「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 目の前に起きたことは、偶然なのか、なにか本質を指しているのか?

 もっというと人生で起きたことは偶然なのか、自分のせいなのか?

 通常、私たちは本質そのものを捉えることはできません。

 TVの視聴率でも、1億人に聞くことはできないため、300世帯で計測されている。

 これはサンプル調査であり、推測統計と呼ばれる技術で全体像を明らかにしています。
 

 

 目の前で起きたことは、あくまで事象(サンプル)で、それが背後にある母集団を表している場合もあれば、そうでない場合もあります。
 
 調査というのは偶然の可能性もあり、視聴率調査でもおそらく1%くらいの確率で「偶然でした(実態とは違いました)」ということがありえます。

 

 
 自分にとって良くないことが起きると、たちまち「自分はだめだ」と断罪したり、されがちですが、それは本当なのか。

 

 「事実」とはなにか?

 

 以前の記事でも、「事実」というのは環境や人によって作られるものだ、ということをお伝えしてきました。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 作られた事実に縛られることがトラウマやローカルルールです。

 明らかにおかしなことであればはねのけられますが、
 ローカルルールは、「事実」を悪用します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 今回は、トラウマ、ローカルルールから自由になるためにも、事実とは何かを、更に詳しく見てみたいと思います。
 

 そのために、手続きが厳密だとされる学術的な調査を例に取り上げてみたいと思います。
 

 

 さて、
 学術調査などで、統計を用いる際、どのようにして得られた結果が「事実」と判断しているのでしょうか。

 例えば、質問紙を用いた調査の場合の手続きを簡単に説明しますと、

 1.調査の設計の段階で調査の対象や、実施の方法をかなり綿密に計画します。質問の配置や調査の際の教示の仕方も、正しく回答が得られるようにできるかぎり練ります。 

 

 2.調査の結果、回収された質問紙に対して、「検票」という作業を行います。明らかにいい加減な回答、おかしな回答がないかを、人間の目でチェックします。

 

 3.検票が終わったら入力作業を行います。その際も間違いがないかダブルチェックを行います。
    

 4.さらに、入力したデータについて「クリーニング」を実施。どの程度までの回答が有効とするかをデータ上でチェックします。例えば、普通であれば同時につくはずのない回答に○がある場合は「いい加減な回答」として除外します。虚偽尺度として最初からそうした設問が設定されている場合もあります。同じ回答が多いものも除外することがあります。

 ここまでで回答の1~2割くらいが除外されます。

 

 5.それからデータにラベルを付けて、分析するためのデータが整います。
   次に、「仮説検定」を行います。仮説検定とは、調査したいことが「偶然に起きたことではない」ことをチェックする作業です。

   調査とは、目の前に起きている現象をもとに母集団(調べたいこと)を推定していくものですが、目の前に起きた現象が偶然であることも実は珍しくありません。そのために、仮説検定(偶然ではないことを確認すること)でチェックを行います。偶然ではないらしい」と判断されると本格的な分析に入ることになります。

   ただし、仮説検定を通っても、1~5%は偶然である可能性は残ります。

 

 6.いよいよ分析に入ります。
   統計解析を用いると、結果がすぐに出ると思うかもしれませんが、100~200個分析して、ようやく1つ意味のある結果が出るか出ないか、ということも珍しくありません。思っている以上に、分析結果とは、平凡で、取り上げる必要もないような結果ばかりが出てきます。

 

 7.なんとかひねり出してひねり出して、ようやく意味がありそうな結果を見つけることができます。ただ、それでもあくまで「ある仮説」というレベルです。

 

 つまり、起きた事象は、ここまでしてようやく「とりあえず事実らしい」といっていいレベルになるのです。

 ある一定のサンプル数(最低100サンプルはほしい)を確保して、かつ、これだけの手続きが必要になる。
 
 根気よく好きでなければできない面倒な手続きです。
( 多くの人は、勉強や研究がここで嫌いになるところでしょう)

