前回は本を例に上げましたが、筆者はトラウマの影響から人の話もうまく聞き取れない時期がありました。
(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる」
たとえば、新入社員のころは、議事録を書いたり、というのが新人に任せる作業の定番ですがその議事録が苦手でした。
イメージとしては国会の速記係みたいに一言一句記憶しなければ、と思って書いているのですが、だんだん集中力が続かなくなって、記録できなくなる。ついていけなくなって焦る。
しかも、新入社員なので知識も足りず、専門用語や前提となる約束事がわかっていないのでふんわりした表現や曖昧な表現は意味を捉えられない。
さらに、当時の仕事は大企業同士の取引なので、社内でも客先でも「白か黒か」はっきりしない結論になることも多く、「グレー」のままで「なんとなく好意的」「なんとなく後ろ向き」というぼんやりした内容の会議もよくあります。
そこでは結果の解釈が上司とで真逆であることもしばしばでした。
それで余計に書いた議事録が正しいかどうか自信がありませんでした。
そのうえ、当時はトラウマの症状の真っ最中でもありましたから、なぜか会議中に眠くなって寝てしまう、ということがよくありました。フリスクを食べたり、腕をつねったりするのですが、うつらうつらしてしまう。
もしかしたら睡眠時無呼吸症候群なのでは?と診察を受けに行ったこともありました。(器具をつけて一泊して検査します)
結局は、なんにも異常はありませんでした。
わけのわからない症状で苦しむというのはそれはそれでとてもつらいものです。なぜなら、それが自分の責任(Being)とつながるから。「自分がおかしな人間なのでは?」という不安に襲われるのです。
わかりやすい病気であればよほどよいなとおもいました。
会社員時代というのは、目の前の仕事も大変ですが、不具合だらけのロボットのコックピットに乗っているかのような、あるいは、ナチス体制下のユダヤ人がユダヤ人であることを隠して働いているような(いつか自分がおかしな人間だとバレる)、そんな感覚でした。
実は、「他者の話」というのも、前回取り上げた「本」と同様に、自分を主体にするということがなければ、聞き取ることができません。
もっといえば、“私”を中心に身体全体で聞く、というような聞き方でなければ聞き取ることができない。
「私は、こう捉えた」ということがなければ、聞くことができないものです。
冒頭にあるように、「私は~」を抜いて、一言一句“客観的に”記録するみたいな聞き方、心構えでいたのでは聞き取ることは難しい。
もともとトラウマの症状もある上に、他者の話が重要だと捉えて全部聞き取ろうとするから、本当に大切な部分が聞き取れなくなっている。
パソコンやスマホで重い処理をしているかのように、だんだん頭がボーッとしてきて本当に記憶ができなくなってしまいます。
それで頭がシャットダウンして眠くなるという症状になっていたようです。
(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?」
カウンセラーや医師でも、ベテランになると話の内容は聞き流すように聴いていて、身体の動きだけを見ていたりします。
(もっというと、ベテランのカウンセラーは自分の身体に伝わってくる身体感覚や違和感を観察していたりします。)
そのほうが、知りたいことをつかめたりする。
特に「言葉」は一番信頼性が低い情報とされますから、一言一句拾いに行くことに意味はありません。
(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!」
他人が言ったことが正しい、ととらえていたら、そのうち「いや、私はこう言いました!」という他者の記憶に自分の記憶が圧倒されてしまうことになります。要は「記憶の主権」を声の大きい他者に取られてしまうようになるのです。
(参考)→「記憶の主権」
自分が話したことについては、他人が誤解したら「誤解された自分が悪い」とおもうのに、他人の言葉は一言一句捉えなければ、というのは非対称でかなり歪な感覚です。
他人の言葉でも誤解を恐れずに主体的に解釈しに行く必要があります。
「でも仕事であればできるだけ正確にしなければいけないのではないか?」と思うかもしれません。
しかし、例えば、情報を伝えるプロである大手の新聞社でも、記者は自社の方針で解釈し、言葉をかなり切り取って報道しています。
あれは、新聞社が「本人はそのようにしゃべったといってるが、私たちはこう解釈しました」と自信を持って切り取っているのです。
別に日本だけではなく海外の新聞社でも同様で、日本人からすると「えっ、そんなふうに解釈されるの?」と意外に思うこともしばしばあります。
(保守でもリベラルでも中道でも、業界紙でも、このことは同様です。)
つまり、情報を伝えるプロも一言一句なんて捉えていないのです。
それを指して偏向報道だ、と批判されることもありますが、「絶対客観的に書く」というのは実際には不可能だとされます。
記者なので、聞き漏らしのないように取材するのも仕事ですが、紙面には制限があり、取材したものを一言一句書いても記事になりません。
紙面が無限であったとして一言一句並べられても、読んで頭に入ってこない内容になってしまいます。
(つまり、偏向かどうかは、客観的かどうかというではなく倫理や質の問題になります。)
この「制限された紙面」というのは私たちの「認知」「記憶」と似ています。
人の話も、「私」を主体として切り取らなければ、聞き取れない。
自分の主体とはフォーマットです。
仕事であれば、職業に関連した定形のフォーマットがある程度ありますからそれをもとに整理されていく。
保険の営業マンであれば、自社の商品や顧客の将来設計というフォーマットにそってヒアリングする。仕事であれば、経験を積めば積むほどフォーマットは洗練されていく。
私たちも、「私」というIDでログインし、自分の価値観というフォーマットに沿って聞く。
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」
トラウマを負っていると、主体性(主権)を奪われている上に、フォーマットもないまま(理想主義から持とうとしないまま)、人の話を聞きにいくものですから、他人に記憶の主権を奪われて「いや、私はこう言いましたよ(あなたの記憶はおかしいですね)」と圧倒されてしまうのです。
上記の例にあげた新聞社などは、たとえ総理大臣やアメリカの大統領が「私は本当はこういったのだ(切り取り方がおかしい)」といっても、「いえ、私たちにはこう聞こえました」といって譲りません。
主体性を持って聞くとは、そういった聞き方なのです。
だから、会社の議事録でも、ある価値観を代表した「私」が解釈した議事録であって然るべきだ、ということだと、今はわかります。
その上で、職業人としてのフォーマットに磨きをかけるために、上司が「お前にはそう聞こえたのか、なるほど」「ここはもっとこういう解釈があるぞ。ここもポイントだぞ」というふうにトレーニングされていくものなのでしょう。
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