他者の視点は神の視点ではない。

 前回の記事と関連しますが、

 トラウマを負っている人の特徴として、他人に指摘されると、頭が真っ白になってしまう、ということがあります。

 自分が気がついていない事柄を、欠点を他人が指摘してきた、として、顔面蒼白、足元がひんやりするのです。

 他人の指摘をあたかも「客観的な事実」であるかのように、そのまま受け取ってしまいます。

 その背景には、前回の記事でも見ましたように「自分は不注意で、おかしな考えや行動を取る変な人間」といった自己イメージがあり、一方、「他人はもっと立派な真実を知っている」といった他者イメージがあります。

(参考)→「不意打ちの恐怖」 

 

 

 他者を「神化」している。
 

 本来は、世の中は「主観」と「主観」のぶつかり合いです。
 「客観」なんてものはどこにもありません。

 私たちが普段「客観」といっているものは、あくまで「視点B」「視点C」ということでしかありません。

(参考)→「真の客観とは何か?」

 

 例えば今は新型コロナの問題で、いろいろな専門家が発言、提言をしますが、誰が正しいか?ということを誰も判定してくれることはありません。

 すべて、「専門家Aの視点」「専門家Bの視点」といったことでしかない。

 

 であれば、どこにも真実はないか?といえばそうではなく、物理的な現実を見て妥当性を検証していきます。 科学とはそういうものです。

 人間関係の現場では物理的な現実がわかるまでにタイムラグがあり、そこにローカルルールが紛れ込んできます。
 そのために、「事実に対する主権」を持つことはとても重要になります。

(参考)→「「事実」に対する主権」

 

 

 私たち人間は、自分では自分のことがわからないこともたくさんあります。

 「岡目八目」といって、他者のほうが問題の所在や背景がよく分かるということもよくある。

 指揮官に参謀がいたり、プロの選手がコーチを雇っていたり、というのもそうです。

 一方で、当事者でないとわからないこともあります。
 スポーツで観戦者としてみていて「もっとこうすれば」というふうに思うことはありますけど、当事者の方が深い考えで取り組んでいることもあります。

 昔、高校野球でPL学園と横浜高校との対戦を当事者の証言などで検証したNHKの特集がありましたが、一球一球にすごく深い読みと考えがあったことを知り、驚いたことがあります。

 解説者でもそこまではわからないことです。  

 

 

 歴史学が、過去の歴史事件の背景を研究したりしていますが、どこまでいっても確定した答えというのはありません。
 
 当事者は、当事者の視点で見て限界がありますが、歴史家の方も視点には限界があります。歴史家は「当事者がどう思っているのかもっと知りたい」と思っていたりします。

 つまりは、それぞれに視点がある、ということでしかありません。
 神の視点(絶対客観)はないということです。 

 

 

 私たちの話に戻してみると、私たちも、自分のことで見落とすことは必ず生じます。
(男性だったらズボンのチャックが知らず識らずに開いていることもあるし、寝癖がついていることもある。)

 しかし、それは、簡単に言えばDoingの問題であって、Beingの欠陥を証明するものではありません。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」

 Doingが見落としたことを指摘する他人の視点にも限界があって、ある部分を指摘できるに過ぎません。
 私たちの状態を完全にわかるわけもないことは言うまでもありません。

 
 他人を「神」としてしまうのは、多くは幼少期に受けたローカルルールのためでもあります。幼少期はただえさえ、周囲の大人は完全な存在であるかのように見えます。

 その上に支配的な親である場合は、「ほらあなたはなにもわかっていない」「親である私は何でもお見通し」といったような関わりをする場合があり、そこで受けたローカルルールを真に受けたまま成長したということもよくあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」

 

 子どもに対して自分は完璧であることを示して、「I’m OK」を得るということをしているわけです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」

 人間は自分の存在(Being)の不全を埋めるためには、子どもでも(だからこそ)容易に犠牲にするということですね。

 