 

 

  
 ただ、そうやって手続きを踏んだ研究結果でさえ、追試をするとだいたい6割くらいは再現できないことがわかるようになり、最近問題になっています。
 (米科学誌「サイエンス」が主要な学術誌に掲載された心理学と社会科学の100本の論文が再現できるかどうかを検証したところ、結果は衝撃的で、同じ結果が得られたのはわずか4割弱にとどまったとしています。

 関連:クリス・チェインバーズ 「心理学の7つの大罪――真の科学であるために私たちがすべきこと」(みすず書房))

 

 

 STAP細胞など、捏造が問題になりましたが、科学的な手続きを経れば自動的に事実が明らかになるのではなく、かなり人間の営みや意思が介在しています。捏造をした研究者たちももともと悪者というよりも競争や研究費を獲得するための焦りなど、いろいろな都合がまぜこぜになって違反を犯してしまうようです。
 (福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、科学者たちの人間臭いやりとりが紹介されています。)

 

 

 さて、ここまでお話をしたように、「事実」というものが私たちが思っている以上に厳密な手続きを経てようやくできるものです。

 

 上のような科学的な手続きを踏んだとしても何割かの「事実」はかなり怪しいものであるということですから、私たちの身の回りで私たちを評価するようなこと、私たちが何者かを示す事柄のほとんどは再現のできない「偶然」でしかありません。
 人の発言なんていい加減の極み。手続きを踏まないものはそのはるか以前の戯言レベルでしか無い、ということです。

 

 

 私たちは、ミスや失敗など、自分にとってマイナスになるような出来事が起き、それを他者が取り上げて、私たちを裁いたり、レッテルをはったりするようなことで苦しんでいます。
 それを別名ローカルルールといいますが、結局は「偶然」をとりあげて相手を支配しようとしているだけ。

 

 「あなたって、だめな人ね」というような他人の言葉はすべて戯言で、おそらく、統計を取れば、検票や虚偽尺度の段階で落とされるレベルのことでしかなかった。

 

 
 単に、「偶然だし、戯言だから気にしなくていいよ」というのは、勇気づけレベルにしか聞こえませんが、実際、学術的な手続きを踏んでもなかなか事実はわからない。
   

 

 自分に都合が悪いことが、立て続けに起きたとしてもそれはほとんど偶然でしか無い。
 

 「いや、そんなことはない」「自分はだめな人間で、その証明として都合が悪いことが起きてきた」
 「現実から目をそらすのではなく、客観的な事実を見て、向き合わなければ、おかしな人間になってしまう」

 と思うかもしれませんが、上にも書きましたように、その出来事を仮説検定にでもかければ帰無仮説(偶然)とされてしまうレベルです。

 仮にそれが通ったとしても、今度は再現できないからやっぱり事実ではない、となってしまう程度でしかありません。

 

 

 筆者が最近たまたま、Youtubeで見たある経営者の講演の内容で印象に残ったことがあります。

 それは、麻雀にたとえての内容だったのですが、
 
 「麻雀では、4人で卓を囲むので、平均して2割5分、強い人でもだいたい3割程度前後の割合でしか勝てないようになっている」
 「ただ、なぜか4回連続で最下位になることもある。そのときに、皆、精神を崩す。(単なる偶然なのに)自分のやり方はなにか間違っているのではないか、自分のおかしいところは何が原因なのか、見直さなければならないのではないかと不安になってブレる。そこでブレてはいけない。反対に4回連続でトップになることもある。そのときに調子に乗ってもいけない」といった内容でした。

 

 

 私たちも、普段「自分のおかしいところは何が原因なのか」と考えさせられているが、それは本当に事実に基づいているのか?
  

