なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

虐待とまではいかなくても、なぜ、親が子に、理不尽なことをするのでしょうか?

 

最近分かってきている仮説としては
どうやら、動物でも、育児放棄や子殺しといったことが見られるように、人間も含めて動物には、養育のために親子密着するベクトルと、自立やさらなる繁殖のために離れるベクトルとを両方持っているようです。なので、子どもを遠ざけたくなるような気持ちも自然とわいてしまう。

通常は、そのベクトルとの葛藤を、親という公的役割が統合して、子育て~自立までが成立していると考えられます。

 

さらに、人間に特徴的なこととして、複雑に発達した脳はショートしやすく、すぐに解離を起こしまうことがあります。感情が発散できないことで側頭葉が充血してイライラしたりもする。自分がイライラしている原因を目の前の人に帰属して”因縁もつける”。
(自身が不安定な養育環境に置かれてきた場合はなおさらのことで、発達障害などは生まれる前の環境が不安定で、そのためこうした現象をより強く起こしやすくなります。)
自分が神化したような錯覚を起こして、他者を罰したり、排除したりすることを当然と思うようになる。閉鎖的な空間ではそれが起こりやすくなります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

他の犯罪と同様に、残念ながら、虐待自体はなくならない。人間の特性を理解したうえで、悲惨なことが怒らない環境を作る、ということが対策となるようです。

 

 

もう一つ、とくに現代人にとって厄介なのは、「愛」という概念の存在です。
現代の私たちが「愛」としているものの根拠はキリスト教にあるとされます。日本人にとっては、「愛」は外来の思想なのです。

昔の日本人には、「愛」は今のような意味ではなく仏教用語で執着を指すような言葉だったようです。戦国時代にキリスト教が入ってきたときには、「御大切」といった訳が当てられたそうです。人が人に施すものは、日本だと「慈悲」「情」とかそういう言葉が相当するものだと考えられます。

 

キリスト教の愛というのは、公式にはアガペー(神からの愛)ということなのですが、神の愛というくらいですから、人間にとってはかなりハードルが高い。スペックが違いすぎる。

 

人間が実行しようとするのは、素人がプロ野球選手のユニフォームを着てその気になるといったようなもので、能力は伴わず、幻想の中でその気になって酔う、といった状態に陥ってしまいます。

神の愛だから人間には無理だ、とわきまえればなおよいのですが、人間なら愛があるべきだ、と考えられるようになったため、愛のあるふりをして、さらにそれを建前に相手を裁いたり、支配したり、ということが横行するようになりました。

親も子供に嫉妬したり、兄弟間でえこひいきしたり、感情のままに理不尽にふるまうことは当たり前にあります。
それらを「愛」で糊塗するため、親本人も自身の行為の理不尽さや横暴さに気がつきません。

さらに、それを受け入れない相手を「(愛を受け入れないから)人間ではない」として責め立てるようになります。
これが、ストーカーもそうですが、現代のいじめや虐待、ハラスメントの背景にある心性と考えられます。

実際、宗教戦争や人種差別など、自分の考えを受け入れない相手を「人間ではないもの」として排除していった歴史とも重なります。人種差別などは虐待の究極のものですね。

 

なんといっても、ヤハウェとは「熱情の神」「嫉妬の神」(英訳では、Jealous God)という意味ですから、自分のいうことを聞かない相手にはとても苛烈です。
もともと神は嫉妬の塊であったのですが、キリストの唱えた「隣人愛(人類愛)」のおかげで、民族宗教から普遍宗教へと成長することができました。
ただ、「愛(人類愛)」でくるまれていても土台は嫉妬、不完全な人間が扱う場合、地金が現れて格段に残酷な性質を帯びてしまいます。その愛が通じなければ、「人間じゃない」ということになってしまうのですから。

 

親子の例に戻ると、理不尽さ(ハラスメント)を受けた子にとっても、「愛」という概念の影響を振り払うことは難しく、自身も「本当は親は自分を愛してくれているはず」という幻想に入ってダメージを癒さざるを得なくなります。
そして、自身も「愛」を盾に解離して、人を裁く側に回ってしまうことにもなります(ハラスメントは連鎖する)。

 

 

「愛」という概念がなければ、もっとシンプルです。

子どもに対して不適切な対応の親がいれば、「親としてなっていない(役割を果たしていない)」と捉えればよいですし、子どもにとっても「お父さんお母さんは、自分を大切にしてくれない」という認識で済むわけです。

自然と、親を「機能」としてとらえ、変な幻想は入りにくい。

 

親子の関係以外の問題でも、あてはまります。

私たちは、人とのつながりを求めます。
そこに、そもそも人間にはスペック過多の「愛」を持ち出すと、他者と自分との違いに絶望して、孤独に陥ってしまいます。合わない人は徹底排除、そして自分も支配、過干渉される恐れがぬぐえません。
(愛を持ち出せば持ち出すほど人同士はつながれず孤独になるパラドックスは、イギリスの作家D.H.ロレンスなどが指摘しています)

