生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。」

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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・お悩みの原因や解決方法について

「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。」

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

 TVも新聞も、毎日、新型コロナウイルスのニュースばかりです。
 健康と経済生活とを両方天秤にかけながら、政治・行政も難しい決定が強いられているな、と感じます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ」

 
 意思決定というときにしばしば問題になるのは「結果」です。
 

 結果が悪いと、「なぜ、あのときもっとこうしておかなかったのか!」と叩かれてしまいます。

 

 私たちも、失敗すると、「ああ、なぜあのときこうしておかなければ」と後悔することがあります。
 
 特にトラウマを負っていると、自責感、後悔というのは激しく心のなかでうずまきます。

 自分を責めて叩いて、後悔する。

 そして、次に同じ機会が訪れたときに、結果が気になって萎縮してしまって、自信を持って決断できなくなる。
 

 今度は失敗するまいと判断する範囲や情報を広げすぎてしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 「自信がない」「決めることができない」
 これは、トラウマを負っているとよく見られる現象です。
 

 

 

 例えば、野球などのスポーツでも、「あのときこうしておけば」というのはあります。

 阪神ファンのおっちゃんは、みな監督気分ですから、「あそこで、あの球に手を出せば」とか「あそこに投げていれば」ということを言いますが、当事者の立場になれば、果たしてそれができたかどうかはわかりません。 

 人間というのは全知全能ではないですから、常に結果から見て最善手を打てるわけではないからです。

 その瞬間には不十分な情報と時間とで判断をくださなければならない。

 

 新型コロナウイルスの件でも、例えば、最初の時点で外国からの往来を完全に止めていれば日本での感染は広がっていなかったかもしれません。
 しかし、それは結果論で、そのときにそれが判断できたかはとても難しい。
 往来が止まって仕事を失うと、それによって命を断つ人も実際には存在するからです。
 

 

 人間は全知全能ではない。
 しかし、近現代の傾向として、人間は自分たちが全能であると錯覚しやすくなっているので(近代人のトラウマティックな万能感)、人間の判断力を大きく見積もって、「(人間はもっと賢いはずのだから)あのときこうしておけば」と批判する傾向があります。

 たまたまうまく言ったケースを持ってきて、「できている人がいるんだから、できるはず」と考えて、万能感は修正されなくなってしまう。

 

 

 

 人間の判断力は思っている以上に小さく、限界があります。
 弱い人間にとってはすべてを見通すことはできない。

 できることは、プロセスが適切であったかどうか、価値観の軸がブレなくあったかどうか、だけです。

 野球においても、先日亡くなった野村監督は、ピッチャーが打たれた際にキャッチャーにリードの選択の根拠を聞いて、根拠があれば叱らなかった、というエピソードがあります。

 人間は結果を常に制御できるわけではなく、少なくとも自分として根拠(プロセス)があるかどうかが大切ということです。
 

 

 

 私たちの日常は、常に長距離戦で、1回の勝負で終わりではありません。常に次がある。

 長期戦で結果を出すためには、プロセスが大事で、自分の基準や価値観(フォーム)を持つことがとても大切になります。
 
 目の前の結果を出すために自分のフォームが乱れてしまうよりは、自分のフォームを成熟させて、長期で結果が出るほうが良いのです。
 

 

 

 しかし、日常生活や職場でも、結果論で相手をマウンティングする人というのはいます。「だから、こうしておけば」ということを言うのです。

 「結果がすべて」ということを言われますから、一見正しいように見えます。

 人間は全能ではないので、途中のプロセスですべてが見通せるわけではありません。結果が出なくても、プロセスとしては、そのように判断するしかないことがほとんどなのです。

 「結果がすべて」という言葉を間違ってとらえて、その批判を真に受けてしまうと、自分のフォームが崩れてしまいます。

 

 

 日常生活でも親が子どもに対して、結果だけを取り上げて、「だから、言わんこっちゃない」とか、「だから、あなたはいつもだめだ」といったことを繰り返すと、子どもの価値観の軸が崩れ、自信が育たなくなります。

 そのことが続くと、他人の判断や価値観が正しく、自分の価値観が間違っているように感じられ、自他の区別がなくなり、自信を持って意思決定ができなくなります。

 本当は他人の価値観が正しいわけではなく、それは「結果論」から正しそうに見えていただけだった。
 

  
 結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想にとらわれると、同じように結果が出せない自分に自信がなくなり、自分の「主権」が奪われるようになる。

