結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

 TVも新聞も、毎日、新型コロナウイルスのニュースばかりです。
 健康と経済生活とを両方天秤にかけながら、政治・行政も難しい決定が強いられているな、と感じます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 
 意思決定というときにしばしば問題になるのは「結果」です。
 

 結果が悪いと、「なぜ、あのときもっとこうしておかなかったのか!」と叩かれてしまいます。

 

 私たちも、失敗すると、「ああ、なぜあのときこうしておかなければ」と後悔することがあります。
 
 特にトラウマを負っていると、自責感、後悔というのは激しく心のなかでうずまきます。

 自分を責めて叩いて、後悔する。

 そして、次に同じ機会が訪れたときに、結果が気になって萎縮してしまって、自信を持って決断できなくなる。
 

 今度は失敗するまいと判断する範囲や情報を広げすぎてしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 「自信がない」「決めることができない」
 これは、トラウマを負っているとよく見られる現象です。
 

 

 

 例えば、野球などのスポーツでも、「あのときこうしておけば」というのはあります。

 阪神ファンのおっちゃんは、みな監督気分ですから、「あそこで、あの球に手を出せば」とか「あそこに投げていれば」ということを言いますが、当事者の立場になれば、果たしてそれができたかどうかはわかりません。 

 人間というのは全知全能ではないですから、常に結果から見て最善手を打てるわけではないからです。

 その瞬間には不十分な情報と時間とで判断をくださなければならない。

 

 新型コロナウイルスの件でも、例えば、最初の時点で外国からの往来を完全に止めていれば日本での感染は広がっていなかったかもしれません。
 しかし、それは結果論で、そのときにそれが判断できたかはとても難しい。
 往来が止まって仕事を失うと、それによって命を断つ人も実際には存在するからです。
 

 

 人間は全知全能ではない。
 しかし、近現代の傾向として、人間は自分たちが全能であると錯覚しやすくなっているので(近代人のトラウマティックな万能感)、人間の判断力を大きく見積もって、「(人間はもっと賢いはずのだから)あのときこうしておけば」と批判する傾向があります。

 たまたまうまく言ったケースを持ってきて、「できている人がいるんだから、できるはず」と考えて、万能感は修正されなくなってしまう。

 

 

 

 人間の判断力は思っている以上に小さく、限界があります。
 弱い人間にとってはすべてを見通すことはできない。

 できることは、プロセスが適切であったかどうか、価値観の軸がブレなくあったかどうか、だけです。

 野球においても、先日亡くなった野村監督は、ピッチャーが打たれた際にキャッチャーにリードの選択の根拠を聞いて、根拠があれば叱らなかった、というエピソードがあります。

 人間は結果を常に制御できるわけではなく、少なくとも自分として根拠(プロセス)があるかどうかが大切ということです。
 

 

 

 私たちの日常は、常に長距離戦で、1回の勝負で終わりではありません。常に次がある。

 長期戦で結果を出すためには、プロセスが大事で、自分の基準や価値観(フォーム)を持つことがとても大切になります。
 
 目の前の結果を出すために自分のフォームが乱れてしまうよりは、自分のフォームを成熟させて、長期で結果が出るほうが良いのです。
 

 

 

 しかし、日常生活や職場でも、結果論で相手をマウンティングする人というのはいます。「だから、こうしておけば」ということを言うのです。

 「結果がすべて」ということを言われますから、一見正しいように見えます。

 人間は全能ではないので、途中のプロセスですべてが見通せるわけではありません。結果が出なくても、プロセスとしては、そのように判断するしかないことがほとんどなのです。

 「結果がすべて」という言葉を間違ってとらえて、その批判を真に受けてしまうと、自分のフォームが崩れてしまいます。

 

 

 日常生活でも親が子どもに対して、結果だけを取り上げて、「だから、言わんこっちゃない」とか、「だから、あなたはいつもだめだ」といったことを繰り返すと、子どもの価値観の軸が崩れ、自信が育たなくなります。

