結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

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 TVも新聞も、毎日、新型コロナウイルスのニュースばかりです。
 健康と経済生活とを両方天秤にかけながら、政治・行政も難しい決定が強いられているな、と感じます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 
 意思決定というときにしばしば問題になるのは「結果」です。
 

 結果が悪いと、「なぜ、あのときもっとこうしておかなかったのか!」と叩かれてしまいます。

 

 私たちも、失敗すると、「ああ、なぜあのときこうしておかなければ」と後悔することがあります。
 
 特にトラウマを負っていると、自責感、後悔というのは激しく心のなかでうずまきます。

 自分を責めて叩いて、後悔する。

 そして、次に同じ機会が訪れたときに、結果が気になって萎縮してしまって、自信を持って決断できなくなる。
 

 今度は失敗するまいと判断する範囲や情報を広げすぎてしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 「自信がない」「決めることができない」
 これは、トラウマを負っているとよく見られる現象です。
 

 

 

 例えば、野球などのスポーツでも、「あのときこうしておけば」というのはあります。

 阪神ファンのおっちゃんは、みな監督気分ですから、「あそこで、あの球に手を出せば」とか「あそこに投げていれば」ということを言いますが、当事者の立場になれば、果たしてそれができたかどうかはわかりません。 

 人間というのは全知全能ではないですから、常に結果から見て最善手を打てるわけではないからです。

 その瞬間には不十分な情報と時間とで判断をくださなければならない。

 

 新型コロナウイルスの件でも、例えば、最初の時点で外国からの往来を完全に止めていれば日本での感染は広がっていなかったかもしれません。
 しかし、それは結果論で、そのときにそれが判断できたかはとても難しい。
 往来が止まって仕事を失うと、それによって命を断つ人も実際には存在するからです。
 

 

 人間は全知全能ではない。
 しかし、近現代の傾向として、人間は自分たちが全能であると錯覚しやすくなっているので(近代人のトラウマティックな万能感)、人間の判断力を大きく見積もって、「(人間はもっと賢いはずのだから)あのときこうしておけば」と批判する傾向があります。

 たまたまうまく言ったケースを持ってきて、「できている人がいるんだから、できるはず」と考えて、万能感は修正されなくなってしまう。

 

 

 

 人間の判断力は思っている以上に小さく、限界があります。
 弱い人間にとってはすべてを見通すことはできない。

 できることは、プロセスが適切であったかどうか、価値観の軸がブレなくあったかどうか、だけです。

 野球においても、先日亡くなった野村監督は、ピッチャーが打たれた際にキャッチャーにリードの選択の根拠を聞いて、根拠があれば叱らなかった、というエピソードがあります。

 人間は結果を常に制御できるわけではなく、少なくとも自分として根拠(プロセス)があるかどうかが大切ということです。
 

 

 

 私たちの日常は、常に長距離戦で、1回の勝負で終わりではありません。常に次がある。

 長期戦で結果を出すためには、プロセスが大事で、自分の基準や価値観(フォーム)を持つことがとても大切になります。
 
 目の前の結果を出すために自分のフォームが乱れてしまうよりは、自分のフォームを成熟させて、長期で結果が出るほうが良いのです。
 

 

 

 しかし、日常生活や職場でも、結果論で相手をマウンティングする人というのはいます。「だから、こうしておけば」ということを言うのです。

 「結果がすべて」ということを言われますから、一見正しいように見えます。

 人間は全能ではないので、途中のプロセスですべてが見通せるわけではありません。結果が出なくても、プロセスとしては、そのように判断するしかないことがほとんどなのです。

 「結果がすべて」という言葉を間違ってとらえて、その批判を真に受けてしまうと、自分のフォームが崩れてしまいます。

 

 

 日常生活でも親が子どもに対して、結果だけを取り上げて、「だから、言わんこっちゃない」とか、「だから、あなたはいつもだめだ」といったことを繰り返すと、子どもの価値観の軸が崩れ、自信が育たなくなります。

 そのことが続くと、他人の判断や価値観が正しく、自分の価値観が間違っているように感じられ、自他の区別がなくなり、自信を持って意思決定ができなくなります。

 本当は他人の価値観が正しいわけではなく、それは「結果論」から正しそうに見えていただけだった。
 

  
 結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想にとらわれると、同じように結果が出せない自分に自信がなくなり、自分の「主権」が奪われるようになる。

 「結果論」で相手の意思決定を批判する、というのは実はローカルルールだったのです。

 

 

 私たちにとって、目先の結果が悪くても、自分で決定することは必須です。人間にはそれしかありえない。

 もちろん、意思決定のプロセスや価値観の未熟-成熟ということはあります。より良い意思決定はあります。
 しかし、それも、「自分が意思決定をして」「成功と失敗も繰り返して」身につける以外に道はない。

 選手の代わりにコーチが打席に立つことはできないのですから。

 

 「結果だけを見て判断したり」「意思決定の基準を他者に求めること」では、人間は成熟にたどり着くことはできない。
 

  
 
 自分の判断基準を持って、自分で決定をする。

 その場合に、俯瞰の立場に立って見ている自分がいて、迷いがあったら要注意。

 それは、冷静な目で自分のことを見ることができているのではなく、「結果論を振りかざす他者に目線」を内面化している、ということ。別の表現で言えば、他人の価値観で判断している、ということです。

(参考)→「「過剰な客観性」

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 

 私たちは常に自分の主観で見て(主観的客観性)、その瞬間得られる不完全な情報でしか判断できません。

 自分の主観で物事を見るようになると、無意識(身体感覚)が協力してくれるようになります。  

 思考の力の上に、腑に落ちる-落ちないという基準が出てくる。

 だんだんと概ね間違いのない決定できるようになってくる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」  
 

 

 

 もちろん、「間違いのない」とは、結果から見て最善の手ということではありません。

 以前、TV番組で投資のプロの方がおっしゃっていた言葉で印象に残った中に、「一番安いときに買えると思うな。一番高いときに売れると思うな」というものがあります。

 人間は全知全能ではないのですから「一番安いとき」や「一番高いとき」を判断できません。
 だから、あとから見て、「あのときに売らなければ」「あのときに買っておけば」はまったく意味がない、ということです。

 

 

 人間は結果から見て最善の手を打つことは「絶対に」できないのです。
 投資の世界でも、できることは自分の判断基準を持ってブレなく実行する、ということだとされるそうです。

 そのように考えると、私たちも日常において、自分の価値基準を持つことが大事で、結果は、六勝四敗くらいか、場合によっては三勝七敗くらいで、勝ち方も最善ではなく、ほどほどくらいでよい(というかそれしかできない)。

 

 でも、トラウマを負っている人は、結果から見て最善手を打つことを強いられている。
 常に頭の中で焦って、最善手を打つことができないことを責める他人の評価を気にしている。

 

  
 結果から見て最善の手を打とうとすると、どうなるかといえば、他人の価値観(ローカルルール)に支配され、自分の主権が奪われてしまうのです。 

 

 頭の中で私たちを責める「あなたはだめだ」「あなたはいつも~だ」という言葉とは、あたかもインチキ評論家が結果で物事をあとから論じて自分は事前に見通せていました、というように、自分の親や身近な他人が結果論(後出しジャンケン)で全能の神を演じていただけだったのです。

 

 

 たまたまうまくいった人はどこにも必ずいますから、それと比べて「うまくいった人がいて、自分はできていいないのは事実だ」というのは、“作られた事実”でしかありません。※「他にうまく行っている人がいますよ」というのは詐欺の常套句です。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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