忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。

 

 たまたま、TVのバラエティ番組で、女優さんに整形したようなメイクをしてもらって芸人に見せて、それを指摘するか、指摘しづらいか、みたいなことをドッキリみたいに試す、というのを目にしました。

 

 整形というと、その方の自己意識とかコンプレックス、プライドとか、そういう様々なものを背景にして行われる行為です。

 ですから、単に行動だけにとどまらず、そんなもろもろの感情や動機もそこには重なって、余計に指摘しづらい状況と言えます。

 ただ、芸人さんは、その場ではズバリは言いませんが、笑いを堪えられなくなったり、あとでロケバスの中では相方やスタッフとそのことに触れて忌憚なく考えを伝え合ったりしていました。

 

 

 これが、トラウマを負っている人ならどうなっているだろうか? というと、

 その場で指摘できないことはもちろんですが、相手のコンプレックスといった負の世界を丸ごと飲み込むかのようにしてしまう。
 相手の頭の中や、その背景も忖度して、察して、それを自分の中に取り込んでしまう。
 
 そして、相手の負の世界に縛られてしまう感じになってしまう。相手の秘密を自分が抱えてしまう。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 さらに、相手がいなくなった場面でも、そのことについて話題に出したり、言葉としてアウトプットすることができない。
 そんなことをするのは陰口を叩くことであると思っていたり、陰でその人のことを言うことが悪いことであるかのように考えている。

 すると、言葉が重くなって、自分の中にある相手の負の世界を吐き出すことができなくなってしまう。

 以前にも書きましたが、これが家族の場合であれば、「ファミリー・シークレット」といって、相手の秘密を自分のものとすることは心理的にはものすごくダメージがあるとされます。
 いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれる状態を作り出してしまうのです。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 
 この一連の流れは癖になっているので、意識で止めようとしても、ほぼ自動的に起きてしまっています。 

 そして、それが「人を思いやること」「優しさ」であると錯覚させられている。

 これが「忖度」というもののわかりやすい状況です。

 

 

 「常識」や「社会通念」からみて相手に違和感があったら、まずは遠慮なく頭の中で距離を取る、突っ込む。

 これが健康な反応で、決して、程度の低いものでも、悪意でもありません。

 そうしないと、心の免疫が保てないのです。

 優しさや思いやりは、その次のステップでも十分発揮することができます。

(参考)→「アウトプットする習慣をつける

 

 

 

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自然は真空を嫌う

 

 子どものころ、筆者は学校でおしゃべりでした。
 クラスでも冗談を言って笑わせていました。

 授業中も私語をして怒られたり。
 (まあ、子どもですからそんなものですが)

 ただ、そんな当時でも、なぜか、無口で落ち着いた人に憧れて、黙って静かにしようと努力をしたりしようとしたことがありました。

 すました顔でクールにしていようと頑張っていたことがあります。
 ただ、3日くらいするとそれもだんだん崩れてきてもとに戻ってしまうのですが・・

 

 中学の時に、人間不信になるようなショックがあって、それからは、さらに自分を抑えようとして、良い人間になろうとするようになります。おしゃべりが原因だから、おしゃべりをなくそうとしたのです。

 
 

 大学生の後半になると就職にむけて、我流の認知行動療法みたいなものを実践するようになっていました。

 
 自分の間違った考えや信念を修正していくことで自分が変わっていくのではないか?弱点をどんどんなくしていけば、ということで様々に取り組んでみます。

 
 以前にも書いたことがありますが、途中まではうまくいくのです。

 まあまあいい感じになります。でも、結局自分を否定してジェンガのように自分の足元を掘り崩しているために、効果は反転してきます。

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」 

 

 

 そうした取組の中で、特に邪魔だと感じるのは「感情」。

 筆者は子供の頃、大人の諍いを見ていたために「あんな感情的な大人になりたくない」という思いも働きます。

 理想的な人間を目指しているのですから、どんな時も冷静に対応できる人間を目指そうとする。

 人から嫌なことを言われても、湧いてくる不快感を抑えよう、殺そうと努力する。

 驚くようなことがあってもポーカーフェイスでやり過ごす。
 

 社会人になると自己啓発の本などを読んでみたりするようにもなります。
 自分の我を捨てて、さらに良い人間になろうとがんばります。
 

 どんどんと、自分を捨てて、「無」になろうと取り組んでいったのです。

 

 しかし、生きづらさはどんどん増していきました。

 

 なぜか?
 