 そのことが続くと、他人の判断や価値観が正しく、自分の価値観が間違っているように感じられ、自他の区別がなくなり、自信を持って意思決定ができなくなります。

 本当は他人の価値観が正しいわけではなく、それは「結果論」から正しそうに見えていただけだった。
 

  
 結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想にとらわれると、同じように結果が出せない自分に自信がなくなり、自分の「主権」が奪われるようになる。

 「結果論」で相手の意思決定を批判する、というのは実はローカルルールだったのです。

 

 

 私たちにとって、目先の結果が悪くても、自分で決定することは必須です。人間にはそれしかありえない。

 もちろん、意思決定のプロセスや価値観の未熟-成熟ということはあります。より良い意思決定はあります。
 しかし、それも、「自分が意思決定をして」「成功と失敗も繰り返して」身につける以外に道はない。

 選手の代わりにコーチが打席に立つことはできないのですから。

 

 「結果だけを見て判断したり」「意思決定の基準を他者に求めること」では、人間は成熟にたどり着くことはできない。
 

  
 
 自分の判断基準を持って、自分で決定をする。

 その場合に、俯瞰の立場に立って見ている自分がいて、迷いがあったら要注意。

 それは、冷静な目で自分のことを見ることができているのではなく、「結果論を振りかざす他者に目線」を内面化している、ということ。別の表現で言えば、他人の価値観で判断している、ということです。

(参考)→「「過剰な客観性」

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 

 私たちは常に自分の主観で見て(主観的客観性)、その瞬間得られる不完全な情報でしか判断できません。

 自分の主観で物事を見るようになると、無意識(身体感覚)が協力してくれるようになります。  

 思考の力の上に、腑に落ちる-落ちないという基準が出てくる。

 だんだんと概ね間違いのない決定できるようになってくる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」  
 

 

 

 もちろん、「間違いのない」とは、結果から見て最善の手ということではありません。

 以前、TV番組で投資のプロの方がおっしゃっていた言葉で印象に残った中に、「一番安いときに買えると思うな。一番高いときに売れると思うな」というものがあります。

 人間は全知全能ではないのですから「一番安いとき」や「一番高いとき」を判断できません。
 だから、あとから見て、「あのときに売らなければ」「あのときに買っておけば」はまったく意味がない、ということです。

 

 

 人間は結果から見て最善の手を打つことは「絶対に」できないのです。
 投資の世界でも、できることは自分の判断基準を持ってブレなく実行する、ということだとされるそうです。

 そのように考えると、私たちも日常において、自分の価値基準を持つことが大事で、結果は、六勝四敗くらいか、場合によっては三勝七敗くらいで、勝ち方も最善ではなく、ほどほどくらいでよい(というかそれしかできない)。

 

 でも、トラウマを負っている人は、結果から見て最善手を打つことを強いられている。
 常に頭の中で焦って、最善手を打つことができないことを責める他人の評価を気にしている。

 

  
 結果から見て最善の手を打とうとすると、どうなるかといえば、他人の価値観(ローカルルール)に支配され、自分の主権が奪われてしまうのです。 

 

 頭の中で私たちを責める「あなたはだめだ」「あなたはいつも~だ」という言葉とは、あたかもインチキ評論家が結果で物事をあとから論じて自分は事前に見通せていました、というように、自分の親や身近な他人が結果論(後出しジャンケン)で全能の神を演じていただけだったのです。

 

 

 たまたまうまくいった人はどこにも必ずいますから、それと比べて「うまくいった人がいて、自分はできていいないのは事実だ」というのは、“作られた事実”でしかありません。※「他にうまく行っている人がいますよ」というのは詐欺の常套句です。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

加害恐怖(強迫)

 あらためて、最近気がついたことに、トラウマを負っている人は加害恐怖(強迫)を持っているケースは多いかも、ということです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 加害恐怖(強迫)というのは、「自分の言動が相手を傷つけたかも?!」という不安を持ってしまうということ。

