存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間とは、弱く、間違いをおかすものでもあります。
 人間はいい加減で、だらしがなく、まとまらない存在。
 よく「落語の登場人物のよう」といわれますが、こうした人間観、世界観は、「愛着的世界観」です。 健康な人にとっての見え方です。

(参考)→「非愛着的世界観

 では、弱く不完全であるということは、その存在がだめだということを表しているのでしょうか?

 そんな事はありません。

 その存在自体はなんの罪もなく、誰もが尊重されるに足ります。

 

 

 「もともと呪われている」「もともとがだめだ」というような考えというのは偽りで、滑稽なことです。

 

 例えば、カラスを見て、「カラスは呪われた生き物だ」なんて考えている人がいたとしたら、いつの時代の価値観なんだ!?と思われるでしょう。

 

 私たち現代人は、科学的な価値観を持ち合わせていますから、「カラスだってひとつの生き物だ」「いろいろな特徴や習性はあるが、それと存在の正邪は関係ない」と考えるでしょう。

 

 つまり、行動(Doing)と、存在(Being)とを分けて捉えていて、
 存在(Being)になにか根本的な問題がある、という考えはとりません。

 ゴミをつついたり、鳴き声がうるさくて迷惑をかけていたとしても、カラスは単なる生き物。存在(Being)自体にはなにも問題はありません。

 

 
 もちろん、存在(Being)にはなにも問題がない、からといって、カラスが完璧な生き物だ(生き物でなければならない)というわけではありません。

 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして、両立します。
 

 

 人間も同様です。

 冒頭に書きましたように、人間の行動(Doing)は、弱く、不完全です。間違いをすることもあります。
 しかし、それをもって、存在(Being)が「呪われている」「邪悪だ」ということを意味しません。

 人間においても、 存在(Being)の完全さ、無責任さと、行動(Doing)の弱さ、不完全さは全く次元を異にして両立するのです。

 
 愛着的世界観、健康な人間観では、存在(Being)は、行動(Doing)とは、全く別のものとして捉えられています。
 
 
 だから、安心して失敗できる。安心して自己開示できる。人を特別恐れることもありません。
  
 

 

 しかし、虐待とか、ハラスメントというものは、存在(Being)と行動(Doing)という別次元のものを無理やりつなげようとします。つながっているように見せる、刷り込む、そして行動(Doing)の不完全さによって存在(Being)の不完全を証明する、というトリックを行います。

 

 例えば、行動(Doing)の不完全さ、未熟さを取り上げて、存在(Being)がダメだと叱責する。
 子どもが失敗したことを取り上げて、「あなたは生まれてこなければよかった」といったことをいう。
 部下が失敗したことを取り上げて、「お前なんか、社会人として失格だ。クズだ」と暴言を浴びせる、といったようなこと。 

 

 健康な状態では別れていたはずの存在(Being)と行動(Doing)が繋げられて、しかも、存在(Being)が不完全だと思わせて呪縛にかけます。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 ここからがさらに厄介なのですが、ハラスメントを仕掛けられた人(被虐待者)は、その状態から抜け出そうと努力をします。

 努力というのは、行動(Doing)によって行われます。

 しかし、存在(Being)と行動(Doing)はもともと別次元のものであるために、いくら行動(Doing)を頑張ったとしても、存在(Being)のキズは癒やされることはありません。なぜなら、種類が違うから。

 

 存在(Being)のキズは、そもそも、呪縛によって仕掛けられたものなので、行動(Doing)よって挽回されるものではなく、あくまで、呪縛自体を覆しにかかる必要があるのです。

 

 しかし、そのことがわからないまま、行動(Doing)によって挽回しようとして、へとへとになってしまいます。

 特に、存在(Being)の完全性を取り戻すために、行動(Doing)レベルでも完璧さを求めて、絶対正しい、絶対に間違いのない、という領域を目指そうとして、挫折を繰り返すことになります。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 さらに、人間の本性は、行動(Doing)レベルは、弱く不完全なもの、ですから、どこまでいっても不完全なままです。うまくいったとしても、ゴールポストを動かされてしまえば、成功も失敗と判定される。

 「やっぱり、自分は存在自体が不完全なんだ、だって行動(Doing)レベルの証拠があるもの」となって、さらなる呪縛へと落ち込んでしまうのです。

 

