過去は、“その時期のこと”として自分と切り離して良い

 

 先日、たまたまヤフーニュースを見ていたら、ナインティナインの矢部さんのインタビュー記事が目に止まりました。

「高校卒業する18までは「人間」やったけど、芸人を始めた19から「人間」じゃなくなって無理して無理して……。子供できて40過ぎてからまた「人間」に戻って」といったことが書かれていました。

 

 芸人として売れるために無理をしたり、ピリピリしていたり、というそういう時期というのはあるようです。
 他の芸人さんでもそういう昔のエピソードはよく耳にします。同じ世代同士でケンカしたり、後輩をいびったり、といったようなこと。
 敵意を向けなくていい相手に失礼な発言をしたり、といったようなこと。

 

 明治大学教授の齋藤 孝さんなども、大学院の頃は、ピリピリしていて本当に嫌なやつだった、とご自身が書かれた本で見たことがあります。

 

 若気の至り、といえばそうなのですが、年齢的なことやまだ社会的にも何者でもない状態で、余裕がなければみんなそうなる、ということです。

 

 
 健康な人というのは、その時の環境で起きたことは、「その時期のこと」として流すことができている。

 ちゃんと記憶に主権があって、今の自分からみた解釈ができている。
 
 変に今の自分につなげてしまったりはしていない。ある意味切り離すことができています。

 そこには、「人間は弱い」という前提がありますし、「人間は変化する」ということが当たり前としてあります。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 反対に、トラウマを負った人は、過去の失敗や、痛いエピソードについて、いつまでもフレッシュな状態で変わらず、自分を責める材料にさせられている。
「その時期のこと(今の自分とは違う)」ということがない。

 

 なにより、「理想的であらねばならない」という基準に一度でも抵触した、という感覚から、自分の存在(Being)は汚れたものとして「実態がバレた」、あるいはその罪科を背負っていかねばならないという感覚があるのです。
(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 

 

 「君子豹変」ということばがあります。

 君子とは徳のある人で、豹変は過ちを改める、あるいは自分の意見をガラッと変える、ということです。 

 人間には一貫性の法則、というのがあるように、一貫していないことを嫌いますが、徳のある人は、一貫性にとらわれず状況に合わせて変わっていくし、変えていくものだ、ということです。

 

 君子豹変とは、変化する主権が自分にある、ということだと筆者は捉えます。

(参考)→「記憶の主権

 

 

 

 トラウマを負っていると、一貫性の法則どころか、自分の変化する主権を他者に奪われていて、自分が自由に判断、行動できる権利がないような感じがします。過剰な義理堅さ、に支配されている。

 トラウマによって引き起こされた、過去の失敗を「自分の責任」として引きずり、ずっとそれにとらわれている。 

(参考)→「「終わりがない悩み」こそニセモノである証拠となる。

 

 また、誰かからのイメージを忖度して、そのイメージ通りの自分でなければならない、なろうとしてしまう。

 誰かが「~~は、誰からも好かれない」「~~は、真面目な人間だ」というイメージを持っていると思えば、そのイメージに重力のように引っ張られてしまう。
(多くの場合、父親とか母親とかの言葉、イメージに従っている)

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 変わることがよくないことのような感じがして、固定されたイメージに無意識に沿ってしまう。実はそれは誰にでもあるような気がしているのですが、そうではありません。トラウマの症状です。トラウマとは自律神経の失調でもあり、代謝の異常をもたらします。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る
 

 

 私たちは、人生の直々で状況は変わりますし、苦境にあっては、なかなか痛い行動をすることもあるし、失敗も当然ある。みんなそうです。

 それにいつまでも向き合う必要はない。あっけらかんとするくらいに過去は別の人間、別の時代としてしまってよい。

 時期時期で「あの時代はこうだった」と区切ってしまって、もうそれは自分であって自分ではない。別の人間と捉える。
今の自分からは切り離していく、ということが当然のことといえるのです。
 