 ローカルルールというのは、たった1回の失敗でも取り上げて、「ほら、だからあなたはだめな人間だ(だから私に従いなさい)」とやってくるわけですが、これがいかに嘘であるか。

 「いやいや、ローカルルール人格だったとしても、私はそれ以外にも失敗しています」と思うのも、ローカルルールの影響です。

 経営者の発言でもあるように、4回連続の最下位もザラにある。

 

 

 私たちは、原因帰属を間違える生き物。

 繰り返しになりますが、科学の世界でも、起きた現象から事実を確定することはかなり難しく、査読を通った論文でも、あとからチェックしたら、
 4割が再現できないくらいなのですから(つまり事実ではなかった)、
 
 果たして、私たちの身の回りにいる人達が、1,2の事象を取り上げて、私たちを評価して、断定していることがどれほど怪しいか言うまでもありません。

 「事実は作られる」「人間の言葉は全ては戯言である」というのは、こうした点からもわかります。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」「“作られた現実”を分解する。

 

 

ローカルルールとは、まさにエセ科学。

 

 

 自尊心が機能している人は、「私は大丈夫」として否定的な事象を深刻に受け止めません。気の強い人なら失礼なことを人から言われたり、弱点を指摘されても「何よ!!ふん!」としてはねつける。

 一見、独りよがりだと見えるかもしれませんが、目の前の事象や“作られた事実”に惑わされずフィルタを掛けて偽りの事象から身を守っており、結果として“科学的な”態度と親和性がある。

 

 自尊心があることで、それがフィルタとなり、事実を検定(チェック)することになる。その結果、物理的な現実に根ざすことができたり、普遍的な何かを感じることができるようになるのです。

(参考)→「自尊心の機能不全

 

 反対に、ローカルルールにとらわれて、自尊心が機能不全に陥っていると自分を否定する事象が続いただけで、「受け止めなければ」「自分はだめなのでは」と捉えて、過剰な客観性、偽の誠実さに陥り、ブレて、まどって、作られた事実に振り回されてさらにローカルルールにとらわれていてしまうのです。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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神はお急ぎにならない。急がされたり、焦燥はローカルルール

 

 「焦らされる(どんくさいお前は変だ、遅いのは無能だ、など)」というのは、ローカルルールによく見られます。

 急いだり、効率的であることが良いという感覚。丁寧さよりもスピードを重視する。時間を浪費することを過度に嫌がる。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 背後には、親をはじめ大人への怒りが潜んでいたりします。

 丁寧さやゆっくりするということへの嫌悪がある。

 人前で作業するときも、人の目を気にして急いでしないといけないと感じて焦ったり、過度に緊張してしまったりします。

 これは、ローカルルールによって、焦らされている状態。

 もっと言えば、「自分の時間を奪われている」状態です。

 

 

 「自分の時間」とは、時間の流れの基準が自分の内部にあって、自分の内部から時間が流れていく感覚。
 反対にそれが奪われるとは、時間の流れの基準が外部にあって、その流れに支配されている感覚。

 「でも、時計のように時間って客観的でしょう?」と思うかもしれませんが、トラウマを負った人は、客観的な時間、時計に従っているわけでもない。

 

 ローカルルールの時間に踊らされている。もっとベタに言えば、他人の私的な感情の影響を受けている。
「遅いと思われたらどうしよう?」「どんくさいと思われたらどうしよう」「仕事ができないやつと思われたらどうしよう」「怒られるのではないか」といった感覚。
(参考)→「焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない」 

 

 安心安全のある人というのは、自分の中に時間の流れがある感覚を持っている。

 

 例えば、仕事でも、安心安全のある人が作業していると、落ち着きがその人の中からにじみ出ていて、周りが「早くして」とは言わせない雰囲気があったりします。

 時間の流れがその人の中にある。

 自他の区別がちゃんとある。

 自他の区別というのは、空間や意識のみならず、時間にも及ぶということです。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 

 

