が通報しなければ、よほどでなければ通報しないという文化が自分にも、自分の家族にも生まれてしまいます。

 避難訓練というものがあるように、人間というのは行動したことがないこと、練習したことがないものはできないようにできています。

 初見では臨機応変に対応できる、というのは幻想で、人間は過去に練習したことしか基本はできません。

 これは知人から聞いたことですが、自分や家族が具合が悪くなった時も「救急車を呼ぶ」ということが案外できなかった、というのです。それはその方が救急車を呼ぶということを過去にしたことがなかったからです。医療関係者からは「そういう時は呼んだほうがいいよ」と言われたそうです。

 

 

 そんなこんなを考えた時に、私は、何もなかったとしても、ちゃんと対応されなかったとしても、一度通報したほうがいい、とおもい警察に電話しました。

 すると、3人の警察官が来て、いろいろと調べてくれました。いわゆる調書みたいなことはなかったのですが、管理人にも話をしてくれて、後日、マンションには監視カメラが付くようになりました。

 結果的にはセキュリティは上がりました。

 これは一つの事例です。

 このこと以外でも、私は「文化づくり」というのは日頃からも意識しています。
 

 

 

 会社などの組織も、文化というものがありますが、その文化とは何か?といえば、結局は「過去にその会社とそのメンバーがとった行動の集積」ということです。

 過去にどんなことをしたかが文化になって、先例になって、参照されて、有形無形の文化となって現在に影響している。例えば、過去に問題があって、謝罪や返品といった対応をすれば、そういう誠実な文化にもなりますし、ごまかせばそういう文化にもなります。

 

 家庭もそうです。
 特に問題が生じた時、失敗が生じた時にどう対応したのか?がその家の文化になります。

 適切な行動ができないことはもちろんですが、家庭でよくあることとしては、学歴や財産、世間体といった見た目から逆算した表面的な行動ばかりしているということ。本来的な行動がなければ、曲がった文化、機能不全な文化になります。

 

 あるいは、特に親などの大人たちが自身の不安や引き継がれてきたトラウマ、不全感といったものを隠したまま間違った行動や対応をしているというようなこと。そうした対応からは、不安や不全化からの行動が「文化」となります。

 こうした曲がった文化が蓄積された家が「機能不全家族」というものです。

 

 機能不全な家庭だと、多くの場合、その家系で家長となるべき人(たち)が機能せずに、おかしな行動を繰り返していたりするものです。もちろん、それは、生育環境からの愛着不安、トラウマによって生じます(近年は、祖父母の世代の戦争のトラウマが及ぼす影響が注目されていたりもします。)

 それらがおかしなものとして認識されていればいいですが、なにやら理屈でごまかされたり、親族などによって追認されていたり、することで、ローカルルール化してしまいます。

 社会的存在、文化的な存在である私たち人間にとって、その影響はすさまじいものがあります。

 トラウマというのは私たちが背負ったそうした機能不全な文化のことである、といっても過言ではありません。

 

 

 カウンセリングなどではよく「認知(信念)」を変えるといったようなことが言われますが、そんなことでは生きづらさの解消には追いつきません。
 私の経験では、身体へのアプローチについても影響は限定的です。なぜなら人間はロゴス、ポリスの生き物だからです。

 

 そして、必要なのは“個人の”「認知」ではなく、「文化」を変える、という視点です。

 認知を変えるとしても、身体や行動を変えるとしても、それは「文化を変える」という視点がなければ効果はなくなってしまいます。
(身体の動かし方でさえ、かつての日本の文化と西洋の文化は違うと言われます)

 

 日々自分の行動で、自分の人生の「文化」を作っているという視点が重要です。

 パートナー同士であれば家庭の中、さらに、お子さんをお持ちであれば、親の役割は「文化」づくりである、と考えるとわかりやすいです。
 (いわゆる、”背中”で見せる、ということです)

 いかに、社会を“代表”して、理屈がちゃんと通った行動をとれているか、機能した行動を適時、適時に行っていけるか、がとても問われます。
 (こうしたことを、東洋哲学では「中庸」と呼ばれます)
  

