俗にまみれる

 

 「インターステラー」という映画があります。

 地球が環境破壊や飢饉などで危機にある中で、他の居住可能な惑星を探しに行くというものです。
 並行して父と娘の物語もサブテーマとして織り交ぜられている、映像もリアルで美しく、SFの傑作といってよいかと思います。

 その中で、主人公が他の惑星へと探索に行きます。巨大な津波が襲ってくる惑星など様々な星があるのですが、その場面を見ながら、「映画では大丈夫だろうけど、もし実際に他の惑星に行ったら数分くらいで細菌やウイルスにかかって死んでしまうんだろうな」とふと考えていまいた。

 

 歴史でも、僅かな人数のスペイン人の侵略者に対して、アステカ王国とインカ帝国の何万もの兵士はバタバタと倒れて、亡くなってしまいました。
 天然痘のためだと言われています。スペイン人が進んでいくだけで文字通り現地の兵隊は倒れていったようですから恐ろしいものです。

 私たちも外国に旅行するとお腹を壊したりすることがありますが、それを指して「水が合わない」といったりします。

 同じ地球でもこのような感じですから、他の惑星になると、外気に数分さらされるだけでも血を吐いて倒れてしまうかもしれません。
(瞬時にワクチンができるような科学ができれば別ですけども。)

 

 
 私たちは、この地球に生まれてきた当初、、赤ちゃんの頃は母親からもらった免疫のバリアで守られています。当初はほとんど風邪などにはかかりません。

 でもだんだんそれも薄れていき、膨大な種類の細菌やウイルスに徐々にさらされることで免疫がトレーニングされていきます。

 接する機会が希少でかつリスクが高いなものについては予防接種によって免疫を獲得します。

 

 子どもは、土を触ったり、汚い手を口に持っていったりすることでも免疫がついてくる。

 もちろん、風邪をひいたり、お腹を壊したりすることはありますが、それは必要なプロセスだったりします。

 最近、新型コロナ対策で心配されているのが、アルコール除菌などが徹底されることで、子どもたちが過度に清潔な環境におかれすぎないか、ということです。

 新型コロナへの感染リスクは減りますが、まわりまわって、免疫力がつかず他の病気にかかりやすくなったりするのではないか、との懸念があるそうです。

 

 実際に今回の新型コロナでの「ファクターX」とは、東アジアでは古くから蔓延していた風邪(従来型コロナ)による交差免疫のためではないか?とされます。
 欧米など他の地域ではインフルエンザはありますが、風邪は少なかったそうです。

 それに訓練されていることでアジア人は幸いにも感染者数や死者数が少なく抑えられているのでは、と考えられています。

 

 有名なH・G・ウェルズの「宇宙戦争」で地球に侵略してきた宇宙人も最後、細菌でやられてしまうのは有名なエピソードです。

 宇宙人たちもワクチンを打ったり、免疫をトレーニングしていれば、地球を征服できたかもしれませんね。
 

 私たちも、よく対人関係とかストレスに対する抵抗力を指して「免疫」とか「ワクチン」と表現したりします。
 そんなことをタイトルに冠した本も出版されていたりします。

 
 人からの言葉に傷つかない、とか、世の中で受けるストレスから身を守りながら生きるためには、どうやら、適切なプロセスで免疫を獲得し、それが機能することは必要だろうと思います。

 「宇宙戦争」の宇宙人やインカ帝国の人々みたいに死んでしまうわけには行きませんから。
 

 

 では、傷つきやすい私たちは平均よりも免疫がないのか?というとそれは違います。
 

 トラウマを負った状態というのは、免疫がないというよりは、獲得した免疫をオーガナイズすることができていない状態と考えられます。

 トラウマを負っているというのはむしろ他の人よりも厳しい状態を生きてきたということ。
 強い細菌やウイルス(≒ストレス)を浴びてきた、ということです。
 逆説的ですが、トラウマを負っている人は傷つきやすいが、打たれ強かったりします。

