誤った適応

 

 前回の記事でも書きましたが、世の中でうまくいっていそうな人でさえも、実は万全ではありません。

参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 万全どころか、うまくいっているがために、そこから出られなくなってしまうことがあります。

 世間体、ローカルルール、人からの評価、学歴、キャリア、立場、役職、年収、家、服、装飾品、パートナー、キャラ など。

 誤った適応をもたらす罠はたくさんあります。

 特に「会社」という仕組みはある意味良くできていますから、誤った適応を促進します。学校スキームの残像が加わるとなおのことです。

参考)→「「学校スキーム」を捨てる

 

 そして、基本的に人間はうまくいくものは良いと学習して継続してしまいます。
  

 会社や家族といった共同体での立場や役職などはその最たるものです。

 

 

 カウンセリング、トラウマケアでは稀に「症状が動かない」という場合が出てきます。その稀なケースというのは、例えば、会社や親族の中で立場があって人あたりも”紳士的”なドラマに出てくるようなビジネスマンといった方など。

 

 立場があって、人当たりも巧みな人というのは人格が固まっていて症状が動かない、というのはカウンセリングの“あるある”です。

 それによって、困った症状が出ているのですが、本人としては、うまく言っている“立場の人格”や、“スマートな人当たりのよさ”を捨てる気、変えるつもりはさらさらなく、当然、症状は動きません。

 これはまさに“誤った適応”といえるでしょう。
 

 ハンナ・アーレントが取り上げたナチスの高官アドルフ・アイヒマンなども、ある意味そんな人格かもしれません。「ヒトラーの虐殺会議」という映画にアイヒマン役が登場しますが、アイヒマンは如才なくユダヤ人の処分計画を淡々と説明します。それでいて、冷酷な人間かといえばそうではなく、休憩時間には、秘書にコーヒーを持ってくる気遣いもある。

 しかし、アーレントが指摘したように、ナチの体制に誤った適応をしていますから、もし、アイヒマンをカウンセリングしたら、おそらく同じく症状は動かないことでしょう。

 

 最近話題のヤングケアラーや、アダルトチルドレンも、おかしな状況について誤った適応を強いられています。 

 本来は家族が担うべき役割を背負わされる。

 そうした結果、当事者が証言するように、自分がなくなり、世界が壊れる。

 しかし、ヤングケアラーやアダルトチルドレンの多くは決して誤った適応のなかで万全ではありません。その中で苦しんでいます。

参考)→「なぜ、家族に対して責任意識、罪悪感を抱えてしまうのか~自分はヤングケアラーではないか?という視点

 

 

 ヤングケアラーやアダルトチルドレンたちが、「症状が動かない」というケースと異なるのは、生きづらいと感じる感性がある、ゆらぎがあることです。どこかでおかしい、うまくいかないという経験があることです。
 

 ゆらぎがある人はメキメキと良くなります。

 生きづらさとは、自分が失われた結果であると同時に、ちゃんと自分が奥底に存在しているからこそ感じるものです。

 自分が失われても生きづらさも感じずに、あるいは生きづらさは感じているものの人当たりの良さやパフォーマンスを発揮してしまっていてそれを手放すきっけかのない人は、より深刻な不幸です。

 カウンセリングが何をしているのか?目標は何か?ということを一言で言えば、「誤った適応」を解除すること、本来の資質に基づく成熟へとリセットすること、と言えるかもしれません。
 

 

 

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それも自分の感覚か?

 

 トラウマを負った人の特徴として、「過剰な客観性」があるということは、これまでもご紹介してまいりました。

参考→「過剰な客観性

 「客観」というものはとても曲者で、当たり前ですが、「客観」などというものはこの世には存在しません。

 

 

 例えば、なにかデータを見て判断する、という場合も、最後にそのデータを受け取るのは「主観」です。

 そのデータが生成される過程にも必ず主観が入り込んでいます。

 どの数字や事実をどのように加工するのか?どの基準だったら良い‐悪いとするのか?などすべて主観が入っています。

 

 神様がいて判定を下してくれるわけではないのですから、人間の主観しかこの世には存在しないのです。

 そうした場合に、トラウマを負った人の頭の中にある「客観的でなければ」というのは、実はかなりおかしな考え、感覚になるのです。

 主観、イコール「自分の判断」は間違っている、あるいは劣っている、または、容易に独り善がりに陥ってしまう、という考えが土台にあり、そうした考えを元に、”客観なるもの”を常に意識しようとするのです。

 しかし、そこで意識する客観とは、真の客観でもなんでもなく、自分の身近な「他者の主観を忖度したもの」でしかありません。

 つまり、常に客観的であろうとする場合には、自分というものが「他人の主観」に占領されるような自体になり、自分の感覚や考えが失われてしまうのです。

 無意識に「バランスを取らなければ」「(自分が嫌いな親にも)いいところもある。そうは言っても育ててくれたり、愛情もあったのも確かだ」みたいな考えは「他人の主観」です。