 ガウディが、サグラダ・ファミリアについて「いつできるのか?」と問われた際に、「神はお急ぎにならない」と答えたといいます。安心安全とはまさにそんなかんじ。必要な時間が必要なだけかかるというだけ。
  

 

 「焦り」「焦燥」というのは、ローカルルールの世界であり、「急げ」といのは、ローカルルールが巻き込むために仕掛けるフィッシングメールだったりします。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」 

 

 

 トラウマを負った人が、普段焦ったり、急がなければ、と思う気持ちが湧いてきたら、それはローカルルールに巻き込まれているからで、自分の時間が奪われてしまっていることに気づく必要があります。

 ローカルルール人格は自分で問題を作り出しているのに、その人や周りのせいにします。(泥棒が警察に「治安が悪い」と文句を言うみたいに)

 

 目の前に動きの遅い人がいて、他人に時間を奪われた気がしてイライラする、という場合、「その人に時間を奪われている」と思っているのは実はローカルルールに巻き込まれているだけで、本当に時間の主権を奪っているのはローカルルールの側なのです。

 

 「なぜ、急げないのか?!」と焦らせてきたら、「お前が時間の主権を奪っているからだろ!時間の主権を返せ」と言い返す必要があります。 
 (治療者に対しても、ローカルルール人格が「早く治せないのか!遅い」と文句を言うことが実際にあります。ローカルルールが悩みを生み出しているのですから、まさに「盗っ人猛々しい」とはこのことです。)

 私たちは、ローカルルールから自分の時間の主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

 そのためには、急いだり、焦ったりすることの反対に、「ゆっくり動き」「ゆっくり話すこと」を心がける。
 

 

 これは決して道徳や心構えのため、ではありません。

 
 医師の小林弘幸さんが書いた本を読んだ際に、書かれていたエピソードですが、小林さんがイギリスに留学した際のイギリスの医師(外科医)たちは、みんな動きがゆっくりだったそうです。

 カルテを書くのもゆっくり、話すのもゆっくり、でも、手術は結果として速く終る。

 忙しく、スピードが重視されるような現場で、医師たちは努めてゆっくりゆっくり動いていたそうです。

 日本でも、神の手と呼ばれるような外科医も、動きはゆっくりですがその結果は速いそうです。

 

 

 なぜ、ゆっくりなのでしょうか?
 

 小林医師によると、ゆっくりすることで自律神経が整います。自律神経が乱れないことで、結果として早く正確に動くことにつながるというのです。

 反対に、「急いだり」「焦ったり」すると、自律神経が乱れ、動きは遅くなり、ミスも増えます。

 私たちの筋肉は力を入れると反対に動きのブレーキにもなります。
スポーツでも、力を入れると反対にブレーキになるよ、とコーチに指導されたりします。

 サッカーでも、ゴール前でいかに焦らないかが大事だと言われます。
 急ぐことが大切なスポーツでも、急ぐことが結果にはつながらない。

 
 トラウマというのはストレス障害のことですが、ストレス障害の主な影響とは自律神経の乱れですから、まさに焦らされるというのは、トラウマそのものといえます。

 
 ローカルルールとは、まさに私達を焦らせることで、時間の主権を奪い、本来の力が発揮できないようにします。
 

 

 

 ローカルルールから主権を回復するためにはどうすればよいのか?

 それは、「神はお急ぎにならない」と思い、常にゆっくり動き、ゆっくりと話す。

 その際に、「急げ」と焦らせる声が聞こえてきたら、自分の母親や父親の声だったりすることに気づく必要があります。
 結局はそれはローカルルールにすぎないということに。
 
 
 ゆっくり、ゆっくりで、ローカルルールに奪われた時間の主権を取り戻す必要があります。
 

 ゆっくり動くことは、自他の区別にも繋がります。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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知覚の恒常性とカットオフ

 