 
 だから、免疫はあります。しかし、それが発揮されるようにするためには全体を管理する機能が必要になります。

 特に、日常の人間関係からのストレスとは、長くじわじわかかるもの。
 ですから、日常においては免疫も強ければよいのではなく、調和して発揮される世界です。

 しかし、トラウマによって免疫の司令塔となる機能が混乱しているためにサイトカインストームのように過剰に働きすぎたり、反対に働かなかったりすることになります。

 そうすると、日常の微細なストレスにやられてしまう。

 

 日常のストレスに対する免疫は、自分のIDでログインして「俗にまみれて」はじめてオーガナイズされる。

「俗(ぞく)」というのはそうしたオーガナイズ機能をスイッチONにしてくれる。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 免疫がうまく機能しないために、日常のストレス、特に対人関係のストレスではすごく痛い目を見るように傷ついてしまう。
 

 そして、痛い目にあいたくないために自分を解離(ログアウト)させて無菌、減菌状態に置こうとしてきた。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 もともとログインできていない → 免疫が機能しない → 傷つく → さらにログインを避ける → 機能しない →・・・

 という悪循環です。

 結果、いつまでたっても「人生が始まらない」「始まる感じがしない」。

 

 周りの人とペースが合わず、世の中にも馴染めず、いつのまにか、自分のことをまさに「宇宙人」のように感じてしまうようになります。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 トラウマを負っていると、どうしても、「俗にまみれたくない」「汚れたくない」(≒ログインしたくない)っていう気持ち、怖さがあります。

 この怖いからログインできない、ログインできないから免疫が機能しない、よけいに怖いとかんじる(ログインして免疫が機能すれば全然怖くないのに)、この悪循環にさらされている方はとても多いです。これがログインできない大きな要因の一つとなっています。

 

 

 

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他者の視点は神の視点ではない。

 前回の記事と関連しますが、

 トラウマを負っている人の特徴として、他人に指摘されると、頭が真っ白になってしまう、ということがあります。

 自分が気がついていない事柄を、欠点を他人が指摘してきた、として、顔面蒼白、足元がひんやりするのです。

 他人の指摘をあたかも「客観的な事実」であるかのように、そのまま受け取ってしまいます。

 その背景には、前回の記事でも見ましたように「自分は不注意で、おかしな考えや行動を取る変な人間」といった自己イメージがあり、一方、「他人はもっと立派な真実を知っている」といった他者イメージがあります。

(参考)→「不意打ちの恐怖」 

 

 

 他者を「神化」している。
 

 本来は、世の中は「主観」と「主観」のぶつかり合いです。
 「客観」なんてものはどこにもありません。

 私たちが普段「客観」といっているものは、あくまで「視点B」「視点C」ということでしかありません。

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 例えば今は新型コロナの問題で、いろいろな専門家が発言、提言をしますが、誰が正しいか?ということを誰も判定してくれることはありません。

 すべて、「専門家Aの視点」「専門家Bの視点」といったことでしかない。

 

 であれば、どこにも真実はないか?といえばそうではなく、物理的な現実を見て妥当性を検証していきます。 科学とはそういうものです。

 人間関係の現場では物理的な現実がわかるまでにタイムラグがあり、そこにローカルルールが紛れ込んできます。
 そのために、「事実に対する主権」を持つことはとても重要になります。

(参考)→「「事実」に対する主権

 

 

 私たち人間は、自分では自分のことがわからないこともたくさんあります。

 「岡目八目」といって、他者のほうが問題の所在や背景がよく分かるということもよくある。

 指揮官に参謀がいたり、プロの選手がコーチを雇っていたり、というのもそうです。

 一方で、当事者でないとわからないこともあります。
 スポーツで観戦者としてみていて「もっとこうすれば」というふうに思うことはありますけど、当事者の方が深い考えで取り組んでいることもあります。

 昔、高校野球でPL学園と横浜高校との対戦を当事者の証言などで検証したNHKの特集がありましたが、一球一球にすごく深い読みと考えがあったことを知り、驚いたことがあります。

