「物理的な現実」に根ざす

 

 ローカルルールとは、その正体は個人の私的な感情にすぎないわけで、そこで主張されることはもっともらしく見えても、なんら現実に基づくではありません。

基本的に虚構、想像の世界に巻き込むことで成立しています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 私たちが、「人からどう言われるか?」「どう見えているか?」を過剰に気にさせられるのもローカルルールの影響の故です。

 

 「人からどう言われるか?」「どう見えているか?」というときの「自分」とは、物理的な自分ではなく、イメージ(虚構)の世界の「自分」です。

 例えば、「~さんって、暗いね」と人から言われたとしても、それは、物理的な自分をさしているわけでもなんでもなく、単に、それを発した人の考え、言葉(イメージ)のものでしかない。

 

 

 しかし、ローカルルールはイメージがあたかも現実であるかのように思わせて私たちを苦しめます。

 一番の方法は、「人の言葉は大切に聞かなければならない」とか「人の気持ちを考えなければならない」といったニセの常識を刷り込むこと。

(参考)→「変な設定のスマートフォン

 そうすることでローカルルールが作り出す虚構の世界に巻き込む下地を作る。

 

 

 次に、「あなたは価値がない」とか「あなたはダメだ」といったこと(ローカルルール)を刷り込む。

 下地として「言葉は大切だ」と思わせていますから、暴言が土に染み込むように浸透して、巻き込まれていきます。

  

 「あなたは価値がない」もイメージ(虚構)でしかありませんが、「言葉は事実だ」と思っていますから、それ自体が事実であるかのように私たちには感じられ、以降、「自分は価値がない」という情報を証拠して集めるようになってしまいます。

 相手がそっけない態度を取ると、「自分に価値がないからだ」と捉えてしまう。

 

 「自分には価値がない」と思って自身がないものですから、社会に出てからも他者のローカルルールに巻き込まれやすくなり、不全感を抱えた人から、「あなたは価値がない」というフィッシングメールを受けて、真に受けてしまう。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 不全感を抱えた人にとっては、巻き込まれて嬉しいので、「価値がない」ということが事実というふりをされて、マウンティングされてしまう。

 

 

 長年それが続くと、ローカルルールというニセモノに過ぎないものが他のローカルルールも雪だるまのように巻き込みながら膨れ上がり、現実であるかのように感じさせられてしまう。

そして、「現実とは辛く厳しいところだ」というように感じられてしまう。

 ますます、物理的な現実からは遠ざけて虚構の世界に誘い込まれてしまう。

 
 さらに、ローカルルール「人格」というように、ローカルルールは人格(モジュール)に感染して影響します。ローカルルール人格は、感情や言葉、行動の認知、記憶を歪めます。
 

(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由
 

 歪められることでローカルルールを壊す手がかりが失われ、物理的な現実を私たちが触れることができないように遠ざけてしまうようになるのです。そして、常に証拠のない虚構の世界でやり取りさせることで、ローカルルールから抜けることができないようにするのです。

 

 

 「現実が怖い」「現実は厳しい」「現実を見たくない」というふうに思っているとしたら、それは実はローカルルールによって作られた感覚です。

 そして、その場合に、“現実”と感じていること、例えば、「自分は価値がない」「自分には実力がない」「自分は失敗ばかり」という“現実”とは、作られた虚構の現実であり、本当の現実ではない、ということです。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 

 ハラスメント、虐待の影響の一番は、「現実は怖い」と思わせて、私たちを物理的な現実から遠ざけてしまうこと。

 

 以前、「代表」という機能についてもお伝えしましたが、物理的な現実からも離れ、代表も機能せず、中空に浮いた状態。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 これがいちばんローカルルールとしては個人を支配しやすい状態。
  

  代表
 
   ↑ ※妨げられる

 (中空) → ローカルルールに依存させられる

   ↓ ※妨げられる   

 物理的な現実

 

 中空に浮いているので、反撃のための足場、根拠を持つことができず、ローカルルールは自由にイメージや言説を操ることができる。

 
 物理的な現実というのは、人間の意識では変えることができません。

だからこそ、安全であり、信頼できる。

 
 反対に意識やイメージ、言説というものは、いくらでも加工できてしまう。

そこには、ローカルルールが入り込む余地がたくさんあって、危険極まりない。

  
 「代表」が機能するためには、物理的な現実に足場を保つ必要があります。

 
 世の中には、家のローカルルールから自由にしてあげますよ、といいながら、別のローカルルールへの依存を勧めて商売をしている人たちがたくさんいるからやっかいです。
(自己啓発とかカリスマカウンセラーとか、スピリチュアルなものや宗教など)