 さらに、生育の過程で自分がわかっていなかったことを知らされるような体験を通して、「自分はわかっていない」「不意打ちされる恐怖」が強化されてしまう。

 

 

 例えば、仲の良いと思っていた友達が陰で自分の悪口を言っていた、みたいなこともそうしたケースに当たります。 

 筆者も中学の頃に、親戚のお兄さんが実は筆者を嫌っているというようなことを親から聞かされて人間不信に陥ったことがあります。
 今から思えば親もそんなこと知らせてくるなよ、とおもいますが、とても大きなショックでした。「ああ、自分はわかっていなかった」という衝撃です。

 

 芸人の千原ジュニアが子どもの頃に、友達の親が「あの子(ジュニア)はおかしいから、遊んでいはいけません」というのを耳にして、ひきこもりになった、みたいなことを書いていましたが、その気持は良くわかります。  

 スティグマ感というか、自分が見えない背中に自分がおかしい証拠が貼り付けられているような感じがして、それを他人に見透かされるというような感覚に苛まれてしまう。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。」

 

 

 会社とかでも、なにか物事を見透かしそうな偉い人に接すると過度に恐縮してしまう。
 本やテレビでは、その道のすごい人はちょっとしたことで全てを見抜いてしまう、みたいなことも頭にあって、自分も見透かされるかも、と思ってしまう。

 これらはローカルルールの世界観に過ぎません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 確かに、他者は私たちの背中を見ることはできますが、ただそれだけです。
 足の裏は見ることができない、私たちの内面を捉えることはできない。
 背中を見ている瞬間には前面を見ることはできない。
 

 私たちの身体感覚を感じることができるのは私たちだけです。
 私たちの人生の時間をすべて経験できているのも私たちだけです。
  
 私という人生にログインできるのも私だけです。
  
 
 トータルで見れば、私のことは私が一番捉えることができるし、その権利(筋合い)、その動機は私にしかありません。

 だから、主権というものをしっかり持てていれば、他者も同じ程度に限界のある「主観B」でしかないと捉え、他人から指摘されても、「ああ、ありがとう」「あなたからはそういうふうに見えるのね」でスルーすることができます。
 

 新型コロナのワクチンの治験でも何百万人の反応(意見)を集めても、安全かどうかの「客観」は確定しないのですから。1,2人の指摘なんて何の意味もありません。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬」

 

 

 

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不意打ちの恐怖

 

 トラウマを負った方に多いのは、不意打ちされるのではないか、という恐れが強いということがあります。

“不意に”嫌なことを言われるのではないか? とか、

“不意に”自分が気づいていない欠点、弱点を指摘されるのではないか? とか、

街を歩いていたら、
“不意に”怒られるのではないか?とか、

仕事でも、
“不意に”上司やお客さんが怒り出すのではないか?とか

そういった恐れを持っていたりします。

 

 攻撃が外から来るだけなら、まだマシです。

 その恐怖心を解消し、日常では確率が低い出来事なんだ、ということがわかれば、警戒は解けていきますから。

 しかし、“不意打ちされる”原因が自分にある。だから自分はおかしい。自分はミスが特別に多いのだ。楽観的にわかったつもりになっているとろくなことがない。自分は大事なことに見落としがある不注意な人物なんだ、といった感覚を持っている場合は、なかなかそうもいきません。

 

 外からの攻撃だけではなくて、自分の内部(Being)も信頼できない、という感覚があるからです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」

 

 こうしたことは、ローカルルールによる因縁付け、原因帰属によって生じます。

 例えば、親が自分の機嫌が悪いことに任せて子どもに感情をぶつける。子どもにとったら平和な日常の中で急に怒られる。
でも、その理由を「お前が悪いからだ」として、真に受けると、上記のように「自分は大切なことを見落としていた」「自分はおかしい」と捉えるようになります。

「自他の区別」がぐちゃぐちゃになってしまいます。

 

 相手は単に感情に任せて理不尽なことをしているだけなのに。
 ローカルルールは、ルールとして成立させるために理由をつけて相手に原因を帰属させてしまうからです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」

