「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 トラウマを負った人は、私的領域に上がり込むようなコミュニケーションが当たり前だと思い込まされています。

 これは、理不尽な環境で多くは親からの入れられたローカルルールでしかなかったりする。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 子どもに、自分の私的領域を覗き込ませて、巻き込んで、癒やしを得ていたわけです。

 そうした場合によくあるのが、「私の気持ちを察しろ」というメッセージです。
 
 
 不全感を抱えた親が、「自分の気持ちを察しろ(それがいい子である証だ)」言って、私的領域を覗き込むことが当たり前にさせられてしまう。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 

 大人になってからも、人の気持ちを察したり(私的領域を覗き込んだり)、あるいは自分の気持ちも言わなくても察してくれるはずだ、ということが当然だと思うようになる。

 すると、例えば、自分が何かを言わなくても、相手が察してくれるはずだ、とおもって、 そっけない周りの人たちにイライラするようになったりする。

 

 「なんでこの人たちは気がつかえないんだ」と本人はイライラしていますが、実は、周りの人は自他の区別をつけて健全に過ごしているだけだったりする。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎」

 

 

 例えば、お店で自分の好きな席に案内してもらえずにイライラする、とか、急いでいるのにノロノロしている人にイライラするとか、

 「も~、言わなくても、私のいらいらした気持ちを察してよ!!」と腹を立ててしまう。

 これはローカルルールに影響されたトラウマティックな症状です。

 

 あおり運転なども、この「察しろよ!」ということもベースにあります。数年前に流行った「KY(空気読め)」なども実はこれです。

 ローカルルールに見られる典型的な精神状態で、自他の区別がない、とても幼い状態です。 

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 

 

 物理的な現実から離されて、イメージの世界でやり取りさせられていることがわかります。

 この「私の気持ちを察しろ」の一番の悪影響はなにかといえば、最終的に自分の主体性や主権が奪われる、ということです。

 

 

 本来は、人間はテレパシーは使えないのですから、何をしてほしいかは自分で伝える必要があります。

 してほしいことがあれば、「あの席にしてください」「少し道を開けてください」と伝える。

 

 これは、自分に主体性、主権がある状態です。

 

 もちろん、叶えられない場合もあります。相手があってのことですから。

 

 どうしても叶えてほしければ、それなりのお店に行くか、お金を払ってタクシーでも乗ればいい。

 

 チェーン店は、多くの人と空間やサービスをシェアすることやバイトの人で運営することで、多くの人に安い価格でサービスを提供できるようになっている。

 だから、混雑して時には待つこともあるし、サービスのクオリティが落ちることもある。

 

 でも、それも仕方がない。
 
 嫌ならば、事前に予約でもするか、自分専用のサービスを契約するしかない。

 

 それもせずに、安いお店に“自分で”選んで入っているにも関わらず、バイトの店員さんに腹を立てたりする。

 ローカルルールによって、自他の区別を奪われて、自分の期待と、相手の行動との区分も曖昧にさせられている。

 

 自分の期待通りに相手が動くことが当然であるように錯覚させられている。

 さらに、「自分の期待」「相手の考え」といったような空想の世界が主な舞台となって、物理的な現実から離れてしまう。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 そして、いつのまにか、自分の主権、主体性は放棄させられ、主客が転倒して他者に主権を預けたようになりイライラにとらわれさせられていることがわかります。

 (実はイライラしている状態というのは、ローカルルール人格にスイッチしている状態です。)

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 相手は相手の都合で動いているだけなのに「世の中はひどいやつばかり」とローカルルールの証拠にさせられて、見捨てられ不安が沸き起こり、怒りにかわる。

 

 ローカルロールで自他の区別を曖昧になる → 物理的な現実から離される → 主体性が奪われる → ニセの感情にとらわれる → ローカルルールは維持される
 

 という構造になっている。
 

 

 「察してよ!」という気持ちが湧いてきたら、ローカルルールに影響されているサインです。

 意識して、物理的な現実に立ち戻ってみる。

 物理的な現実の私たちとは、自分と他人とは別の物体であって、完全に分かれています。

 自分も相手も、互いの期待通りに動くとは限らない。

 頭の中にあるものは空想であり現実ではありません。

 相手に何かをしてほしい場合は、物理的な音声や文字でその旨伝えて相手の都合を尋ねる。
   

 こうして自分で主体的に選んだものということには清々しさがあり、そこには自他の区別がちゃんと生まれます。

 

 

 反対に、おまかせで察しろ、はローカルルールの空想の世界(私的領域)であり、自他の区別もなく、ニセの感情にとらわれ、人間らしい主体(公的領域)もどこにもないのです。 

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 主体を奪われると私たちは退行し、成熟から離れて、トラウマティックな状態に留め置かれてしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 常に自分の寝室(私的領域)に他者を上げたり、他者の寝室(私的領域)に上がり込むようなコミュニケーションは、例えば、親が自分の不全感を慰めるために子どもに仕掛けていたローカルルールでした。