反対に、「愛」という概念を持たなければ、そもそも異なる人間をありのままにとらえやすくなるし、解離して幻想に入りづらくなります。

親子だって、情の水準が下がることもあるし、愛想が尽きることもある、それらは健全なことです。
血のつながっていても気が合わず、理解できないことは多い。そういうもの。

ただ、公的人格として親の役目は果たす。

「愛」とは言わず、情けや慈悲でお付き合いをしていれば、親子はもちろん、人同士はつながることができ、人間らしくいられそうです。

私たちにとっては疑うこともない言葉ですが、「愛」とは、実は外来の概念で、もたらす反動も大きいことを知ることもとても重要です。

 

 

「汚言」の巣窟

 筆者が、久々に実家に帰って、親の発言を聞いてみると、「とても言葉が汚い!」と思うことがあります。

 TVを見て文句ばっかり。世の中に皮肉ばかり。
 何についても否定から入る。

 いちいち注意するのもキリがないくらい、汚言、悪口が当たり前になっています。

 聞いているとこちらの頭がおかしくなってきそうです。
体調が万全ではなければ、自分ももしかしたらこんな風に言われているのか?なんて人間不信、社会不信に陥ってしまうかもしれません。

 あらためて、「ああ、自分はこんな環境で生きてきたんだな」と感じたりします。

 

 街でも、ちょくちょく目にする光景に、汚言が止まらなくなっているお父さん、お母さん。子供連れのお母さんが、自転車の後ろに子供を乗せたまま、イライラして、子ども相手にずーっと汚言を吐き続けている。子供は小さいために、自転車に乗りながらおもちゃをもって平然としています。
 もちろん、平然していていますけど、無意識に脳はダメージをうけているのでしょうけども。

 以前、筆者がテニス用具店に行った際に、ずーっと家族に暴言をぶつぶつ吐き続けているお父さんがいて驚いたことがあります。筆者はとても聞いていられず、店を出てしまいましたが・・

 

 クライアントさんに聞いてみると、口の悪い家族に囲まれている、というのはケースはとても多い。経済的に自立できない中、親と一緒に住まざるを得ず、口の悪い家族に囲まれて汚言まみれの中で過ごしてい足りといったケース。

 言葉には、とても強い力がありますから、まさに呪縛のような影響力があります。

 そうした汚言まみれの中を生きているため、本来の力が発揮できなくなる。

 特に、閉鎖的な家庭の中は、まさに「汚言の巣窟」といってもいいような状態です。  

 口の悪い家族は、家の外では外面よくすましているのに、家の中では言いたい放題です。

 

 「汚言癖」という病気がありますが、おそらく、私たちは遺伝的にそうしたものを誰しもが持っていて、家庭内という閉鎖的な環境ではそれらが発火して、止まらなくなるのかもしれません。

 

 トラウマティックな世界の対称として、落語的な世界があります。落語に登場する江戸っ子(上方の町人)は口が悪いようなイメージがあります。

 ただ、口は悪いが愛嬌、ユーモアがあり、人を傷つける感じがありません。

どうやら、口が悪いことが必ずしも、呪縛につながる汚言となるとは限らないようです。

 

 では、呪縛になる汚言と、そうではないものとの違いはどこにあるのでしょうか?

 

 その違いは、

  ・自己愛の強い個人としての発言ではなく、分をわきまえた立場からの発言であること。
  ・上に関連して、ユーモア、愛嬌があること。

 という点ではないか、と思います。

 

 呪縛となるような汚言を吐く家族というのは、まさに自己愛が満たされない個人であるということ。
 本当は大事に扱われてよいはずの自分が認められず、満たされず、世の中から無碍な扱いを受けている。
 不全感から解離して“神化”して超越的なポジション、あるいは本当はすごいはずの特別な自分を認めろ、といった立場から世の中に対する呪詛や裁きのような言葉を吐いているわけです。
 もっともらしいことをいっていても、妬み嫉みでしかない。
 自己愛にひびが入って、“恨み”という放射能が漏れ出すような醜さがあります。

 そのため、聞いている側はうんざりするのです。

 ※少し前にはやったニーチェは、まさにこういう状態を批判していました。
 現代人というのは、満たされずにルサンチマン(妬み、嫉み)のもと突き動かされてしまいやすい、として、もうそれはやめようよ、といってその方策を哲学としてまとめていたわけです。

 

 一方、分をわきまえた立場、というのは、簡単に言えば、カウンセリングなどで目指そうとする、愛着が安定した、成熟した人格です。分をわきまえるとは、自他の区別がつき自己イメージが適切なサイズに収まっているような状態。