 トラウマの裏には、存在(Being)と行動(Doing)との間違った接続、同一化が存在しています。

 

 

 

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人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 以前の記事で、
 健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしている、ということを書きました。

 その中で、やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、ということを書いた東大教授が書いた本をご紹介したことがありました。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 健康な人ほど人の話をスルーしているということ?!それって本当なの?と思います。

 でも、色々と現実を見てみると、やはり本当らしいということが見えてきます。

 

 

 例えば、先日、日本経済新聞で、NEC(日本電気)の社長のインタビューを目にしました。

 その中で、NECの社長は、合理主義者ということで、「仕事の上で無数に来る要望や指示の8割はやらなくても良い」と割り切り、着実に早く仕事をすることを心がけてきた。 ということが書かれていました。

 

 聞き漏らさないように、すべての指示を叶えることが優れていると思いがちな、仕事においても、8割はスルーして良い、と言っています。 

 大手の会社の社長になるような人ですから、仕事で評価されてきたわけですが、そのほうが評価される。 

 

 トラウマを負った人は、全てを叶えようとして、さらにはファインプレーをすることを意識して気を張ってがんばって、結果、頭が加熱して、ぼーっとしてしまう。 結果、無理やミスが生じて、過大な努力にも関わらず評価されない、ということが生じている。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 トラウマを負った人と健康な人では実は価値観、世界観が全く違うことがあります。当たり前と思っていることが実はそうではなかったりします。でも、それが言語化しにくいために、尋ねても明確に答えは帰ってこない。でも、よくよくみてみると全く異なったりします。

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観」 

 

 仕事上の要望や指示ということですから、「意味がある」と思いきや、ほとんどが意味がない。
 仕事でさえ8割スルーして良いのであれば、プライベートの言葉なんて、ほぼ戯言といって間違いありません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

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主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 マックス・ウェーバーという政治学、社会学者の著作に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というものがあります。

(参考)→プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 

 とても有名な著作ですが、そのなかでウェーバーは、資本主義の精神の土台となったものの一つは、プロテスタントの「予定説」ではないか、という仮説を提示しています。

 キリスト教は一神教で、全知全能の神が世の全てを作ったとしています。それを予定説といいます。

 そのため特にプロテスタントに、「自由意志」という概念は基本的にありません。なぜなら、今私達が考えていること、感じていることも神がすべて決定し、予定しているものだから。
 人間が自分で自由に決めて考えているわけではありません。

 「予定説」とは、この世の中のことや私たちの人生、審判の日に救われるかどうかも全てをあらかじめ決められているということです。

 

 すべてが決まっているのでしたら、無責任になってしまい、「頑張っても意味ないや」と堕落してしまいそうですが、人間とは不思議なもので、そうはならないとウェーバーは考えます。

 

 反対に、全てが決まっているからこそ、自分が神から救われる側の人間であることを証明しようとして勤勉に努力する、というのです。
 そうした勤勉さが資本主義の精神の土台となった、とするのです。

 

 
 この説は、発表された当初から批判もあり今でもありますが、その意義を認める学者も多くいます。
 社会科学では古典であり、基礎とされるテーゼです。心理学でも、実験で妥当性を検証した研究を筆者も見たことがあります。

 

 アメリカ人などが代表的ですが、自由主義や自助の精神も、その現象とは反対に、自由意志などなく最初から全てが神様に決められているということからスタートしている、というわけです。

まず、すべての責任を神が背負ってくれるから(人間に責任がないからこそ)、人間は主体性を持った近代人として生きていけるという逆説。

 

 
 このことは私たちの悩みを解決し、主体性を持って自分らしく生きるためにもとても大切な視点だと考えます。
 

 たとえば、私たちは悩みにあるとき、それが自分の責任であると考えて解決に努めます。

 しかし、トラウマを負った人の特徴として、この世界の中で自分で頑張るしかないという考えが強く、努力しますが、うまく行かずに社会に適応できなくなる、ということが起きている。  
 自分が自由に決めれるとして頑張れば頑張るほど、うまくいかなくなるのです。

 

 依存症の方も、その特徴として罪悪感の強さが挙げられますが、頑張れば頑張るほど、足が沼にめり込むように依存に陥っていく。さらに、そのことを社会的に責められて、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 なぜか、といえば、いったんニセの責任をすべて引き取ってくれるメカニズムがないままでは人間は主体的に生きていくことなどできないからです。