 
 主権は「今の自分」が持っていて、過去の自分はあっけらかんと切り離しつつ消化して、常に「今の自分」が統合していくのです。

(参考)→「記憶の主権

 

 

記憶の主権

 
 筆者も、過去の失敗がフラッシュバックのように襲ってきて、自分を否定する衝動が襲ってくることがあります。

 特に、トラウマを強く負っていたときは、顔から火が出るような言動がありました。

 「トラウマのせいなんだから、仕方がないじゃん」ということですし、それでいいのですが、なぜか“自分の問題”だと思ってしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 皆様も、自分の過去について重く引きずっていることは結構あるのではないでしょうか?
 悩みとは、結局、その過去の負債をどうにかしたい、ということだったりします。

 
 でも、負債の重みがなかなかとれない。処理しきれない。

 もちろんこれはニセの責任のせいです。
他人から負わされた負債を背負っている、ということで、本当は自分の負債ではない。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 
 親の借金を負わされてそれを返済した人の話をよく耳にすることがありますが、まさにそんな感じ。

私たちは家系や環境からの負債(ニセの責任)を負わされていることがよくあります。

 いじめで後々まで残るような心の傷を負った。会社のパワハラ、モラハラで自信を奪われた。

誰の責任か?といえば、加害者に決まっています。

 なのに、被害者が負債を背負っている。

(参考)→「悩みとは実は他人(親など)の責任の尻拭いだったんだ?!

 

 大切なのは、「ニセの責任なんだ」と気づくこと。「自分の問題ではない」と気づくことです。

 

 

さらに、重要なことがあります。

 それは、「記憶の主権」を自分に取り戻す、ということです。

 過去の記憶について、公開や恥、自責の念がある、というのは、過去の自分の記憶を解釈する権利を他者に奪われている、ということ。

過去の自分の記憶について、それを解釈する権利は、本来自分にあります。

 しかし、いじめや虐待、ハラスメントといったことは、他人にストレスを与える、ということだけではなく、過去の記憶の主権を私たちから奪います。

そして、ローカルルールのおかしな理屈で私たちの記憶を解釈してしまう。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

  
 時間が経っても、いろいろな取組をしてもなかなか過去について自責の念や、後悔が抜けない、といったときには、必ず「記憶の主権」がなくなっている、ということがあります。

 そして、「これは、記憶の主権が奪われているのだ」と気づくだけでも、自責の念や後悔はぐっと減ります。

 

 結局、弱く不完全な人間でできている社会の中で、自分の記憶を解釈する権利は自分にしかない、という当然のことに気がつくと、自分の体に力が戻るようなそんな感覚になってきます。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 

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弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 経営学者として有名であったP.F.ドラッカーは、社会が成立するための一般理論、全体主義の研究において、非常に優れた書籍を残しています。
 人間が自由であるためにはなにが必要なのか、をわかりやすくまとめています。

 

 『産業人の未来』という本の中で、

 「人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる」
 「人間を完全無欠のものとするならば、自由は完全に否定される。」

 反対に、

 「人間を基本的に不完全で、はかないものとするとき、初めて自由は、哲理上、自然かつ必然のものとなる。」と述べています。

 

 どういうことかというと、
 ある人間が完全無欠である、あるいは、自分たちが完全無欠な真理に到達できる、という考えの前では、疑ったり、自由に選択したり、ということが愚かな行為とみなされ否定される。

 反対に、完全無欠な真理とは存在するかもしれないが、それは人知の及ばないところにあって、私たちは、自ら懐疑し、選択する存在である。

 「多元的で多様な社会、人間」という連立方程式を解ける人間は存在しません。 
 だから、それぞれの多様さを認めて代表しながら、自らの役割の中で意思決定を行っていく。そうしたことが「自由」というものです。

 

 完全無欠、という考えの中には、多様さはありません。
 

 

 

 
 と、難しい理屈は置いておいて、実際に私たちが感じる生きづらさをみればこうした事はよくわかります。
 他者が自分よりも正しいように感じて、自分の考えや選択にいつも自信がない。
 「あなたの考えや行動は間違っている。これが真理だ」といわれるのではないかと、ビクビクしている。