 「私の気持ちを察しなさい、そうしないあなたは悪い子だ」と

 子どもが距離をとって反応しなかったら

 「あなたは冷たい」
 「あなたは気が利かない」

 とフィッシングメールで巻きこんで、自分の心の中の寝室(私的領域)に連れ込んでいた。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 こうしたことをが繰り返されると、子どもはそうしたコミュニケーションが当たり前だと思うようになる。むしろ、そうしたコミュニケーションこそが親密であり、正しいのだと思い込まされてしまう。

 大人になっても、相手の私的領域に上がり込むようなスタイルが抜けなくなる。

 あるいは、相手が自分の私的領域に入ってくることを期待する。
 
 自他の区別が曖昧な状態が本来なのだと思わされてしまう。

 

 

 すると、自他の区別がちゃんとできている人の態度がそっけなく見えて、それが自分への見捨てられ不安のサインだと錯覚して、不安になったり、怒りを覚えるようになったりする。

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 これは歪められたコミュニケーションスタイルでしかない。

 

 

 愛着不安になると「見捨てられ不安」という状態になりますが、これは、実は上記のようなことも背景にあると考えられる。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

    →「境界性パーソナリティ障害を正しく理解する7つのポイント~原因と治療

 

 

 人間というのは健全に発達し、自他の区別がちゃんとついていれば、私的領域には立ち入らず、人との関わりはさっぱりしたものになり、いちいち、ウェットに他者のことを気にかけたりはしなくなる。ドライなスタイルになる。

 そして、人の言葉も戯言だとわかっていて、言葉に価値を置かずに気楽に使うことができる。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 ドライで、言葉を戯れに使うことができる結果、人との付き合いが軽くできるようになり、「あの人は気が利く」とか、「思いやりがあるわね」なんて言われるようになる。

 

 これが本来の状態なのですが、ローカルルールによるコミュニケーションスタイルの歪曲によって、他者の健全なコミュニケーションスタイルが見捨てられのサインだと思い込まされてしまう。

 

 

 素っ気く、自分に関心がないのは、相手が怒っているからだ、自分が無価値だとされているからだ、と感じさせられてしまっている。

 ドライなコミュニケーションスタイルは、自他の区別が着いている健全なことで、自他の区別をつけて接してくれるからこそ、私達も自他の区別をつけることができて良い関わりができる。

 

 

 そっけなく見えるコミュニケーションは大歓迎でなければいけない。

 反対に、ウェットなコミュニケーションは、実はそれはローカルルールの歪んだもので、本来のものではない。
 実は不全感を抱えた親のローカルルールの世界観でしかなかったりする。

 

 

 「世の中の人は価値のないあなたには興味がなく、誰も相手にしない。その証拠にそっけない態度をとってくるでしょう?それはあなたに価値がなく見捨てられている証拠」「私的な領域に立ち入ることが本来のコミュニケーションなの」と親のローカルルールは言っていて、それをトラウマを負った人は内面化しているだけなのです。

 

 その結果、普通の人の態度を見て、「やっぱり、私は価値がない」(見捨てられ不安)と思わされているのです。

 

 ウェットなコミュニケーションが当たり前だと思うので、いつまでたっても自他の区別がつかず、生きづらいままにさせられてしまっている。

 

 これらは、単なる親のローカルルールですから、放おっておいてよいのです。

 

 むしろ、自他の区別がついた素っ気ないコミュニケーションは大歓迎。

 

 もし、日常で、見捨てられ不安を感じたら、これはローカルルールの影響では?と立ち止まってみることがとても大切です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

“たまたま”を「因果、必然」と騙る~「自分だからハラスメントを受けた」はローカルルール

 

 ”作られた現実”の代表的な事象はハラスメントの被害にも見られるのではないかと思います。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 最近、ハラスメントの被害を受けた、と訴える有名人のニュースをよく目にします。

 あんなに快活なようにみえるスポーツ選手が、関係者からいじめにあっていたりしたんだ、と驚いてしまいます。

 

 乙武洋匡さんも、一時、教師をしていた際に赴任先で同僚の教師からいびられて、とても嫌な思いをした、ということをTV番組でおっしゃっていました。

 USJを再建して有名になった森岡毅さんも、P&Gで働いていた際に、米国本社で現地の社員にとても激しいいじめにあって苦しんだそうです。
 自分だけ会議の案内といった情報が来なかったり、面罵されたり、大変な思いをしたそうです。

 歌手の和田アキ子さんも、新人の頃、楽屋で先輩から辛いいじめにあったそうです。
 

 臨床のあるあるかもしれませんが、野球部など運動部に属していたという人に「いじめにあったか?」とたずねると、かなりの確率で「部でいじめられていた」と答える、と聞いたことがあります。
 
 

 

 こうして、いろいろな人のハラスメント経験を聞いて改めて思うことは、「ハラスメントはどこにでもある」そして、「ハラスメントの対象となるのは、やはり、たまたまだ」ということです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 わたしたちは、「自分だから、ハラスメントを受けた」「ハラスメント受けた理由の一端は、自分の言動や性格の不備にある」と思いがちです。

