もっとセルフィッシュ(我)であって良い

 

 少し前に本を読んでいると、昔、漫画家の水木しげるの事務所で働いていたことがある人が、水木しげるについてのエピソードを語っているのを目にしました。

 その方いわく、水木しげるは妖怪などは全く信じていなかったそうです。

 漫画家になってからも、散歩で墓地などにいくと、途中で墓石に立ち小便をして帰ってくるような感じだったそうです。

 バチが当たるとかそんな事は全く考えていなかったということですね。

 
 極端な例かもしれませんが、でも、俗の世界で生きる人間としては、そのくらいの感覚はまっとうではないかな、と思います。

 

 それに引き換え、神社に入るときは鳥居を迂回したり、参拝の仕方を妙に気にしたり、いつからこんな事を気にするようになったのだ、と筆者もふと自分を振り返ってみました。

 トラウマを負っていると、自分の努力が空回りした結果、スピリチュアルなルートで迂回しようとするようになる、ということはこれまでに触れたことがあります。

 あまりにもうまくいかなくなると、そんなものにも頼りたくなる、という感覚です。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 聖の領域というのは、本来は社会の周縁にあるものです。
 だから、日常では必要がない。

 そこに頼ってみても、うまく機能しない。
 頼ると裏切られたりする。

 聖の領域は、祭りのときだけか、命の危機とか、にっちもさっちもいかない、というときや最晩年に関わるようなもの。
 (水木しげるというと、太平洋戦争では南方に送られて、そこでマラリアに罹ってジャングルをさまよった挙げ句、ぬり壁みたいなものに出会ったエピソードを自伝で見たことがありますが、そんな経験をしても、スピリチュアルな方向には行かなかったということですね。)

 

 日常では、自分というものでログインして生きていくのですから、水木しげるほど極端ではないけども、妖怪や神様なんているものか、自分こそ主人公だ、というくらいのある意味どこか罰当たりなセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)な感覚でちょうどよくて、そのくらいでないと、うまく自分というものは立ち上がらない。

 もちろん、そのセルフィッシュさは、発達の過程で成熟していきます。
 特に、「しごと」をすることで、社会の中での「位置と役割」を得ることで、丸くなって、公的人格(にんげん)となっていきます。
(参考)本当の自分は、「公的人格」の中にある」 

 

 セルフィッシュな私的な人間(我)のままでは人としては完成していないのですが、素材としては必要ということです。

(参考)→「「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 トラウマを負っていると、良い人間という“側(がわ)”“殻”だけをもってきて生きていますが、その中を埋めるセルフィッシュな素材(我)がないために、うまくログインができないまま生きているのです。
 (それどころか、他人の我(ローカルルール)を自分に詰め込んで、膨張して生きていたりします。)

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 俗の世界で生きているのであれば、仮にスピリチュアルなものを利用する際も、戯れとしてかあるいは功利主義的に利用するものです。

 

 

 事実、日本史などを見てもそうで、邪馬台国からヤマト王権や律令国家、王朝国家、武家政権などなど、スピリチュアルなものは、功利主義的に選別されてきました。
  
 力のない呪術や宗教はどんどんと力を失って、捨てられていったのです。

 ある時期の(室町時代頃?)そうした転換点を描いた作品が宮崎駿の「もののけ姫」だと言われています。
 力のない古い神様は人間に殺されていったのです。

 

 

 実際の社会で役に立たなければ廃れていく。人間が主体でシビアに選別がなされてきていく。
 現代でも、それが進んでいて、傍からは盛んに見えるイスラム圏でさえ宗教の力はいまも低下していっているそうです。
 
 
 俗に生きる人間としてはそれで良くて、自分を主体にして、「役に立つの?どうなの?」という感覚が必要です。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 例えば、手首にパワーストーンをつけたりしてもよいですが、それに負けて、恐れを持ってつけているのではなく、役に立つと自分で選んだからつけているんだ、という主体的な感覚が大切。役に立たなければあっさり捨てる。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 水木しげるみたいに、墓に立ち小便すると聞くと、トラウマを負った人間からすると、「バチが当たるかも?」とか、「嫌なものを引き寄せたらどうしよう?」とか、「そんなところで立ち小便をする人間にだけはなりたくない」とか思ったりしてしまいます。

