悲観やネガティブな予測は、未来に対する主権が奪われているということ。

 

 前回の記事に関連して言えば、ネガティブな予測や「将来良いことがあるように思えない」といった場合、実は、それは何らの予兆を示しているわけではなく、単に未来に対する主権が奪われている、ということになります。

 

 もう少し具体的に言えば、現在の「物理的な現実」を見て、そこに「予定」を感じ取ることができない状態ということ。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 物理的な現実には「予定」が必ず含まれているのですが、無いように感じたり、「どうなるかわからない」となってしまっている。

  前回、家とかマンションの建設現場の例えをしましたが、基礎があり確実に完成する予定があっても「建設会社が倒産するかもしれない」とか、「災害でだめになるかもしれない」とおもったり、「完成するまで永遠に時間がかかるような気がする」となっているような状態。

(参考)→「未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 

 心理学からのシンプルな説明では、こうしたことは過去に逆境体験、理不尽な体験を重ねてきた結果生じるものとされます。

 脳だけではなく身体のレベルで安心安全を感じることができないでいる。
 
 アラームの基準が狂ってしまっているので、警報が鳴らなくていいところでも警報がなってしまう状態。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 しかし、これを「主権」という観点で捉えてみると、未来に対する主権が奪われていると表現することができます。

 未来に対する主権が奪われていて、「良くないことが起きる」という非常に確率の低い“ニセの未来”が差し込まれている。

 

 他者が作り出したローカルルールの世界観越しに未来を見ている状態です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 例えば、大きな仕事に取り組むときに「自分がやってもうまくいく気がしない」とか、対人関係で「最後は結局、自分が悪者にされる気がする」といった場合。

 過去になにか理不尽な経験であったり、対人関係でのトラウマがある、ということが考えられますが、ほとんどの場合、人との関係の中で生じています。

 理不尽な体験があったときに自分に向けられた他者のネガティブな意識、ローカルルールな世界観を丸呑みするように内面化してしまっている。

 

 子どもの頃であれば「あなたは悪い子だ」「あなたはいつも~~だ」といって親がレッテルを貼ってくる。
 直接言わなくても暗にほのめかしていたり、夫婦喧嘩などにおいて発せられる態度に現れている。
 これは親がもつネガティブな感情を子どもに投影しているだけです。いいかえるとローカルルールにすぎない。

 しかし、素直な子どもは、相手のおかしな世界観ごと、それを受け取ってしまう。もっと言えば内面化してしまう。

 相手の世界観とは「非愛着的世界観」です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 「世の中は、ひどい人ばかり」「おかしな人間が、自分のやりたいことをいつも邪魔してくる。」「良くないことは必ず起きる」「おかしなやつは支配して当然だ」といったような世界観です。
 
 
 理不尽な仕打ちをされると、ただ物理的に理不尽な目に合うのではなく、こうした裏にある世界観自体を内面化させられてしまう。

 
その結果、さまざまな「主権」を相手に明け渡すことになってしまうのです。

 なぜなら、「自分はおかしな人間だから」「おかしな人間が主権を持っていてもろくなことがないから、支配者に預けることが自分の安全だ」というわけです。

 

 
 主権には、これまで見てきたようにさまざまなものがありますが、その一つが「未来に対する主権」です。

(参考)→「未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 「未来に対する主権」がないと、物理的な現実の中に正しく「予定」を感じることができない。他者のローカルルールの世界観でしか、物事を見ることができない。

 その結果、自分は弱く、おかしく、そのために良くないことが起きるに違いない。必ず失敗する。他の人はできても自分はそうではない。

 という感覚に囚われてしまいます。

 そうしたネガティブな予測しかできない状態自体が、「自分はネガティブなことしか考えられない(だから、おかしい)」となって悪循環に陥ってしまいます。

 

 

 「未来に対する主権が奪われている」という観点で、捉え直してみると、自分の性格の問題ではないことが見えてきます。

 
 「あれ?まてよ。これって単に主権を奪われているから、ネガティブにしか思えないのではないか?」と。

 
 なにかネガティブな考えが浮かんできたら、「これって自分のものではないのではないか?」「主権が奪われているのでは?」と疑ってみる。

 すると、よく考えてみたら親もそう考えていたな、とか、他者をネガティブだ貶めることで自分の安心を確保していただけなんだな、という背景が浮かんできます。

 
 徐々に「いい加減にしておけ!」「私の主権を返せ」という怒りが湧いてきます。

 そうした怒りこそが、「自尊心」の萌芽なのです。

 自分の症状に「主権」という概念を対置させることで、いろいろなことが浮かび上がり、自尊心の芽を感じ取ることもできるのです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親や家族の問題は見えているようで、見えていない。

 

 私たちは自分の家族がおかしいとか、問題があるということにはなかなか気づくことができません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 たとえば、筆者の母も、口を出すとネガティブなことしか言いません。 
 