 解説者でもそこまではわからないことです。  

 

 

 歴史学が、過去の歴史事件の背景を研究したりしていますが、どこまでいっても確定した答えというのはありません。
 
 当事者は、当事者の視点で見て限界がありますが、歴史家の方も視点には限界があります。歴史家は「当事者がどう思っているのかもっと知りたい」と思っていたりします。

 つまりは、それぞれに視点がある、ということでしかありません。
 神の視点(絶対客観)はないということです。 

 

 

 私たちの話に戻してみると、私たちも、自分のことで見落とすことは必ず生じます。
(男性だったらズボンのチャックが知らず識らずに開いていることもあるし、寝癖がついていることもある。)

 しかし、それは、簡単に言えばDoingの問題であって、Beingの欠陥を証明するものではありません。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 Doingが見落としたことを指摘する他人の視点にも限界があって、ある部分を指摘できるに過ぎません。
 私たちの状態を完全にわかるわけもないことは言うまでもありません。

 
 他人を「神」としてしまうのは、多くは幼少期に受けたローカルルールのためでもあります。幼少期はただえさえ、周囲の大人は完全な存在であるかのように見えます。

 その上に支配的な親である場合は、「ほらあなたはなにもわかっていない」「親である私は何でもお見通し」といったような関わりをする場合があり、そこで受けたローカルルールを真に受けたまま成長したということもよくあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもに対して自分は完璧であることを示して、「I’m OK」を得るということをしているわけです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 人間は自分の存在(Being)の不全を埋めるためには、子どもでも(だからこそ)容易に犠牲にするということですね。

 

 さらに、生育の過程で自分がわかっていなかったことを知らされるような体験を通して、「自分はわかっていない」「不意打ちされる恐怖」が強化されてしまう。

 

 

 例えば、仲の良いと思っていた友達が陰で自分の悪口を言っていた、みたいなこともそうしたケースに当たります。 

 筆者も中学の頃に、親戚のお兄さんが実は筆者を嫌っているというようなことを親から聞かされて人間不信に陥ったことがあります。
 今から思えば親もそんなこと知らせてくるなよ、とおもいますが、とても大きなショックでした。「ああ、自分はわかっていなかった」という衝撃です。

 

 芸人の千原ジュニアが子どもの頃に、友達の親が「あの子(ジュニア)はおかしいから、遊んでいはいけません」というのを耳にして、ひきこもりになった、みたいなことを書いていましたが、その気持は良くわかります。  

 スティグマ感というか、自分が見えない背中に自分がおかしい証拠が貼り付けられているような感じがして、それを他人に見透かされるというような感覚に苛まれてしまう。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 会社とかでも、なにか物事を見透かしそうな偉い人に接すると過度に恐縮してしまう。
 本やテレビでは、その道のすごい人はちょっとしたことで全てを見抜いてしまう、みたいなことも頭にあって、自分も見透かされるかも、と思ってしまう。

 これらはローカルルールの世界観に過ぎません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 確かに、他者は私たちの背中を見ることはできますが、ただそれだけです。
 足の裏は見ることができない、私たちの内面を捉えることはできない。
 背中を見ている瞬間には前面を見ることはできない。
 

 私たちの身体感覚を感じることができるのは私たちだけです。
 私たちの人生の時間をすべて経験できているのも私たちだけです。
  
 私という人生にログインできるのも私だけです。
  
 
 トータルで見れば、私のことは私が一番捉えることができるし、その権利(筋合い)、その動機は私にしかありません。

 だから、主権というものをしっかり持てていれば、他者も同じ程度に限界のある「主観B」でしかないと捉え、他人から指摘されても、「ああ、ありがとう」「あなたからはそういうふうに見えるのね」でスルーすることができます。
 

 新型コロナのワクチンの治験でも何百万人の反応(意見)を集めても、安全かどうかの「客観」は確定しないのですから。1,2人の指摘なんて何の意味もありません。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 

 

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他者の話をうまく聞き取れない!?