 「結果論」で相手の意思決定を批判する、というのは実はローカルルールだったのです。

 

 

 私たちにとって、目先の結果が悪くても、自分で決定することは必須です。人間にはそれしかありえない。

 もちろん、意思決定のプロセスや価値観の未熟-成熟ということはあります。より良い意思決定はあります。
 しかし、それも、「自分が意思決定をして」「成功と失敗も繰り返して」身につける以外に道はない。

 選手の代わりにコーチが打席に立つことはできないのですから。

 

 「結果だけを見て判断したり」「意思決定の基準を他者に求めること」では、人間は成熟にたどり着くことはできない。
 

  
 
 自分の判断基準を持って、自分で決定をする。

 その場合に、俯瞰の立場に立って見ている自分がいて、迷いがあったら要注意。

 それは、冷静な目で自分のことを見ることができているのではなく、「結果論を振りかざす他者に目線」を内面化している、ということ。別の表現で言えば、他人の価値観で判断している、ということです。

(参考)→「「過剰な客観性」」

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。」

 

 

 

 私たちは常に自分の主観で見て(主観的客観性)、その瞬間得られる不完全な情報でしか判断できません。

 自分の主観で物事を見るようになると、無意識(身体感覚)が協力してくれるようになります。  

 思考の力の上に、腑に落ちる-落ちないという基準が出てくる。

 だんだんと概ね間違いのない決定できるようになってくる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」  
 

 

 

 もちろん、「間違いのない」とは、結果から見て最善の手ということではありません。

 以前、TV番組で投資のプロの方がおっしゃっていた言葉で印象に残った中に、「一番安いときに買えると思うな。一番高いときに売れると思うな」というものがあります。

 人間は全知全能ではないのですから「一番安いとき」や「一番高いとき」を判断できません。
 だから、あとから見て、「あのときに売らなければ」「あのときに買っておけば」はまったく意味がない、ということです。

 

 

 人間は結果から見て最善の手を打つことは「絶対に」できないのです。
 投資の世界でも、できることは自分の判断基準を持ってブレなく実行する、ということだとされるそうです。

 そのように考えると、私たちも日常において、自分の価値基準を持つことが大事で、結果は、六勝四敗くらいか、場合によっては三勝七敗くらいで、勝ち方も最善ではなく、ほどほどくらいでよい(というかそれしかできない)。

 

 でも、トラウマを負っている人は、結果から見て最善手を打つことを強いられている。
 常に頭の中で焦って、最善手を打つことができないことを責める他人の評価を気にしている。

 

  
 結果から見て最善の手を打とうとすると、どうなるかといえば、他人の価値観(ローカルルール)に支配され、自分の主権が奪われてしまうのです。 

 

 頭の中で私たちを責める「あなたはだめだ」「あなたはいつも~だ」という言葉とは、あたかもインチキ評論家が結果で物事をあとから論じて自分は事前に見通せていました、というように、自分の親や身近な他人が結果論(後出しジャンケン)で全能の神を演じていただけだったのです。

 

 

 たまたまうまくいった人はどこにも必ずいますから、それと比べて「うまくいった人がいて、自分はできていいないのは事実だ」というのは、“作られた事実”でしかありません。※「他にうまく行っている人がいますよ」というのは詐欺の常套句です。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」

(参考)→「“作られた現実”を分解する。」

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 目の前に起きたことは、偶然なのか、なにか本質を指しているのか?

 もっというと人生で起きたことは偶然なのか、自分のせいなのか?

 通常、私たちは本質そのものを捉えることはできません。

 TVの視聴率でも、1億人に聞くことはできないため、300世帯で計測されている。

 これはサンプル調査であり、推測統計と呼ばれる技術で全体像を明らかにしています。
 

 

 目の前で起きたことは、あくまで事象(サンプル)で、それが背後にある母集団を表している場合もあれば、そうでない場合もあります。
 
 調査というのは偶然の可能性もあり、視聴率調査でもおそらく1%くらいの確率で「偶然でした(実態とは違いました)」ということがありえます。

 

 
 自分にとって良くないことが起きると、たちまち「自分はだめだ」と断罪したり、されがちですが、それは本当なのか。

 

 「事実」とはなにか?

