私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 

 今年、新しい『エヴァンゲリオン』の映画が公開されるそうです。
筆者が学生のときにテレビで放映されていたものですが、だいぶ息が長い作品ですね。
 (そのため、主人公はいまでもカセットテープのウォークマンをしています。)

 

 『エヴァンゲリオン』は、評論家などからは「セカイ系」と分類されるような作品です。セカイ系とは、複雑な社会は抜きにして主人公の内面と世界の危機が連動している、といった内容のものを指すそうです。

 実際に、主人公の行動と連動して大変動が起きたりします。

 

 自分にとって思うようにならない社会というものを中抜して、自分の心と世界が連動する(ことを望む)というのは、トラウマチックな心性と近しいものです。
 (『エヴァンゲリオン』の主人公も明らかに愛着不安というか、トラウマ的なキャラクター設定ですね)

 

 

 人間は、幼少期に自分の意志に共感するように養育者が反応してくれる経験を通じて「愛着」が形成されます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 もちろんズレもありますが、概ね自分の意志に対応するように「おっぱい」であったり、「おむつ」であったり、「だっこ」であったり、が提供されることで世界が自分に応えくれる、理屈の通った、という経験をするわけです。

 成長するにつれて、なんでも自分の思い通りには行かないことも知るようになります。

 しかし、自分が現実的に働きかけることで現実は確実に変わっていく、ということも学んでいきます。

 世の中が理屈にあったもので成り立っていることを基本として、理不尽な例外もある、というかたちでとらえていきます。

 自分も学業や仕事でコツコツと積み上げていくことで、高いところにも手が届く、ということを体感していくようになります。

 

 こうしたプロセスが不安定だったり、理不尽なことが多いストレスが高い環境だと愛着が安定せずに「複雑性トラウマ(慢性的なストレスによる障害)」と呼ばれるような状態になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分にとって周囲の環境は、思うにまかせないもの、というふうにしか感じられず、積み上がる感覚がありません。
 だから、努力が空回りしてヘトヘトになるか、ショートカットして自分の願望と結果を結びつけるしか手段がなくなってしまうわけです。

 その結果、「セカイ系」のように、自分の意志が世界とつながるようなことを願うようになるわけです。

 
 もちろん、現実には、連動することはありえない。そんな事になったら大変なことになります。

 結局、思うようには動かない世界があって、積み上がらない自分の経験だけが残る、という結果になります。
 

 

  
 1945年8月に敗戦を聞いた(いわゆる玉音放送を聞いて)日本の人々がどう感じたか?という体験談の中に下記のようなものがあります。

 

「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」(伊東静雄という詩人の日記)

 

 国を総動員した戦争に、国民は勝つと考えて臨み、負けました。
 負けるとは考えていなかったし、考えたくなかったわけです。
 
 悲しい事実の前に、自分を取り巻く物理的な自然も合わせて崩壊でもするのかと思っていました。

 しかし、自然は、全く変わることがない。

 ただ、「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」というだけ。

 

 当時の人々も、それだけのショックな出来事が起きれば、それに対応して、物理的な自然も変化すると思ったわけです。
 でも何も変わらない、動かない。 それどころか、穏やかな風景がつづいているだけ。

 

 「物理的な現実」は、歯がゆいくらいに、私たちの意思とは関係なく、そこに存在する。

 

 私たちも同様の体験をします。

 生きづらく、自分が思うようには人生は進まない、やりたいことも明確にならない。

 でも、外に出たら、何の変わらない日常が広がっていて、太陽は照っている。
 ゴミ収集車がメロディーをのんきに流しながら走っている。公園では保育園の子供が走り回っていたりする。
 
 野良猫が車の上であくびをしている。

 
 それを聞きながら、いいな~とも思わず、ただお腹の中のジワジワする焦燥感と胸の不安のやり場もなく歩いている自分がいる。

 自分の気持ちに合わせて嵐でも吹いてくれればまだ落ち着くのですが、そうではない。

 「物理的な現実」は、私たちの精神とは関係なく、何も動かない。ただ変わらずそこにある。

 そして、冒頭のセカイ系のように、自分の願望が現実に反映されることを願う。しかし、反映されることはなく、「やっぱり叶わなかったか」と失望することを繰り返します。

 