 

 しかし、私たちは、目に見えないものの力を恐れすぎています。
俗の中にもそこはかとなく聖を感じるといった健全なあり方ではなく、ただただそれに負けている。振り回されている。

 そのことが、まわりまわって、人の言葉に振り回されて、真に受けて、人にやられるということになるのです。
 以前の記事ではないですが、失礼なことをされたら「殴ろうか?」でよい。

 「殴ろうか?」というのと、立ち小便することには根底でどこか通じるものがあります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 目に見えないものを感じたり、キレイに生きようとしたりというのは、人生のずーっと先の話で、本来私たちは、もっともっとセルフィッシュ(自己中心的、わがまま)で良いのです。

 

 

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“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 以前にも書いたことがありますが、筆者も、両親が商売していた関係もあって夫婦喧嘩が多かったです。

 自営業だと職場と家庭との境界が曖昧ですから、職場の問題がそのまま持ち込まれて家庭内でも喧嘩になってしまいます。

 そうしたストレスを感じていたので、子どもの頃はよく怒った人の顔が出てくる悪夢を見ていました。

 当時のストレスはものすごかったんじゃないかな、とおもいます。

 

 

 さらに、社長である父と会長である祖父とが、税理士のおじさんを挟んで結論の出ない口論をしているのもよくありました。

 あと、親の兄弟が来ると、兄弟同士でごちゃごちゃとした話し合いになる。
  

 そういう事を見て「こういうふうにはなるまい」という“反面教師”にしたのだと思います。

 なので、本来おしゃべりで活発なはずが、成長するにつれて言葉が重くなっていきました。

 

 

 さらに、以前も書きましたように親戚のお兄さんから嫌われている、と伝えられたショックから、気楽にしゃべるということを封印してしまうようになりました。
 それは、子供の私がおしゃべりだから嫌われたのではないか?と父から聞かされたためです。

(参考)→「他者の視点は神の視点ではない。

 気楽にしゃべるということをしない、という意識的な“解決策”を持ってくることで、同じような目に合わないように、嫌われないようにしてきた。

 そうすると言葉がとても重くなる。
 
 相手の感情に感情で反論する、ということをしなくなる。

 本来だったら、サッと感情で対応して跳ね返すところを跳ね返せなくなる。
 
 運動神経で話すのではなく、頭で会話をするようになります。

 

 

 さらに、うまく人と付き合えなくなった自分を変えようとして、より良い自分を目指して、“理想”の人間像みたいなものを想定してそのように生きようとします。

 「寛容な人」
 「理性的な人」
 「物分りが良い人」「理解力がある人」
 「感情的にならない人」
 「優しい人」

 といったようなもの。

 

 

 すると、それらが連立方程式の一つの式となって重くのしかかるようになります。 
  
 シンプルに対応すればよい場面で、上に書いた式を考慮に入れることになります。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 すると、対応できなくなる。
 

 例えば、失礼な言葉をかけられたら、「失礼ですね!」とサッと言い返せえばいいのに、

 まず“理想”という基準を考慮に入れます(「ここで反応したら、“感情的な人”になってしまう」「“理性的な人”であるためには、クールに対応しないと」)。

 さらに、上に書いたような“反面教師”も頭をよぎります(「あんな、おかしな大人たちにはなりたくない」)。 

 さらにさらに、過去に負ったトラウマ体験から“解決策”がよぎります(「もう、直感的に発言するのはやめよう」)。
 
 
 これらすべてを整合する行動を取ろうとして、すまし顔で冷静を装うような反応になって、自然な人間の反応にはならず、結局、相手にやられっぱなしになるのです。

 さっと直感的に言い返してしまえば、状況は沈静化するのに、それができなくなるのです。 
 

 