 新型コロナウイルスへの対応が社会で問題となっています。
お仕事に、プライベートにと大変な制限を受けるようになりました。

 当初は、中国で発生したウイルスということで、外国のニュースという印象でした。

 武漢で広まったときも中国の中では大変だな、という印象だったのではないかと思います。

 そのうち、クルーズ船の問題が起きました。
 このときも、クルーズ船に乗り合わせた人たちは大変なことだな、という感覚でした。

 このときくらいまでは、私たちの日常からは遠い問題と感じていました。
 

 

 しかし、ある時点からは、「これは大変なことになるな」とフェーズが変わった感覚がありました。
(休校の要請のもっと前の段階です)

 

 政府の対応も同様で、あるところから急に対応を強めるようになりました。
 その結果、後手に回ったのではないか、と疑問を呈されるようになっています。

 おそらく、政府も当初はまだ楽観的だったのではないかと思いますが、あるところから、「これはまずい」と感じて慌てるようになったような印象があります。

 

 

 コロナウイルスに限りませんが、私たちの身の回りでは、仕事でもそうですが、ぼちぼち進捗していると思っていたら、急に事態の質が変わったような気がしてお尻に火がつく、ということはよくあります。
 
 プロジェクトの進捗について、決して油断しているわけではなく推移を見守っているつもりだったのに、気づいたら後手に回っていた、なんてことも。

 

 どうしてこういう事になってしまうのでしょうか?

 実はこれは、人間の知覚のバイアスによるものです。
 

 例えば、視覚の実験で、遠くから人が歩いて近づいてくる。
 物理的には同じペースで近づいてきていますから、徐々に大きくなるように見えるはずですが、実際は、しばらく同じサイズに見えていて、あるところから急に大きく見えるようになることが知られています。

 

 これは、「知覚の恒常性」と呼ばれる現象です。

 

 物事に対しても同様で、最初はしばらく変化がないように見えて、あるところから急に質が変わることが感じられる。

 同じ → 同じ → 同じ → 変わった!? という感じ

 
 統計の世界では、質が変わるポイントのことを「カットオフ」といいます。

 

 知覚の恒常性とは、もともとは私たち安定をもたらしてくれるものでもありますが、ここに執着が加わると、「変化が怖い」「変化が来ない」という恐れにもなります。

 執着とはローカルルールと言い換えてもいいですが、私的な情動から、現実を歪めます。

 

 健康な世界では、物事は常に有限(諸行無常)です。同じように見えて常に移り変わっています。
 反対に、ローカルルールやトラウマは、「無限」という感覚を作り出します。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 悩みが変わらないような気がしたり、物事が動いていないように、あるいは、時間がとてもゆっくり進んでいるかのように感じさせたりする。

 絶望や不安、焦燥を生み出して私たちを支配する。

 

 

 以前、福岡で道路が陥没したことがありました。
 
 大きな穴が空き、水道からの水が溜まった映像が流れていました。

 そこにミキサー車などが土砂やコンクリートを流し込んで、穴を埋める様子が映し出されていました。

 ただ、最初の頃は、いつまで経っても穴が埋まる様子がありません。
 「こんな大きな穴が本当に満たされる日が来るのか」と途方に暮れるほど。

 しかし、実際は、ある時点から穴は埋まり始め(カットオフ)、
 道路として舗装され、復旧されました。

 

 

 変化とは素朴には「知覚の恒常性」が働き、

  同じ → 同じ → 同じ → 急に変わった!!

