「代表」が機能するために必要なこと

 

 私たちは、普通に生きているだけでも、実は何かを代表しています。

 
例えば、

 TVの視聴率は、1億強の人口に対して、わずか300サンプルで計測していると言われています。

 1サンプルに、約33300人の意見が「代表」されていることになります。

 

 なにげなくTVを見たり行動したりしているわけですが、実は、自分の考えではなく、その背後には、大きな母集団が存在している、と考えられるわけです。

 

 決して不思議なことではなく、生きていく中で日本語を話し、TVやネット、書籍からさまざまな情報、規範を内面化して生きています。

 

 食べ物の嗜好でさえ、社会的に形成されたもの。

 遠く海外ではタコは気持ちが悪く、食べない国が多いようですが、日本では普通に食べます。

 大阪では納豆は好まれませんが、関東や東北ではたくさん食べられます。

 「俺は納豆食べへんのや」と自分の好み、考えのように言っていても、実はそれは「文化の影響」だったりする。

 

 パリ大学の小坂井教授は、「人間は、外来要素の沈殿物」と言っていますが、まさにそうです。

 「クラウド的な存在(社会的動物)」として、外からの影響というのはじんわりと常に受けている。

 

 私たちが日常で頭に浮かんだ考え、ちょっとした行動も、自分オリジナルではなく、実は、”普遍的な何か”を「代表」している。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 だから、研究やマーケティング調査では、全数を調べなくても100~300サンプル程度で、実質的に全体を知ることができたりする。
 質的研究などは、極端に言えば1サンプルでも成立するとされるのです。

 

 「よろしければ、アンケートにご協力いただけますか?」と街頭やインターネットで依頼をされるのは、私たちが、何かを「代表」しているから。

 この様に「代表」というのは、決して特別なことではなく、普通に生きているだけでも働いているものです。

 

 そして、「代表」は”普遍的な何か”をインプットするだけではなく、アウトプットすることが必要。アウトプットされることで、つながりや生きやすさを感じることができるようになります。

 

 

 ”普遍的な何か”というものをちゃんと体感し、アウトプットしていくためには、いくつかの要件があるようです。

 要件が満たされた状態で機能するのが、「社会的な位置と役割(≒仕事)」というものです。

 私たちは、「社会的な位置と役割(≒仕事)」があることで、”普遍的な何か”をアウトプットすることができる。それがないと、機能不全に陥ってしまう。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」

 

 経営学者のドラッカーが言っていることですが、 

 「位置と役割と持たない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、かつとらえどころのない存在である。位置と役割を持たなければ社会からつまはじきにされる。根無し草の目に社会は見えない。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界に過ぎない。」

 

 「半分は暗闇という予測不能な魔物の世界」という表現は、まさにトラウマを負った人、あるいは発達障害などによって生きづらさに苦しんでいる人が感じている社会の姿です。

 

 さらに、その位置と役割が機能するためには、大きく言うと2つが必要です。

 それは、「身体の安定」と「自他の区別」です。

 身体の安定とは、特にストレスに対処する機能の安定を指しますが、自律神経系、免疫系、内分泌系の3系が働いていることが必要です。

 そのためには、睡眠、食事、運動が大切です。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 発達障害の方などが生きづらいのはなぜか?といえば、決してパーソナリティに問題のあるのでも、社会性に問題があるのでもなく、感覚過敏やストレス応答系の不安定さもあり、「身体の安定」がうまく取れていない、ということにあります。

 
 
 次に、「自他の区別」です。

 「代表」が機能するためには、自我が成熟していることが必要ですが、特に「自他の区別」がちゃんとついていることがとりわけ大切。

 

 子どもの頃に自分の嘘や秘密を持ったり、反抗期になって親の価値観を否定したりして自他の区別がついてくる。
 反対に、理不尽な環境だと、家族の秘密を持たされたり、反抗期が適切に通過できなかったりして、「自他の区別」がつかなくなってしまう。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 自他の区別がつかないために、他人のもの=ローカルルールを代表させられるようになってしまい、「自分がない人」になってしまうのです。

 

 「身体の安定」と「自他の区別」がつくと公的な環境を保ちやすくなりますし、自分の中でも(モジュール/人格の)秩序を維持しやすい。

 内的にも安定が取れて、「代表」が機能している状態のことを「自己一致」といいます。

 