 

 しかし、それらは全くの間違い。それ自身が刷り込まれたローカルルールである、ということです。

 ローカルルールとは、常識を騙った私的情動です。
 私的情動であることがバレたら、成立しなくなります。
 最もな理屈をつけて正統性を偽装し、巻き込み、相手に真に受けさせることが不可欠なのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 物理的な現実は「たまたま」なのですが、「たまたま」では都合が悪い。

 そのために、「お前だからハラスメントを受けて当然だ」とか、「これは常識なのだ」という“現実(ローカルルール)”を作り上げをわたしたちに投げつけてきてきます。

 昔、学校などでいじめを受けた、という人にとって、何より影響を及ぼしているのは、当時のダメージよりもむしろ、「わたしだったから(因果、必然)」という感覚ではないかと思います。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」 

 

 わたしたちが、過去の嫌な記憶を思い出して、「自分だから、あんな目にあったんだ」「イケている他の人だったら、あんな目には合わなかったはずだ」
「他に人からは人気のあるあの人からハラスメントを受けた、ということは相手がどこか正しいに違いない」とか、そうした思いは単なるローカルルールによる“思い込まされ”なのです。

 

 いじめとか、嫌がらせというのは、その行為自体だけではなく、「あなたのせいだ」「あなただからこうした仕打ちを受けている」と”たまたま”を「因果、必然」と言い立てる理屈付けとセットでなりたっているものだからです。

 

 理屈づけは「おまけ」ではなく、それがなければハラスメントというローカルルールは成立しないからです。

 つまり、「因果、必然」と偽装するその理由付けは全くのデタラメだ、ということなのです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 わたしたちが生きていく中では、必ず、このようなローカルルールによるハラスメントには遭います。それらは”たまたま”でしかない。戯れ言としてスルーしていく必要があります。

 
 作られた現実は、一つの目立つ要因を取り上げて”「因果」を騙ります。

 一方、「物理的な現実」は多要因、多次元ですから、因縁でもつけなければ言語化できるレベルに明快な因果や必然などはないのです。

 

 私たちにとって安全基地となるいわゆる”愛着”というものは、私たちに「物理的な現実」を見せることをサポートするものです。

 たとえばハラスメントにあったとしても、それを「たまたま」「あなたは大丈夫」として、ローカルルール(作られた現実)をバラバラと解体する作用があることがわかります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 反対に、先日の記事でも書きました「ニセの感情」や「俗な知識」はニセの因果や必然を補強するものであることがわかります。

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~俗な知識

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~俗な知識

 

 

 ニセの感情とともに、ローカルルールを除き物理的な現実に根ざすことを阻むものとして「俗な知識」が邪魔をすることもあります。「俗な知識」とは、ポップ心理学(俗で間違った心理学)や、脳科学の知識とか。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 

 例えば、「私は発達障害なんです」とか、「私は脳の力が劣っているのです」といったことです。

 一見、本当っぽく見えて事実ではない。

 

 もちろん、検査したら実は発達障害でした、という可能性はありますけども、多くの場合、心気症にもにて、取り越し苦労(ローカルルール)であることばかりです。

 

 でもその取越苦労は、俗な知識によって補強されているためになかなかやっかいです。「そうはいっても、~~にちがいない」「そう思えるのです」と、物理的な現実に根ざすことを阻みます。

 

 「俗な知識」とは、ローカルルールそのものではありませんが、その維持を助けるのです。

 

 スピリチュアル、オカルト、宗教の知識といったものも俗な知識として影響したりします。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 「この不幸は自分が引き寄せたのかな?」といった考えなどはそうです。

 結論から言えば、その人のせいではないのですが俗な知識がローカルルールを補強した結果、ローカルルールは延命されてしまうのです。

 

 脳科学や、心理学には間違って広まった知識はたくさんあります。
例えば、「人間の脳は、その一部しか使われていない」といったようなこと。

 アメリカである作家が比喩として言ったことが端緒で、自己啓発で商売している人たちが援用してひろまった俗な知識といわれています。

 

 事実ではありません。

 

 本物の事実はローカルルールを壊す作用があります。
 真実の報道が不正や独裁を倒すように。

 しかし、反対に、俗な知識というのは、ローカルルールを助けてしまう作用があります。

 

 「俗な知識」とは、ローカルルールにも似てそれを広めた人たちの「見たいものを見たい」というプライベートな感情(思惑)が背後にあるのかもしれません。本当の知識は「現実をそのまま見る」というものと言えそうです。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 
 科学というのは仮説の集合体ですから、なにをもって本当として、なにをもってそうではないとするかは一見すると難しい。異端とされるものや突飛なアイデアが次の真実になることもあります。ただ、明らかに俗な知識は避けて、本物を得ていく必要があります。

 

 とくに、自分の中でローカルルールと関連づいた知識は怪しいと思わないといけません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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