 では、「物理的な現実」というのは残酷な存在なのか? といえば、実はそうではありません。

全く反対なのです。

 精神とか、言葉とかイメージには関係なく自然、「物理的な現実」が存在することは、実は私たちにとっては大いに救い、希望になることです。

 なぜなら、「物理的な現実」には、言葉とか心とかイメージにはない、大きな機能、特徴があるからです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

あなたは素直じゃない 怒りっぽい、という言葉でやられてしまう~本来私たちはもっと閉じなければいけない

 

 人間の「人格」とは、家に例えたら、塀であったり、壁であったり、ドアであったり、窓であったりします。
 自分を守ってくれるために存在する。 その上で他社と交流する場(応接室であったり、玄関先であったり)を提供するものです。

 私たちは、成長する中で、その「家」を作り上げていく。

 しかもその家は、社会的な役割をまとって、「公的な建築物」としても機能するようにしていくことで、最後は完成します。

 
 荷物も収納があるから収まるべきところに収まるように、家が完成することで私たちの精神も収まっていきます。

 私たちは、本来、社会の中で他者と関わりながら、自分を開くのではなくて、まずしっかりと閉じる。
 塀を作る。壁を作り、ドアには鍵がかけられるようにする。

 それがなければ、生きていくことはできません。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 

 しかし、トラウマを負っていると、その反対のことをしてしまっている。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分の家の塀をなくそうとする。壁をなくそうとする、ドアには鍵をかけないでおこうとする。

 そのために、他者の影響を受けても跳ね返すことができない。言葉をそのまま鵜呑みにして、傷つくようになってしまう。

 それどころか、自分の家の敷地と他人の家の境界線すら曖昧になってしまいます。

 こうしたことの背景には、親などからのローカルルールの暗示があります。

 よくあるのが
 「あなたは素直じゃない」といったような言葉。

 人間というのは上記で見たように、「外に向かって閉じている」ことが普通です。 ドアには鍵がかかっているものです。

 明るい外交的な人ほど、意外にこだわりが強く頑固だったりします。

 それはそういうものです。
 

 しかし、「素直じゃない」という言葉を真に受けて、もともと曖昧だった自分の人格の輪郭をさらに弱めてしまう。
 閉じなければいけないのに、反対に開いてしまう方向へと舵を切ってしまう。

 「もっと素直に、もっと素直に」というふうに。

 そうするとどうなるかといえば、他人に容易に支配されてしまう。
 言葉への免疫がなくなってしまうのです。

 「あなたは素直じゃない」というのは、「私の言うことを聞け!」という、相手の支配欲求から来る言葉なのです。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 

 

 
 「あなたは怒りっぽい」という言葉も同様です。

 怒り、というのは私たちを守るためには必須の感情です。
 

 怒りがあることで、ローカルルール人格へと解離している相手の目を醒まさせたり、自分の自尊心を明確に示すことができます。

 健全な怒りというのは、私たちにはなくてはならないものです。

 しかし、そのなくてはならないものが「あなたは怒りっぽい(怒ってはならない)」という言葉を真に受けると、機能しなくなる。

 

 そうすると、ニセ成熟のような状態のまま、いい人なんだけど、なんか割と食ったようなイライラを抱えたまま、でも、自信がなく、罪悪感をもちながら生きていくようになります。

(参考)→「親からの暗示で、感情、怒りを封じられる。

 

 さらにややこしいことが、自分の生きづらさを解決しようとして、悩み解決の本、自己啓発の本とか、セミナーを受けると、「ワンネス」だとか、「心を開く」「怒らない訓練」といったように、「もっと開け」あるいは「反応するな」といったようなことが書かれてあったりします。

 

 これも中には役立つものもありますが、実はそうしたことを主唱する人自身の不全感であったり、支配欲からくる発言であることも多いものです。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 人格を完成するためには、「外に対してしっかりと閉じる」あるいは「怒りなどの感情を表現していくこと」が必要なのに、反対に「どんどん開く」あるいは「感情を抑制する」ようにさせられて、自分の家(人格)が完成せず、それによって他者が怖くなってしまうのです。

 

 ニセ成熟のような状態で、反対の方に反対の方に日々努力して苦しんでいる方はとてもたくさんいらっしゃいます。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 反対のことを実行していると、一瞬は心地よくなっても、結局は生きづらさが増してしまうのです。

 

 

 

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「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 筆者は、趣味でテニスをしているのですが、先日、同じスクールの人に「(新型コロナの)ワクチンって打ちますか?」って尋ねられました。