 反対に、自分ではなく、ローカルルールを代表させられたり、振り回されている状態は「自己不一致」。

 こうしたことが、ワンパッケージで提供される(プリインストール)のが「愛着」という便利なものなのです。

 

 愛着不安の何が面倒か、といえば、PCに例えれば何も入っていないPCに「OSをインストールして・・」「ドライバをダウンロードして・・」「オフィスを入れて・・」と全部自分でしないといけなくなることです。

 ただし、人間がよりよく生きていくために必要な要件というのはわかってきていますから、愛着が不安定でも、PCのたとえのように自分で成人してから回復させることはできるのです。

 そして、「代表」が機能するようにすることで、自己一致して生きていくことができるようになる。 
  

 “普遍的な何か”というのは、万人に同じ様にインプットされるのではなく、百人いると百人ともインプットされるものが少しずつ異なる。 
 だから統計でもばらつきが出たり、説明できる量に限界が出る。
 

 実は、私たちがインプットする”普遍的な何か”には、それぞれ異なる”問い(課題)”が隠れていると考えられている。問いとは、別に不思議なのものではなくて、社会が抱えている課題のこと。

 「代表」が機能していると、社会の課題も、それぞれ「代表」しているその人の特徴に沿ってやってくる。その“問い”に気づいて、“問い”に答え、その結果を”世に問う”ように社会に返すことで、「代表」の機能は満たされるのです。

 

 世に問うというのは、けっして芸術家みたいな作品を作ることでも、派手な事業をすることでもありません。普通に世の中で生きて働いているだけでよい。

 

 反対に、ローカルルールを代表してしまっていると、自分の問いではなく、家族などの”問題”を解かされてしまい、苦しむようになります。その”問題”は単なる私的な情動に過ぎず、不毛であり、そこになんの意味もありません。
 

 「身体の安定」と「自他の区別」が得られないことで、“自分”というものが、
 位置と役割が得られないことで、“社会”というものが、それぞれ異物のように感じられる。

 それが生きづらさ、というものです。
 

 

 「自分は仕事もしているし、位置や役割はあるはずだけど、やっぱり、生きづらい」といった場合は、

 身体の安定は得られているか?
 (具体的に言えば、睡眠、食事、運動が十分に取れているのか?)

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 自他の区別はついているか?
 (人の気持ちや考えを自分のものとしていないか?)

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 ローカルルールを代表していないか?

 
 
 といったことをチェックして、一つ一つ解決していく必要があります。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 


 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 真に受ける必要はない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 これで言われてきた理不尽な言葉、自分への悪口、指摘もすべてローカルルールでしかない。

 他の人から見て立派な人でも、人間は容易に解離してしまうもの。

 


 すると、なんとなく思えるのは、

 「すべてが戯れ言なら、真実はないの??」

 という不安がよぎります。


 「そうです。真実はありません。」と答えると、価値相対主義になります。

 


 反対に、
 「真実はあります。他の人の言葉は戯れ言ですが、私の言葉は信じてください」と答えると、怪しげな宗教になってしまいます。

 


 では、どう考えればよいのか?

 

 この問題は、実は、デカルト以降、カント、ヘーゲルなどなど、錚々たる哲学者が取り組んできた問題でもあります。
 ヨーロッパでも、近世から近代にかけて「キリスト教の言っていることがもしかしたら戯れ言だったのでは??」という精神的な危機が訪れたからです。

 

 権威ある言葉もどうも戯れ言であった、という恐ろしい事態。

 ただ、人類の英知とは便利なもので、こうした難問にも答える知恵が見いだされてきました。

 

 


 宗教のようなこれが唯一の真実という答えはもちろんありませんが、
 実は、ちゃんと人間が安心して生きていく上での土台というのはあるのです。

 健康に生きている人がよって立つことのできる“普遍的な何か”というものが。

 

 

 まず、個々の人間の言葉には真実はありません。すべて戯れ言といって間違いがない。

   
 ただ、社会全体には、なにやら”真実”とでも呼びたくなるような普遍性のあるアイデアや感覚というものがどうやらある。

 


 例えば、世界の人々を魅了するような歌や、文学、絵画などは、そうした、普遍的な”何か”をアーティストが、あたかもシャーマンのように降ろしてきて表現したものです。

 わたしたちの身体的な感覚としても腑に落ちて、しっくりきて感動し、魅了される。

 

