自己開示というのは、トラウマを負っていると結構難しいものです。
筆者も昔、「あなたは、全然自分のことを話しませんね」「他人のことばかり話していますね」といわれて、驚いたことがあります。
自分としては、話しているつもりだったから。
でも、おそらく、他者についての話題や時事ネタを話しているだけで、自分のことはなにも話していなかったのでしょう。
もっと言えば、「私は~」(Iメッセージ)とは全く言っていなかったのかもしれません。
それは、自分のことを話すと突っ込まれて嫌な思いをするから、という不安であったり、あるいは、うっかり自分のことを表明すると悪者にされるという恐怖であったり、また、親などのローカルルールを内面化しているために、ただ、「自分の言葉を奪われていた」ためであったりしたのだと思います。
(参考)→「内面化した親の価値観の影響」
本当は自己開示したほうが「自他の区別」はついて、他者から干渉されない安全が手に入るのに、怖がって、ローカルルールを真に受け続けているために、いつまでたっても安全が手に入らない。
(参考)→「「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング」
勇気を出して「自己開示」しても、よくみると、「私は~」になっておらず、いつのまにかローカルルールの理屈を表明しているだけになり、「あなたはきつい」といわれて、傷ついて落ち込んで、「二度と自己開示するもんか」となってしまう。
自由の手がかりであるはずのものを勘違いして、手放してしまう。
まるで、アニメや映画で呪いをかけられた主人公のようです。
前回もお伝えしましたが、ほんとうの意味での自己開示と、他者の理屈に影響された言葉とは、似ているようでいて全く異なります。
ほんとうの意味での自己開示は、「私は~」で始まり、自分の考え、感情から始まっていて自他の区別がついています。
(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる」
一方で、他者の「理屈」に影響された言葉は、「私は~」では始まらず、単に「You’r NOT OK」の表明でしかありません。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」
そのため、自己開示ではなく、単に「毒を吐く」ようにしかならない。
自他の区別がついていないと、自分の感情を発散させているようでいて、結局他者の理屈≒不全感を代わりに吐き出しているようにしかなりません。
「理屈」がついていますから、その「理屈」によって他者からの干渉を呼び込んでしまうことになります。
私たちは思っている以上に、他者の価値観(理屈≒ローカルルール)を直訳して影響を受けています。そして、「私は~」という、自分の言葉を奪われています。
(参考)→「内面化した親の価値観の影響」
カウンセリングにおいても、極端に言うと、自分の言葉でなければ、たとえばいくらそれをカウンセラーに聞いてもらってもおそらくなんにもなりません。なぜなら、それは「自分の言葉」ではないのですから。
自分はあたかもウイルスに感染したパソコンみたいに踏み台にさせられて、ただ他者の理屈を吐き出さされているだけになってしまっていたりする。
しかも、まちがって共感されでもしたら、呪いから逃れられにくくなってしまいます。
(参考)→「共感してはいけない?!」
なかなか難しいですが、そこに気づいて、呪縛から逃れる必要があります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。