 愛着が安定しているため、「個人」として自立しなければならないという強い衝動もなければ、満たされずに恨みを抱く必要もない。そのため、嫉妬も比較的小さく、少なくて済む。

 落語の登場人物のように、口が悪くても、分をわきまえているので、相手を裁くという感じではなく、等身大の目線で、本音をぶつけている清々しさがあります。

 さらに、正論を吐いた時も、「なんちゃって!」という諧謔(ユーモア)も付加されていて、多元性への目配りがあり、押しつけがましくありません。

 これらは、機能している家庭で見られる状態です。
 機能している家庭は、家族の中で閉じきらずに外に開かれているために、ローカルルールの横暴さがありません。
 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

トラウマを抱える方にとって家族は、まさに前者の状態、
 家庭が「汚言の巣」になっていることも、呪縛の大きな要因になっているようです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

 前回、自他の別を越えてハラスメントを受ける、といった内容を書かせていただきました。

 

 逆に、自分自身が自他の別を越えて、相手を侵犯してしまう、させられてしまう、ということもよく起こります。
「余計なお世話」というものです。

 

 そうしたときは解離させられていることが多く、「相手はわからず屋で道理は通らない」「自分が何とかしなければ」と思い込まされています。

 

 そして、自他の別を侵犯していることを正当化するために、ムリな理屈や自分の価値観を絶対化する(モラハラ)ようなことをしてしまいます。

 

 すると、相手は反発したり、逆に依存してきたりします。

反発されると怖くなって相手をこき下ろし、依存されると、何とかしなきゃ、と頑張って、泥沼になってしまいます。

 

 

 例えば、子どもが宿題をしない、しつけを守らないのは、
どこまでいっても「子どもの問題(領域)」です。

 大人にできることは「こっちのほうがいいよ」と教えてあげたり、手本を見せる、といったところまで、ですが、あたかも自分の問題であるかのようにイライラしてしまうことがあります。

 それは自他の別を越えて、子どもの領域まで侵犯している、ということになります。

 

 結果、ますます子どもは宿題をしなくなります。
なぜなら、介入してきた親が宿題は自分の問題、と手を挙げて宣言しているからです。また、子どもは道理が通らないおかしな人間だ、という勝手な前提も持ち込んでもいます。

 

 人間は無意識に責任の在処を察知していますから、ダチョウ倶楽部のコントではありませんが、手を挙げた人に、「どうぞ、どうぞ」と責任がやってきます。ここでは、手を挙げた親が宿題の責任を負うことになります。

 

 育てにくいお子さんがいることは事実ですから、子育ては簡単ではありません。
ただ、周囲ができることは、環境を整備したり、構造化したり、といったことまでで、実際に行動するのは、どこまでいてもそのお子さん本人になります。
これも、「自他の別」です。

 

 

 介入する親の側も、自分の親から同じような対応を受けてきて、道理の通らない、理不尽な世界で生きてきた方が多いようです。(イライラする親の頭には、子どもの責任を自分のせいにしてくる自分の親の理不尽な声が聞こえているのかもしれません)

 

 理不尽で、道理のない世界で生きてこられていますから、
世の中は道理が通って当たり前だという信頼感や自他の別を分けている状態に対する安心感がありません。

 

 

 

 

 

 また、自他の別を侵犯することが当たり前の環境で育っていますから、自他の別がある状態がどこか冷たいように感じてしまったり、素っ気ないように感じてしまったりします。
壁を越えることが愛情、世話であるような錯覚をさせられています。

 

 一番わかりやすいのは、生後半年~1歳半までの親子のコミュニケーションで、ここでお母さん(お父さん)が忙しかったり、不安定だったりして、十分に抱きしめられていないと、境界を越えて愛情を得ようとしたり、逆に求めなくなったり、両価的で不安定になったり、ということが起こるのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 大人になってもそのスタイルは続き、
自分が相手に領域まで入っていって、何とかしなければいけない(自己愛性パーソナリティ)、逆に正面から要求できず相手が介入してきてくれるのを待つ(依存性パーソナリティ、回避性パーソナリティ)、ということがコミュニケーションの基本となってしまいます。

 関わるところと関わらないところ、自分と他人の領域の区別もつかなくなります。

 

 そして、無理やり「ローカルルール(理不尽な前提)」を作り出して、自分の行動を正当化しようとします。
(壁を越えることは愛ではありません。)

そして、それが周囲に連鎖していきます。

 

 

 恋愛関係では、「自他の別」がよりごちゃごちゃになります。

 「俺ならあいつをなんとかできる」として、自他の別を越えて介入してしまいます。
介入することが恋愛であるという、快感(錯覚)も手伝います。

 相手が問題を抱えていると、
泥沼の中でボロボロになって抜け出せなくなってしまいます。

 