 例えば、自分の言動がきつくなってしまったかな、と思ったら不安になってしまったり、相手からどう思われているかな、傷つけていないか、と確認したくなったりする。

 

 

 健康な人は、自分の気持ちに任せて怒ったり、自分の考えを伝えることで自尊心を守ったり、自他の区別を適切に保ったりする事ができていますが、トラウマを負っていると、加害恐怖のためにそれができなかったりする。

 

 その背景として、もともとの気質のやさしさや、理不尽なことをする人を見て「あんなふうになりたくない」という反面教師や理想主義からくる面もありますし、ローカルルールで縛られていたりもする。

 

 

 「あなたはきつい」とか、「言い方が悪い」とか、みたいなダメ出しをされてきていると、だんだんと自分が出せなくなってくる。

 自分を出そうとすると、他者からの評価、評判が意識されて、意見が言えなくなる。

 ブレーキとアクセルを両方踏むみたいな感じになって、前に進めなくなる。

(参考)→「気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 

 

 本当は感情を吐き出したり、意見を言ったりして、スパッとその場の空気を公的なものにしたり、相手との距離をとったりすることが必要で、本来そこに変な反省はいらない。

 

 「言い方が悪かったかも?」なんて思うと感情が相手に届かず、相手に巻き込まれて、なめられたり、支配されたりする。

 

   
 怒っているときは「怒っている」でそのままで良い。

 そういう時は清々しさがあったりする。

 

 

 ローカルルールに巻き込まれている場合は、自分の考えや感情と同時に、他者に意見や価値観が湧いてきて、「傷つけたかも?!」とか、「どう思われているかな?!」とか、「相手との関係が悪くなるかも?!」みたいな余計な気持ちが湧いて、アクセル&ブレーキ状態になり、自分という車はくるくる回り始める。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 もちろん、健康な人は、感情を出して変な後悔がないというのは、冷たいとか情がないということではない。
  
 ただ、自分の感情を出すときと、相手のことを考えるということが別々のこととして区分けされている。

 もっといえば、「主権」がある。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 

 野球に例えると、野球は先攻、後攻と攻守が入れ替わりますが、そのように攻守の「権利」が切り替わるような感覚。

 攻撃のときには攻撃だけをする。守備のときは守備に専念する。

 攻撃に時に同時に守備につくようなことはありません。

 

 

 トラウマを負っていると、ほんとうの意味で攻撃の権利は自分にはなくなる感覚。なんか、ずっと守備につかされているような感覚。
 
 攻撃になっても守備のことを考えさせられている。
 
 それどころか、最後は相手チームのベンチに座らされているような感じになり、自分がなくなってしまうのです。

 
 

 「トラウマを負っている人が怒り出したり、相手のことを考えない言動で平気で相手を傷つけることがあるじゃないか?」と思うかもしれません。
 例えば、境界性パーソナリティ状態になって、相手に因縁をつけたり、クレームをぶつけるようなことが。

 

 でも、それはよく見れば、自分そのものではなく、まさにローカルルールに巻き込まれている状態、ローカルルール人格にスイッチした状態であって、その人本来ではない。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 結局主権を奪われた状態で、内面化した他人の価値観(ローカルルール)を表現させられているだけで、やっぱりそこに自分には主権はないのです。

 さらに、ローカルルール人格がしでかしたおかしな言動の責任を取らされて、「ああ、やっぱり自分は人を傷つけてしまう」として罪悪感(加害恐怖)を刷り込まれ、自分を表現できない~ローカルルール人格にスイッチしてローカルルール人格の感情を吐き出させられる~自分を表現できない、という悪循環に陥らされてしまいます。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 ルービック・キューブという玩具があります。ある面にある色が移動して6面体を完成する。

 著者の子供の頃にはすでに流行ったあとで、はじめてみたときはどういうからくりになっているのか、と不思議でした。

 一つの色を動かすと別の面の色も動いてしまうので、子どもには難しかった思い出があります。
 

 