 何か調子のいい人やお店の話題がが出ると、「でも、こういうのは、うまくいっていないらしいわよ」とか、

 年末に海外旅行に言っている人のニュースが出ると、「値段が高いのにこんなときに行ってもつまらない」とか、

 とにかく、自分の勝手な想像でいいかげんなことも交えて、ネガティブな評論家になります。

 歳をとってマシになりましたが、昔は、TVに向かって芸能人に「死ね」だのなんだのと否定的なことや悪口を頻繁に言っていました。

 筆者はそれを聞いて生活していました。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 

 さて、社会人になってから「なぜか、自信がない」という症状にさいなまれることになりましたが、自分では原因がわかりません。

 自分で認知行動療法に取り組んでみたりその他心理療法などをいろいろとしてみるんですけど、自信がないという問題には届かない。

 たしかに過去にトラウマになるような出来事もありましたので、それについてもそれぞれにケアをしてみますが、なぜかジワーッと自信のなさが続くのです。

 そうしているうちに「自信がない」ということから、仕事でうまくいかなくなったり、ということで現実にも苦しむようになります。

 

 

 実は原因の大半は、親の汚言、悪口をずっと浴びていて、それを内面化していたからでした。

 親の悪口から、「自分も他人からこんなひどいことを言われるかも」ということを自然と考えるようになり、ちょっとしたことでも他人の目で自分を見るようになっていたのです。

 他人の目とは決して何ら信憑性のあるものではなく、あくまでネガティブな感情が渦巻く「私的領域」でしかありません。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。
 
 その影響を相対化もせずに浴び続けていたのです。
 
 そういう親の姿がおかしいをはっきり気づいたのはけっこう最近のことです。  
 

 

 むかしから、ぼんやりと、親の発言は汚いということは認識していたはずなのですが、明確に「おかしい」と確信が持てるまでにかなりの距離があるのです。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 

 ちなみに、親同士も夫婦ゲンカが多かったのですが、そのため筆者はむかし「夫婦とはケンカするものだ(当たり前だ)」と思っていました。

 大学に入って、サークルの合宿で先輩の女性が「私は親がケンカするのを見たことがない」とサラッと言ったのを聞いて、強いカルチャーショックを受けたことがあります。

 さながら情報が統制された国の国民のようで、外の世界のことが全くわからず、わかっても自分にも責任があると高尚に考えてしまうと(ニセ成熟)それが自分に強く影響される問題である、とは思えなくなってしまうのです。
 

 

 

 クライアントさんたちも、セッションの早い段階(問診の段階)で親が過干渉であるとか、親同士のケンカが多かったとかそういったことはおっしゃるのですが、それが「問題だ」と確信されるまでには、とても長い距離があります。

 カウンセラーから「過干渉は問題ですね」などとと言われて、親の言動のおかしさについて会話を交わしてはいても、さながら頭と視界がぼんやりしているみたいに「おかしい」と腑に落ちて確信できることはなぜかありません。

 

 どこかで、「親も問題だが、自分にも問題がある」とか、「いつまでも親のせいにばかりしているのもおかしい」とか、もっとひどい場合は「うちの親も問題だが、どこの家にも少なからずあるものだ」という妙な達観(ニセ成熟)が邪魔をして、目の前にあっても問題だとは思えなくなります。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 

 

 そういえば、東大の安富歩教授も「生きる技法」という本の中で、(親ではなく奥さんからですが)暴言を浴び続けてハラスメントを受けていましたが、その渦中ではそのことに気がつけない様子が書かれています。

(参考)→ 安冨歩「生きる技法」(青灯社)

 

 

 

 昔の筆者もそんな感じでした。
 心理学に関わっていましたから、親の影響なんていうものはベタ中のベタな話でわかっているはずですが、自分の親の態度がおかしいものであるというほんとうの意味で確信を得るまでには、共犯関係から抜け出す必要があり、長い時間がかかるのです。

 私たちは思っているさらに何十倍も親の影響は強いですし、それが「問題だ」と認識しているようでいて、実はほとんど認識できていないようです。

 

 昔の筆者がもしこの記事を読んだら、「そんなことわかっているよ」といって、わかったつもりになっていたと思います。

 でも、その先にはもっともっと強い影響という実態があった。

 

 

 世界観や、価値観、行動など自分の持っているもの自体がまるまる親のものを内面化しているのでは?と疑って分析してみるとおもしろいです。

 ほぼすべてのものが外から来ていて、否定することも相対化することもできず、それが自他の区別をつけ、自分が主権を手にすることを妨げていることがわかります。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

虐待とまではいかなくても、なぜ、親が子に、理不尽なことをするのでしょうか?