 と感じられるもの 

 もちろん、物理的な現実は、

  変わった → 変わった → 変わった → 変わった(ここで質が変わったとみなせる)

 ということで常に変わっているのですが、普通にしていると変化を感じることが難しい。

 

 そのため、人間は、経験や教養によって知覚の恒常性を越えてそれを感じるように努める。アスリートや、職人や、受験生とか勉学に励む人は、すぐに上達しなくてもコツコツと目の前のことに取り組む。

 
 仕事でも成果を上げる人は、物事は変化していないように見えて常に変わっていることを知るので、長い時間でも次を待てる。
 
 変化していないように見えることに目を奪われる人が、焦って変な行動をしている間に、徐々に変化していることを知っている人はカットオフを待ちながら、コツコツと準備を積み上げていく。

(参考)→「「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 

 

 悩みからの回復も同様に、徐々に変わって、カットオフ値で質が変わったように感じる。それまでは知覚の恒常性が働きますから、変化は常に知覚しにくい。

 さらに、ローカルルールが「無限」「焦燥」というバイアスをかけてきますから、真に受けると、ドロップさせられたりすることがある。
 治療者も、巻き込まれると「変化がない」ということに罪悪感を感じさせられたり、焦らされて、結果ローカルルールが延命してしまったりします。

 

  同じ(焦燥、不安) → 同じ(焦燥、不安) → 絶望 → 変化を待てずドロップ

 

 というように、

 

 ただ、実際は、変化は背後で常におき続けている。
そして、変化とは、無限から有限に、焦燥からゆっくり動く世界へと移行することでもあります。
 

 本来、安心安全とは変化しないことではなくて、変化(有限)の中で恒常性が維持されること(ゆっくり動く世界)。
 例えて言えば、遠洋を進む船のようにずっと景色が変わらないけど動いていて、船は安定が保たれている状態。

 トラウマ、ローカルルールとは、無限の中で恒常性(の感覚)が奪われて、焦燥の中で悶え苦しむこと。
 
 
 ローカルルールとは、事実の認知を歪める。なかでも時間の主権を奪います。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 
 最近、新型コロナウイルスが問題となっていますが、外国の物や人が国に入るときには検疫があったり、審査があったりします。

何のチェックもなく外国に入れるということはありません。

 信用できる国同士だとチェックを軽くしたり、ということはあるようですがチェックするのが原則。

 

 

 私たち個人も同様に、相手をそのまま信じることはなく、チェックをしています。

健康に発達していれば、言葉を鵜呑みにすることもありません。

 そのまま受け入れるなんて言うのはとても危険なので、必ずチェックが入るのです。
 
 親から受けたしつけや教育についても、わざわざ反抗期というプロセスで一旦否定して、検疫して、翻訳し直して、自分のルールというものにするのです。

 

 

 人間は素直な方がいい、というふうに言われますが、その「素直さ」というのも要注意です。主語をチェックしないといけません。

 素直な方がいいというのは、「(支配する側にとって)」という言葉が隠れていることがしばしばだからです。

 

 「自由貿易とは、強者にとっての保護貿易」という有名な言葉がありますが、国と国との関係でも、「ノーチェックでやりとりしましょう」というのは、強い国にとっては都合が良いのですが、弱い国にとっては実は相手に知らず識らずの間に支配されているということがあります。

 EUでも、結局はドイツのような強い国が得をしている(EU≒ドイツ帝国)のでは?ともいわれています。

 

 

 個人同士の素直さというのも同様に、それは強者にとって都合の良い、ということだったりします。

 もっと言えば、家庭の中での親であったり、配偶者であったり、会社では上司、経営者であったり。過干渉やモラルハラスメントというのは、相手を否定することでノーチェック状態を強制することです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 反抗期を経て健全に発達した大人であれば、相手の言葉をそのまま受け取ることはありません。

 例えば、会社で会社の上司に言われたことでも、そのまま受け取るなんてしません。

 でも、あからさまに従わないなんてこともしません。

 基本は、「面従腹背(表面的には従っているが、本心はそうではない)」です。

 

 もちろん、業務として決められたことや、しなければならないことはしますが、「心から臣従」なんてしない。

 (個人同士の人間関係で言えば、裏表があるとか、心のなかでいつも相手を悪く思ったりとかそういうことではありません。)

 

 「でも、結構上司と部下が仲が良くて、尊敬されているいい環境の職場もあるよ」と思われるかもしれませんが、それは、それが当たり前なのではなく、環境が整った結果であるということ。

