親や家族の問題は見えているようで、見えていない。

 

 私たちは自分の家族がおかしいとか、問題があるということにはなかなか気づくことができません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 たとえば、筆者の母も、口を出すとネガティブなことしか言いません。 
 
 何か調子のいい人やお店の話題がが出ると、「でも、こういうのは、うまくいっていないらしいわよ」とか、

 年末に海外旅行に言っている人のニュースが出ると、「値段が高いのにこんなときに行ってもつまらない」とか、

 とにかく、自分の勝手な想像でいいかげんなことも交えて、ネガティブな評論家になります。

 歳をとってマシになりましたが、昔は、TVに向かって芸能人に「死ね」だのなんだのと否定的なことや悪口を頻繁に言っていました。

 筆者はそれを聞いて生活していました。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 

 さて、社会人になってから「なぜか、自信がない」という症状にさいなまれることになりましたが、自分では原因がわかりません。

 自分で認知行動療法に取り組んでみたりFAPなどといろいろとしてみるんですけど、自信がないという問題には届かない。

 たしかに過去にトラウマになるような出来事もありましたので、それについてもそれぞれにケアをしてみますが、なぜかジワーッと自信のなさが続くのです。

 そうしているうちに「自信がない」ということから、仕事でうまくいかなくなったり、ということで現実にも苦しむようになります。

 

 

 実は原因の大半は、親の汚言、悪口をずっと浴びていて、それを内面化していたからでした。

 親の悪口から、「自分も他人からこんなひどいことを言われるかも」ということを自然と考えるようになり、ちょっとしたことでも他人の目で自分を見るようになっていたのです。

 他人の目とは決して何ら信憑性のあるものではなく、あくまでネガティブな感情が渦巻く「私的領域」でしかありません。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。
 
 その影響を相対化もせずに浴び続けていたのです。
 
 そういう親の姿がおかしいをはっきり気づいたのはけっこう最近のことです。  
 

 

 むかしから、ぼんやりと、親の発言は汚いということは認識していたはずなのですが、明確に「おかしい」と確信が持てるまでにかなりの距離があるのです。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 

 

 ちなみに、親同士も夫婦ゲンカが多かったのですが、そのため筆者はむかし「夫婦とはケンカするものだ(当たり前だ)」と思っていました。

 大学に入って、サークルの合宿で先輩の女性が「私は親がケンカするのを見たことがない」とサラッと言ったのを聞いて、強いカルチャーショックを受けたことがあります。

 さながら情報が統制された国の国民のようで、外の世界のことが全くわからず、わかっても自分にも責任があると高尚に考えてしまうと(ニセ成熟)それが自分に強く影響される問題である、とは思えなくなってしまうのです。
 

 

 

 クライアントさんたちも、セッションの早い段階(問診の段階)で親が過干渉であるとか、親同士のケンカが多かったとかそういったことはおっしゃるのですが、それが「問題だ」と確信されるまでには、とても長い距離があります。

 カウンセラーから「過干渉は問題ですね」などとと言われて、親の言動のおかしさについて会話を交わしてはいても、さながら頭と視界がぼんやりしているみたいに「おかしい」と腑に落ちて確信できることはなぜかありません。

 

 どこかで、「親も問題だが、自分にも問題がある」とか、「いつまでも親のせいにばかりしているのもおかしい」とか、もっとひどい場合は「うちの親も問題だが、どこの家にも少なからずあるものだ」という妙な達観(ニセ成熟)が邪魔をして、目の前にあっても問題だとは思えなくなります。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 

 

 そういえば、東大の安富歩教授も「生きる技法」という本の中で、(親ではなく奥さんからですが)暴言を浴び続けてハラスメントを受けていましたが、その渦中ではそのことに気がつけない様子が書かれています。

(参考)→ 安冨歩「生きる技法」(青灯社)

 

 

 

 昔の筆者もそんな感じでした。
 心理学に関わっていましたから、親の影響なんていうものはベタ中のベタな話でわかっているはずですが、自分の親の態度がおかしいものであるというほんとうの意味で確信を得るまでには、共犯関係から抜け出す必要があり、長い時間がかかるのです。

 私たちは思っているさらに何十倍も親の影響は強いですし、それが「問題だ」と認識しているようでいて、実はほとんど認識できていないようです。

 

 昔の筆者がもしこの記事を読んだら、「そんなことわかっているよ」といって、わかったつもりになっていたと思います。

 でも、その先にはもっともっと強い影響という実態があった。

 

 

 世界観や、価値観、行動など自分の持っているもの自体がまるまる親のものを内面化しているのでは?と疑って分析してみるとおもしろいです。

 ほぼすべてのものが外から来ていて、否定することも相対化することもできず、それが自他の区別をつけ、自分が主権を手にすることを妨げていることがわかります。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

虐待とまではいかなくても、なぜ、親が子に、理不尽なことをするのでしょうか?