 自然な法則に反しているから、だと今ではわかります。
 

 

 

 私たちは、「無」になるとどうなるか?といえば、そこには他人の価値観が入り込んでくるようになるからです。

 私たちが生きる俗世では、自然は真空(無)を嫌う。

 なければ、そこは別のものが埋めるだけです。

 多くの場合、そこを埋めるのは、他人の価値観になります。

 

 いわゆる「無の境地」といったものは、自分の自我で自分を埋めた果てにある感情であって、自我を無くして自分を空っぽにするということではおそらくないのだと思います。

 

 私たちはもっともっと自分というものを「自我」とか「自分の感情」とか「自分の欲」といったもので埋めなければならない。

 そんなことをしたら暴走するのでは?とおもうかもしれませんが、私たちは、健康な状態であれば、満たされたら飽きます。 有限に循環していくものです。

 反対に不健康な状態は、無限。きりがないくらいに求めようとします。
 
 「無」を求めるというのも、ある種の不健康な状態。無限に乾き、無限に求めるようになってしまいます。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 私たち人間は、生まれてから発達する過程で、自分を自我で健全に満たして、反抗期などでは親の価値観を相対化し、自分のものにすることを学ぶ。

 自我で満たす・他人の価値観を相対化するとは、自分の資質に気づく・感じるということでもあります。

 さらに、社会で自分の資質に沿った「位置と役割」を得ることで、自我が公的に昇華されていきます。
 自分の中が公的な自我で健全に満たされていきます。それではじめて“人間”になることができる。

 “人間”になるステップを昔の人は、「道」とか「教え」、「礼」といいました。

 ここまでの一連の流れが完結することで、私たち人間は充足されます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 どこかに瑕疵があると、生きづらさに苦しむことになります。
 自分の中で私的なドロドロとしたものがとぐろを巻いているような状態。

 「私的」というのは字義通り「私のもの」というものではなく、実際は多くの場合、内面化した他人の感情や他人の価値観、考えのこと。非常に混沌としてネガティブなものです。

 これを統御できないでいる状態が不全感というものです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 「充足感」とか、「満たされた」という表現があるように、私たちが求めているのは自分を自我によって十分に満たすことにほかなりません。

 最近だと、無意識を活用して「無」になるというものもありますが、、
 「無」になれるのは一瞬で、すぐにぐるぐるとネガティブな意識が渦巻くことになります。

 なぜそうなるかといえば、それは、「無」になろうとするから。

 繰り返しになりますが、自然は真空を嫌うから。何も無ければ、そこに外からの雑念が入り込んでくる。

 俗世では「無」の状態でいることは出来ない。
 スポーツ選手等がいう「ゾーン」なども、勝利への欲の果てにある境地ですから。

(参考)→「俗にまみれる

 

 だから、自分の中は常に「自我」で満たしておく。

(もちろん、他人の価値観や他人を理想とするのでもない。)

 自我で満たしているから、外からくる余計なものも跳ね返せるし、その内側は安心安全でいられるのです。

 

 

(参考)→「本来の自分の資質に沿って生きる。

 

 

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つきあいには「壁」が必要

 

 ソロキャンプで有名になった芸人のヒロシさんの番組を見る機会がありました。

 ご存じの方も多いと思いますが、ソロキャンプというのは、一人でキャンプを楽しむものです。

 休日に一人で自然の中でテントを張って、焚き火をしてコーヒーや食事、そして自然を楽しむ、というものですね。

 人づきあいが苦手で、人見知りだというヒロシさんが一人でキャンプに行く様子をYoutubeにあげていたら、それが多くの人の支持されて、今やソロキャンプの開拓者、第一人者となったそうです。

 

 

 さらに、「焚き火会」といって、同じくキャンプを楽しむ芸人同士でキャンプをしたりする様子がYoutubeやTVでも放送されています。

 面白いのは、自身を人見知りだというヒロシさんですが、ソロキャンプを楽しむ者同士が集まってワイワイ楽しんでいる。

 いわゆるキャンプと言うと、沢山の人が集まって、気を使ってということになりがちですが、ソロキャンプ同士ですから、キャンプは一人用で別々、ご飯も別々、焚き火も別。
 それぞれ適度な距離にいて話をするわけです。

 

 

 一人用のキャンプと焚き火という壁がちゃんとあって、「基本はソロですよ」というお約束と、同じ趣味という場や作業があって、その上で豊かな人間関係ができている。

 
 この同じ趣味という場や作業がありながらも、「壁がちゃんとある」という安心感があるというのは人付き合いのまさに見本といえるのではないかと感じます。

 

 ゴルフも似たところがあって、基本的に個人競技で、互いにプレーの邪魔をしないという「壁」もあって、同じ場や作業があります。薄い会話を交わしあう。付き合いにおける階層構造を作りやすい。
 そのために、接待の定番となっているのでしょう。接待野球とか、接待テニスとかはあまり聞かないですからね。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 私たちは、ついつい、全くなにもないところで気さくに心を開いて人と付き合う、ということを理想としますが、実はそんな付き合いというのは幻想で、人としてはそのような付き合いはとても難しく、成立しないものです。