 

 ゲシュタルト療法のフリッツパールズが書いた有名な言葉に、ゲシュタルトの祈り、というのものがあります。

 

 

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
そしてあなたも私の期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
もしも縁があって、私たちがお互いに出会えるなら、それはすばらしいこと。
出会えなければ、それはしかたのないこと。

 

 

 パールズ自体はエキセントリックな人だったそうなのですが、この文句は、人間関係の本質が書かれているように思います。

 

 人間同士は、本来もっともっと距離があって、自分の領域を大きく後退させて狭めて、必要な時、余裕のある分で関わり合うものです。

 

 敬意というのは距離をとることであり、その上で相手に関心を持つことです。
家族でも(家族ほど)、自他の別をしっかりととれる環境をお互いに作ってあげることが、本当の安全基地のあり方なのかもしれません。

 

 なぜ、動物や自然がカウンセラー以上の癒しを与えてくれるかといえば、無用な関わりをしてこないからです。

 

 こうしたことが、現代の自己愛型社会では見えなくなっていたり、コミュニケーションや愛の名のもとに領土侵犯が当たり前になっています。

 愛着不安やトラウマを負っていると、そのことが顕著に現れます。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 機能不全にある家族、夫婦、恋愛に関することでしばしば起こることとして、「恩」とか「愛」とか、「義務」が無限に続くように思わされてしまうことです。

 

 どうしようもない親やパートナーなのはわかっているのに、離れられない。離れようとすると罪悪感を強く感じてしまう。どこまでも面倒を見ないといけない、どこまでも義務を果たさないといけない、と思わされて、離れたほうがいいとわかりながらも関係を続けさせられてしまうのです。

 こうしたケースはとても多いです。

 

 これは、無限の愛は美しい、他の関係と異なり、家族(恋愛)だから当然だ、といったことではありません。

 

 実は、「無限」という感覚は要注意で、ストレス障害(トラウマ)で、報酬系、算数機能が失調して生じる症状の一つです。「恩」とか「愛」とか、「義務」に対する見積もりが狂っているために起こるのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 

 

 無限の「恩」「愛」などは、少なくとも人間には存在しません。

 人間にとってものごとは常に有限であって、適切に見積りされて、「貸し-借り」がまわりまわってバランスされるものです。

 

 もちろん、家族はほかの関係とは違って、貸し借りの総量は大きいわけですが、たとえ家族の同士であっても、目に見えない「貸し-借り」で本来やり取りしています。
(それは2者間だけではなく、世代間で申し送りのようになっているとも考えられます。今、子どもの面倒を見るのは、それを前の世代がしてくれていたりしていたものを次の世代返している、というところがあります。しかし、それも「無限」ではありません。)

 

 もし、無限のものが存在してしまうと危険なことです。
人間には代謝、更新が必要ですが、無限なものは代謝がなく、常に縛られてしまいます。

 

 トラウマによって起こる症状の一つがパーソナリティ障害です。自己愛性パーソナリティ障害の特徴に「限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想へのとらわれ」といったことがあるように、トラウマを負うと、「無限(限りない)のもの」を求めるようになってしまいます。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 トラウマによっておこる別の症状に依存症があります。
ご存じのように、依存症には限りがなく、アルコールや薬物、ギャンブルを身が破綻するまで「無限に」行います。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 もう一つ、摂食障害も同様です。
必要を越えてどこまでも(無限に)痩せようとしたり、飽くことなく(無限に)食べ続けたりしてしまいます。

(参考)→「摂食障害とは何か?拒食、過食の原因と治療に大切な7つのこと

 

 

 このように、「無限」というのは生物にとっては異常なことです。

 

 家族(やパートナー関係)の「機能」も有限であり、常に更新、変化し続けるものです。そして、機能不全な状態が長く続けば、貸し借りのバランスが崩れて、最後は「愛想が尽き」て当然です。そうすることで、支配を避け、別の環境を選択できるようになります。

 

 最近話題になっている、介護問題などは、有限な貸し借りのバランスが大きく崩れたところに起きる問題といえます。(あまりにも負担が大きく、家族だけではその収支を背負えないので、外部のサービスを活用する)

 

 無限の「恩」「愛」「義務」などはありませんし、罪悪感を持つ必要もありません。親しい関係ほど、距離を取ったほうが関係は続くものであったりもします。

 

 無限とは、ニセ成熟の感覚で、本来の成熟とは有限を知ることにあります。

 

 もし、ご自身の中に「無限(と思わされているもの)」があるならば要注意。それは不自然なものではないか?見積もりが狂っていないか?とチェックしてみるとよいかもしれません。何かそこに歪なものが隠れています。

(参考)→「更新されない人間関係

 

 

 

 

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