 世間話ですから、真剣に答えるものでもないので「いや~どうですかね~。すぐには打たないんじゃないですか。」「自分が打たなくても、たくさん打つようになったら集団免疫ができますし・・・」
なんて、他愛もなく、適当に話をしたりしていました。

 

 ワクチンを打つ、打たないというのは、ニュースでも話題になっています。
もしかしたら、副反応が出たらどうしよう?といったことを考えるわけです。

 もちろん、何千、何万人もの人に治験して安全性をチェックしているわけですが、それでも、「大丈夫か?」となったり、「それだけの効果はあるのか?」とさまざまに検討がなされています。

みなさんも「新型コロナのワクチンができたら、自分なら打つかな?」なんて考えたことはあるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとかんたんな思考実験ですが、

 

 例えば、「新しいワクチンがあります。10人の人が効いたという“意見”を持っています。あなたは打ちますか?」と言ったらどうでしょうか。

 

 ほぼ100%の人が「絶対に打たないよ」というと思います。

「だってあまりにも人数が少ないし、しかも、人の“意見”でしょう?それだけでは信用できないよ」と。

 意見ではなく、なにか疫学的チェックが入っても、治験のサンプル数が10人ではほぼ打たないでしょう。

 100人ならどうか? 「打ってもいい」という勇気のある人が一人二人は出るかもしれませんが、多くの人は打たないでしょう。筆者も打ちません。

 

なぜでしょうか?

 当たり前のことですが、信頼性がないから。安全性が確保されていないから。
その人数では、効く、安全ということが事実であるとは到底いえないと考えるからです。

 

 効果がある、という事実もしくは信頼性がある程度確定するまでには、相当なチェックが必要とされることは言うまでもありません。

 

 人文科学、社会科学でも同様です。
 本当に事実とされるには、査読とか、様々にチェックされてはじめて「妥当」「確からしい」とされます。
 「私、見たんです」「そう思うんです」「10人の人がそう言っています」というだけでは、認められることはありません。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」 

 

 

 

では、話題を変えまして、

 3人の人が
 「あなたが変だ。あなたは間違っている。あなたは嫌いだ」と言っていました。信用しますか? と尋ねられたらどうでしょうか?

 

おそらく、ガ~ンと頭を殴られてような感じがして、
「3人もの人が言っているんだったら、本当に違いない・・・」と思ったりしませんか。

 これが10人だったらほぼ確定。もう死刑宣告のような気がしてしまいます。

 

たとえ1人でも、

「他人が言っているんだったら、そうかも?」と思ったりしてしまいます。

 

 

 ワクチンだと、10人でも、100人でも「人の意見なんて信用できない」となりますが、自分に関する否定的な事柄になると、サンプル数が1であっても、信用してしまいます。

 

なぜなのでしょうか?

 

 これが、負の暗示の力、ローカルルールのもつ力によるものです。
ワクチンとか、他のことに置き換えたらもっともだ、ということでも、自分に関する事柄になると、重力が歪むがごとく、ぐにゃ~っと事実の基準も歪んでしまうのです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源

 

 自尊心が高い人だと、ここで、ショックを受けながらも、「いいかげんにしろ!」と怒ったり、振り返ってみて「う~ん、なんか肚落ちしない。なんかおかしい」となって、スルーすることができます。 自らの力で“治験”することができます。

 

 その際には、内面化した自分の仲間などを思い浮かべてその人達に頭の中でチェックを通してみるわけです。
 こうした治験、解毒のプロセスが「愛着」と呼ばれるものです。まさに心の中の免疫メカニズムです(アイヒマン実験で同様のことが指摘されています)。

 

 でも、愛着が不安定だと、あるいはトラウマを負っていると、このプロセスが機能しません。そのために、そのままその毒にやられてしまって自分を疑い、否定し、自尊心が低下していってしまうのです。 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 他人の言葉をチェックなしに受け入れるなんてありえません。それは「素直」ではまったくない。「無防備(免疫不全)」といいます。「素直さ」とは、免疫システムをくぐり抜けて解毒された“後の”ものを消化吸収する機構のスムーズさのことです。ノーチェックで外から入ってきたものを受け入れることではない。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 世の中で、素直と言われたり、物分りが良い、と言われる人というのは、しっかりと免疫メカニズムが備わっている。ガードがしっかりある、ということです。だから、解毒して、必要なものは受け止めることができているだけです。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