 

 

 不意打ちの恐怖があることで、物理的な現実への信頼感も低下します。

 「1+1=2」であることが信頼できない。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。」

 

 算数(数学)が苦手な人に多いのですが、単に計算ミスをしても自分がおかしいせいにしたり、なにか魔術的なトリックで答えがすり替わったかのような感覚をもってしまう。

 本当は間違ったところまで立ち戻って、計算しなおせばよいのですが、そういう気持ちが起きない。

 これまでの境遇の中で、積み上がるようなプロセスではなく、“不意に”理不尽な結果が降り掛かってくる経験をしているために、算数で間違いがあっても、同様に感じてしまう。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 仕事でもそうですが、「自分の意見」「自分の考え」を提案するときにも、どこかで、自分の考えには見落としがあって、それを“不意に”指摘されてしまうのではないか?という恐れでビクビクしている。

 

 

 結果、絶対に突っ込まれない内容にしようとガチガチの理屈になってしまったり、過度に完璧を目指そうとしてしまったりします。

 しかし、完璧なものなどありません。誤解や見解の相違もつきまといます。
 ちょっとでも疑問を呈されたり、批判されると、「自分がおかしなことがバレた」という感じに頭が真っ白になってしまう。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚」

 

 愛着的な世界観であれば、あくまで私の意見。完璧なんてありえない。相手の批判もあくまで相手の意見でしかなく、完全ではない。
 だから自分の視点を伝えて、意見を交換する。その結果、さらによいものになるかもしれない、と捉えます。

 

 トラウマ的な世界観ではそうではなく、自分の存在(Being)をかけて、真理か否か?と完璧を目指そうとしたりしてしまいます。
 でも、どこまでいっても真理なんてありませんから異論が出ます。
 それを「自分がおかしい証拠」「真理が崩れた」と捉えて絶望し、顔面蒼白になってしまうのです。

 

 不意打ちされないことをあらゆることの第一条件にしているために、身体も緊張しているし、人の言葉にも弱いし、自然体でいることができません。

 不意打ちの恐怖から逃れる方略として、絶対安全や完璧を目指すというのはローカルルールの世界観、トラウマの世界観です。

(参考)→「「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる」

 

 不意打ちされる恐怖を持っているということは、言い換えれば、「主権がない」ということ。

 自分が自分にまつわる出来事の主権を持っているという感覚を奪われているということです。

 主権を持つこと、自他の区別をもって人と付き合うということをすることは、愛着的な世界観です。

 主権というのは「それが及ぶ範囲が決まる」ということでもあります。
 だから、範囲が及ばない出来事については、不意打ちとも思わない。「自分の責任ではない」として、自分を免責することができるのです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か」

 

 

 

 さらに具体的にいうと、
 相手の理不尽まで含めて「理屈を整えて」反応しようとすると、頭も体も固まってしまいます。

 意味のある反応をしようとすればするほど、かえって相手の呪縛にとらわれてしまいます。固着してしまいます。

 相手の方程式(理不尽さ)も含めて連立方程式を解こうとする感じです。

 

 私たちが解くのは自分の方程式だけです。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化」

 

 ですから、不意なコミュニケーションでうまくいえないときは、「言う言葉がないなあ」といったり、「言葉が思いつかない」と口に出すことです。

 どう動いていいかわからないときは「どうしていいかわからない」。

 相手の言動が訳がわからないなら、「わけがわからない」「急に怖いなあ」「あぶない」。
 気まずいなら、「なんか、気まずいですね」と言葉を発します。

 
 つまり、常に何かを反応して返す。

 お笑いのツッコミなんかはその一番良い見本ですが、不意打ちな理不尽の空気から主権を戻して、自他の区別をつける作用がある。

 言葉が出ない場合は言葉を飲み込む習慣がついてしまっています。身体で言えば喉につまりがある状態。
 

 言葉を発する習慣が戻ると、どうしても立場的に発することができない場合でも、頭の中で突っ込むようになって、自然と自他の区別がつくようになります。
 

 こうしたことをしていくと、“不意打ち”へのトラウマティックな恐怖がなくなってきます。

 