 
 そうした普遍的な“何か”のことを、プラトンは「イデア」と呼び、ヘーゲルは「歴史」「世界精神」、ルソーは「一般意志」などと呼んでします。
 (このブログの中では、それらを「常識」「社会通念」あるいは「パブリック(グローバルな)ルール」と表現してきました。)

 


 それらを目に見える形で表現することを「代表」といいます。

 
 “普遍的な何か”というのは、直接に表現することはなかなか難しい。

 
 作家や画家、作曲家といった人たちも、苦悶しながら、それを降ろそう(代表しよう)としています。

 

 民主主義では、世論調査や選挙を通じて一般意志を「代表」させようとしていますが、なかなかうまくいかず、「自分たちの気持ちがわかってもらえていない」と不満を持つ人も多い。

 

 科学などの専門的な知見もある意味、普遍的な“何か”を「代表」させる方法です。

 

 最近では、統計、AIを使って、“普遍的な何か”を表現しようという試みもあります。
 
 ※ルネサンス(近世)以降の西洋の取り組みというのは、半ばローカルルール化した宗教から離れ、“普遍的な何か”を自ら作り上げようとしてきた歴史とも言えるのです。

 

 個々の人間の言葉は戯れ言だ、というのは、AIやビッグデータで言えば、個別のデータには意味がない、ということと同じ意味です。

 

 アンケート調査でも、ひとりひとりの意見は意味がありません。逆に真に受けると惑わされたりします。

 

 ただ、それらを集計して、単なる合計ではなくその背後にある母集団、法則といったものを見出した際に、“普遍的な何か”に近づくことができます。

 


  
 個別データも意味がないように、個々の人間には嫉妬や支配欲、不全感と言った能動的なバイアスがかかります。つまり、意図的に相手をコントロールするために自分の言葉を使おうとするのです。

 それらが強く現れている状態を「ローカルルール人格」と呼びます。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 特に、私的環境では頻繁に現れます。真に受けるなんて危険極まりない。

 

 


 一方、公的な環境では、マシになります。

 なぜなら、公的環境では、上記で書いたような「代表」という機能が働くからです。
 
 人間は公的環境で、公的な役割・責任を背負うと、普遍的な何かを「代表」するという力が働きます。   

 例えば、仕事に没入しているとき「私」というものは背後に下がり、
 その職務で果たすべき機能を自分が表現している、という実感をわたしたちは感じます。
 
 さらに仕事に習熟し、没入していると、なにやら仕事の精神が自分に宿ったような、全体とつながって世界の一部になったような不思議な感覚になることがあります。

 こうした感覚が「代表」という状態です。

 


 そうしたときに発せられる言葉は、まだ信じることができます。


 専門家の言葉が信用に足ると思われているのは、専門知識や職業意識などが普遍性を代表してくれていると思うからです。 

 
 
 ただ、もちろん生身の人間ですから、ちょっと気を抜くとノイズも入りやすいです。
 公的な環境においてもそうです。
 専門家でも、専門領域の内輪の理屈を優先したり、過度に専門的すぎて普遍性から離れてしまうと「専門バカ」と呼ばれて、信頼されなくなります。
 
 だから、公的環境の言葉も真に受けすぎずに、できる範囲で都度吟味はします。

 


 でも私的領域に比べれば、かなりマシです。

 

 

 気をつけておかなければいけないのは、公的環境とはハコ物が揃っていれば成り立つものではないということ。学校、会社や職場という環境は実は、公私が曖昧です。
 なぜなら、組織に機能不全がない学校や会社はなく、機能不全な環境では、私的領域(ローカルルール)が生まれ、モラハラ、パワハラが横行し始めたりもするからです。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」

 

 

 以上は、理屈を整理したものですが、私達が現実に生きていく上においては、難しく考えなくても大丈夫です。

 世の中の「常識」や「社会通念」というのは、思っている以上に、信じるに足る“普遍的な何か”であります。
 特に、社会がバランスが取れて、多元性が保たれていれば、かなりの程度、普遍性を代表してくれています。

(参考)「常識、社会通念とつながる


 
 
 このように、わたしたちは、「常識」という名の“普遍的な何か”を拠り所にして生活をしています。


 常識を拠り所にできるためにはいくつかの条件があります。


 それは、
 ・健全な愛着が土台としてあること。
 ・そして反抗期を経て、自他の区別がついていること。
 ・社会の中で位置と役割(いわゆる仕事)を得て、社会の中で自己を解消していること。 
 ・さらに、睡眠、食事、運動が適切に満たされ、心身が安定していること。