 文化づくりにおいては、こうするべき、といった意識からであったり、不安からアクションしてもそれは全く機能しません。なぜならそれは多くはトラウマ由来のものだからです。
 メンバーから、無意識に「それ、あなたの不安ですよね」と感じ取られて、「従う道理なんてない」とされてしまうのです。

 

 そして、もし、無理やり従わせることができても、結局は、不安が文化になってしまいます。

 会社でも、経営者や上司がただ不安から部下を詰めたり、ワーワー理屈を言っている、という景色はよくあります。そうした会社の文化はどこやら強迫的になっていきます。

 

 不安もよくありませんが、立派であろうとすることや、完璧であろうとしたり、過度に正しくあろうとすることも、文化づくりとは対極にあるものです。それらも結局不安でしかありません。
 
 文化 とは、もっと実質的、機能的、愛着的、そして社会的なものだからです。

 文化づくりの8割は、いわゆる ソーシャルワーク といわれるものです。

 

 

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“自分の正しさ”ではない正しさは毒である。

  

 生きづらさ、悩みがなかなか良くならずに続く場合の要因としてあげられるのが、“正しさ”を守っている、ということがあります。

 
 本人の中では、葛藤があって、おかしいと気づいているのですが、過去に他者から引き受けさせられた規範、常識というものを守らされている。

 人間は、社会的な存在(ゾーオンポリティコン)と言われるように、社会的な規範とされるものを守ろうとします。私たちは「ルール」や「正しさ」にとても弱い。

 
 さらに、クライアントさんの多くは誠実で理知的ですから、より強く「ルール」や「正しさ」を守ろうとする。

 

 

 特に家庭の中で頭の良い子が、気が回る子が、能力の高い子が、家族の問題、親の言葉を背負い続けている、ということはよくあります。

 

 もちろん、学校、職場、パートナーとの関係である場合もあります。

 それらは、理不尽でしかないのですが、言葉の表面上は全く正しく見えるので、それに従い続けてしまっている。

 家族はおかしい人間でしかないのですが、社会が「親、家族は大切にしなければならない」「人には優しくしなければ」というからそれに従い続けている。

 あるいは、理不尽な人たちを反面教師にしている。

 頭ではわかっているが、“正しさ”から離れることができない。

 カウンセリングにサポートを求めた目的も「“正しさ”に従いながら、自分の苦しみを取り除きたい。悩みをなくしたい」というものであったりします。

 しかし、これは矛盾でしかありません。なぜなら、その方の生きづらさは、“正しさ”に従い続けていることで生じているからです。

 この“正しさ”に拘束され続けるというのは、簡単な問題ではありません。
理屈でわかっていても長く長く、しつこくしつこく続くのです。

 

 

 
 特に、“正しさ”への従属が、自分のアイデンティティとなっている場合は特にです。
(アイデンティティとは、例えば、親から愛される、とか、人から認められる、といったようなことです。)
 

 自分が属した共同体における評価軸があって、そのなかで散々な目に遭ってきた場合は、その評価軸はそのままに、「認められたい」「見返したい」となっている場合があります。

 例えば、

・家族、親族での価値観。その中で「お前はよい子だな」と言われたい。
・学歴。学歴に関連して、「立派だ」と言われたい。
・キャリア。「できる人だ」「すごい」と言われたい。
 (アカデミアの世界でのコンプレックスみたいなことに陥っている場合もあります。大学に就職したい、教授になりたいなど)
・パートナーとの関係。パートナーとの関係で、認められたい。
などなど

 こうしたことはすべて幻想ですが、これらに従い続ける。

 

 

 今の自分、これまでの自分はダメな自分だったが、自分は何とか改善して、成長して、認められたい、というような感覚です。

カウンセリング、トラウマケアがそのための手段として位置づけられている場合があります。

そうした際には、なかなかよくなりません。

 