 

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「自分(私)」というものの価値を低く捉えているためにログインできずにいる。

 

 筆者は、中学の頃に吃音になり、思うように言葉が出せなくなります。吃音というのは、自分が出したいときに言葉がうまく出せなくなる原因不明の症状です。
 さらに仲の良いと思っていた親戚のお兄さんから嫌われていると聞かされて人間不信になり、吃音もあって、中学3年~高校では友達がほとんどできなくて悩みます。
 

 高校3年間、友達との付き合いをほとんどせずに勉強ばかりしていたので大学以降でも自然に人と付き合う方法がわからなくなります。

 家庭では、両親の不和があり、毎日のように喧嘩や悪口を聞かされ続けていて、慢性的なトラウマ(ストレス障害)に陥ります。
 非愛着的な世界観の中で足を取られ、トラウマ由来の症状が発症するなど、とても苦労するという経験をしてきました。

(参考)→「非愛着的世界観」

 

 なんとか挽回しようと気楽に喋ろうとすると。自分でも言いたくないけど変なことを言ってしまったり。
 「きついですね」と言われてしまったり傷ついたり。

 人間不信からすごく言葉を吟味して喋ろうとして言葉が重くなっているのに、 「きつい」と言われるとさらに余計に自然体での話ができなくなります。 

 こうしたストレスからてんかんにもなりました。
 てんかんの発作で、突然頭がもや~っと気持ちの良いような悪いような状態にもなります。
 結局は、薬で治ったのですが、薬を飲んでいるときは日中眠くなるため大変でした。

 その上、これもトラウマの影響ですが、気分の低下、鬱っぽさもありました。
 当時の筆者は、辛気臭い、能面のような顔だったのかもしれません。
 
 
 さらに過緊張で緊張しやすいし、人のことを過剰に気にして自然体になれないし、、、、何重苦という地獄ですよね。

 気楽に楽しんでいる人がいる中で、なんで自分がこんな苦労をしないといけないの?と思いました。

 

 こうした状況について当時はどの様に考えたかというと、「自分が悪い部分を認めて、よし、自分を高めるために、自分の欠点を洗い出してそれを改善だ!」ということでした。

 逃げずに努力する、という意識は高かったですから。

 他人をベンチマークして理想の自分になるために、毎日努力する。

 人付き合いもすごくがんばって、話をして、いろいろなところに出ていって、とやっていました。

今思えば、躁的というか、自分のテンションを無理に上げて明るくしているような感じだったと思います。

 心の壁を取り除いて、もっとオープンに、と考えていました(これが大間違い)。

 

 たしかに、努力によってよくなる部分もあるのですが、基本的には「私はだめだ、おかしい」ということが前提にあるために、あるところで限界がやってきます。
 努力するということは、自分はだめだということを暗に強化することにもなる。
 (積み木の玩具ジェンガのように、自分の足元(自尊心)の積み木を抜いて上に足すようなものですから無理があります。)

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」

 さらに、頑張って明るく社交的にしているので、エネルギーを消耗して、だんだんくたびれてきます。心の壁を取り除こうとするものだから、傷つきやすくもなる。

 反動で、人付き合いが面倒になってきます。

 

 努力してもうまくいかないし、だんだん努力することにも怖さが出てくる。

 
 そこで、そうした状況を突破するために、当時流行った「願望実現」とかそうしたことも試してみます。要は、「迂回ルート」ですね。
 いろいろと取り組んでみますが全然うまくいきません。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」

 

 

 次にはそれよりも実際的にということで「無意識の活用」といったことにも興味を持ちます。

 これは色々と参考になるし、助けてもくれますが、気がつくのは、無意識の活用の前提にも「自分(私)」がおかしくて間違いを犯しやすいから無意識に頼る、という理解でいたことです。