 

最近分かってきている仮説としては
どうやら、動物でも、育児放棄や子殺しといったことが見られるように、人間も含めて動物には、養育のために親子密着するベクトルと、自立やさらなる繁殖のために離れるベクトルとを両方持っているようです。なので、子どもを遠ざけたくなるような気持ちも自然とわいてしまう。

通常は、そのベクトルとの葛藤を、親という公的役割が統合して、子育て~自立までが成立していると考えられます。

 

さらに、人間に特徴的なこととして、複雑に発達した脳はショートしやすく、すぐに解離を起こしまうことがあります。感情が発散できないことで側頭葉が充血してイライラしたりもする。自分がイライラしている原因を目の前の人に帰属して”因縁もつける”。
(自身が不安定な養育環境に置かれてきた場合はなおさらのことで、発達障害などは生まれる前の環境が不安定で、そのためこうした現象をより強く起こしやすくなります。)
自分が神化したような錯覚を起こして、他者を罰したり、排除したりすることを当然と思うようになる。閉鎖的な空間ではそれが起こりやすくなります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

他の犯罪と同様に、残念ながら、虐待自体はなくならない。人間の特性を理解したうえで、悲惨なことが怒らない環境を作る、ということが対策となるようです。

 

 

もう一つ、とくに現代人にとって厄介なのは、「愛」という概念の存在です。
現代の私たちが「愛」としているものの根拠はキリスト教にあるとされます。日本人にとっては、「愛」は外来の思想なのです。

昔の日本人には、「愛」は今のような意味ではなく仏教用語で執着を指すような言葉だったようです。戦国時代にキリスト教が入ってきたときには、「御大切」といった訳が当てられたそうです。人が人に施すものは、日本だと「慈悲」「情」とかそういう言葉が相当するものだと考えられます。

 

キリスト教の愛というのは、公式にはアガペー(神からの愛)ということなのですが、神の愛というくらいですから、人間にとってはかなりハードルが高い。スペックが違いすぎる。

 

人間が実行しようとするのは、素人がプロ野球選手のユニフォームを着てその気になるといったようなもので、能力は伴わず、幻想の中でその気になって酔う、といった状態に陥ってしまいます。

神の愛だから人間には無理だ、とわきまえればなおよいのですが、人間なら愛があるべきだ、と考えられるようになったため、愛のあるふりをして、さらにそれを建前に相手を裁いたり、支配したり、ということが横行するようになりました。

親も子供に嫉妬したり、兄弟間でえこひいきしたり、感情のままに理不尽にふるまうことは当たり前にあります。
それらを「愛」で糊塗するため、親本人も自身の行為の理不尽さや横暴さに気がつきません。

さらに、それを受け入れない相手を「(愛を受け入れないから)人間ではない」として責め立てるようになります。
これが、ストーカーもそうですが、現代のいじめや虐待、ハラスメントの背景にある心性と考えられます。

実際、宗教戦争や人種差別など、自分の考えを受け入れない相手を「人間ではないもの」として排除していった歴史とも重なります。人種差別などは虐待の究極のものですね。

 

なんといっても、ヤハウェとは「熱情の神」「嫉妬の神」(英訳では、Jealous God)という意味ですから、自分のいうことを聞かない相手にはとても苛烈です。
もともと神は嫉妬の塊であったのですが、キリストの唱えた「隣人愛(人類愛)」のおかげで、民族宗教から普遍宗教へと成長することができました。
ただ、「愛(人類愛)」でくるまれていても土台は嫉妬、不完全な人間が扱う場合、地金が現れて格段に残酷な性質を帯びてしまいます。その愛が通じなければ、「人間じゃない」ということになってしまうのですから。

 

親子の例に戻ると、理不尽さ(ハラスメント)を受けた子にとっても、「愛」という概念の影響を振り払うことは難しく、自身も「本当は親は自分を愛してくれているはず」という幻想に入ってダメージを癒さざるを得なくなります。
そして、自身も「愛」を盾に解離して、人を裁く側に回ってしまうことにもなります(ハラスメントは連鎖する)。

 

 

「愛」という概念がなければ、もっとシンプルです。

子どもに対して不適切な対応の親がいれば、「親としてなっていない(役割を果たしていない)」と捉えればよいですし、子どもにとっても「お父さんお母さんは、自分を大切にしてくれない」という認識で済むわけです。

自然と、親を「機能」としてとらえ、変な幻想は入りにくい。

 

親子の関係以外の問題でも、あてはまります。

私たちは、人とのつながりを求めます。
そこに、そもそも人間にはスペック過多の「愛」を持ち出すと、他者と自分との違いに絶望して、孤独に陥ってしまいます。合わない人は徹底排除、そして自分も支配、過干渉される恐れがぬぐえません。
(愛を持ち出せば持ち出すほど人同士はつながれず孤独になるパラドックスは、イギリスの作家D.H.ロレンスなどが指摘しています)

反対に、「愛」という概念を持たなければ、そもそも異なる人間をありのままにとらえやすくなるし、解離して幻想に入りづらくなります。

親子だって、情の水準が下がることもあるし、愛想が尽きることもある、それらは健全なことです。
血のつながっていても気が合わず、理解できないことは多い。そういうもの。