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 物理的な現実な現実からも切り離され、ローカルルールにとらわれていてつらい思いをしている人からすれば藁にもすがる思いで頼りたくなります。

 

 しかし、それも結局はローカルルール。
 主宰している人の不全感を満たすために依存しやすい人達を集めているだけ。
 根っこには、自己愛や支配欲でしかないのに、「富」「愛」「夢」「本当の世界」といったきれいな言葉でコーティングしているだけ。

 結局、ローカルルールから別のローカルルールに移っても全く解決にはならない。

 やるべきことは 虚構の“現実”(ローカルルール)から 本来の現実(物理的な現実)へと移ることです。

 決して、虚構の“現実”(ローカルルール) から  別の虚構の“現実”へ 移ることではありません。

 
 ここはとても大事なポイントです。

 

 例えば、自己啓発やスピリチュアルにおいて、「思考は現実化する」といって、願い事を書いたり、アファメーションを唱えたり、といったことは、実は単に、虚構の“現実”(ローカルルール) から  別の虚構の“現実”へ 移ろうとしているだけです。

 それで得をするのは、本やセミナーで商売している元締めの人(ニセのカリスマ)だけです。
  

 
 いわゆるカウンセリングやセラピーにおいても、そのセラピー自体が、虚構から虚構へと操作するようなセラピーであれば、効果はありません。むしろ、ローカルルール世界の中で治療者もともに踊らされてしまうことになります。

 

 やればやるほど、物理的な現実から離れることになり、ローカルルールにとっては都合が良い。イメージ(虚構)の世界の中でのやり取りなので、ローカルルールそのものを壊すことにならない。
 下手をすると、ローカルルールの維持に協力してしまうことになる。

 

 例えば、認知(信念)を変えるセラピーなどもある程度良くはなりますが、ローカルルールが許す範囲になってしまうのです。

 

 ローカルルールとは所詮、個人の私的な感情にすぎません。ニセモノです。魔女のりんごのようなもの。物理的な現実を突きつければ、あっという間に消え去ってしまうものです。

 本当であれば、物理的な現実に根ざして関わればなんでもないことです。

 

 本当に悩みから抜けるためには、考え方を変えるとか、イメージを何とかする、といったことではまったくだめで、物理的現実に根ざして、ローカルルールそのものをひっくり返しに行く必要があります。

 睡眠、食事、運動が大切なのも身体という一番身近な物理的現実に根ざすことができるようにするため。

 釈迦も苦行を否定したのは、身体を保って物理的な現実に根ざしていないといけないから。
 仏教の悟りとは、観念を排して徹底的に物理的な現実を見る、というものです。
(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切」 

 

 また、仕事などを通じて、社会の中で「位置と役割」を持つことが大切なのも、物理的な現実に根ざすためです。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」 

 

 

 例えば、「自分はダメな人間だ」と親に思わされてきた人が、努力して「親から評価されよう」あるいは、「自分の考えを変えて自己肯定感を高めよう」と思うのは、ローカルルールの虚構世界の中で踊っているだけです。

 

「自分はダメな人間だ」と思う気持ち(信念)を、セラピーで変えようとすることもローカルルールの世界で踊っていることです。

 

 そうではなくて、そもそも「自分はダメな人間だ」というのはローカルルール(虚構)であることに気づき、「いいかげんにしろ!」と、ローカルルール自体をベリッと剥がしてしまう。

 そして、物理的な現実を見る、ということ。

 ここがすごく大きなポイントになります。

 

 

 そこに至るためには、数々のトラップが仕掛けられています。

 ・言葉を大切にしなきゃ、相手のぞき込まなきゃ、というローカルルール

 ・刷り込まれ、内面化してきたローカルルール

 ・虚構によって作られた“現実” 
  (例えば、ローカルルールを真に受けたことで生じた過去の数々の失敗など)
 
 ・身体の不安定さ
  (睡眠不足、運動不足、栄養不足)