 前回は本を例に上げましたが、筆者はトラウマの影響から人の話もうまく聞き取れない時期がありました。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 たとえば、新入社員のころは、議事録を書いたり、というのが新人に任せる作業の定番ですがその議事録が苦手でした。
 
 イメージとしては国会の速記係みたいに一言一句記憶しなければ、と思って書いているのですが、だんだん集中力が続かなくなって、記録できなくなる。ついていけなくなって焦る。

 しかも、新入社員なので知識も足りず、専門用語や前提となる約束事がわかっていないのでふんわりした表現や曖昧な表現は意味を捉えられない。

 さらに、当時の仕事は大企業同士の取引なので、社内でも客先でも「白か黒か」はっきりしない結論になることも多く、「グレー」のままで「なんとなく好意的」「なんとなく後ろ向き」というぼんやりした内容の会議もよくあります。
そこでは結果の解釈が上司とで真逆であることもしばしばでした。

 それで余計に書いた議事録が正しいかどうか自信がありませんでした。

 

 そのうえ、当時はトラウマの症状の真っ最中でもありましたから、なぜか会議中に眠くなって寝てしまう、ということがよくありました。フリスクを食べたり、腕をつねったりするのですが、うつらうつらしてしまう。

 もしかしたら睡眠時無呼吸症候群なのでは?と診察を受けに行ったこともありました。(器具をつけて一泊して検査します)
 
 結局は、なんにも異常はありませんでした。

 

 わけのわからない症状で苦しむというのはそれはそれでとてもつらいものです。なぜなら、それが自分の責任(Being)とつながるから。「自分がおかしな人間なのでは?」という不安に襲われるのです。

 わかりやすい病気であればよほどよいなとおもいました。
 

 

 会社員時代というのは、目の前の仕事も大変ですが、不具合だらけのロボットのコックピットに乗っているかのような、あるいは、ナチス体制下のユダヤ人がユダヤ人であることを隠して働いているような(いつか自分がおかしな人間だとバレる)、そんな感覚でした。
  
 

 実は、「他者の話」というのも、前回取り上げた「本」と同様に、自分を主体にするということがなければ、聞き取ることができません。

 もっといえば、“私”を中心に身体全体で聞く、というような聞き方でなければ聞き取ることができない。

 「私は、こう捉えた」ということがなければ、聞くことができないものです。

 冒頭にあるように、「私は~」を抜いて、一言一句“客観的に”記録するみたいな聞き方、心構えでいたのでは聞き取ることは難しい。

 

 

 もともとトラウマの症状もある上に、他者の話が重要だと捉えて全部聞き取ろうとするから、本当に大切な部分が聞き取れなくなっている。
 パソコンやスマホで重い処理をしているかのように、だんだん頭がボーッとしてきて本当に記憶ができなくなってしまいます。
 それで頭がシャットダウンして眠くなるという症状になっていたようです。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 カウンセラーや医師でも、ベテランになると話の内容は聞き流すように聴いていて、身体の動きだけを見ていたりします。
(もっというと、ベテランのカウンセラーは自分の身体に伝わってくる身体感覚や違和感を観察していたりします。)
そのほうが、知りたいことをつかめたりする。

 特に「言葉」は一番信頼性が低い情報とされますから、一言一句拾いに行くことに意味はありません。
(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!」 
  

 

 
 他人が言ったことが正しい、ととらえていたら、そのうち「いや、私はこう言いました!」という他者の記憶に自分の記憶が圧倒されてしまうことになります。要は「記憶の主権」を声の大きい他者に取られてしまうようになるのです。

(参考)→「記憶の主権

 

 自分が話したことについては、他人が誤解したら「誤解された自分が悪い」とおもうのに、他人の言葉は一言一句捉えなければ、というのは非対称でかなり歪な感覚です。

 他人の言葉でも誤解を恐れずに主体的に解釈しに行く必要があります。

 

 

 