 

 

 では、自分の感覚を持つためにはどうすればいいのか?といえば、「自分の主観を極める」しかありません。

 その際の自分の主観とは、けっして「洗練されて立派な判断能力」のことではありません。

 無邪気さ、わけのわからなさ、といったものを肯定した先のものでしかありません。

 子どもがグズグズしていて、分けのわからない状態もある程度は親から受け入れられたり、わがままも許容されることがあることで、愛着は安定します。

わがままさこそ、自分の判断の土台となります。間違ってもいいし、失敗してもいいから自分で判断した経験こそが大切。

参考→「自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる

 

 そのうえで、徐々に主観は等身大の自己へと昇華していきます。

 一方で、「きちんと自分を律する」、「洗練されて立派な判断能力」といったことが「自分の主観」と捉えてしまうと、結局それは「自分の主観」でもなんでもなく、それを望む「親の主観」になってしまい、努力して実現した果に待っているのは自分が失われて、「他人の主観の植民地になった自分」だけが残ってしまうのです。

 

 そして、しゃべる言葉もなにも、他人の主観、価値観でしかなくなり、でも、発話、発声しているのは自分だから、そのことに気が付かずに、ずっと人生を過ごしてしまうようなことが生じるのです。

 借りてきたパーツで話をしたり、相手に合わせて間を埋めるような話し方になったり、声が揺れたり、声に重心がなくなったり、過度に抽象的になったり、俗な知識で解釈したり、極端になると、壊れたラジオのようにずーっとしゃべりっぱなしになるなんてこともあります。 

 

 
 「自己」を陶冶する、というのは昔(古典の時代)からテーマになってきたことですので、なかなか深い問題です。

 トラウマは「自己の喪失」を引き起こすこともあり、それを問題にできる契機を、一般の人よりも強く提供してくれている、と言えるかもしれません。

 

 

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もっといい加減に、というダブルバインド

 

 ここ数回の記事では、「わけのわからなさ」「いい加減さ」というものにこそ、自分の足場があるのではないか?ということをお伝えしています。

(参考)→「わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 乳幼児などは、ある意味、わけのわからなさ、いい加減さの塊のようなものです。
 

 それらを受け入れてもらうことで、安心安全(愛着)というものを感じていくことができます。

  その、足場を作る、本来の自分に戻るという際に、もう一つ罠となるのが、反面教師や偽の役割を背負わされる、追いやられるという問題です。

 
 アダルト・チルドレンや、ヤングケアラーといったことがまさに典型ですが、家族が機能不全に陥ると、その中で才気ある子どもは、その役割を埋める、埋めさせられることを背負わされます。

 家族はいい加減に、わけのわからないことをしているのですが、自分は「きっちり」「ちゃんと」ということを強いられる。

 自分が「わけのわからなさ」「いい加減さ」を見せると受け入れてもらえずに、否定されるということが生じます。

 もちろん、家族がおかしな価値観に支配されていて、子どもの「わけのわからなさ」「いい加減さ」を受け入れないという場合もあります。これもある種の機能不全です。

(参考)→「機能不全家族に育つと、自分が失われて、白く薄ぼんやりとしてしまう

 

 そんな中で育つと、自分というものは段々と失われて、「きっちり」「ちゃんと」という部分だけ、役割や立場だけが自分となってしまいます。

 生の素材の風味や地味はできる限り脱臭して、削ぎ落とした料理を作るようなものです。食品サンプルのような自分が出来上がってしまい、本来の自分に戻ろうにも抵抗が生じてうまく戻れなくなります。

 そうした状態の中で、カウンセリングやセルフケアに取り組んでみても、本来の自分≒何やら立派な存在 みたいにすり替わってしまって、足場になるようでならない、ということも生じてしまいます。

 

 更によくあるのが、周囲や家族が「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」といったアドバイスをしてくることです。

 こうした場合の「いい加減さ」「気楽さ」というものは、見かけは「わけのわからなさ」「いい加減さ」を示しているようで、実は本当のいい加減さではありません。

 

 あくまで周囲にとって都合の良い「わけのわからなさ」「いい加減さ」であり、結局そうした言葉を通じてその人を否定しているだけだったりします。
「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」というアドバイスが、暗に「あなたは真面目てつまらない人間」というような前提を刷り込むような結果になってしまい、自分のほんとうの意味での「わけのわからなさ」「いい加減さ」に戻ることを妨げます。

 そのアドバイスに沿って、「わけのわからなさ」「いい加減さ」になろうとしても、アドバイスに従うということ自体が自分を失う結果をもたらしたり、「そうはなりたくない」という反発を生むなどして、本当の足場にはならないのです。