 何故か生きづらい人ほど、「ワンネス」といったように、壁がない状態を理想としたります。

 壁がない家に住むようなもの、国境のない国というのが想定できないように、それはありえない。

(参考)→「人との「壁」がない人たち~発達障害、トラウマ

 

 

 人と付き合うというのは、前提として心に「壁」がないといけません。

 国境をもつ国同士が接する国“際”社会という言葉があるように、私たちもあくまで壁を持つ人間同士で付き合う「人“際”」なのです。

(参考)→「あなたは素直じゃない 怒りっぽい、という言葉でやられてしまう~本来私たちはもっと閉じなければいけない

 

 

 人間の発達過程においては、イヤイヤ期や反抗期、ギャングエイジといったもので自分の内面を作り出していきます。「嘘」や「秘密」といったことも、内面の形成には大切だとされます。
 家族が支配的で嘘や秘密、そして反抗を許さずにいると、子どもはうまく内面を形成することができなくなります。
 内面が形成されないと、一見素直ですが、大人になってから生きづらさに苦しんだり、といったことが生じます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 まさに家を建てていくみたいに、基礎を固めて、柱を作って、壁を作って、外と内との境界を明確にしていく。塀を作って安全を確保する、といったように、
 人間の人格も形作られていくものです。 

 そうして、内側ができることで、安心して外と付き合うことができるわけです。

 身体は大人になっても自分の家は未完成で、精神的には「親の家」に居候しているような人はとても多いです。
(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 
 人とうまく付き合えない、人に対して心を開けない、という場合は、壁が邪魔をしているのではなく、心の壁が持てていない、ということに起因します。

 
 人間というのは、そのまま付き合うのにはなかなか難しい存在です。
 それぞれタイプも価値観も違う。ときに解離しておかしくもなる。妬みや劣等感を持っていたりもする。
 そのために、付き合うには道具や環境が必要になります。

 それが、心の壁であり、共通する場です。

 芸人のオードリーの若林さんが、ゴルフで人見知りが克服できた、と番組でおっしゃっていましたが、まさにこういうしくみのゆえではないでしょうか?

 

 人付き合いが上手く行かない場合の多くで、とくに壁が不足しています。

 心の壁はストレスからも守ってくれます。

 

 

 たとえば、箱庭療法というのがありますが、あれは、箱庭に外枠があることが外界と内界との壁となり、安心感を生み、治療の助けになっているのではないか、といわれています。

 人付き合いが得意で気さくな人ほど、心の奥は閉じて外からは見えない感じがしたり、頑固だったり、怒りっぽかったりするものです。

 (人付き合いが苦手な人は、心は開いて、素直さが仇となり、感情を出すことに罪悪感があったりします。)

 

 素朴に見える世界像と、実際の世界は真逆であることが多いもので、人付き合いもまさにそうしたものの代表。開くためには閉じてないといけない。 

 心に壁があるからこそ、一体感や心の交わる感じが感じられ、一方、オープンで壁がないようにしていると、疎外感を感じて、心は傷つきます。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 私たちはもっともっと心に「壁」を持たなければいけません。

 

 

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「自分(私)」というものの価値を低く捉えているためにログインできずにいる。

 

 筆者は、中学の頃に吃音になり、思うように言葉が出せなくなります。吃音というのは、自分が出したいときに言葉がうまく出せなくなる原因不明の症状です。
 さらに仲の良いと思っていた親戚のお兄さんから嫌われていると聞かされて人間不信になり、吃音もあって、中学3年~高校では友達がほとんどできなくて悩みます。
 

 高校3年間、友達との付き合いをほとんどせずに勉強ばかりしていたので大学以降でも自然に人と付き合う方法がわからなくなります。

 家庭では、両親の不和があり、毎日のように喧嘩や悪口を聞かされ続けていて、慢性的なトラウマ(ストレス障害)に陥ります。
 非愛着的な世界観の中で足を取られ、トラウマ由来の症状が発症するなど、とても苦労するという経験をしてきました。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 なんとか挽回しようと気楽に喋ろうとすると。自分でも言いたくないけど変なことを言ってしまったり。
 「きついですね」と言われてしまったり傷ついたり。

 人間不信からすごく言葉を吟味して喋ろうとして言葉が重くなっているのに、 「きつい」と言われるとさらに余計に自然体での話ができなくなります。 

 こうしたストレスからてんかんにもなりました。
 てんかんの発作で、突然頭がもや~っと気持ちの良いような悪いような状態にもなります。
 結局は、薬で治ったのですが、薬を飲んでいるときは日中眠くなるため大変でした。