 「でも仕事であればできるだけ正確にしなければいけないのではないか?」と思うかもしれません。
 しかし、例えば、情報を伝えるプロである大手の新聞社でも、記者は自社の方針で解釈し、言葉をかなり切り取って報道しています。

 あれは、新聞社が「本人はそのようにしゃべったといってるが、私たちはこう解釈しました」と自信を持って切り取っているのです。
 

 別に日本だけではなく海外の新聞社でも同様で、日本人からすると「えっ、そんなふうに解釈されるの?」と意外に思うこともしばしばあります。
(保守でもリベラルでも中道でも、業界紙でも、このことは同様です。)

 つまり、情報を伝えるプロも一言一句なんて捉えていないのです。

 

 それを指して偏向報道だ、と批判されることもありますが、「絶対客観的に書く」というのは実際には不可能だとされます。

 記者なので、聞き漏らしのないように取材するのも仕事ですが、紙面には制限があり、取材したものを一言一句書いても記事になりません。
紙面が無限であったとして一言一句並べられても、読んで頭に入ってこない内容になってしまいます。
 (つまり、偏向かどうかは、客観的かどうかというではなく倫理や質の問題になります。)

 この「制限された紙面」というのは私たちの「認知」「記憶」と似ています。

 人の話も、「私」を主体として切り取らなければ、聞き取れない。

 

 自分の主体とはフォーマットです。
 仕事であれば、職業に関連した定形のフォーマットがある程度ありますからそれをもとに整理されていく。

 保険の営業マンであれば、自社の商品や顧客の将来設計というフォーマットにそってヒアリングする。仕事であれば、経験を積めば積むほどフォーマットは洗練されていく。

 
 私たちも、「私」というIDでログインし、自分の価値観というフォーマットに沿って聞く。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 トラウマを負っていると、主体性(主権)を奪われている上に、フォーマットもないまま(理想主義から持とうとしないまま)、人の話を聞きにいくものですから、他人に記憶の主権を奪われて「いや、私はこう言いましたよ(あなたの記憶はおかしいですね)」と圧倒されてしまうのです。
 

 
 上記の例にあげた新聞社などは、たとえ総理大臣やアメリカの大統領が「私は本当はこういったのだ(切り取り方がおかしい)」といっても、「いえ、私たちにはこう聞こえました」といって譲りません。 
  

 主体性を持って聞くとは、そういった聞き方なのです。
 

 

 だから、会社の議事録でも、ある価値観を代表した「私」が解釈した議事録であって然るべきだ、ということだと、今はわかります。
 その上で、職業人としてのフォーマットに磨きをかけるために、上司が「お前にはそう聞こえたのか、なるほど」「ここはもっとこういう解釈があるぞ。ここもポイントだぞ」というふうにトレーニングされていくものなのでしょう。

 

 

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人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 前回、魔術的なものの介在する感覚が、私たちを苦しめる、ということを取り上げました。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 なにやらわけのわからないもので、私たちの存在が規定されるような感じ、結果が左右される感覚が私たちを生きづらくしてしまう、というものです。

 A をすれば Bになる、ということが当たり前ではない、予測できない、というものほど不安にさせるものはありません。

 この間の訳のわからないものを「魔術的なもの」と表現しています。

 一番、魔術的なものの介在を感じるのが、人間関係です。

 

 

 人というのは思ったとおりに動きません。いろんなタイプの人がいる。しかも解離します。突然分けのわからないことを言ったりするし、失礼なことを言ってきたりもする。

(参考)→「あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 睡眠や栄養、運動が不足するとてきめんにおかしくなります。
 子どもがわけがわからなくなるのも、眠い時、お腹が空いたときですが、成人も同様です。
 さらに、そこに自己不全感も影響しますから、人間がまともである時間は思っているよりも少ない。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 内的にも外的にも環境が安定している状態を、「愛着が安定している」あるいは、「機能している」といいます。
 そうした家庭で育てば、人間関係についても、A をすれば Bとなる、ということを感じやすくなります。 相手の反応を予測しやすい。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 そこで「基礎」を身につけた後であれば、おかしな行動という「例外」も認識しやすくなります。

