自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 筆者はかつて、例えば読書をしていても、どうしても書いてあることが正しくて、それをどれだけ正しく吸収できるか?ということから離れられずに苦労をしていました。

 もっといえば、自分の解釈はできるだけ抑えて、著者の意図をそのまま正しく取り出して受け取らなければならない、さらに、著者の誤りまで見抜いて鉄板の事実だけを取り出して記憶しなければ、といった感覚。

 

 そうすると、本当に簡単な本であればよいのですが、難しい本になればなるほど読めなくなってしまう。字面だけを追うようになって、ただ読んでいるというだけで身にならなくなる。

 

 さらに、大学院時代に研究がうまくいかなかったトラウマもあってか、「自分の解釈には落とし穴、見落としがあって、それを指摘される」という恐れみたいなものがありました。手に入れた情報を頭の中で確定できない、書いてあることもどこか本物ではないのでは?真実は別のところにあるのかも?といった感覚にも陥って、わけがわからなくなってしまっていました。
 (クライアントさんの話を聞くと同様の感覚をもつ人は多いことに気が付きます。)

 

 本が主体になっていて、本に負けているような状態でした。

 

 

 しかし、いろいろな経験を積む中で、どうやら、結局偉い先生であっても、先行研究も含めて先人や同時代の問題意識やトレンドという他人の肩を借りて本を読んでいる。そのため、純粋に客観的な解釈などは存在しないし、過去の解釈でも今から見たら間違いとされるものはたくさんあったりする、ということもわかってきました。

 

 例えば、かつて流行したマルクス主義経済学や歴史学などは、現在ではおよそ科学とは言えないものですが、昔は東大などエリート大学の先生や学生がこぞって本を読んで研究をしていました。

 

 でも、そのほとんどが否定や修正をされるに至ってみると、当時あの難しい「資本論」などを本当に正しく理解できていた人は何人いたのか? 資本論について本を書いていた人でさえかなり怪しい。極論すると理解できていた人などほとんどいないかもしれないのです。
 
 じゃあ、当時得意げに理解したつもりになっていた人たちは一体何だったのか?おそらくある種のローカルルールの世界でしかなかったのかもしれません。

 天才、秀才たちでもそんなものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 以前の記事でも紹介しましたが、私たちが学んだ国語の教科書に載っていた小林秀雄などは、現代の一部の学者や評論家からは「ドーダの人」とされます。
つまり、単に自分をすごい人だと見せたいがために、わざわざ難しい、すごそうな文章を書いていただけの人だ、というわけです。

 だから、私たちが過去に読んで難しいと諦めた本でも、「ドーダ」で書かれた本は少なくないようです。

(参考)→「生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 実際それと似た話に、アラン・ソーカルという人が、コンピューターでランダムに哲学用語を並べた論文を発表したら査読を通り、それを評価する人も現れた、というのですから滑稽ですらあります。

 つまり、本の世界、学問の世界でもその随所にしばしばローカルルールがはびこっていたりもする。その中にハマると「おかしい」と思われてしまうことでも崇めたり、信じたりといったことがおきてしまうようなのです。

 

 

 実は、本というのは、本そのものに権威を感じ、そのままで読もうとするとその著者やその威を借りる人たちのローカルルールに巻き込まれてしまいます。

 以前、人の心を覗こうとしてはいけない、と書いたことがありましたが、それと同じ現象が起きてしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本ではなく日常で接する人の意見も同様です。
人間の言説には不純物が混じっており、消化吸収する際は、こうした落とし穴があります。

 特に自分を主体にせずに対象にコンプレックスを感じたりしていると、ローカルルールにやられてしまうのです。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 「でも、伝える側は専門家だから、やはり向こうのほうがよく知っているのではないの?」と思うかもしれません。

 しかし、私たちが商品を購入する際を見ればわかりますが、専門家である伝え手(売り手)の側のほうが常にすべてを理解できているわけではなく、私たちが受け手に回ったときも「この営業さん(店員さん)わかってないな」とおもうことはよくあります。

 お店で手にとった商品について「もうちょっとここがこうなってくれれば買うのにな」と思うこともあります。

 商品を作る側はプロなのですが、でも受け手が何がほしいかを理解するのは至難の業です。
 そのためにビックデータとかAIを駆使しようというのが最近の流れです。もっといえば、AIでも完璧にはわからないのです。

 

 