 

最近分かってきている仮説としては
どうやら、動物でも、育児放棄や子殺しといったことが見られるように、人間も含めて動物には、養育のために親子密着するベクトルと、自立やさらなる繁殖のために離れるベクトルとを両方持っているようです。なので、子どもを遠ざけたくなるような気持ちも自然とわいてしまう。

通常は、そのベクトルとの葛藤を、親という公的役割が統合して、子育て~自立までが成立していると考えられます。

 

さらに、人間に特徴的なこととして、複雑に発達した脳はショートしやすく、すぐに解離を起こしまうことがあります。感情が発散できないことで側頭葉が充血してイライラしたりもする。自分がイライラしている原因を目の前の人に帰属して”因縁もつける”。
(自身が不安定な養育環境に置かれてきた場合はなおさらのことで、発達障害などは生まれる前の環境が不安定で、そのためこうした現象をより強く起こしやすくなります。)
自分が神化したような錯覚を起こして、他者を罰したり、排除したりすることを当然と思うようになる。閉鎖的な空間ではそれが起こりやすくなります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

他の犯罪と同様に、残念ながら、虐待自体はなくならない。人間の特性を理解したうえで、悲惨なことが怒らない環境を作る、ということが対策となるようです。

 

 

もう一つ、とくに現代人にとって厄介なのは、「愛」という概念の存在です。
現代の私たちが「愛」としているものの根拠はキリスト教にあるとされます。日本人にとっては、「愛」は外来の思想なのです。

昔の日本人には、「愛」は今のような意味ではなく仏教用語で執着を指すような言葉だったようです。戦国時代にキリスト教が入ってきたときには、「御大切」といった訳が当てられたそうです。人が人に施すものは、日本だと「慈悲」「情」とかそういう言葉が相当するものだと考えられます。

 

キリスト教の愛というのは、公式にはアガペー(神からの愛)ということなのですが、神の愛というくらいですから、人間にとってはかなりハードルが高い。スペックが違いすぎる。

 

人間が実行しようとするのは、素人がプロ野球選手のユニフォームを着てその気になるといったようなもので、能力は伴わず、幻想の中でその気になって酔う、といった状態に陥ってしまいます。

神の愛だから人間には無理だ、とわきまえればなおよいのですが、人間なら愛があるべきだ、と考えられるようになったため、愛のあるふりをして、さらにそれを建前に相手を裁いたり、支配したり、ということが横行するようになりました。

親も子供に嫉妬したり、兄弟間でえこひいきしたり、感情のままに理不尽にふるまうことは当たり前にあります。
それらを「愛」で糊塗するため、親本人も自身の行為の理不尽さや横暴さに気がつきません。

さらに、それを受け入れない相手を「(愛を受け入れないから)人間ではない」として責め立てるようになります。
これが、ストーカーもそうですが、現代のいじめや虐待、ハラスメントの背景にある心性と考えられます。

実際、宗教戦争や人種差別など、自分の考えを受け入れない相手を「人間ではないもの」として排除していった歴史とも重なります。人種差別などは虐待の究極のものですね。

 

なんといっても、ヤハウェとは「熱情の神」「嫉妬の神」(英訳では、Jealous God)という意味ですから、自分のいうことを聞かない相手にはとても苛烈です。
もともと神は嫉妬の塊であったのですが、キリストの唱えた「隣人愛(人類愛)」のおかげで、民族宗教から普遍宗教へと成長することができました。
ただ、「愛(人類愛)」でくるまれていても土台は嫉妬、不完全な人間が扱う場合、地金が現れて格段に残酷な性質を帯びてしまいます。その愛が通じなければ、「人間じゃない」ということになってしまうのですから。

 

親子の例に戻ると、理不尽さ(ハラスメント)を受けた子にとっても、「愛」という概念の影響を振り払うことは難しく、自身も「本当は親は自分を愛してくれているはず」という幻想に入ってダメージを癒さざるを得なくなります。
そして、自身も「愛」を盾に解離して、人を裁く側に回ってしまうことにもなります(ハラスメントは連鎖する)。

 

 

「愛」という概念がなければ、もっとシンプルです。

子どもに対して不適切な対応の親がいれば、「親としてなっていない(役割を果たしていない)」と捉えればよいですし、子どもにとっても「お父さんお母さんは、自分を大切にしてくれない」という認識で済むわけです。

自然と、親を「機能」としてとらえ、変な幻想は入りにくい。

 

親子の関係以外の問題でも、あてはまります。

私たちは、人とのつながりを求めます。
そこに、そもそも人間にはスペック過多の「愛」を持ち出すと、他者と自分との違いに絶望して、孤独に陥ってしまいます。合わない人は徹底排除、そして自分も支配、過干渉される恐れがぬぐえません。
(愛を持ち出せば持ち出すほど人同士はつながれず孤独になるパラドックスは、イギリスの作家D.H.ロレンスなどが指摘しています)

反対に、「愛」という概念を持たなければ、そもそも異なる人間をありのままにとらえやすくなるし、解離して幻想に入りづらくなります。

親子だって、情の水準が下がることもあるし、愛想が尽きることもある、それらは健全なことです。
血のつながっていても気が合わず、理解できないことは多い。そういうもの。

ただ、公的人格として親の役目は果たす。

「愛」とは言わず、情けや慈悲でお付き合いをしていれば、親子はもちろん、人同士はつながることができ、人間らしくいられそうです。

私たちにとっては疑うこともない言葉ですが、「愛」とは、実は外来の概念で、もたらす反動も大きいことを知ることもとても重要です。