 
 学校などで、友達の態度が突然おかしくなる、急に無視される、というようなことについても、ショックは受けますが、「基礎」に対する、「例外」としてとらえることができます。

 やがて、「ああ、人間っていうのはおかしくなるものなのだ(「基礎」+「例外」で成り立っている)」というように学習することができる。

 
 「基礎」を学んだ上での「例外」は、「基礎」によって統制されたものであるために、「例外」でさえも、予測できるかのような安心感があるのです。

 

 

 中学、高校、大学と進むと、さらに嫉妬とか、上下関係とか、もっと難しい人間の心の機微への対応が生じてきます。
 しかし、それらは「応用」としてとらえることができます。
 難しい人間関係についても、身を守ったり、人間関係を落ち着かせるために必要な「礼儀」「社交辞令」も身体で覚えていくことができます。

 「基礎」+「例外」、そして「応用」と、あくまで外的な問題を学ぶ感覚で人間関係を学ぶことができます。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」 

 

 
 一方、不安定な環境ではこうはなりません。
 不安定な環境とは、夫婦・家族の不和、過干渉な家族、反対にネグレクト傾向の家族、一貫性のない家族、学校でのいじめなどなど。

 相手の対応が不安定なので、A をすれば Bとなるとは感じられない。A をすれば C にもなり、Yにもなる。
 いきなり「例外」 からスタートです。

 

 なぜ、A が B になり、 Yにもなるのかを理解するために自分なりの法則を当てはめようとします。それが例えば、「自分がいい子じゃないから」というもの。

 

 「自分がいい子じゃないから」といったものを介在させると、一応「例外」を説明できたように感じますから、そのときは落ち着きます。
 「ニセの基礎」を自分でこしらたということです。どうとでも解釈できて結果を統制できない「魔術的なもの」です。

 

 それはあくまで「ニセの基礎」にすぎません。
 ニセモノだから、「応用」に進んだときに 全く機能しません。
 
 人間関係が比較的シンプルな小学校のときは友達関係がうまくいっても、中学以降に進むと人間関係につまずく人が多いのはこのためです。

 本当の「基礎」がないために、複雑な「応用」になってくると予測と対処ができないのです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」 
  

 

 そして、「ニセの基礎」とは、結局、「自分が悪い」と考えることで成り立っているものなので、「例外」「応用」に直面しても、すべて、「自分のせいだ」で対処しようとしますから事実をそのままに見ることができません。
 結果として、さらなるハラスメントを呼び込むことになります。

 

 「礼儀」や「社交辞令」についても体得できておらず、自信がありません。
 むしろ、過剰にへりくだったりしてしまいます。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・」 

 「形ではなく本音で人と付き合う」を理想にしていたりもしますから、どこか「礼儀」をニセモノとして軽視している場合もあります。
 結果として、自分を守ることもできず、人間関係を安定させる形式も自分のものとすることができずに、どうしていいかわからなくなってくる。
(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ」 

 
 

 やがて、人がモンスターのように怖くなってきます。
 

 なにやら「自分はおかしなものを引き寄せやすい」とか、「そもそも、嫌われやすい」と言った具合に、目の前の現象を説明するために、さらに魔術的な考えにとらわれることになります。
 

 親などからの養育環境で入った暗示が入っているとさらに厄介で、「ほら、やっぱりあなたはおかしい」となって、暗示も強化される、という構造になっているわけです。

 

 

 
 ネガティブな自己イメージからポジティブな自己イメージへ、というように、解決策にも魔術的なものを求めてしまいます。
 (そういうことで“夢”を売って商売している人も世の中にはたくさんいるのです)

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」 

 次から次へと本を読んでは失望する。セミナーを受けては実行できず、自分を責めて、がっかりする、といったことになってしまうのです。

 そうしたものから逃れるためには、本当の「基礎」に立ち返る、Being とDoing を切り離す。そして、物理や現実が一番自分を守ってくれます。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 

 

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