 完全無欠へのあこがれがあって、しゃにむに努力したりもしますが、結局、完全無欠は得られない。 

 むしろ、自分の態度が力みすぎたり、傲慢になったりして、そのことを他人に指摘されて落ち込む。

 
 他者に完全無欠を見出そうとして、恐れを感じたり、反対に、依存的になったりする。

(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 

 そうして、気がつくのは、自分に「主権(自由)」がないということ。

 植民地の住人があくせく動き回っているみたいに、見かけの行動(Doing)の自由はあるかも知れません。でも、存在(Being)の自由はない。

 トラウマを負った私たちは、行動力は他人よりありますが、そこに自由(私)はないのです。
(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 興味深いことは、哲学や社会学や政治学レベルの考察でも、弱さ、不完全さと自由とは密接につながっている、と考えられていることです。
 (自由とは、主権と言い換えてもよいでしょう。)

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 弱さ、不完全さを認めるとは、「こんなダメな私でもがんばって生きます」といった感傷的なことではありません。ローカルルールから自由になり、現実を見る、事実を捉えるということです。

 弱さ、不完全さを認めることで、「私」というものが立ち上がってくる。
(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 弱さ、不完全さを必死に隠して、自分が立派だと必死に証明しようとすることは、実は、ローカルルールの世界を肯定し、知らない間にそこに巻き込まれてしまうことになります。

 反対に、弱さ、不完全さを当然の前提とすることは、自他の区別をつけ他者の干渉を遠ざけ、自分の主権を取り戻すことになるのです。

 

 

 

「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる

 
 私たちは、人に弱みを見せるとダメだと思っています。
 学歴、病歴、職歴、あるいは、日常での失敗談、などなど、

 そうした失敗があたかも自分の存在の愚かさ、どうしようもなさを証明するかのように感じてしまい、口を閉ざしてしまう。

 口を閉ざすというのは、つまり、自分の中では永続的に自分を責める負の材料、ローカルルールを証明する証拠としてあり続けるということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 例えば、大学進学の際に浪人した、とか、志望校に行けなかった、というのも自分の頭の悪さ、努力ができない性分(Being)を根源的に示すように感じている人はいて、そのことを人に話せない、なんていうこともあります。

 

 最近では弱まっていますが、離婚した、ということや、反対に独身であることが自分が変な人間だ、ということになりはしないか、と思っていることもある。

 仕事で失敗した、トラブルになったことがある、ということなども、自分のおかしさを示すものとして表に出せない、と思っていたり。
 (実際、不祥事を苦に自殺をする方は少なくありません。)

 

 友だちが少ないことが致命的なことだと思っていることもよくある。
 (高校生や大学生は一人でご飯を食べているところを見られたくないので、トイレで食べたりすることもあるそうです。)

 

 主婦(主夫)であれば、料理が下手とか、家事が不得手といったことが、自分を駄目だと証明する証拠だと感じられていることもよくあります。
 (実際、インスタント食品は当初手抜きと感じられて売上が上がらなかったのですが、メーカーが「賢い主婦ならこれを選ぶ」ということを打ち出して売れるようになった、という有名な事例があります。)

 

 実際は、みんなできることしかできていないし、失敗もしているし、普段しっかりしている人が部屋の片付けが苦手だ、なんていうことはよくあることです。

 しかし、日常で間違った買い物をした経験についても、「そんな失敗は自分だけで、自分はもしかしたら間抜けでどうしようもないかも」なんて思っていたりするから、隠そうとする。

 

 

 筆者も、失敗はたくさんありますが、最近思い出したものとしては

 昔、お金に関して大きな失敗をしたことがあります。
 瞬間的な為替の変動で、自分の200万近い大金が一瞬で無くなったことがありました。システムの不具合なのかな?とおもっていると、お金がなくなっている!?
 しばらくは頭がぼーっとして、誰にも言えない、ということがありました。
 慣れないものはやるものではないな、と痛感した出来事です。これは、筆者の行動(Doing)の不完全さの故です。
 “自分だけが”こんな失敗をしてしまうのだ、と感じてもいました。