 「頑固な人」というのがいます。少々乱暴ではありますが、あれはあれで実は健全です。国境に未確認な飛行機が近づいたら発砲する、みたいなもので、それが普通。他人の話をチェックなしに受け入れるほうが、実ははるかに病的なのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 でも、トラウマを負っている人は、ノーチェックで人の話を飲み込んでしまう。 

 何万人の治験をくぐり抜けたワクチンでも警戒するのに、人の話はそのまま信用して飲み込んでしまうことの異常さは繰り返すまでもありません。

 

 

 昔の王様などは、不老長寿のために水銀を飲んだり、今の時代から見たら毒でしかないものを服用していたなんてエピソードがあります。それと似たようなことがトラウマ。

 

 自分に自信がない、自分はだめだ、自分はおかしいという場合は、これまで生きてきた中で「他人の言葉」という、治験もされていないニセの薬を信じて飲まされてきた毒素にやられていると言っても良いかもしれません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 

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哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 今まで、Doing とBeingを分けること、Doing は不完全でみんなおかしいけど、Being は完全で大丈夫なんだよ、ということをお伝えさせていただいてきました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 実は、そのことを論理的に証明した哲学者がいました。それが、イマニュエル・カントです。

 カントは「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」などを記した哲学者です。

誰でも、名前は聞いたことがあるかと思います。

 

 

 哲学って何か?といえば、宗教に代わって神の存在証明を試みたり、人間は真理を知ることができるか(人間の認知の仕組みとは)? といったことを考える学問のことです。

 その中でもカントは、人間のDoingって完全なのか?ということを検討した人です。

 理性批判とはそいう意味です(理性≒Doing、批判≒吟味、検討する)。

 

 

 結論から言えば、「Doingは不完全でした」ということがわかりました。
 私たちの実感からすれば当たり前ですが、そこを論理的に証明してみせたわけです。 

 

 

 ただ、Doing がダメなら、人間は真理も何もわからず、グダグダなのか?となってしまいます。

 しかし、カントはDoing とBeing を分けて、Doingには限界があるけど、Being には限界はないよ、といったのです。

 

 

 近代に向かっていく上で、この証明はとても重要でした。
この裏付けがあることが、近代の社会を作る上での土台となったのです。

 Doingの不完全さと、Beingの限界のなさがあることで、Doingに集中できて、どんどんトライアンドエラーができる。
 
 失敗しても、それはBeingには影響しない。Doing と Being とが切り離された。まさに近代的なアグレッシブさを支えています。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 トラウマを負っていると、カントの言っていることの全く逆になります。

 自分のBeing は限界があるように感じて、一方で、Doingの完璧を求めてファインプレーを目指してガムシャラになって、自分を責めたり、他人にも憤る。
  
 そして、Doing とBeing は癒着して、不完全なDoingをみて、「ああ、自分はなんておかしな存在なんだ」と絶望してしまう。他者の中に幻想を見て支配されてしまいます。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 

 カントは、さらに、限界のないBeingがDoingへと反映するためにどうすればいいか?ということも考えてくれています。

 それが、カントの有名な言葉で「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」というものです。

 定言命法と呼ばれるものです。

 簡単に言えば、「ローカルルールではなく、普遍的でパブリックなルールに沿って行動しろ」ということです。※

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 もっと意訳すると、パブリックなルールに沿うと人間は機能する。限界のないBeing が Doing にも現れるようになる(代表される)、というわけです。

 

 以前も書かせていただきましたが、人間はプライベートな空間では容易におかしくなります。反対にパブリックな空間では機能する存在です。
 人間とは社会的な動物で、社会を何かをそれぞれに代表する時、はじめて人として十全に生きていることを実感できるのです。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

※注:「ローカルルール」がなぜ「“ローカル”ルール」というのか? 

 「ブラックルール」でも、「ハラスメントルール」でもよさそうですが、特に「ローカル」とついているのは、「普遍的なルール」の反対ということです。ブラックルールとしていると、ローカルルールであっても一見まともなもの、良さそうなものは「良いルール」とされてしまいます。その場面で、ある人の都合ででっち上げたローカルなルールらしきものは、普遍的なもの(普遍的立法の原理)を代表しておらず、それ自体が他者に悪い影響がある、ということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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