 一方で、顧客の意見を聞くということばかりに気を取られて、伝え手(作り手、売り手)が主体性を放棄すると売れない商品になってしまいます。
 今度は顧客の意見を受ける側である作り手もその意見に主体をもって向き合う必要があります。

 ときに、顧客の意見とは異なっても自分たちの信念を貫くことも大切です。

 

 実は本も同様で、偉い先生であったとしても、作り手(伝え手)がすべてをわ かっているとは限らない。とくに、現在、現場で生きているのは私たちです。

 

 私たちは問題意識から本を読みます。
 問題意識や私たちの経験を本に照らしてそれを投げてみて、跳ね返ってくるものを捉えようとしています。

 なので、「この点はどうなの?」とか、「この本の著者わかってないな~」ということが出てきても当然です。

 そうしてみると、実は、本を読む際も本を主役として読むのではなく、あくまで自分が主体で読まなければならない、ということが見えてきます。
    

 

 本を書く側、伝え手においても、その方の等身大の経験、身体感覚(問題意識)に基づいて世に問うものでなければ良い本にはならない。
 「ドーダ」で書いていたり、その人が属する業界のローカルルールにとらわれて書かれた本はその方の主体がそこにはないのです。

 伝える側も受ける側も自分を主体にしないと世界は何も答えてくれない、ということです。

 

 実は、自分たちを主体にして世界と向き合う、というのは歴史的にも時代が下るにつれて庶民にも広まっていった方法です。

 

 例えば、「宗教改革」というのは、聖書の解釈を聖職者ではなく、「自分たちに直接解釈させろ(自分たちが主体で聖書を読みたい)」という運動でした。
 聖書の主人公(伝え手)であるキリストの生き様に触れたい、という情熱も後押しした運動であったと言えます。

 そのために、ラテン語で書かれていた聖書を各地の言葉に翻訳して印刷機で大量に印刷されるようになりました。

 宗教改革というのは、実はプロテスタントに限らずカトリックでも対抗した改革が起きました。

 それが近代人の基礎になったのでは?というのがウェーバーのテーゼであったわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 20世紀後半から現代に至る「ポストモダン」という思潮もその延長線上にあります。

 ポストモダンとは、「人間の言説には、価値の上下はなく、差異しかない」というもの。

 だから、ポストモダンでは、ある意味いい加減に言葉は扱われ、やたらめったら難しい本ばかりという印象がありますが、人間を主体として言葉を単なる道具(差異)とみなすトレンドであったということです。

 

 実は、近年のアメリカでのトランプ現象(「フェイクニュース!」という言葉をよく耳にしました)や日本でも見られるマスコミや専門家への不信といった風潮も、一部のエリートのみが社会の言説の主体であるのではなく、自分たちも伝え手、受け手それぞれに主体でないとおかしい、という運動だと考えられます。
 

 ここまでは、「本」とか「読書」を例としてあげましたが、「他者」「家族」「上司」「友達」などと置き換えていただけると良いかと思います。

 

 私たちの発達の過程も実はこうした歴史の流れとフラクタル(相似形)で、他者の言葉を鵜呑みにする時期があってそれを壊すイヤイヤ期がある、また素直な時期があってそれを全否定する反抗期がある。
 成人するというのは、内面化した大人の価値観を自分の言葉で解釈し直すことです。

  
 前回の記事でも見ましたように、おそらく正しくは、受け手、伝え手いずれにしても、私たちにとって言葉とは、主権を持ち、身体のフィルタを通してはじめて意味のあるものになる、ということなのだとおもいます。

(参考)→「「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 もっと言えば、どのような場合にも私たちにこそ主権がある。
自分を中心にする、自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れてくるのです。
 

 

 反対に、主権なく他者の言説を“正”として押されっぱなしの状態が「いきづらい世界」です。

 

  
 人の言葉というのは、耳から脳に入って理解する、というものではなく、まずは免疫でチェックして取捨選択され、その後必要なものは身体から染み渡るように吸収して、内的な感覚として湧き上がるようにして私たちに「身体感覚」が来る、との順番で身になるものです。

 咀嚼、吸収するのは私たち自身の身体なのです。
 そのまま吸収ことは絶対にできない。

(参考)→「「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 もしそのまま吸収したらどうなるか?といえば、「支配」や「洗脳」ということになってしまいます。

 「親の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」「人望のある人の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」「経験がある人の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」といった感覚があるとしたら、それはそのまま吸収しているということです。
 