 世の中もルービック・キューブ以上に、多面体で多次元でできています。

 一面だけではありません。多次元のバランスで成り立っている。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 しかし、流行りのダイエットみたいに、ある一面を取り上げて「これが正しい」とやると、とても大きな変化が出るように見えることがあります。
 (全体主義とかファシズムなどです。個別に言えばハラスメント、ローカルルールもそうです)
 
 その効果は一時的で結局元に戻ってしまいます。

 

 ある一面のルールを取り上げて、これが正しい、として押し付けるのは、その背後には私的な情動が潜んでいて、ローカルルールと呼ばれる現象ですが、とても効果があって、正しいように見える。

 それは正しいから効果があるのではなく、極端だから一時的にバランスが崩れて変化あるように見えるだけ。

 

 いじめで、「お前は~~だ」という決めつけも、一面的だから、その場では効果がある。
 たしかにそのとおり、だと思えてしまう。

 そのことを真に受けると、ローカルルールの呪縛にかかってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 特にトラウマを負っている人の特徴には「真面目さ」というものがあります。

(参考)→「過剰な「まじめさ」

 真面目さ、というのは、実はその方の気質による、というよりも「安心安全の欠如」からきます。
 安心安全を奪われると、目の前にあるルールを守らざるを得なくなる。

 発達障害の方などが融通がきかなかったり、真面目なのも、“そういう人だから”ではなく、身体の安心安全感が低いからです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴
 

 

 トラウマの場合は、マルトリートメント(不適切な養育)によって安心安全を奪われ、そこに、同時に、親のローカルルールを強いられる。

 過干渉、過保護も同様です。本来の気質に反して親の意向(ローカルルール)を強いられることはトラウマを生む持続するストレスに当たります。

 
 さらに、自分の気分でルールを押し付けてくる親を見ていますから、
ルールを守らないことはそんな親みたいになる(親みたいになりたくない)、という反感を持つようにもなります。
  
 
 それがかえって、ルールを守らされることにも繋がります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 ローカルルールは単に知識としてではなく内面化していますから、内は守り、外は敵視されたりもします。 

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 

 親への反感は潜在的に持ちながらも、ほんとうの意味での反抗ということには全くならず、なぜか内を守らされている。

 

 いろいろな自己啓発本を読んだりとか、すごいとされる人の言葉を真に受けては、それも半ば、破ったら悪いことが起こるのでは、というジンクスのような捉え方をしてしまう。

 

 何気ない他人の言葉でさえも、神からの託宣かのように、真に受けてしまう。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 いつしか、ルールは自分の中心にはなく、外側にあって、自分を支配するかのようになってしまっているのです。

「ローカルルールなのだから、破ってしまおう」とはできなくなってしまう。守らされてしまう。

 

 悪法でも法は法だ、とでも言わんばかりに、ローカルルールの呪縛というのはなかなかに強力です。

 罪悪感や真面目さなど、さまざまな要素を悪用してきます。

 特に「ルールを破る」ことへの抵抗感は、なかなかのものです。

 

 ローカルルールを打ち破るために、本来のルールとはなにか、について知っておくことは役にたちます。
 

 

 社会学者の宮台真司氏が書いた「子育て指南書 ウンコのおじさん」という本があります。
 子育て指南書 ウンコのおじさん

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルの通り、子育てについて書いた本です。 

 その中に、こんな言葉が出てきます。

法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。

 

昨今は、そんな共通感覚が消え、誰が仲間か不明になりました。だから、法を少しでも破った人をみんなで名指しして「炎上」し、擬似仲間を演出するのです。

 

大人になるとは昔から、社会に生きるのに必要な共通感覚を身につけることでした。」 
 

法を破っていいから「殺していい」にはならない。これはやりすぎです。」「どこまで法を破っていいか、つまり「許されるの法外はどこまでか」「どこまでが共通感覚のうちか」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。

 

親が「殺していい」と言ったから殺すのなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。

 

法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。

 

法への依存や母への依存をやめれば、言葉の自動機械であることをやめられます。そのことで「もっと人になれる」のです。

 「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。
 

 

