昔読んだ本の中で、「プロは繰り返しの毎日」という言葉が出てきて印象に残っています。
繰り返し準備を続けて、パフォーマンスを維持したり、今までできないようなことができるようになったり、ということだったと思います。
ただ、トラウマを負った人にとっては、「繰り返し」には耐えれないだろうな、と思います。
それはふたつの意味で。
一つは、ガムシャラに努力をしてへとへとになってしまうということと、もう一つは積み上がる感覚がないために、そもそも繰り返しの先が描けないということ。
「これ以上どうやって努力しろっていうの?」という感覚。
(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?」
その背景には安心安全の欠如があります。
世の中が理屈でできていて、1+1=2 になる、2×2=4 になるという安心感が薄い。
(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。」
だから、ガムシャラに努力する、非常事態モードでつらい日常をこなして、誰かに評価されて、そして結果が得られるといった感じ。
本当は、物理的な結果にフォーカスしなければいけないのに、ついつい他者の目にフォーカスが向かってしまう。
結果も出しきれず、他人の評価に左右される。
結局、疲弊し「繰り返し」を続けることができなくなったり、積み上がらない、という感覚につながるのです。
あまりに結果が出なく辛いために、「言葉が現実になる」といったものに興味を持ち始めたりするのですが、それも、人の言葉やイメージに左右されてきた背景があるから。
(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」
人の言葉やイメージに振り回され、さらに積み上がらないという経験をしているために、「言葉」や「イメージ」を変えることばかりに目が行ってしまうのです。
言葉やイメージというのは、一瞬にしてひっくり返ってしまいます。
積み上がることはありません。
そうして、絶望していってしまうのです。
(参考)→「「言葉」偏重」
しかし、「物理的な現実」は違います。確実な積み上げがあります。
今私たちの生活が蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば電気が来る。
手元にはスマートホンがあって、すぐに何でも調べられたり、映画も見れる。他人とコミュニケーションが取れる。有名人にメッセージを送ることもできる。
かつてであれば信じられないような生活が誰でもできるのも、それは「物理的な現実」の積み上げがあるからです。
近代以前は、宗教などが力を持った時代ですが、こんな積み上げはありません。古代とそれほど変わらない時代が、何千年も続いていました。
筆者も街を歩いていたら、「あれ?ここ更地になっているな」「ああ、マンションでも建つんだな」と思っていて、しばらくして気づくと高層マンションができていたりします。
もちろん、現場の作業は、穴をほって、資材を運んで、という地道なものの繰り返しですが、人生が終わるまでできないか?といえばそんなことはありません。あっという間に完成してしまいます。
昔、仕事で大きなプロジェクトに関わっていましたが、日常では、何十人、何百人という人がそのプロジェクトに関わっていて、日々はミーティングとかの繰り返しです。途中トラブルもあったりして、常に順調ではありません。
「これは永遠に続くんじゃないか」とさえ思えるのですが、でも、気づいたらローンチ(サービス開始)になっている。
東京の渋谷でも再開発で工事をしていましたが、やっている最中は「いつまでやっているの?」「永遠に終わらないんじゃないの」なんて思うんですが、気づくと、でかいビルが立っていて、きれいになっている。
歴史をさかのぼって、種子島に鉄砲が伝わってきた当時、日本の職人は、ネジということがよくわからずにどうやって真似をしていいかがわからなかったそうです。そのネジの仕組を知るのために、1年後に南蛮人が来るまで待って、教えてもらったそうです。
「ネジの仕組みを知るのに1年?だったら、100年経っても真似は難しい」と思いたくもなりますが、わずか20,30年後には、合戦で最大8千艇の銃が用いられるようになります。
ライト兄弟が初飛行をしたのが1903年ですが、たとえば真珠湾攻撃は1941年で、わずか30年程度でパイロットを何百人、何千人も育成し、空母も作り、作戦を立て、大編隊で遠くハワイの軍艦を沈めるまでになります。
お隣の国中国も、昔、たくさんの自転車で通勤ラッシュというイメージでした。筆者が子どもの頃やっていた「ストリートファイター2」というTVゲームの中国社会の背景は、おじさんは人民服を来て、鶏が鳴いて、自転車が通り過ぎる、みたいなものだったように思います。
でも、今は、高層ビルがボンボンと建ち、日本企業も圧倒するようにもなり、米国に脅威を与えるまでになりました。
わずかな期間に、です。筆者の意識の上では、子供の頃というのはついこの間!のことです。