 ・不安、恐怖、罪悪感

 ・自他の区別の弱さ

 ・巻き込まれる癖

 ・ニセの敵への執着(目の前の人にイライラして、本来の問題に目が向かない)
  
 ・秘密を抱え込んでいる(ファミリー・シークレット)

 ・物理的な現実への幻滅や大人への反感、理想主義

 ・俗な知識
  エセ科学(ニセの脳科学など)、ポップ心理学やスピリチュアルなどが広めた間違った知識(考え方を変えれば悩みは治る、共感が大切など)
  これもローカルルールそのものにアプローチできずにローカルルール内で踊らされる要因になります。

 などなど

 

 

 これらが邪魔をして、「物理的な現実を見たくない」「物理的な現実を見れない」になっている。

 

 でも、本来は物理的な現実のほうがローカルルールによる虚構の現実よりも圧倒的に優しいし、多元的多層的です。

 本当の解決には必ず物理的な現実に根ざす必要があります。
物理的な現実に根ざすと、ローカルルールは取れやすくなります。 

 

 

 難しいことはさておき、

 まずは、自分がもっているネガティブな感覚を「これってローカルルールじゃないか?」「ローカルルール人格のもので、自分のものではないのでは?」
 と疑ってみることです。

 

 まちがっても、ローカルルールにたいして、ポジティブ思考、自己啓発、ポップ心理学(俗な心理学)などの虚構で対抗しようとしない。虚構の世界で虚構同士でやり取りをしても巻き込まれるだけですから。

 そして、「物理的な現実を見る」と決めて、心がけてみることです。

 ここはとっても大切なポイントです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「ポリス的動物(社会的動物)」としての性質を悪用される

 

 

 前回の記事で少し触れましたが、人間は、「ポリス的動物(社会的動物)」と呼ばれています。

 わたしたちは、規範(ルール)を求め、秩序を欲しています。
自然と、ルールに従おう、そしてネットワークにつながろうとする性質があります。

 ローカルルールとは、その性質を悪用したものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 わたしたちは、「これはルールだ」「常識だ」という言葉にとても弱くできている。   

 ハラスメントを行う側も社会的であり、単に理不尽に振る舞いたくない、わけがわからない行動は取りたくないと感じているため、自分の私的情動に対して、「これは常識なのだ」と騙ろうとする。

 

「これは嫉妬なんです」とか、「これは私の不全感の表明です」と正直に言ってくれればこちらも影響されずに住むのですが、面倒なことに「これは仲間内の常識なんです」「あなたのせいなんです」と正当化の理屈をかぶせてくるから厄介です。

 そして、「私の心の中を覗きなさい」と変なネットワークに巻き込もうとフィッシングメールを送ってきたりもする。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 私たちの身近には、このようなローカルルールがウヨウヨとはびこっています。

 

 
 では、「世の中はローカルルールに支配される暗黒社会だ。」「ローカルルールだらけでは何も信用できない」というわけではありません。

 「パブリックルール(グローバルなルール)」という大きな川が流れており、“普遍的な何か”、物理的な現実というのは確実に存在しています。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 人類の営みは、“普遍的な何か”を代表させようとする努力の歴史でもあります。

 昔、中国の皇帝も、自身の即位の根拠は「天命を受けた」ということですが、つまり“普遍的な何か”(天命)を代表している、ということ。皇帝だから何でもできるわけではなく、“普遍的な何か”(天命)を代表していることを示し続けなければならないし、それに反したことはできない。

 

 代表できなくなったり、ローカルルールで統治していると、そのうち革命が起きて、王朝が交代する、ということになる。

 

 私たち現代日本も取り入れている民主主義も、選挙や世論調査を通じて、不完全ながら、“普遍的な何か”を代表させようとしています。“普遍的な何か”をルソーは天命ではなく、「一般意志」と呼んでいる。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 わたしたち個人も、そうした“普遍的な何か”を代表する、自然に感じ取る力があります。それが「直感」と呼ばれたり、「ガットフィーリング」と呼ばれたりする、身体で感じる感覚です。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 特別なことではなく、わたしたちは誰でも感じています。

 