 

 筆者も最近読んだのですが、ローカルルールの嘘や、それを破るためのヒントが隠れている、と膝を打ちました。

 上記の本によれば、法(ルール)とは、それを「守る」という片側だけではなく、「破る」という反対の片側と、両側で成り立っている、というのです。

 

 たしかにそのとおりで、私達は日常では、そうした破ることも含んだ裁量の中で生きています。

 特に、「ここまでは破っていい」というまさに安心安全を背景にした共通感覚で、そこにこそ社会とのつながりが生まれていってよい。

 

 反対に、「ルールは絶対に破るな」というのは、まさにローカルルールの命じるところで、そうしたことは嘘であることがわかります。

 

 なぜなら、社会とは多元的であり、多様であって、一元的に「こうするべき」とは決めることができないからです。

 

 刑法や民法などは、日常の外苑を囲うもので、健全な社会であれば、個々人の思想信条や生き方には口をだすことはしませんし、できません。

 そこにルールを張ろうとするのはかなりおかしいのです。

 私たちが苦しむローカルルールは刑法や民法といったものではなく、
 身近な人達によって都合よく架けられた、私達の生き方を縛るルールです。

 嘘だというさらなる証拠として、そこには安心安全もないし、温かな共通感覚がありません。
 

 

 ローカルルールとは、片側だけの、映画のセットのようなものです。
  
 本物であれば、それを「破ってもいい」ということとセットで両側でなりたっているもの。

 あるルールを守るというのは、多元的、多面的な社会の中で、ある一面に閉じ込められることを意味します。
 多様さを感じることができない。

 ローカルルールに呪縛されている人にとっての社会とは、一面的で自分を拘束する恐ろしい存在として感じられます。

 本来、社会はローカルルールの呪縛から解き放つためのフィールドでもあります。
 
 しかし、そこにアクセスできない。
  
   
 そのためにローカルルールに留めさせられてしまいます。
 (いわゆるひきこもりという現象などもこうした背景があると考えられます。)

 

 

 筆者も、昔働いていた職場でモラハラを行う人達を見ましたが、共通する手口が、「ここまでは破って大丈夫」ということで成り立っていた共通感覚を壊すということ。
 
 それまでは裁量で良しとされてきたことを、「これはルールだぞ」ということで衝立をたてるようにして、相手を追い込む。

 突然のことで驚いた被害者は、確かにルールを破っているので反論できずにマウンティングされてしまう。
(「あなたはルールを守れない人だ」とでも言われて、ウッとなったらもう抜けれなくなります。「さあ、私の指導に従いなさい」となります)

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 家庭でも同様で、本当は破ることも含めてしつけは存在する。

 子どもは賢いですから、守破離というように、しつけを守らせたあとは、破って離れてしていいわけですが、ローカルルールによって縛る親は、「絶対破るな」として片側だけのものにしてしまう。

 しつけも、本来は「破ってもいい」という反対サイドも含めて両側で成り立っているはずなのです。

 

 職場でも、活力のある職場は、破ってもいいということを含めて文化、風土は成り立っているはずで、そこに自発性、自律性も存在しているのです。

 「宗教のような職場だ(家庭であれば)機能不全家族だ」と言われるかそうではないかの差は、そこで展開されるルールが片側だけか、両側も含めてのものか、にあるのかもしれません。

 

 

 本来のルールというのものは、全て一度破るためにある。
 ルールは破らないと自分のもの、そして共同体のものにはならない、ということです。

 個人の発達のプロセスでもそれが二度あります。反抗期です。

 反抗期を経た人が、法を破って反抗すると愚連隊になるわけではありません。大人になる。
 むしろ、反抗期を経ないと大人として発達しきれないように、ルールはまず破る必要がある。

 破ることで両側から支えられる、多元性を獲得できる。
 

 