 そうして、「常識」を拠り所にして違和感なく生きることができます。
 


 本来の親の養育や、社会の教育、というのも、“普遍的な何か”を、身近な大人が代表して伝える営みです。そうして、常識を伝えていくものです。決して、親の個人的な信念を伝えるためにあるのではない。
 健全な教育を受けていき、さらに、反抗期で一旦それを総否定することで、自我が形成されて、自分で再編成した「常識」を支えに社会に出ていく。
 さらに、職業など公的な役割を得ることで、“普遍的な何か”を代表する。
 それにより、ほんとうの意味で自己一致という状態に至ることができるのです。

(このような人格陶冶をヘーゲルは「教養(ビルドゥング)」と呼びました)

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」

 

 


 別に特別なことではなく、愛着に問題がない健康な人であれば、自然とできていることです。


  
 反対に、上記の条件に欠けがあると、生きづらさを感じたり、「ローカルルール」に巻き込まれたりしてしまうのです。

 つまり、私達が悩みや生きづらさを抱えていたりするのはこうしたことが背景にあるのです。トラウマとは”普遍的な何か”から切り離されている機能不全状態のこととも言えます。

 


 人の言葉はすべて戯れ言であって、真実はそこにはありません。
 (人の言葉はビックデータのための個別データとしてならかろうじて活用できるかもしれませんが)

 


 
 人の言葉というのは、戯れ言として聞き流していると、ローカルルールに巻き込まれずにスルーすることができます

 そうしていると、“普遍的な何か”を身体で感じることができるようになる。

 別に“真実”などという大げさなものではなく、「常識」といわれるようなもの。
 

 

 

 身体感覚で感じる“普遍的な何か”を拠り所にしながら、
 人の言葉は戯れとして適当に楽しむ。フリをしながら付き合う。
 そうして初めて人との一体感、つながりが生まれてきて、「気が合う」「一緒にいて楽しい」と感じられるようになる。


 人の話を真剣に耳と傾けていたときには「疎外感」「生きづらさ」を感じていたのに、
 ‘戯れ言”としていい加減に聞き流し始めると、楽しく感じられるようになる。

 
 マジメに人の中に‘真実”を追い求めていたときは、「絶望」を感じたり、自己啓発のグルの言葉でかりそめの癒やしを得ても満たされなかったのに、人の言葉はすべて戯れ言であり、世の中に真実はないとわかると、「代表」が機能し始め、普遍的な何かを感じることができるようになる。
(参考)→「「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。


 
 戯れ言とは、「戯れ(遊び)の言葉」ということ。
 戯れ言とわからなければ、人の言葉は楽しく感じることができないのです。

 

 このような感覚が、みなさんが悩みが解消した先にある、普通の世界なのかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 「人の話を真剣に聞かなければならない」というのは、わたしたちが俗に信じこまされている”常識”です。

 


 あるいは「自分の話も真剣に聞いてほしい」と思っている。

 人の話を聞かない、ということは不誠実なことであり、良くないことである。

 「聞く技術」なんて本が売られたりもする。

 


 一方で、人の話を聞いて、そこで引っかかった言葉が頭に残って、苦しんだりもしている。

 「人の話を聞くことが良いこと」であるなら、なぜ苦しむ事が起きるのか?

 


 人の話に引っかかる自分が悪い、ということで、修行僧のように「気にしないでおこう」と自己啓発に勤しんだり、

 「そもそも、人から指摘されないような更に良い人間にならなければ」となって、努力したり。

 

 しかし、すればするほど、さらに「余計な一言」をいわれて、苦しみは抜けない。

 

 


 一方で、あまり苦しんでいない人達がいる。

 実はトラウマを負っていない普通の人たちは、違う聞き方をしている。

 というか、実は人の話なんて聞いてはいない。

 


 適当に聞き流している。

 

 聞き流しているけども、表面的には「人の話を聞くことが大事」と言っている。

 

えっ、とおもいますが、これが暗黙のルールとなっている常識です。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 


 そして、そのことを悪用しているのがローカルルールです。 

 

 


 トラウマを負っている人は、「人の話を聞くことが大事」というローカルルールに苦しんでいる。


 本当の「聞く」とは何かがわからないまま、ローカルルールを真に受けていると、ずっと人の話で苦しむことになる。


 そのうち、人が怖くなったり、人と関わるのが億劫になったりし始める。 


 「またいつ嫌なことを言われるのか?」とビクビクしながら接することになる。


 


 ローカルルールに呪縛されてしまうと、健康な人のようには人の話を聞けなくなる。
 


 人の話を聞く、とはどういうことか?