 その上、これもトラウマの影響ですが、気分の低下、鬱っぽさもありました。
 当時の筆者は、辛気臭い、能面のような顔だったのかもしれません。
 
 
 さらに過緊張で緊張しやすいし、人のことを過剰に気にして自然体になれないし、、、、何重苦という地獄ですよね。

 気楽に楽しんでいる人がいる中で、なんで自分がこんな苦労をしないといけないの?と思いました。

 

 こうした状況について当時はどの様に考えたかというと、「自分が悪い部分を認めて、よし、自分を高めるために、自分の欠点を洗い出してそれを改善だ!」ということでした。

 逃げずに努力する、という意識は高かったですから。

 他人をベンチマークして理想の自分になるために、毎日努力する。

 人付き合いもすごくがんばって、話をして、いろいろなところに出ていって、とやっていました。

今思えば、躁的というか、自分のテンションを無理に上げて明るくしているような感じだったと思います。

 心の壁を取り除いて、もっとオープンに、と考えていました(これが大間違い)。

 

 たしかに、努力によってよくなる部分もあるのですが、基本的には「私はだめだ、おかしい」ということが前提にあるために、あるところで限界がやってきます。
 努力するということは、自分はだめだということを暗に強化することにもなる。
 (積み木の玩具ジェンガのように、自分の足元(自尊心)の積み木を抜いて上に足すようなものですから無理があります。)

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう

 さらに、頑張って明るく社交的にしているので、エネルギーを消耗して、だんだんくたびれてきます。心の壁を取り除こうとするものだから、傷つきやすくもなる。

 反動で、人付き合いが面倒になってきます。

 

 努力してもうまくいかないし、だんだん努力することにも怖さが出てくる。

 
 そこで、そうした状況を突破するために、当時流行った「願望実現」とかそうしたことも試してみます。要は、「迂回ルート」ですね。
 いろいろと取り組んでみますが全然うまくいきません。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 次にはそれよりも実際的にということで「無意識の活用」といったことにも興味を持ちます。

 これは色々と参考になるし、助けてもくれますが、気がつくのは、無意識の活用の前提にも「自分(私)」がおかしくて間違いを犯しやすいから無意識に頼る、という理解でいたことです。

 結局、「自分(私)」というものの価値を低く捉えているということ。

 

 そのためか、いつまで経っても「自分の人生は始まらない」という感覚が続きました。

 当然です。「自分(私)」というものを排除すべき程度の低いものとして捉えているからです。
 人生が始まる、始まらないなにもあったものではありません。「自分(私)」を除外しようとしているんですから。
 

 
 さらに、以前の記事でもお伝えしましたが、「自分(私)」というものを出すと攻撃されるとか、嫌われる、という意識がありますから、自分(私)を表に出す、ということをしたくないし、してはいけないと思っているのですから、人生が始まらない感覚も当然です。

 悩みが治るというのは、「自分(私)」を隠したまま問題と感じている症状が取れることなんだ、という理解をしていました。

 

 ここでも、自分で矛盾に気がついていません。
 物理的な現実としての自分は、身体としてあるこの「自分(私)」しかいないのに、「自分(私)」は否定して、隠して、理想的ななにかになることが生きづらさがなくなることだと捉えているおかしさです。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 何が自分にあうのか、何が自分なのかも、すべては「自分(私)」の身体から湧いてくるのですから、それ以外の高尚なものになろうとしてもできるわけがありません。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 

 「自分(私)」を回避する手法というのは、一次避難としては良いのですが、解決のメインの方策としては採用してはいけない。

 悩みの症状を取るためにも「自分(私)」というものを避けるのではなく、それが働く環境を整えるようにしていくことが必要。

 心の壁をしっかり持って、自他の区別をつける。人格構造を確立させていく。
 
 風邪のときに、対症療法として解熱剤を飲んで過ごすのではなく、そもそも免疫力を高めるのと似ています。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 そもそも、「無意識の活用」にしても、なにか「私」以外の助けを借りる、と捉えていた時点で大間違いだったと今はわかります。
  

 

 別のものの力を借りようという形をとっているとおかしくなって、うまくいかなくなります。
 「自分(私)」ではない別のものに縛られるのが「支配」「依存」ということですから。

 自分の悩みを解決するはずの手法によって、いつの間にか、「自分(私)」の価値を低く見るようになってしまっているとしたら本末転倒なことはありません。

 わたしたちは、「自分(私)」の力をあまりにも過小評価してきました。
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示のためです。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 

 

 「自分(私)」とは、思っている何倍も何十倍もすごいもの、大したものです。

 「自分(私)」のIDでログインすることではじめて自分の人生がスタートする。

 
 「自分(私)」が「自分(私)」としてログインして「自分(私)」の人生を生きる、結局ここに戻ってくるのです。 
 
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

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