 
 トラウマを負うというのはローカルルールの呪縛によって、焦燥感や、不安感、体調不良から、そうした身体感覚を邪魔されている状態のことを言います。

 
 身体感覚が撹乱された状態で、ポリス的動物の特徴である、「ルールに従う」「ネットワークに繋がる」ということをうまく利用されて、「ローカルルール」という“ニセの何か”に従わされてしまう。

 

 ポリス的動物であるわたしたちからすれば、「ルールがないくらいなら、ニセモノでもルールがほしい」と思わされてしまうのです。
 

 さらに、ルールとは単に頭に知識として入るのではなく、人格レベルで内面化されるものです。

 人格レベルで内面化とは、「まさにそのものになるようにして、受け入れる」ということです。

 ですから、刺激を受けると「(人が変わったように)ルールに従わない人を非難したりする」のです。

 これは、人格がスイッチしているということです。

 

 

 人格というのは、スマホに例えればアプリのことです。 スマホは物理的には1台でも、アプリ(プログラム)は複数入っていますが、そうした構造に人間もなっていると考えられます。

(参考)→「変な設定のスマートフォン

 

 

 ただし、解離性同一性障害(多重人格)でなければ、人間には人格を統合しているという感覚(錯覚)が働いていますから、「ローカルルール人格の言動も自分のものだ」と思わされていますし、別人格だとは感じることが難しいのです。

(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと

 この「ローカルルール」そして「人格」という発見の意味はとても大きいと感じています。

 

 

 例えば、これまでセラピーを受けても、何をしても、自分の自信のなさや、自己否定感がどうしても拭えなかったという方はとても多い。

 しかし、「ローカルルール」という観点をもつと、自分が信じてきたことがいかにおかしな仮想の世界でしかなかったのか根本からわかるようになる。

 それらにはなんにも根拠がなく、単なる他者の私的情動でしかなかった、ということ。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 いままでは、すごいと思っていた人たちが、解離しやすいおサルさんでしかないこと。人間には、人格というものがあって、スイッチしている、ということ。どんな立派な人でも解離してしまう。

 そのため、私的環境での発言はすべてが戯れ言でしか無い、ということ。

 こうした事がわかってくると、これまで苦しんできた世界がかなり変わってくる。

 筆者も自分で自分にやってみても、従来のトラウマケアだと動かなかった自分の悩みも変化していく感覚があったりします。
 

 

 例えば、発達障害、といったような人たちは、「暗示にかかりやすい」「真面目さ」「言葉を真に受けやすい」ということが挙げられています。ローカルルールの特徴からすれば、ローカルルールにもっとも影響されやすい人たちであると言えます。

 発達障害の方の生きづらさや、問題を引き起こす認知も、じつはローカルルール人格のもので、それに気がついた途端に軽快した、というケースも実際にあります。それまではどうしても否定的な認知が拭えなかったものがガラッと変わったりする。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴

 

 「ローカルルール」というのは、おそらく、健全な発達の過程では反抗期などを経て自然となされる人間へのイメージや規範の相対化をあとからでも促してくれる視点なのだと思います。

 「ルール」と「ネットワーク」という「ポリス的動物(社会的動物)」の性質を悪用され、拭えない強い呪縛を解きほぐしてくれる。

 

 人間は成長する過程で社会の規範、常識というものを、ローカルルールなポイントを通じてインストールされるわけですが、そのローカルなポイントが不全感を抱えていた場合は、おかしな設定(ローカルルール)が紛れ込む。

 

 発達の過程でそうしたことを一旦否定して、「人間ってみんな限界があって等身大で、個人的な感情で動いていて、言っていることも戯言に過ぎない」と体感してくるわけですが、それがうまく得られない場合には、ローカルルールに長く呪縛されることになります。

 

 従来のカウンセリングだと、ローカルルールをそのままにしておいて、あるいは、ローカルルール人格が訴えることに治療者も真に受けさせられ、共感させられて、ローカルルールの枠を超えることができないままにさせられることも多かったのかもしれません。

 ローカルルールがそのままになった上で、認知なり、感情なり、トラウマなりを扱おうとしているのでうまくいかなくなかったのかもしれない。

 さらに、「人格」という視点も重要で、人格が変わると体質も変わるということが知られています。(F・パトナム他「多重人格障害-その精神生理学的研究」(春秋社)