ただ、公的人格として親の役目は果たす。

「愛」とは言わず、情けや慈悲でお付き合いをしていれば、親子はもちろん、人同士はつながることができ、人間らしくいられそうです。

私たちにとっては疑うこともない言葉ですが、「愛」とは、実は外来の概念で、もたらす反動も大きいことを知ることもとても重要です。

 

 

「汚言」の巣窟

 筆者が、久々に実家に帰って、親の発言を聞いてみると、「とても言葉が汚い!」と思うことがあります。

 TVを見て文句ばっかり。世の中に皮肉ばかり。
 何についても否定から入る。

 いちいち注意するのもキリがないくらい、汚言、悪口が当たり前になっています。

 聞いているとこちらの頭がおかしくなってきそうです。
体調が万全ではなければ、自分ももしかしたらこんな風に言われているのか?なんて人間不信、社会不信に陥ってしまうかもしれません。

 あらためて、「ああ、自分はこんな環境で生きてきたんだな」と感じたりします。

 

 街でも、ちょくちょく目にする光景に、汚言が止まらなくなっているお父さん、お母さん。子供連れのお母さんが、自転車の後ろに子供を乗せたまま、イライラして、子ども相手にずーっと汚言を吐き続けている。子供は小さいために、自転車に乗りながらおもちゃをもって平然としています。
 もちろん、平然していていますけど、無意識に脳はダメージをうけているのでしょうけども。

 以前、筆者がテニス用具店に行った際に、ずーっと家族に暴言をぶつぶつ吐き続けているお父さんがいて驚いたことがあります。筆者はとても聞いていられず、店を出てしまいましたが・・

 

 クライアントさんに聞いてみると、口の悪い家族に囲まれている、というのはケースはとても多い。経済的に自立できない中、親と一緒に住まざるを得ず、口の悪い家族に囲まれて汚言まみれの中で過ごしてい足りといったケース。

 言葉には、とても強い力がありますから、まさに呪縛のような影響力があります。

 そうした汚言まみれの中を生きているため、本来の力が発揮できなくなる。

 特に、閉鎖的な家庭の中は、まさに「汚言の巣窟」といってもいいような状態です。  

 口の悪い家族は、家の外では外面よくすましているのに、家の中では言いたい放題です。

 

 「汚言癖」という病気がありますが、おそらく、私たちは遺伝的にそうしたものを誰しもが持っていて、家庭内という閉鎖的な環境ではそれらが発火して、止まらなくなるのかもしれません。

 

 トラウマティックな世界の対称として、落語的な世界があります。落語に登場する江戸っ子(上方の町人)は口が悪いようなイメージがあります。

 ただ、口は悪いが愛嬌、ユーモアがあり、人を傷つける感じがありません。

どうやら、口が悪いことが必ずしも、呪縛につながる汚言となるとは限らないようです。

 

 では、呪縛になる汚言と、そうではないものとの違いはどこにあるのでしょうか?

 

 その違いは、

  ・自己愛の強い個人としての発言ではなく、分をわきまえた立場からの発言であること。
  ・上に関連して、ユーモア、愛嬌があること。

 という点ではないか、と思います。

 

 呪縛となるような汚言を吐く家族というのは、まさに自己愛が満たされない個人であるということ。
 本当は大事に扱われてよいはずの自分が認められず、満たされず、世の中から無碍な扱いを受けている。
 不全感から解離して“神化”して超越的なポジション、あるいは本当はすごいはずの特別な自分を認めろ、といった立場から世の中に対する呪詛や裁きのような言葉を吐いているわけです。
 もっともらしいことをいっていても、妬み嫉みでしかない。
 自己愛にひびが入って、“恨み”という放射能が漏れ出すような醜さがあります。

 そのため、聞いている側はうんざりするのです。

 ※少し前にはやったニーチェは、まさにこういう状態を批判していました。
 現代人というのは、満たされずにルサンチマン(妬み、嫉み)のもと突き動かされてしまいやすい、として、もうそれはやめようよ、といってその方策を哲学としてまとめていたわけです。

 

 一方、分をわきまえた立場、というのは、簡単に言えば、カウンセリングなどで目指そうとする、愛着が安定した、成熟した人格です。分をわきまえるとは、自他の区別がつき自己イメージが適切なサイズに収まっているような状態。

 愛着が安定しているため、「個人」として自立しなければならないという強い衝動もなければ、満たされずに恨みを抱く必要もない。そのため、嫉妬も比較的小さく、少なくて済む。

 落語の登場人物のように、口が悪くても、分をわきまえているので、相手を裁くという感じではなく、等身大の目線で、本音をぶつけている清々しさがあります。

 さらに、正論を吐いた時も、「なんちゃって!」という諧謔(ユーモア)も付加されていて、多元性への目配りがあり、押しつけがましくありません。

 これらは、機能している家庭で見られる状態です。
 機能している家庭は、家族の中で閉じきらずに外に開かれているために、ローカルルールの横暴さがありません。
 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

トラウマを抱える方にとって家族は、まさに前者の状態、
 家庭が「汚言の巣」になっていることも、呪縛の大きな要因になっているようです。

 

 

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