 人の”話”とはなにか? 

 そもそも”人”とはどういう存在なのか?

 


 例えば、人が悩みを話すとき、聞き手がその話を真剣に聞いたとすると、話をした相手は余計に苦しむことになります。

 

 なぜなら、悩みにあるということは、ローカルルールに呪縛されている状態であり、そのことで苦しんでいる。発せられる言葉は自分の言葉ではない。本来の自分の言葉を発することができずに、押し込められている。

 


 わたしたちが日常で発する言葉はすべてが戯れ言で、全てが無意味なことです。特にローカルルールによって作られた言葉はその人の言葉ではない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 そのため、表面的に発せられた言葉を真に受けてしまわれると、悩みをもった人は、悩みから抜けれなくなる。

 重いドヨンとしたままで悩みが残ってしまう。

 

 

 反対に、聞き手が、真に受けず、あたかも聞き流すように聞いた場合はどうなるか?


 話し手は、だんだんと自分の表面にかかったベールが剥がれているような感覚を感じるようになる。

 そのベールの向こうにある、本来の自分を感じられるようになる。

(参考)→「わからず屋の刑事(デカ)のように生きる」  

 

 

 カウンセラーでも、ベテランのカウンセラーは共感の姿勢を示しながら、実は話は聞き流して聞いている。
 
 もし、親身になって聞くカウンセラーがいたとしたら、巻き込まれてしまって、クライアントさんも悩みが解消されなくなってしまう。
 
 溺れている人を助ける人も一緒に溺れるような感じです。

(参考)→「寄り添いすぎて目がくもる

 

 


 人間は、適当に聞き流されることで、悩みが抜けていくようになっている。

 また、聞き流されることで、話の奥にある、真の意味が立ち上がってくる。
 

 話をしている側がほんとうの意味をわかっていないことも多い。


 特にプライベートでの言葉はすべてが戯れ言です。


 ただ、言葉に戯れるように接しないと、人との会話を楽しむことができない。

 


 日常はローカルルールだらけです。

 

 でも健康な人は、愛着の土台に常識を柱として真に受けず、戯れとして接することで、呪縛されずに生きている。

 
 
 ローカルルールに呪縛されることが、いわゆる“悩み”ということになりますが、その場合は、聞き手に”いい加減に”聞き流してもらうことで、ローカルルールから逃れて、本来の自分に戻ることができている。

 

 

 親身に聞く、というのは本当に親身ではなく、それは社交のための”フリ”であり、逆に、フリで聞いてもらわないと、真剣に聞かれたら聞かれる側も困るのです。

 

 もし、本当に親身に聞かれたら、聞き手もローカルルールに呪縛されて、悩みが抜けなくなってしまいますから。

 「人の話を聞くことが大事」ということをほんとうの意味は、話を聞いているふりをして、真に受けずに、聞き流せ! ということ。

 


“聞いているフリ”のことを、世の中では「礼儀」といいます。

 

 そうして初めて、人間同士はわかりあえたり、楽しくコミュニケーションをとることができる。

 

 

 わたしたちが「人と一体感がえられない」と苦しんでいた大きな原因の一つは、「人の話を真剣に聞かなければならない」というローカルルールにあった、ということです。

 

 

 

 わたしたちは、犬や猫に癒やされたり、まちなかで出会った気楽なおじいさんとかおばあさんと雑談することで気持ちが軽くなることはあります。


 犬や猫は人間の話を理解できません。でも癒やされます。


 人の話は真剣に聞いてはいけないし、聞いてもらわれてもいけない。


 人間の言葉、日常の言葉は”悪貨”で、良貨はその奥に埋もれてしまっている。

 だから、聞き流すようにしないと悪貨は取り除けない。


 プライベートでは、悪貨でもそれはそれとして戯れとして楽しむ。

 

 言葉は本来神のものであって、人の言葉は何も表していない。人間の言葉はすべて神の言葉に擬したニセモノなのです。

 

 言葉に関するローカルルールを壊すと、本当の自分が立ち現れてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 昔、会社で顧客のもとに打ち合わせに行ったときに、「人の話をよく聞くことが大事だ」と思っていた筆者は、一言一句漏らさないように話に耳を傾けていました。