 結局、「自分(私)」というものの価値を低く捉えているということ。

 

 そのためか、いつまで経っても「自分の人生は始まらない」という感覚が続きました。

 当然です。「自分(私)」というものを排除すべき程度の低いものとして捉えているからです。
 人生が始まる、始まらないなにもあったものではありません。「自分(私)」を除外しようとしているんですから。
 

 
 さらに、以前の記事でもお伝えしましたが、「自分(私)」というものを出すと攻撃されるとか、嫌われる、という意識がありますから、自分(私)を表に出す、ということをしたくないし、してはいけないと思っているのですから、人生が始まらない感覚も当然です。

 悩みが治るというのは、「自分(私)」を隠したまま問題と感じている症状が取れることなんだ、という理解をしていました。

 

 ここでも、自分で矛盾に気がついていません。
 物理的な現実としての自分は、身体としてあるこの「自分(私)」しかいないのに、「自分(私)」は否定して、隠して、理想的ななにかになることが生きづらさがなくなることだと捉えているおかしさです。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 何が自分にあうのか、何が自分なのかも、すべては「自分(私)」の身体から湧いてくるのですから、それ以外の高尚なものになろうとしてもできるわけがありません。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる」

 

 

 「自分(私)」を回避する手法というのは、一次避難としては良いのですが、解決のメインの方策としては採用してはいけない。

 悩みの症状を取るためにも「自分(私)」というものを避けるのではなく、それが働く環境を整えるようにしていくことが必要。

 心の壁をしっかり持って、自他の区別をつける。人格構造を確立させていく。
 
 風邪のときに、対症療法として解熱剤を飲んで過ごすのではなく、そもそも免疫力を高めるのと似ています。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは」

 

 そもそも、「無意識の活用」にしても、なにか「私」以外の助けを借りる、と捉えていた時点で大間違いだったと今はわかります。
  

 

 別のものの力を借りようという形をとっているとおかしくなって、うまくいかなくなります。
 「自分(私)」ではない別のものに縛られるのが「支配」「依存」ということですから。

 自分の悩みを解決するはずの手法によって、いつの間にか、「自分(私)」の価値を低く見るようになってしまっているとしたら本末転倒なことはありません。

 わたしたちは、「自分(私)」の力をあまりにも過小評価してきました。
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示のためです。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。」

 

 

 「自分(私)」とは、思っている何倍も何十倍もすごいもの、大したものです。

 「自分(私)」のIDでログインすることではじめて自分の人生がスタートする。

 
 「自分(私)」が「自分(私)」としてログインして「自分(私)」の人生を生きる、結局ここに戻ってくるのです。 
 
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」

 

 

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自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。

本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」

 

 では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。 

 なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。

 

 では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?

 その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。

 

 生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。

 子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。

 例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
 親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
 子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。

 そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
 

  
 
 退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。

 
 そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
 「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
 

 もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。

 そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
 

  
 ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。

 人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。

 子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。

 不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」

 

 そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」

 「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。

 

 西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。

 さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
 労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。

 貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。

 そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」

 

 

 「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
  個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。

 具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。

 まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。

 

 
 こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。

 悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。 
 その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。

 例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
 そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
 これらはニセの責任です。

 

 以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化」

 

 西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
 しかも、具体的な社会的な手段によって。

 そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。

 それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる」

 

 

 「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。

 一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
 なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
 
 ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
 多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。

(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない」

 

 

 そこで大切なのは「主権」という意識。
 いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。

 

 

 主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。

 そこでカウンセリング、セラピーの出番。
 その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
 (その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
 

 

 具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。

 自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。  
 その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。

 
 場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
 以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。

 そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張」

 

 

 相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」

 そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
 特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
 それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」

 

 ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」

 
 なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
 「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。

 自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
 
 人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。

(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造」

 

 物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。 
 自分でログインしているから積み上げを感じることができる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」」

 こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。

 
 自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。

 

 

 

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