 映画「シン・ゴジラ」で、国が滅ぶかもしれないような非常事態にも関わらず、総理や政治家たちが、憲法や法律との整合性などで判断が遅れたりするシーンがありましたが、どこか似ています。
 あれは政治の難しい意思決定ですが、トラウマを負った人は、そんな複雑な意思決定のプロセスを平和な日常でも行い続けています。

 

 こうした“反面教師”“解決策”“理想”といったことを上から定立させることの一番の問題は、主権がなくなってしまうということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 
 結果、自分というものがなくなってしまう。
 なくなってしまうどころか、他人のローカルルール上で生きるようになってしまう。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 たとえば、“反面教師”によって、自分がなりたくなりとおもっていた親とは真逆な人間になっているかと思ったらそうではなく、結局親にとらわれている。
 さらには、追い込まれると親と同じ行動や考えをしてしまっていることに気づいたりする。

 
 親が持つみたいなネガティブな感情は自分にはないと思っていたら、ベターッと拭えない感情の存在に気づいて愕然としたりする。

 つまり、他人のIDでログインさせられているだけだったりするのです。

 (参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 この“反面教師”“解決策”“理想”はなかなかやっかいで、それがコンクリートの壁のように主権を取り戻すことを阻んだりします。

 スポーツなどにおける癖、それまでのフォームみたいなもので、それが次に進むことを邪魔してしまう。

 自分のエゴ(私)から出発して、他者の価値観は一旦否定して、自分のものに翻訳し直して、さらに社会での位置と役割を得て、公的人格に昇華されて初めて自分らしく生きていくことができます。

 
 人工的に“反面教師”“解決策”“理想”を持ってきてもうまくいくことは絶対にありません。
   

 

 

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現実アレルギー

 

 環境や身近な人親からの入れられたローカルルールの暗示から抜け出したい。

 そのためには、「物理的な現実」の力を借りるというのが一番強力です。

 
 物理的な現実というのは、言葉やイメージをねじ伏せるように立ち現れますから。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 しかし、多くの場合、物理的な現実の力を借りるまでには時間がかかります。

なぜかというと「現実アレルギー」とでもいうべきものの存在によってです。

 

 「事実」とか、「現実」というと、嫌なもの、残酷なものと感じられます。

「自分が駄目な人間だということを突きつけてくるもの」という感覚がある。

 自分は、ダメな人間だという事実を必死に隠していて、人と関わるときもニコニコと人に合わせて、なんとかバレなようにしている。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 他人が怖いのは、なにかといえば、他人がその事実を突きつけてくる、という恐れがあるから。だから、気の強そうな人、はっきり物を言いそうな人は特に怖いと感じます。

 だから、「事実」とか「現実」というのは、イコール、「見たくないもの」、「目を覆いたくなるもの」となります。

 

 これは、ローカルルールがもたらす2重のトラップともいうべきものです。

 ローカルルールがただそれだけで存在していれば簡単です。物理的な現実を突きつければ「ああ、人間が作り出した劣情でした」で終わります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 しかし、ローカルルールは世界観全体で刷り込まれて、「あなたはおかしな人間」という前提を刷り込みます。「事実に対する主権」を奪って、都合の良いようにゴールポストを動かして事実をコントロールします。

 そのために、「現実=自分はおかしな人間」ということが刷り込まれ、結果として私たちの中に「現実を隠そう、回避しよう」という力が働くのです。

 

 

 さらに、トラウマ、ローカルルールの配下にあって、そこから抜け出そうともがいては失敗し、おかしな言動をとってきた、ということもありますから、「現実=なにをしても変わらない、苦しいもの。努力を強いるもの」という感覚もあります。

 「これ以上、努力したり、苦労したりするのはもうごめんだ」となるのです。
 

 それも、現実を回避したくなるもう一つの力となります。

 

 もっと具体的には、「対人恐怖」といったかたちでも現れます。人が怖いから、できる限り、相手の射程範囲外から、回避してログインしない状態から相手をやっつける方法を身に着けたい、という希望があります。
 