 そうすると、その言説が健康なものであればあるほど、エートス(魂)が伝わらず死んでしまいます。

 人の意見、本などの言説に敬意を持って活かそうとすればするほど、できるかぎり、こちらが主権を持って積極的に自分の体験や体感で解釈する。

 
 これは仕事や人間関係においても同様で、こうした捉え方こそが自分の世界を作っていくということになるのです。
 

 

 

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私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 

 今年、新しい『エヴァンゲリオン』の映画が公開されるそうです。
筆者が学生のときにテレビで放映されていたものですが、だいぶ息が長い作品ですね。
 (そのため、主人公はいまでもカセットテープのウォークマンをしています。)

 

 『エヴァンゲリオン』は、評論家などからは「セカイ系」と分類されるような作品です。セカイ系とは、複雑な社会は抜きにして主人公の内面と世界の危機が連動している、といった内容のものを指すそうです。

 実際に、主人公の行動と連動して大変動が起きたりします。

 

 自分にとって思うようにならない社会というものを中抜して、自分の心と世界が連動する(ことを望む)というのは、トラウマチックな心性と近しいものです。
 (『エヴァンゲリオン』の主人公も明らかに愛着不安というか、トラウマ的なキャラクター設定ですね)

 

 

 人間は、幼少期に自分の意志に共感するように養育者が反応してくれる経験を通じて「愛着」が形成されます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 もちろんズレもありますが、概ね自分の意志に対応するように「おっぱい」であったり、「おむつ」であったり、「だっこ」であったり、が提供されることで世界が自分に応えくれる、理屈の通った、という経験をするわけです。

 成長するにつれて、なんでも自分の思い通りには行かないことも知るようになります。

 しかし、自分が現実的に働きかけることで現実は確実に変わっていく、ということも学んでいきます。

 世の中が理屈にあったもので成り立っていることを基本として、理不尽な例外もある、というかたちでとらえていきます。

 自分も学業や仕事でコツコツと積み上げていくことで、高いところにも手が届く、ということを体感していくようになります。

 

 こうしたプロセスが不安定だったり、理不尽なことが多いストレスが高い環境だと愛着が安定せずに「複雑性トラウマ(慢性的なストレスによる障害)」と呼ばれるような状態になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分にとって周囲の環境は、思うにまかせないもの、というふうにしか感じられず、積み上がる感覚がありません。
 だから、努力が空回りしてヘトヘトになるか、ショートカットして自分の願望と結果を結びつけるしか手段がなくなってしまうわけです。

 その結果、「セカイ系」のように、自分の意志が世界とつながるようなことを願うようになるわけです。

 
 もちろん、現実には、連動することはありえない。そんな事になったら大変なことになります。

 結局、思うようには動かない世界があって、積み上がらない自分の経験だけが残る、という結果になります。
 

 

  
 1945年8月に敗戦を聞いた(いわゆる玉音放送を聞いて)日本の人々がどう感じたか?という体験談の中に下記のようなものがあります。

 

「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」(伊東静雄という詩人の日記)

 

 国を総動員した戦争に、国民は勝つと考えて臨み、負けました。
 負けるとは考えていなかったし、考えたくなかったわけです。
 
 悲しい事実の前に、自分を取り巻く物理的な自然も合わせて崩壊でもするのかと思っていました。

 しかし、自然は、全く変わることがない。

 ただ、「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」というだけ。

 

 当時の人々も、それだけのショックな出来事が起きれば、それに対応して、物理的な自然も変化すると思ったわけです。
 でも何も変わらない、動かない。 それどころか、穏やかな風景がつづいているだけ。

 

 「物理的な現実」は、歯がゆいくらいに、私たちの意思とは関係なく、そこに存在する。

 

 私たちも同様の体験をします。

 生きづらく、自分が思うようには人生は進まない、やりたいことも明確にならない。

 でも、外に出たら、何の変わらない日常が広がっていて、太陽は照っている。
 ゴミ収集車がメロディーをのんきに流しながら走っている。公園では保育園の子供が走り回っていたりする。
 
 野良猫が車の上であくびをしている。

 
 それを聞きながら、いいな~とも思わず、ただお腹の中のジワジワする焦燥感と胸の不安のやり場もなく歩いている自分がいる。

 自分の気持ちに合わせて嵐でも吹いてくれればまだ落ち着くのですが、そうではない。

 「物理的な現実」は、私たちの精神とは関係なく、何も動かない。ただ変わらずそこにある。

 そして、冒頭のセカイ系のように、自分の願望が現実に反映されることを願う。しかし、反映されることはなく、「やっぱり叶わなかったか」と失望することを繰り返します。

 