以前も記事で書きましたが、実は物理的な現実というのは、「質的転換(カットオフ)」というものがあるのです。
(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ」
物理的な現実は、一つ一つの積み重ねでできていくのですが、ある時点に来ると質が変わる。飛躍が起きる。
物理的な現実は1+1+1 積み上がっていくのと同時に、すでに積み上げたもの同士が掛け算のようにもなっている。
そのために、最初は「永遠に終わらないんじゃないの」というように感じるような繰り返しなのですが、あるとき気づいたら、質が変わっている。
そのプロセスは魔法でもなんでもなく一つ一つは物理的な現実の積み上げでしかないのですが、ある時点で飛躍する。
上記の真珠湾攻撃の20年後には宇宙に到達していますから。
これも、物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換」の力です。
「言葉」や「イメージ」では絶対に宇宙にはいけません。
人間の認知にはバイアスがかかっているために、目の前のものはずっと続くように錯覚する。「知覚の恒常性」と呼ばれるものです。
(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ」
だから、「質的転換」が起きつつあってもそれを捉えることができない。
さらに、人間の認識能力の容量の限界もあります。
人間の認知能力は、物理的な現実のおそらく数千分の一化、数万分の1くらいしか認知できていません。
あまりにも大量の情報は意識で捉えることができないので、脳がカットしているのです。
実は、「機会」や「サポート」というものも、私たちの周りにはたくさん転がっている。奇跡、運命とも思えるような出会いや偶然があるのもそのためです。
でも、通常の認知能力では、さらに悲観的になってフィルタが歪んでいるうちは、それを捉えることができない。
ただ、「質的転換」が起きること、「機会」がたくさん転がっているということを“経験的に”わかっている人たちもいて、その人達は、冒頭のように「プロは繰り返しの毎日」などとして、繰り返しの果ての「質的転換」をつかもうとする。
もちろん、努力だけではなく、ただ、のんびりと日常を過ごすことも「積み上げ」になります。
世の中に、紙に書いていたら偶然チャンスが巡ってきて、というような話も、
もしかしたら、物理的な現実を歪めるフィルタ、ローカルルールが是正されてそれまで認知できていない「機会」というものに気づいた、あるいは、上記のような積み上げてきた果の「質的転換」が起きた、ということかもしれません。
心理主義やポップ心理学、俗な自己啓発の影響なのか、こうしたことを「言葉」「イメージ」の成果だ、と捉えられてきましたが、どうやらそんな話ではない。
「言葉」「イメージ」の成果だと捉えて、願望を紙に書いていても「物理的な現実」の力に乗ることはできず、「言葉」「イメージ」の世界に閉じ込められてしまう。
そうした状態の人にとっての「現実」とは、実はローカルルールによって作られた現実なので、現実は敵対的で恐ろしいものに感じるのです。
でも、実は助けてくれるはずの「言葉」「イメージ」も別のローカルルール世界であることも多いものです。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」
「言葉」「イメージ」には積み上げもなければ質的転換もない、他人から容易に翻弄されてしまうものなのです。
本当は、「物理的な現実」こそが圧倒的に私たちを守ってくれているし、力を与えてくれるもの。
「わらしべ長者」という寓話でも、言葉やイメージではなく、「物理的なモノ」同士を交換していくわけですから。
技能や知識の習得も同様に「物理的な現実」の一つです。
トラウマを負っていると、積み上げている感覚は麻痺します。
ただ、それでも経験してきたものという「物理的な現実」は確実に存在します。
ECサイトに久しぶりに、ログインしてみたら「あれ?結構、ポイントが貯まっていた」ということがありますが、まさにあんな感じです。
「私にはなにもない」とおもっていても、生きてきたものは確実に残っています。
みにくいアヒルの子のように、本来の自分から大幅にディスカウントされているだけです。
それを信頼すること。そして、自分のIDでログインするように取り組んでいくことです。
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」
繰り返しに見える平凡な日常を通じて、「物理的な現実」の流れに乗ることができる。
私たち個人においても、5年、10年もすれば景色はガラッと変わっているものです。
(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」
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