 

 よくよく見ると、ここでいう「現実」とは、「物理的な現実」そのものではなく、「ローカルルール」であることがわかります。ただ、当事者にとってはそうは思えないため、すぐそばにある真に解決ルートである「物理的な現実」は遠ざけ、イメージや言葉を用いるような迂回ルートを探そうとしてしまいます。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 

 イメージや言葉、あるいはスピリチュアルな迂回ルートは脆弱ですし、その世界にも別のローカルルールがはびこっていますから、仮りそめの癒やしにはなっても、真に解決策とはならず、時間ばかりが余計にかかることになります。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 
 そうした2重のトラップから抜けるためには、現実アレルギーの存在に気がつくことが一つです。現実アレルギーということが自分の妨げとなっていて、「現実」と捉えているものも、本来の現実とは別なのだということがわかります。

 さらに、「主権」を意識することです。
 以前も見ましたが、「事実に対する主権」が奪われていることが、物理的な現実の力を借りることができない原因となっていますから。

(参考)→「「事実」に対する主権

 

 特に自分にまつわる「物理的な現実」をはっきり感じるまでの間には時間がかかり、ローカルルールはその時間差を悪用してニセの現実らしきものを作り出してなんとか生き延びています。

 

 しかし、「主権」という意識は、「自分が主体となって現実を明確にする」という力を与えてくれます。

 途中にはさまざまな負の感覚が湧いてきますが、その隙間に、「でも、本来の自分は大丈夫なんじゃないか。おかしいなんて嘘じゃないか」という疑問が差し込んできます。

 

 差し込んできた感覚こそが自尊心の土台となっていくのです。

(参考)→「自尊心の機能不全

 

 

 

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他者の視点は神の視点ではない。

 前回の記事と関連しますが、

 トラウマを負っている人の特徴として、他人に指摘されると、頭が真っ白になってしまう、ということがあります。

 自分が気がついていない事柄を、欠点を他人が指摘してきた、として、顔面蒼白、足元がひんやりするのです。

 他人の指摘をあたかも「客観的な事実」であるかのように、そのまま受け取ってしまいます。

 その背景には、前回の記事でも見ましたように「自分は不注意で、おかしな考えや行動を取る変な人間」といった自己イメージがあり、一方、「他人はもっと立派な真実を知っている」といった他者イメージがあります。

(参考)→「不意打ちの恐怖」 

 

 

 他者を「神化」している。
 

 本来は、世の中は「主観」と「主観」のぶつかり合いです。
 「客観」なんてものはどこにもありません。

 私たちが普段「客観」といっているものは、あくまで「視点B」「視点C」ということでしかありません。

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 例えば今は新型コロナの問題で、いろいろな専門家が発言、提言をしますが、誰が正しいか?ということを誰も判定してくれることはありません。

 すべて、「専門家Aの視点」「専門家Bの視点」といったことでしかない。

 

 であれば、どこにも真実はないか?といえばそうではなく、物理的な現実を見て妥当性を検証していきます。 科学とはそういうものです。

 人間関係の現場では物理的な現実がわかるまでにタイムラグがあり、そこにローカルルールが紛れ込んできます。
 そのために、「事実に対する主権」を持つことはとても重要になります。

(参考)→「「事実」に対する主権

 

 

 私たち人間は、自分では自分のことがわからないこともたくさんあります。

 「岡目八目」といって、他者のほうが問題の所在や背景がよく分かるということもよくある。

 指揮官に参謀がいたり、プロの選手がコーチを雇っていたり、というのもそうです。

 一方で、当事者でないとわからないこともあります。
 スポーツで観戦者としてみていて「もっとこうすれば」というふうに思うことはありますけど、当事者の方が深い考えで取り組んでいることもあります。

 昔、高校野球でPL学園と横浜高校との対戦を当事者の証言などで検証したNHKの特集がありましたが、一球一球にすごく深い読みと考えがあったことを知り、驚いたことがあります。