 では、「物理的な現実」というのは残酷な存在なのか? といえば、実はそうではありません。

全く反対なのです。

 精神とか、言葉とかイメージには関係なく自然、「物理的な現実」が存在することは、実は私たちにとっては大いに救い、希望になることです。

 なぜなら、「物理的な現実」には、言葉とか心とかイメージにはない、大きな機能、特徴があるからです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 

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Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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相手の気持を考えることが良いことだと思わされ、「他者の植民地」になっている。

 

 最近、いろいろなクライアントさんを見ていて気がつくのは、相手の意識、心の中を覗き込むことが、「相手に気を使うこと」「共感すること」「相手の気持を考えること」で、それが良いコミュニケーションだと勘違いさせられていて、そのことが悩みを生んでいるというケースが非常に多いということです。
 (少なくないケースでそこが大きな要因の一つである、ということがあります。)

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」「共感してはいけない?!」 

 

 

 まるで自分の体から意識が抜け出すようにして、他人の心の中を覗きにいって、そこで相手のプライベートなドロドロとした感情を拾ってきてしまう。

 人間はプライベートな状態では、おかしくなってしまう。
 さまざまな他者の否定的な感情を取り込んでしまっていたりもします。

 

 

 相手の心のなかにあるものは決して「本音」ではありません。
 
 本音とは、あくまで社会化(パブリック)の洗礼を浴びたものだけです。

 本音と思っているのは、他者のネガティブな感情や意識でしかない。
(参考)→「まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと
 
 
 それを勘違いして、「本音」を拾いに行ってしまう。

 すると、背負う必要もない負荷を自分の中に溜め込んでしまいますから、それが心や身体の症状となって現れてしまう。

 なかなか取れない悩み、生き辛さの原因になって、その負荷が腸に現れれば過敏性腸症候群、目に現れれば視線恐怖、といった具合になります。
  

 おそらく、発達の過程で誤学習をさせられてしまったためにそうしたことが生じています。

 

 

 私たち人間は「社会的な動物」であり、そもそもが「クラウド的な存在」です。スマホのように、外からのネットワーク供給でなりたっている。
(参考)→「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。」 

 ネットワークからの供給がうまくいかなくなる、あるいは、主権を奪うくらいに供給過多になると、ひきこもるしかなくなってしまいます。ひきこもりの方が死に至る事例が最近多数報告されていますが、それもそのはずなのです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント」 

 内面化した他者の意識は、私達を強く規制し、主権を奪います。

 

 本来は、「愛着」という名のOSによって、他者の意識を一旦否定して、自分のものに翻訳し直すプロセスが必須です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 そのためには他者からの承認が必要ですし、自我の発揮を後押ししてもらわなければなりません。
 二度の反抗期に見られるように、内面化した他者の意識を否定することが、発達におけるとても大切な課題になります。

 

 

 その「否定と翻訳」ができずに、内面化した他者の意識が人格のように誤って機能しはじめると「ローカルルール人格(≒人格化された超自我)」というように本人を困らせるようになります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 それが強く行き着くと多重人格というようなケースにも至ります。

 

 他人の意識に憑依する、というのは、無自覚にタコのように意識を他者に向けて、他者の意識を取り込んで内面化しつづけて、主権を奪われている、ということです。
 

 

 見た目は立派な大人でも、内面は「他者の植民地」という方はゴロゴロいて、そうした方々はカウンセリングを受けても効果を感じられず、あれ?ということでさまよい続けてしまうのです。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」

 それもそのはず、自分と思っているものが「他者の植民地」なのですから、自分が自分であるかもよくわからないままでいては、なかなかままなりません。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 しかし、他者の意識の内面化しつづけていることが問題の原因なのだと気がつくと変わってきます。

 

  
 以前にも書いたことがありますが、相手の気持の中を覗き込もうとしては絶対にいけない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 それは健康な状態でもなければ、良いコミュニケーションでもありません。

 意識が自分の体から出て、相手に入るこむようなことはことはやめて、ドライに感じるくらいに、自分の範囲を守る。

 すると、自他の区別がついてきますし、それをきっかけに人格の成熟も再び機能し始めます。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について