 
 ローカルルールをどうしても守らせられて、
 「ルールだから破るとなにか良くないことが起こるかも」と思ったら、とりあえず全て破ってみる。

 
 「~~しなければならない」と頭に浮かんだら、中指立てて、「NO」といってみる。

 もし、偽物(ローカルルール)だったら、壊れるし、
 本物だったら、共通感覚が生まれて、腑に落ちる感覚が芽生えますから、安心しておいて良い。

 (いずれにしても頭の中にあるルールは基本すべて偽物ですけれどもね。)

 

 

足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 私たちが重いものを持ち上げるとき、自分の体を支える足場が必要になります。

 足場がグラグラしていたら持ち上げることができません。

 宇宙のように無重力だと、力を入れると自分の体自体が浮いてしまうことになってしまいます。

 

 それと同様に、私たちが生きていく上でも足場が必要になります。とくに何かを考えたりするときは。

 

 西洋(欧州大陸)の哲学とは、人間は真理を認識できるか、人間の認識とはどこまで可能なのか?を主要なテーマにしてきました。

 近世ごろからキリスト教が明らかな限界を迎えて、代わりに「世の中はどうなっているのか?(神はいるのか?)」を人間の認識(理性)を使って知ろうとしたのです。

 

 そこで大切になるのは、はじめに私たちの認識(理性)はどこまで正しいのか?を疑う(批判)ということ。

 
 もしかしたら、今この現実は夢かもしれない。幻覚かもしれない。その恐れがあるわけです。

 夢だとしたら、認識したものも幻となり、考えたことも意味がなくなってしまいます。

 

 

 そこで哲学者たちは、人間はどこまで疑えるのか?(可疑性)を検討しました。

 デカルトの「我思う故に我あり」というのもその一つで、「徹底的に疑っても、思っている私まで疑ったら疑うことさえ成立しなくなる。」ということ。
たとえ、夢であったとしても、この思っている私、ということを疑うことは意味がない、としました。 

 カントは人間の理性の限界を示しました。

 

 現象学のフッサールなどもどこまで疑ってよいのかを研究していました。
 「私たちが物事を認識する志向性自体については疑うことは意味がない」としたのです。

 そうして、思考の「底(足場)」を定めてから、哲学を組み立てていきました。

 

 

 ちょっと難しそうな話からスタートしましたが、私たちが疑うためには「足場」が必要です。足場がなければ疑えません。

 

 日常に生きる私たちは哲学者ではありませんから、そもそも深く疑う必要はありません。自分の存在は是認、肯定した上で具体的な行為や思考のみを疑います。これが健康な状態です。

 

 

 しかし、トラウマを負った人は、疑いえないもの、疑う必要のないものまで疑わされてしまっている。

 それは、「自分」というもの。
「自分はそもそもおかしいのではないか?」とか、「自分の考えは異常なのでは?」といったような感覚にとらわれさせられてしまっている。

 これは養育環境で理不尽なコミュニケーションを繰り返された結果です。

 

 例えば、人からなにか気になることを言われたら、自分の存在までさかのぼって疑わされてしまう。

 仕事でちょっと失敗したら、自分の存在や前提まで疑う。

 そうやって、疑ってすべてを相対化して焼け野原のようになるまで疑わされてしまう。

 その結果、世の中を見通す最高の哲学者になれればよいのですが、そういうわけでもない。

 徹底した相対化とは、実は暗黙の前提の絶対化を意味します。

 つまり、焼け野原を支配しているのは実はローカルルールということです。

 

 何もない状態には人間は耐えられませんから、自分を疑って無になる、のではなく、実はおかしなものを絶対化してしまう。
 自分を疑う、ということは、イコール、ローカルルールを信じさせられる、ということです。

 

 

 健康な状態の私たちは、自分を疑う、ということ自体、原理的にできないし、する必要がない。

 

 「自分」という足場をもとに、「行動」や「考え」を修正したりすることはありますが、そもそも「自分」を疑うようなことはできない。

 

 ハラスメントや虐待というのは、このできないはずの行為ができるかのように錯覚させること
 そして、それを通じて、ローカルルールで支配することです。
 

 