 解説者でもそこまではわからないことです。  

 

 

 歴史学が、過去の歴史事件の背景を研究したりしていますが、どこまでいっても確定した答えというのはありません。
 
 当事者は、当事者の視点で見て限界がありますが、歴史家の方も視点には限界があります。歴史家は「当事者がどう思っているのかもっと知りたい」と思っていたりします。

 つまりは、それぞれに視点がある、ということでしかありません。
 神の視点(絶対客観)はないということです。 

 

 

 私たちの話に戻してみると、私たちも、自分のことで見落とすことは必ず生じます。
(男性だったらズボンのチャックが知らず識らずに開いていることもあるし、寝癖がついていることもある。)

 しかし、それは、簡単に言えばDoingの問題であって、Beingの欠陥を証明するものではありません。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 Doingが見落としたことを指摘する他人の視点にも限界があって、ある部分を指摘できるに過ぎません。
 私たちの状態を完全にわかるわけもないことは言うまでもありません。

 
 他人を「神」としてしまうのは、多くは幼少期に受けたローカルルールのためでもあります。幼少期はただえさえ、周囲の大人は完全な存在であるかのように見えます。

 その上に支配的な親である場合は、「ほらあなたはなにもわかっていない」「親である私は何でもお見通し」といったような関わりをする場合があり、そこで受けたローカルルールを真に受けたまま成長したということもよくあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもに対して自分は完璧であることを示して、「I’m OK」を得るということをしているわけです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 人間は自分の存在(Being)の不全を埋めるためには、子どもでも(だからこそ)容易に犠牲にするということですね。

 

 さらに、生育の過程で自分がわかっていなかったことを知らされるような体験を通して、「自分はわかっていない」「不意打ちされる恐怖」が強化されてしまう。

 

 

 例えば、仲の良いと思っていた友達が陰で自分の悪口を言っていた、みたいなこともそうしたケースに当たります。 

 筆者も中学の頃に、親戚のお兄さんが実は筆者を嫌っているというようなことを親から聞かされて人間不信に陥ったことがあります。
 今から思えば親もそんなこと知らせてくるなよ、とおもいますが、とても大きなショックでした。「ああ、自分はわかっていなかった」という衝撃です。

 

 芸人の千原ジュニアが子どもの頃に、友達の親が「あの子(ジュニア)はおかしいから、遊んでいはいけません」というのを耳にして、ひきこもりになった、みたいなことを書いていましたが、その気持は良くわかります。  

 スティグマ感というか、自分が見えない背中に自分がおかしい証拠が貼り付けられているような感じがして、それを他人に見透かされるというような感覚に苛まれてしまう。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 会社とかでも、なにか物事を見透かしそうな偉い人に接すると過度に恐縮してしまう。
 本やテレビでは、その道のすごい人はちょっとしたことで全てを見抜いてしまう、みたいなことも頭にあって、自分も見透かされるかも、と思ってしまう。

 これらはローカルルールの世界観に過ぎません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 確かに、他者は私たちの背中を見ることはできますが、ただそれだけです。
 足の裏は見ることができない、私たちの内面を捉えることはできない。
 背中を見ている瞬間には前面を見ることはできない。
 

 私たちの身体感覚を感じることができるのは私たちだけです。
 私たちの人生の時間をすべて経験できているのも私たちだけです。
  
 私という人生にログインできるのも私だけです。
  
 
 トータルで見れば、私のことは私が一番捉えることができるし、その権利(筋合い)、その動機は私にしかありません。

 だから、主権というものをしっかり持てていれば、他者も同じ程度に限界のある「主観B」でしかないと捉え、他人から指摘されても、「ああ、ありがとう」「あなたからはそういうふうに見えるのね」でスルーすることができます。
 

 新型コロナのワクチンの治験でも何百万人の反応(意見)を集めても、安全かどうかの「客観」は確定しないのですから。1,2人の指摘なんて何の意味もありません。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 

 

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