 なぜなら、評価軸、価値観自体が、ローカルルール、他人の呪縛でしかないからです。

その中で、自分を変えようと努力するなんてことは意味のないことです。

 「でも、あんな社会から評価される一流企業自体がおかしな会社だなんて、信じられない」

 「あの強豪の部活の文化自体がおかしいだなんて、飲み込めない」

 「あの親族は、有名大学を出て立派に評価されてもいるし、その親族が間違っているなんて」

と思うかもしれません。

 さらに、
 「たしかに、そうした組織や親族の一部はおかしな人もいて、そうかもしれないけど、私は家族でも学校でも、会社でもいじめられた。だから、私がおかしい、私に問題があることは揺るがない」

 というのも間違いです。

 

 愛着が不安定であれば、ハラスメントが連鎖することはよくありますし、仮に安着が安定していても、偶然にハラスメントが重なることは珍しいことではありません。
 世の中は、ハラスメントだらけですから。

 歴史を紐解けば、国全体がおかしくなるなんて、普通にあります。

 ニュースを見れば、会社全体がおかしいなんて普通にあります。

 親族なんておかしなことだらけです。

 おかしくても、パフォーマンス(良い成績、よい評価、よい地位)を発揮したりもする。でも、それはおかしくないことの証明にはなりません。

 最近は、ゾンビ企業なんて言葉があったり、 おかしな企業が上場まで行くことがあるように、20~30年くらいなら、おかしなままでも、むしろおかしいほうがパフォーマンスが発揮できるものです。

 だから、結果が出ているから正しい、なんてこともない。

 

 
 こうした、経験や体験が偽装(偽装とは、自分に原因があるとされること)されてしまうことによって、“正しさ”は全く動かせない世の中の真理のように感じられてしまうのです。

 


 

 
 ここまでお話ししましたように、“正しさ”やそれに基づく基準というのは、私たちを苦しめるローカルルールを構成します。


 
 もちろん、それらは全く無視してよい幻想でしかありません。

しかし、幻想とわかってもなお、どうしてもそのことが頭に引っかかってしまう。

 
 この頭に引っかかってしまうという原因として、よくあることが、
「でも、やっぱり、他人に悪用されているとしても“正しさ”は正しいんでしょ?」という感覚です。

 ローカルルールの表面をコーティングしている“正しさ”が理屈上は正しいものが並んでいる。

 例えば、「人としてこうでなければならない」とか「家族は守らなければ」とか、あるいは、「自分で稼がなければならない」「頑張って努力しなければならない」など、“正しさ”とされるものは無限にあります。

 
 こうしたことがひっかかってしまって、否定できない。
なぜなら、“正しい”から。

 
 この“正しさ”を覆すことができない。

 もちろん
「家族にも悪い人がいるのはわかる」
「人には、いろいろな在り方があるのもわかる。その通り」
「頑張るだけが能ではない」「休むことも必要だ」

 といったように、“正しさ”を相対化するような考えは頭で浮かびます。これを応用したのが認知行動療法です。

 しかし、、でも、もとの“正しさ”は正しいという感覚は保持されたまま、どこか、すっきりしない。

 こうした際に、それから抜けるために、大切なことは何か?というと、
 
 “正しさ”とは実は毒である、もっと言えば、“自分の”正しさになっていないものはすべて毒だ という常識を知ることです。

 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

人はコミュニティや人間関係を更新・移動するもの~更新の際は悪く言われて当然

 

 前回もお伝えしたように、目の前にある、今ある共同体や関係の中に適応しなければならない、適応できない自分はダメだ、適応している人はすごい、と、私たちはつい幻想にとらわれてしまいます。

 実はそうではない。

(参考)→「適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック」

 

 
 自分はあの会社ではうまくいかなかったが、他の人(例えばAさん)はうまくやっている(だから自分はダメだ)

 他の人はあのグループで仲良くやれている、でも自分は馴染めなかった(だから自分はダメだ)

 
 と思いがちです。

 私たちは、実験を重ねるようにして、ここが合わない、ここも合わない、と試行錯誤(不適応)しながら、自分の道を見つけていきます。

 人はどんどんと共同体を移動していくものです。

 もともといた共同体に属し続け(うまくやり続け)なければいけないというのは幻想でしかありません。

 