 そのメカニズムは、一般的には、神という宗教的なものではなく、「愛着」や「ストレス応答系」が予定説の代わりを引き受けてくれると考えられます。

 

 
 愛着が安定している人は社会にうまく適応することができるとされますが、なぜかといえば、「愛着」が安全基地として、責任などをすべてを引き取ってくれるから。「ストレス応答系」も同様で、身体の恒常性を維持しストレスを除いてくれるものです。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「愛着」のメカニズムで大切なことの一つは「免責(無責任になれること)」の提供だと考えられます。

 ニセの責任を一旦「愛着」や恒常性維持機能が全て引き受けてくれるからこそ、主体的な“自分”というものをスタートさせることができる。

 

 社会に生きていく中で、他人が因縁をつけてきてニセの責任を背負わせようとしても、「愛着」が作動して「それ、私の責任じゃありません」とフィルタしてくれる。

 反対に、不安定な愛着しかなく、「全ては自己に原因がある」という考えがあると「免責」が機能せず、親のローカルルールからきたニセの責任を背負わされて、過責任に苦しむことになる。 
 解けないニセの責任をずっと果たそうと余計な努力を続けさせられることになってしまうのです。

(参考)→ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 自己啓発などでは、よく「全ては自分の責任」といった考えで展開されます。
自己啓発のほとんどは、アメリカのキリスト教などを起源としていたりするとされますが、じつは、「全ては自分の責任」という話には、そもそも前段階があった。
 それは、「すべては神様が決めている(予定説)≒責任は自分にはない(無責任)」ということを受け入れているということです。

 

 
 いったん、すべての責任を引き取るフィルタを通るからこそ、安全な環境で守られた中で、「全ては自分の責任」といって、主体的であることができる。

 安全が確保された競技場で思いっきりスポーツをするような感覚。

 反対に、すべての責任を引き取るフィルタが無きままだと、さながら、凸凹の危険な環境で戦っているような状況。

 愛着を持っている人は、安全な芝生の上で思いっきり飛んだりはねたり、転んだりできているのに、愛着のフィルタがない人は、ニセの責任の引き受けさせられて大怪我をして、人も世の中も大嫌いになってしまうのです。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

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「私(自分)」がない!

 

 結局のところ、トラウマを負うというのは、「自分(私)」を奪われることです。

「私」というものがなくなってしまう。

 
 「自分(私)がない」というと、多くの人はピンとこないと思います。

 「本当にそうかな~?」と。
 

 なぜかといえば、トラウマを負っている人は突破力や行動力はあったりするからです。

 他者よりも気を使い、努力家で、たくさん行動していたりする。

 だから、自分の頭で考えているし、自分で行動していると思っている。

 しかし、それは、他者の気持ちに巻き込まれているだけだったり、ローカルルールによって強迫的に動かされているだけだったりする。

 もっと言えば、「行動」という側(ガワ)だけがあって、「私」という中身がない状態だったりする。

 実際に、いざなにか決断とか選択となると、途端にうまくできなくなったり、自分の感覚がわからない、となったりするのです。
 

 また、以前も書きましたが、「行動力」はありますが、自己開示は全くできていなかったりする。

(参考)→「自己開示できない!

 

 話し方も、「私は~」がない。事象や他者のことは語ることができますが、「私」については魔法がかかったように語ることができない。

 本人は「語っていると思うけどな・・」と思うか、自覚したとしても「語る必要がないんだから語らないだけ」という感覚なのですが、やはり真相は自分を奪われているからであることが多い。

 

 色々と頑張ってきたけども、肝心の「私」というのものは、魔女の魔法のガラスの中に閉じ込められてしまったかのように奪われてしまっているのです。

 そして、「理屈(他者の価値観≒ローカルルール)」の世界に生きてしまっている。

(参考)→「「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 
 そこで主権を奪われて、セラピーを受けたとしても、自分ではないものの悩みをテーマで取り上げたりしてしまったりします。

 実際に、不思議なことに何回もセッションを受けてから、ようやく「私の問題」を俎上に載せる事ができるようになるケースもあります。

 それも、いかにローカルルールの影響が強いか、私が奪われてしまっているか、を表しています。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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