 上司や会社が尊敬されるに値する正統性と役割を果たしている結果、部下がそれに敬意を払い、いい関係になっているということ。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 例えば戦国時代のお侍さんでも、主人の言うことを何でも言うことを聞くなんてことはありませんでした。 主人がそれ相応の力を示して尊敬されなければ、言うことは聞いてくれなかった。

 武田信玄などもそうだったようで、部下から尊敬されることに腐心していた。
 
 

 戦前の軍隊でも、山本五十六(連合艦隊司令長官)の有名な言葉に、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
 

というものがあります。

 

 戦前の軍隊という絶対服従のイメージのある職場でも、上官が言ったから部下が何でも聞いてくれる、なんてなかったのです。

 これだけ、丁寧に関わって初めて人は動く。

 人というのは、やはり基本的には「面従腹背」なのです。

 

 ただ、面従腹背なのですが、そのほうが結果として、「素直だ」と捉えてもらえたりする。
 「面従(表面的には従っている)」しているためです。

 人間は心からやり取りをしているわけではなくプロトコル(外交儀礼)でやりとしているので、プロトコルに従っていれば良く評価される。
 

 普段、挨拶しているだけで、罪を犯した人でさえも、「あの人はいつも挨拶してくれて、いい人そうだったけどね~ 残念ね~」とご近所の人から言われるものです。

 

 それに対してトラウマを負った人はどうか?
 「面(反)腹()」という感じで、人の言葉をそのまま受け取りすぎる。心からやり取りしようとしてしまう。

 他者が大きく見えているので、へりくだりすぎてしまったりして、ちょっと言われた言葉を大きく捉えてしまったりする。

 会社の会議でも指摘があると、黙ってしまったり、深刻に受け止めすぎてしまったり。

 
 人に振り回されることに疲れているし、傷ついてもきたので、本当は距離を取りたい、人の言葉に動じない強い自分になりたいと思っています。心からやり取りしたいと思っていたりもする。
 結果、それが表情に現れて「面(反)」となり、上司から「なんだ、気に入らないのか」となって、「あいつは素直じゃない」と悪い評価されてしまう。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 本当はめちゃくちゃ素直で柔軟なのですが、それが仇となるのです。

 

 ノーチェックで相手の言葉を通してしまうことで、公的環境ではなく、私的環境になってしまって、相手の理不尽さ(ローカルルール)を招いてしまう、ということもあります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 TVや本で取り上げられている活躍しているプロフェッショナルを見ると真に受けて、実際の責任以上に仕事を引き受けてしまう。

 活躍している人は、それを支える環境があったり、負の側面もあるのですが、そのことは見えない。
 (もちろん、TVで取り上げられる人の中には自己愛性パーソナリティ傾向のあるワーカホリックな人もたくさんいますが)
 
 表面だけ真似して、すごく気を利かせたり、何でも自分の責任だと捉えたり。
 

 とても頑張っているのに、
 「~~さんは、最初はいいんだけど、結局は駄目だね」と悪く評価されてしまう。
 

 頑張ってその結果ですから、もうどうしていいかわからなくなる。
 自信をなくして、人や仕事が怖くなったりしてしまいます。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

    →「あなたの人間関係の悩みの原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 ちょっとしたことから始まりますが、「面従腹背」と「面(反)腹()」というように、トラウマを負った人と、健康な人とでは、見えている世界が180度違っていたりするのです。

(参考)→「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 仕事や対人関係の基本は、「面従腹背」。そして、自分の体の範囲より大きな責任は負わない。 

 しっかり「面従」はする。

 

 「面従」というのは、挨拶であったり、ポイント、ポイントでの愛想であったり、「OK,BOSS(かしこまりました)」といったり、などプロトコルに従うということです。
  

 そうしていれば、自他の区別もちゃんと保てますし、人からの評価を得ることもできます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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