 特に、生まれた場所、地域だからそこが自分にとって良い場所(故郷)とも限りません。
 地方などは典型的ですが、閉鎖的で、同調圧力が強い地域もよくあります。

 

 

 さらに、そんな場所から、卒業したり、抜け出したりして、自分の道を見つけていく際は、決して、キレイに移行、卒業できるというわけではありません。

 例えば、中学や高校で、つるんでいた友達と離れて、勉強や部活に熱心になったら、「あいつは付き合いが悪い」と言われて陰口をたたかれることになります。

 自分のやりたいことを見つけて進む中では、地元の友達関係とは距離を取ることになります。

 その際も、「あいつは変わった」「何、調子に乗ってんだ!」と悪口を言われるかもしれません。

 

 

 生まれた地域も同様です。

 地元の消防団などの会合や、寄合には出ないという選択肢を取ったり、転居したりする。「あそこの家の娘、息子はおかしい」「付き合いが悪い」と言われるかもしれません。

 

 会社も同様です。
「あいつは仕事ができない」「あいつは使えない」と言われたりします。

 

 パートナーとの付き合いも、別れるときはものすごいストレスがかかります。相手から罵倒されるかもしれません。

 

 問題のある父や母、親族とは距離を取らなければなりません。その際にも、とても嫌な呪いの言葉を浴びるかもしれません。 強い罪悪感、自責の念を感じる。

 そんなストレスを経ながら私たちはところを得ていきます。

 

 

 それぞれから離れる際には、

「なんで、あんな態度をとってしまったのか?」

「うまいことを言っておけばよかったのに。私は本当にバカだ」

「ほかの人ならうまくやれた(自分はうまく付き合えなかった)」

なんて、自分の不器用を呪うこともあります。

 

 これらは、すべて「不適応」です。

 

 しかし、「適応しなければ」と、中にはその不適応から生じるストレスを避けたいがために、あるいは「すべての場所で適応しなければならない」「過去に失敗したから今回は同じことはできない(同じようにケンカ別れになったら、自分だダメな人間であると確定されてしまう)」「すべての環境、人から合格点をもらえなければ、次に進んではいけない」という間違った観念、幻想を元に、適していない環境に居続けてしまう、というケースがあります。
 

 まさに”適応幻想”による呪縛と言うしかありません。

 
 私たちは、どんどん環境を変え、移動を続けていくものです。

そうやって人生を作っていきます。
  

 家族にも良い子と呼ばれ、今でも地元の友達とも付き合いがあり、人生で出会うあらゆる人から好かれ、地域でも覚えがめでたく、勤めた会社では惜しまれて転職、なんて、そんなことは実際にはあり得ません。
 いつも旅行やグルメを楽しんでいる姿をアピールするようなYoutubeやインスタと同じくらい作られた幻想です。

 もし実際に、うまくやり続けてきたとしたら、「何かがおかしい(本当の自分が殺されていないか? ほかの人や何かを犠牲にして成り立っていないか?)」と見ないといけません。学歴もキャリアもプライベートもうまくいっているように見える人が実際には本当は自分の人生を歩んでいない、という例はとても多いのですから。

 

 

 共同体にとっては自分たちの共同体の正統性を維持するために、脱退されることを防ぐためにも逸脱する人を悪く言うという動因もあります。

 
 そんな恐れから、共同体にとどまったりしてしまってはいけません。

 そして、悪く言われることをもって、自分がダメな人間だと思うことも必要ありません。仲良くできるのも、無用なあつれきを賢く避けることも、もちろん愛着(生きるため)の力ですが、時に仲違いをしたり、必要なけんかをすることも、生きていくのに必要な力です。

 

 そうして必要な際は腹をくくり、自分の気質、持ち味が持つ、必要な流れに沿って、更新し続けることこそが大切なのです。

 

 

 

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適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。」

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応」

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない」

 

 

 

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