 あるいは、エッセイや自己啓発本が唱えるような、「気楽に」とか「いい人はやめよう」といったことや、「老荘思想」みたいなものにも足場はありません。読んだ一瞬気持ちよくなるだけです。
 
 
 まさに自分の中にある自分の「わけのわからなさ」といったものを見つめ、捉えて肯定していくことにこそ、足場ができていきます。

 だんだん、周りが大したことがない、ということが見えてくるのです。

 

 

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わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 

 他人のわけのわからない行動を見たときに、自分のほうが固まってしまうことがあります。

 相手のわけのわからなさを変に忖度してしまって、黙ってしまうことがあります。

 特に、ハラスメントを仕掛けられたり、ひどいことをされると、見てはいけないものを見てしまったかのように、相手のおかしさに自分が呪縛される感覚を感じてしまう。

 「え??なにこれ?」っていう驚きとともに、それをバラしてはいけない、指摘してはいけないような圧と、秘密に呑まれるような感覚。それを他人に伝えても信じてもらえないような不安、自信のなさがある。 

 まさに他者の秘密、闇の世界に拘束される瞬間です。

 人から暴言をはかれたときにさっとつっ込めない。

 おかしな態度、言葉の裏には「他人に言ってはいけないよ」という二重のメッセージを暗に受け取ってしまうのです。

 レイプ、性的虐待などはそうしたことの最たるもので、相手の闇に圧倒されて、他者にそのことを言えなくなってしまう。

 いじめもそう。

 会社でのハラスメントに対しても「おかしい」と言えなくなってしまう。

(参考)→「ハラスメント(モラハラ)とは何か?~原因と特徴

 

 実は、私たちは、自分の中にある「わけのわからなさ」を承認、受容できていないと、人のおかしさにもさっと反応できなくなります。

 ただ、自分の良い部分、合理的で“まともな”部分だけを受け取って、それ以外を排除していると、他者がわけのわからない行動を取ってきた時に反応できなくなるのです。

 
 特に、「感情」はその最たるもので、感情をぶつけられると固まって、凍りついてしまう。

 感情をぶつけられた瞬間、驚きとともに、その後に、自分の中心がひんやりするような恐れが腸、胃から喉に上がってきて、頭がボーッとしてしまったりします。

 しかも、そうした事象を捉える際も「わけのわからなさ」を排除し、まともな部分だけで捉えようとするので、出てくる答えは、「相手を感情的にさせるのは、よほど私が悪い」というかなりおかしな解釈だったりするのです。

 妙に客観的になり、自分の主観からそれを解釈することができなくなります。
主観から解釈できないと、その体験は「自分のもの」ではなくなり、他人にも伝わらなくなってしまいます。

 

 わけのわからなさを一番身近に感じるのは、自分の親です。
最初は親は神のように完全で大きな存在として現れますが、健全な発達プロセスではそれが段々と等身大のものに変化していきます。
 親だって完全ではない、理不尽なところもあると、相対化されていきます。

 しかし、わけのわからなさを十分に承認される文化、環境がないと、自分のわけのわからなさは否定され、親のわけのわからなさはのまされてしまうようになります。

 

 例えば、
 母の機嫌の悪さは、自分のせい。
 母の不安は自分のせい。
 父親のだらしなさ、ダメさは自分のせい。

 それへの反発も手伝って、自分は「ちゃんと」しようと、頑張る。

 

 親は等身大化されるのではなく、いびつな形で残ったまま、飲み込まされ、自己イメージも等身大になるのではなくいびつに歪んでしまい、妙に自信があったり、妙に自己否定的になったりします。 
 

 そんな状態では、自分が起こす失敗はあってはならないものになって、恥や自責に塗れるようになり、つねに人から見てうまくできていることばかりを気にしたりするようにもなります。すると、相手の都合や評価がイコール自分という形になり、自分というものが失われてしまいます。

 人と付き合う際も、相手に対して作った自分が自分になってしまい、自然体の自分で付き合うことができなくなります。

 落ち着く自分の土台がないために、過緊張になり、いつもどこか浮ついて、あがっているような状態にもなります。
 

 わけのわからなさに十分に受容できていると、そこが本来の自分として、他者の闇に対しても反応がしやすくなります。
お笑い芸人が、薄々感じていることを前意識を言語化して、さっと突っ込んだりするように相手のおかしさを相対化できる。なるべく解毒することができます。 
 社会的な関係性から言語化できなくても、頭の中で突っ込んだり、茶化したりすることで、相手の闇に飲まれなくなります。
 物理的に距離を取れたり、関係を持たないという選択をすることもできるようになります。

 こうしたことから、わけのわからなさを受容していると、世の常識にしっかりと足場を置いて自分を保つことができるということがわかります。

(参考)→「自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる

 

 

 

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