 

 以前の記事でも、「事実」というのは環境や人によって作られるものだ、ということをお伝えしてきました。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。」

 

 
 作られた事実に縛られることがトラウマやローカルルールです。

 明らかにおかしなことであればはねのけられますが、
 ローカルルールは、「事実」を悪用します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 今回は、トラウマ、ローカルルールから自由になるためにも、事実とは何かを、更に詳しく見てみたいと思います。
 

 そのために、手続きが厳密だとされる学術的な調査を例に取り上げてみたいと思います。
 

 

 さて、
 学術調査などで、統計を用いる際、どのようにして得られた結果が「事実」と判断しているのでしょうか。

 例えば、質問紙を用いた調査の場合の手続きを簡単に説明しますと、

 1.調査の設計の段階で調査の対象や、実施の方法をかなり綿密に計画します。質問の配置や調査の際の教示の仕方も、正しく回答が得られるようにできるかぎり練ります。 

 

 2.調査の結果、回収された質問紙に対して、「検票」という作業を行います。明らかにいい加減な回答、おかしな回答がないかを、人間の目でチェックします。

 

 3.検票が終わったら入力作業を行います。その際も間違いがないかダブルチェックを行います。
    

 4.さらに、入力したデータについて「クリーニング」を実施。どの程度までの回答が有効とするかをデータ上でチェックします。例えば、普通であれば同時につくはずのない回答に○がある場合は「いい加減な回答」として除外します。虚偽尺度として最初からそうした設問が設定されている場合もあります。同じ回答が多いものも除外することがあります。

 ここまでで回答の1~2割くらいが除外されます。

 

 5.それからデータにラベルを付けて、分析するためのデータが整います。
   次に、「仮説検定」を行います。仮説検定とは、調査したいことが「偶然に起きたことではない」ことをチェックする作業です。

   調査とは、目の前に起きている現象をもとに母集団(調べたいこと)を推定していくものですが、目の前に起きた現象が偶然であることも実は珍しくありません。そのために、仮説検定(偶然ではないことを確認すること)でチェックを行います。偶然ではないらしい」と判断されると本格的な分析に入ることになります。

   ただし、仮説検定を通っても、1~5%は偶然である可能性は残ります。

 

 6.いよいよ分析に入ります。
   統計解析を用いると、結果がすぐに出ると思うかもしれませんが、100~200個分析して、ようやく1つ意味のある結果が出るか出ないか、ということも珍しくありません。思っている以上に、分析結果とは、平凡で、取り上げる必要もないような結果ばかりが出てきます。

 

 7.なんとかひねり出してひねり出して、ようやく意味がありそうな結果を見つけることができます。ただ、それでもあくまで「ある仮説」というレベルです。

 

 つまり、起きた事象は、ここまでしてようやく「とりあえず事実らしい」といっていいレベルになるのです。

 ある一定のサンプル数(最低100サンプルはほしい)を確保して、かつ、これだけの手続きが必要になる。
 
 根気よく好きでなければできない面倒な手続きです。
( 多くの人は、勉強や研究がここで嫌いになるところでしょう)

 

 

  
 ただ、そうやって手続きを踏んだ研究結果でさえ、追試をするとだいたい6割くらいは再現できないことがわかるようになり、最近問題になっています。
 (米科学誌「サイエンス」が主要な学術誌に掲載された心理学と社会科学の100本の論文が再現できるかどうかを検証したところ、結果は衝撃的で、同じ結果が得られたのはわずか4割弱にとどまったとしています。

 関連:クリス・チェインバーズ 「心理学の7つの大罪――真の科学であるために私たちがすべきこと」(みすず書房))

 

 

 STAP細胞など、捏造が問題になりましたが、科学的な手続きを経れば自動的に事実が明らかになるのではなく、かなり人間の営みや意思が介在しています。捏造をした研究者たちももともと悪者というよりも競争や研究費を獲得するための焦りなど、いろいろな都合がまぜこぜになって違反を犯してしまうようです。
 (福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、科学者たちの人間臭いやりとりが紹介されています。)

 

 

 さて、ここまでお話をしたように、「事実」というものが私たちが思っている以上に厳密な手続きを経てようやくできるものです。

 

 上のような科学的な手続きを踏んだとしても何割かの「事実」はかなり怪しいものであるということですから、私たちの身の回りで私たちを評価するようなこと、私たちが何者かを示す事柄のほとんどは再現のできない「偶然」でしかありません。
 人の発言なんていい加減の極み。手続きを踏まないものはそのはるか以前の戯言レベルでしか無い、ということです。