 内的に複数の人格(脳科学ではモジュール、作家の平野啓一郎さんは分人と呼んでいますが)が存在するのだ、と認めて捉える。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」 

 

 昔漫画で、ニセの世界に誘い込んで主人公を出れなくしたり、人格や体質をいろいろと変えることで主人公の攻撃を無化したりみたいな敵が登場することがありました。ニセの世界と気が付かずに「こっちのほうがいい」と惑わされたり、効くはずの攻撃が効かずにピンチになったり。

 

 しかし、最後は、ニセの世界などの正体を見破ることで敵を撃破する、といったストーリーだったかと思いますが、「ローカルルール(人格)」という視点でセッションをしていると、そんな感覚、手応えを感じることがあります。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 人の言葉が戯言だと、何も信じられなくなるのでは?という不安を持つかもしれません。

 その不安自体がローカルルールなのですが、これについては、以前、「代表」という観点で不安になる必要がない、ということをまとめてみました。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 「言葉が戯言だと不安だ」というのは、実は普通の人からするとかなり変な感覚だったりします。

 

 いままで神のように奉っていた人の言葉を相対化して、解体した先になにがあるのか?

 難しい理屈を言わなくても普通の人は、「自分でわかるでしょ?」という感覚なのです。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 

 普通の人は、基本的に自分に中心軸があって、そこから判断できているのです。ローカルルールを離れ、徐々にそうした感覚に着地していく必要があります。

 

 そのために、戯言だと気づくことの意味についてもうひとつ別のポイントも知っておくことは有益なことです。

 その意味、ポイントとはなにかといえば、戯言だとわかることで「世界に対する主権、主導権が自分に戻る」ということです。

 

 トラウマを負う、というのは、人の言葉を神からの託宣さながらに「事実そのもの」として受け取っているという状態です。

 言葉に真剣に耳を傾け、深刻に受け止めて、それに対応する。

「あなたは~~な人ね」「~~は~~だ」と言われたら、事実そうなのだと受け取ってしまう。

 言葉が「完成した事実」「完成品」として、自分に突きつけられる、といった感覚です。

 戯言に過ぎない他人の言葉が完成品だと思わされ、事実そのものである言葉に対して何か手を加えられる権限も力も奪われているような状態です。

 

 「言葉は事実そのもの」なのだから、手を加えたら歪曲であり、そのまま真に受けることが誠実なのだ、と思わされている。

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 

 世界に対する主導権が自分にない、常に人の口から出る言葉に振り回されているような状態です。

 対して、人の言葉が戯言だというのは、バラバラの部品、素材が目の前に置かれるという感覚。

 バラバラの素材ですから、自分で吟味、判断し、都合よく利用することができる。自分で組み立てることができる。

 つまり、言葉が戯言だと気づくことは、世界に対する主権、主導権が自分に宿るということです。
 

 

 こうしたことは通常は、発達の過程でなされるものです。

 
 人間は発達の過程で、神のようであった親のイメージが等身大となり、自我のサイズも等身大となる。

 そして、反抗期で親の言葉を戯言として相対化して、自他の区別が明確になり、社会に出ていく。

 トラウマを負うような理不尽な環境では、こうした健全な発達過程が阻害されていた。

 親があれこれと言い訳をして子どもに対する主権を手放さずにいた。

 「私の言葉を真実として聞け!」と強制し、それに子どもも真面目に応えていた。

 

 

 でも、それは違います。まさにローカルルールそのもの。

 言葉が戯言だとわかるというのは、主権を自分のものとして、自他の区別を明確にすること。

 「言葉が戯言だと不安だ」などと不安に感じる必要などはまったくない。
 普通の人からしたら「自分に主権が戻るのに、なんで不安なわけ?」という感覚です。

 不安に感じる場合は、親のローカルルールを守らされていないか、チェックする必要があります。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!」

 

 ニセの神様がもっていた言葉を操る権利を自分に取り戻すだけ。

 人間の言葉は戯言であり、何の意味もありません。言葉は、単なる道具です。

 言葉が戯言だと知るというのは、言葉を道具、部品として自由に組み立て、戯れに遊び、自分の世界を作っていく、ということなのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ローカルルール人格はドロップさせようとすることもある。

 