 洗脳セミナーなどでは、罵倒や睡眠不足などを通じて、「自分」そのものを疑わせるようなことをして、主催者の都合の良い考えを刷り込みますが、まさに原理的には同じことです。

 親などが「あなたはだめな人間だ」「根本的におかしい」というメッセージを出すのは、「自分」を疑わせて、親にとって都合の良いメッセージを刷り込みたいということ。それによって「自分の不全感を発散させたい」ということです。

 

 

 しかし、ローカルルールを真に受けてしまった人は、自分を疑うことがあたかも正しく、誠実で、客観的な行為だと錯覚させられたまま、大人になっても、自分を疑う、ということを当たり前としてしまう。

(参考)→「「過剰な客観性」

 

 

 仕事や勉強においても同様で、「定理」や「公式」や確認された「事実」はお約束(前提)として、考えるものですが、それができなくなる。

 

 前提を前提とすることができず、いつも疑いを向けて、不安になります。
 
 疑うということで真理に到達するわけではなく、反対にローカルルールに絡め取られる。

 

 計算ミスがあったら、計算ミスをしたポイントに立ち返って再度間違えないようにして答えにたどり着きますが、計算ミスがあったら、「自分はだめだ」と足場まで疑い始めて、不安になり、絶望的になり、勉強が嫌になる。

 

 公式や定理そのものへの信頼も持つことができない。何か不思議な力によって、不意打ちのように間違いが起こるような気がして安心できない。
 さながらこの世の中が自分を駄目にする不思議な力が支配しているようなオカルトのみたいな感覚にとらわれるようになります。

 

 安心してコツコツと積み上げていくことができなくなる。コツコツとは、一度確かさが確認できたものは再度疑わない、ということです。

 それができなくなる。すべてを再度疑わなければならなくなる。頭はヘトヘト、仕事も勉強も嫌になってしまう。

 

 

 その結果、「自分はだめだ」「世の中は不確かだ」というローカルルールの世界に陥ってしまうのです。

 足場がないまま、根性で努力をして頑張ってそこそこに成功する人もいますが、エネルギーは続かなくなり、壁にぶつかることになります。

 「巨人の肩を借りる」といいますが、私たちは、先人たちの知恵(前提)にうまく乗っかかり、答えにたどり着くものです。

 さらに言えば、他者に代わりに確認してもらうなど協力してもらえばもっと楽に生きることができます。

 

 

 私たち人間は本来、「自分」というものは原理的に疑うことができない。その必要もないし、意味もない。

 デカルトも言うように、思っている「私」を疑っては疑うことさえできなくなってしまうのですから。

 

 「自信がない」という現象それ自体が論理的にはありえず、実はローカルルールの産物なのです。

 

 ローカルルールによって本来は疑うことができない自分を疑うという作業を強いられている。

  「自分」というものを疑っているときは、実はその足場は「ローカルルール」に置かれているということなのです。

 

                 足場       疑う
 (通常)            自分※ → 実際的な行動・思考
              
               ※自分というのは原理的に疑えない

  
          足場      疑う       疑う
 (トラウマ) ローカルルール → 自分  → 実際的な行動・思考

 

 

 ローカルルールがひどい場合になると、関係妄想などにとらわれて、事実も歪められてしまい、戻る足場がどこにあるのかさえもわからなくさせられてしまうのです。
  

                              
 (ひどい場合)  ローカルルールが自分のように振る舞う(いわゆるローカルルール人格にスイッチ) → 世界や他者はひどいと捉え、疑い否定する → ローカルルール世界を肯定する
       

 

(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由

 

 

 

 生きていると、フィッシングメールのように「自分を疑え(あなたは変だ)」と言われることがありますが、論理的にも成立しないことを要求されているということです。
(裏のメッセージは「私のローカルルールに服従せよ」ということ。)

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 私たちは本来、無前提に、自分を肯定していてよいのです。

 (足場は常に自分において、疑いを向けるべき対象はローカルルールです。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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