 


 打ち合わせが終わって、帰りしなに、上司や先輩に、「先方がおっしゃっていたことは、~~ということですよね?」とたずねると、「いや、~~ということだよ」と自分が聞いたこととは違うことを言われたり、極端に言うと反対のことを言われたりしたことがしばしばありました。


 企業の打ち合わせでは、今後の方向性についてはっきりとは言わないこともあります。

 


 「前向きなのかな?」と思っていたら、「あれは断りの文句だ」とか、反対に「ネガティブかな?」と思っていたら、「あれは脈がある」といったように、言葉で表現されていることとは違うことも多い。

 上司たちはなぜかそれが読み取れていました。

 


 反対に、一言一句漏らさないように聞こうとしていた筆者の方はそれが読み取れずに、何が違うのか?と首をかしげることがありました。

 一生懸命聞こうとすればするほど、聞けなくなって、頭がボーッとしてきたり、眠くなってきたりする。それでとても悩んだことがあります。

 


 もちろん、経験の差、ということはあります。
文字の間を埋めたり、解釈の精度が違う、というようなことはある。

 

 ただ、実はそれだけではありません。
トラウマを解消して後に思うのは、「聞く」ということがトラウマを負っている人と健康な人とでは根本的に異なっているということ。

 

 


 それは、上司たちは、「聞き流して」聞いていたということです。


 聞き流して聞くことで、相手の真意や全体像が浮かび上がってきて、妥当な解釈を得ている。


 反対に、一言一句真に受けて聞くと、それができなくなる。


表面的な言葉に惑わされてしまう。

 (アニメも一枚一枚の画像にとらわれる人がいたら見れなくなります。見流すから動いて見える。)

 

 


 また、人間というのは、話をしている本人が話の真意を一番理解している、わけではありません。


 岡目八目で見れる、他者のほうが真意をつかめることは実は多い。

 


 当事者というのは、様々なことに悩んでいたり、迷っていたり、整理できていなかったりする。

 
 さらに、プライベートな環境では人間は容易に解離しておかしくなる。
悩みにとらわれているときもおかしくなっている状態。本来の自分ではなくなっている。


 そうしたときに話す言葉は、ローカルルールに呪縛されていて、その人の言葉ではない。


 だから、真に受けてもらっては困る。

 


 「それは本当の自分の言葉じゃないんだ!違うんだ!」と本来の自分は心のなかで思っていたりする。 

 

 まずは、表面の言葉はスルーして、適当に流してもらわなければ、真意はやりとりできない。

 

 


 特に、トラウマを負っている人は、養育環境で負った「人の話をよく聞け」というローカルルールの呪縛にかかっています。

ローカルルールとは、常識の殻をかぶった私的な情動、ニセルールのことです。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 表ではルールであることを語りながら、結局は、自分を大事にしてほしい、相手を支配したい、といったことからなされます。

 ローカルルールを刷り込むためには、自分の言葉には価値があると思わせなければならない。耳を傾けさせなければならない。
 

 

 そのために、自分の言動を神化する。

 


 「自分の言葉を大事に受け取れ」というメッセージを刷り込ませて、内面化させます。

 


 すると、刷り込まれた側のわたしたちは、いつの間にか、言葉を真に受けることが当たり前になってくる。そうしておいて、ローカルルールが入りやすいようにさせられている。

 


 その結果、わたしたちは、日常の戯れ言でも、全てが真実であるかのようにとらえて、一喜一憂し、傷ついて、振り回されたりする。

 


 プライベートで人との交流が楽しくなくなってくる。

 人との関わりが重く、おっくうになってくる。

 

 次第に、人見知りのようになってきて、関わるのがとても面倒に感じられるようになってきます。

 


 
  
 以前、居酒屋のトイレに「親父の小言」とかいう紙が貼ってありました。

昔の頑固親父の格言みたいなものです。

 その中で、「子どもの言うことは8,9聞くな」というのが確かありました。

 


 子どもの言っていることなんてほとんどが意味がないのだから聞き流せ、わがままに耳を傾けるな、といった意味なのだと思います。

 

 これは、子供だけではなく、実は大人でも同じです。


 「人の言っていることは8,9聞くな(というかすべて意味がない)」ということ。

 


 
 トラウマを負っている人から見ると、驚くような感じですが、実はこれが健康な人の、対人関係観だったりするのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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