 ローカルルール人格というのは、内面化されたローカルルールのことです。

 理不尽な親の価値観であったり、その言葉であったりを真に受けたり、それに対抗しようとした結果、内面化されてしまうのです。

 人間というのはモジュール(人格)の集合体ですので、ローカルルールは人格のように悪さをしてくる。

 否定的な考えを沸き立たせたり、はっきり言葉で聞こえてくるようにしたり、ということがおきます。

 

 ローカルルールの目的は、ローカルルールの延命ですから、本当にその方が良くなると困ります。そのために、様々な邪魔をします。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 大変面倒なことですが、病院の治療やカウンセリングそのものもやめさせようとする(ドロップさせる)ことがあります。

 速く治したいというふうに焦らせたり、
 もう治らないのではないか、と悲観にさせたり、
 治療者への不信をわたき立たせることもありますし、
 なぜかわけのわからない理由で治療そのものを辞めるように否定的な観念が湧いたり、幻聴が聞こえたり、といったことがおきます。

 辞めるのではなく、他の病院、治療者のところに行け、というふうに促されたりすることもあります。

 

 

 もちろん、治療が合わない、といった合理的な理由で病院を変える、治療そのものを辞めることはあります。

 先日、お笑い芸人の名倉潤さんがうつ病で休養されていましたが、途中治療が合わないので奥さんなどの判断で病院を変えてうまく行ったそうです。これはもちろん合理的な判断です。

 

 一方、症状が重いケースを中心に多くの場合はローカルルールの影響で非合理な理由で替えてしまって、治療の機会を失っているということも大変多い。

 

 

 ローカルルールによって引き起こされたものか、そうではないかを判断するのはなかなか難しいのですが、ただ、直感的に違和感を感じていたります。
 
 なんとなくおかしい、というようなこと。

 

 実は、治療も確かに進んでいて、まだ症状が残っているのに途中で辞めるという場合は、ほぼすべてのケースでローカルルール人格の影響があります。
  

 

 ただ、治療者の側のためらい(引き止めることはなかなかしづらい。)もうまく利用されて、ドロップしてしまうことが多いです。

 希死念慮など、重い症状を抱えている場合は、辞めないように誓約書を書いたり、といったことはありますが、そうではない場合、治療者の側もそれを妨げる、引き止めるということは通常しません。

 

 ローカルルールについてもっともっと解明、理解が進めば、治療者も自信をもって「それはローカルルールの影響だよ」といえますが、現状だと、ためらいが出たり、巻き込まれる恐れもあるので、なかなか難しい。

  

 ローカルルールの影響があることが確信を持ってわからないまま関わると、かえってローカルルールに巻き込まれる、ということもありますから、現状は引き止めずに、治療者は淡々と見送ることのほうが良いのかもしれません。

 クライアントさんの中の本来の人格がなんとか頑張ってくれることを期待するしかない。

 

 もし、後日なんらかの機会があれば、クライアントさんの身に何が起きていたかを説明する、というのが一番良いのかもしれません。

 

 

 短期的には、こうしたことの結果、少なからず悩みの解決が停滞したり先延ばしされたりしますので、ローカルルールにとってみれば、ローカルルールの延命工作が成功することになります。

 

 

 治療そのものを妨げるようなローカルルールが見られるケースというのは、重い愛着障害や、トラウマがあるケースが多いです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

    →「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分の存在をそのものをだめにするような観念や、将来への悲観、不信が内面化するくらいひどく理不尽な目に過去にあわれてきていた、ということです。

 

 虐待や愛着障害の興味深いところは、単にひどい目にあいました、ということでは終わらずに、必ず、そこで展開されたローカルルールを内面化してしまっているということ。
 そして、いまも親などへの恨みや怒りと同時に、そのローカルルールに健気に従い続けているということ。

 

 境界性パーソナリティ状態が典型ですが、愛着が傷ついているために、自己破壊的な行動をとってしまう。
ケースによっては、依存症といったことにつながったり、自殺企図ということをおこしたり、これも、ある意味(生きることからの)ドロップということになります。

 

 本人の意志ではなく、ローカルルール人格がニセの衝動を仕掛けてきていて、それに巻き込まれているということ。ローカルルール人格のうるささ、不快さから逃れるために問題行動を起こしてしまったりする。

 

 ドロップというのは、ローカルルールに従い続けているということを表す顕著な事象であるということなのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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