 

 

 私たちは、ミスや失敗など、自分にとってマイナスになるような出来事が起き、それを他者が取り上げて、私たちを裁いたり、レッテルをはったりするようなことで苦しんでいます。
 それを別名ローカルルールといいますが、結局は「偶然」をとりあげて相手を支配しようとしているだけ。

 

 「あなたって、だめな人ね」というような他人の言葉はすべて戯言で、おそらく、統計を取れば、検票や虚偽尺度の段階で落とされるレベルのことでしかなかった。

 

 
 単に、「偶然だし、戯言だから気にしなくていいよ」というのは、勇気づけレベルにしか聞こえませんが、実際、学術的な手続きを踏んでもなかなか事実はわからない。
   

 

 自分に都合が悪いことが、立て続けに起きたとしてもそれはほとんど偶然でしか無い。
 

 「いや、そんなことはない」「自分はだめな人間で、その証明として都合が悪いことが起きてきた」
 「現実から目をそらすのではなく、客観的な事実を見て、向き合わなければ、おかしな人間になってしまう」

 と思うかもしれませんが、上にも書きましたように、その出来事を仮説検定にでもかければ帰無仮説(偶然)とされてしまうレベルです。

 仮にそれが通ったとしても、今度は再現できないからやっぱり事実ではない、となってしまう程度でしかありません。

 

 

 筆者が最近たまたま、Youtubeで見たある経営者の講演の内容で印象に残ったことがあります。

 それは、麻雀にたとえての内容だったのですが、
 
 「麻雀では、4人で卓を囲むので、平均して2割5分、強い人でもだいたい3割程度前後の割合でしか勝てないようになっている」
 「ただ、なぜか4回連続で最下位になることもある。そのときに、皆、精神を崩す。(単なる偶然なのに)自分のやり方はなにか間違っているのではないか、自分のおかしいところは何が原因なのか、見直さなければならないのではないかと不安になってブレる。そこでブレてはいけない。反対に4回連続でトップになることもある。そのときに調子に乗ってもいけない」といった内容でした。

 

 

 私たちも、普段「自分のおかしいところは何が原因なのか」と考えさせられているが、それは本当に事実に基づいているのか?
  

 ローカルルールというのは、たった1回の失敗でも取り上げて、「ほら、だからあなたはだめな人間だ(だから私に従いなさい)」とやってくるわけですが、これがいかに嘘であるか。

 「いやいや、ローカルルール人格だったとしても、私はそれ以外にも失敗しています」と思うのも、ローカルルールの影響です。

 経営者の発言でもあるように、4回連続の最下位もザラにある。

 

 

 私たちは、原因帰属を間違える生き物。

 繰り返しになりますが、科学の世界でも、起きた現象から事実を確定することはかなり難しく、査読を通った論文でも、あとからチェックしたら、
 4割が再現できないくらいなのですから(つまり事実ではなかった)、
 
 果たして、私たちの身の回りにいる人達が、1,2の事象を取り上げて、私たちを評価して、断定していることがどれほど怪しいか言うまでもありません。

 「事実は作られる」「人間の言葉は全ては戯言である」というのは、こうした点からもわかります。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」「“作られた現実”を分解する。」

 

 

ローカルルールとは、まさにエセ科学。

 

 

 自尊心が機能している人は、「私は大丈夫」として否定的な事象を深刻に受け止めません。気の強い人なら失礼なことを人から言われたり、弱点を指摘されても「何よ!!ふん!」としてはねつける。

 一見、独りよがりだと見えるかもしれませんが、目の前の事象や“作られた事実”に惑わされずフィルタを掛けて偽りの事象から身を守っており、結果として“科学的な”態度と親和性がある。

 

 自尊心があることで、それがフィルタとなり、事実を検定(チェック)することになる。その結果、物理的な現実に根ざすことができたり、普遍的な何かを感じることができるようになるのです。

(参考)→「自尊心の機能不全」

 

 反対に、ローカルルールにとらわれて、自尊心が機能不全に陥っていると自分を否定する事象が続いただけで、「受け止めなければ」「自分はだめなのでは」と捉えて、過剰な客観性、偽の誠実さに陥り、ブレて、まどって、作られた事実に振り回されてさらにローカルルールにとらわれていてしまうのです。

(参考)→「過剰な客観性」

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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