 

 普段は思い出すこともなく過ごしていましたが、このエピソードを久々に思い出したのは、久方ぶりにあった友人と話をしていた際のことです。

 その友人は、しっかりもので、グループだと必ず感じの役回りをするような人です。

 

 海外旅行が好きで様々な国を旅行してるのですが、あるとき、航空券を購入する際に、ドル建てであったのもあって、単位を間違えて、100万円のチケットを購入して、知らずに搭乗していたことがあるそうです。
 帰国し、あとから届いた請求書に絶句したというのです。

 

 普段はしっかりしているのですが、そんな失敗もしたりしている。
 「ああ、人間は誰しも、色々と失敗をやらかしているよなあ・・」(そういえば、自分も昔、ミスで大金を失ったことがあったなあ)と感じたのです。

 

 

 筆者のケースや友人のケースはお金についてですが、人間関係、家族、仕事、などなど、テーマや内容は違いますが、皆それぞれやらかしていたりするものです。

 
 ただ、多くの場合は、学生時代に「テスト勉強してない」と平気で嘘をつくみたいに、皆「私、失敗しないので」と隠しているだけです。 

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている」  

 

 ローカルルールに取り憑かれている(トラウマを負っている)と、そのことが見えなくなる。自分の秘密なのですが、ローカルルールによって善悪の評価が入ってしまっていると、それはもう自分の秘密ではなくなる。
 ローカルルールによって、「立派であるはずの人間の中で、お前はそうではない、おかしい」ということを暗示する秘密として持たされることになります。

 

 ローカルルールとは多くの場合家族からやってきますから、自分の秘密だったものがいつのまにか、いわゆる自分を縛る「ファミリーシークレット」となってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  
 

 

 さらに、不全感を抱えてローカルルールに影響されていてYour NOT OK を必要としている他者が近づいてきたりします。
 「そんな失敗をするというのは、あなたはよほど人間がおかしい」と言われてしまったりする。
 このローカルルールの連鎖で秘密がさらに秘密になって、抜けれなくなってしまいがちです。 

 子ども時代、学生時代の失敗が未だに自分のおかしさを証明するものとして刻まれているという方も多い。

 

 ずっと親から言われたこと(「こうあるべき」)を実現しようと頑張っている人もいる。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 実は「人間は弱く、不完全だ」と捉えて、「私は~」といい、自己開示していると、そうした人は寄ってきにくい。「私も、素晴らしい存在であるはずの人間の一人ですよ・・」と失敗を隠している方が、人からの批判はもらいやすいものです。

 なぜならば、後者はまさにローカルルールの世界観だからです。
 ローカルルールを肯定するような前提で話をしているので、ローカルルールが維持されやすい。「自分はおかしいのでは?」とビクビクしているわけですから。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 前者は、「すべての人間は弱く、不完全だ」という前提ですから、他者も介入しにくい。
 「あなた、何様のつもり。あなたも弱く、不完全ですよ」と言われたらローカルルールのおかしな熱も冷めてしまいます。
 行動(Doing)が完全な人などこの世に一人もいないのですから。
 ローカルルールによって失敗を取り繕っている人か、パーソナリティ障害傾向で自分の不完全さを自覚できていないか、ということだけです。 

 

 就職活動の面接において、挫折経験を聞いたりすることがよくあります。
 よくあるということは、「誰でも挫折はあるはず」で、「それこそが成熟(人格の統合)をもたらす」という常識があるからです。
 

 

 自覚できていない人でも、「すべての人間は弱く、不完全だ」という前提から話をされると、その人の中のアダルトの部分が活性化するので、「たしかにそうだ」(≒「自分のローカルルールに巻き込む余地はここにはない」)となります。
(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 

  
 「人間は弱く、不完全だ」という当然の前提、いいかえれば愛着的世界観、人間観からスタートすると、安心安全な環境、生きやすい状態を作られていくのです。
(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 

 

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