未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 以前取り上げた経営学者のドラッカーの本に「すでに起こった未来」という邦題のものがあります。

 ドラッカーは、多くの「未来予測」を行って、多くの示唆を与えてきましたが、ただ、意外にもドラッカー自身は未来予測はできないと言っています。

できることは今すでに起こった未来を捉えることだけだ、というわけです。

 今すでに起こった未来を捉えるだけでドラッカーは、非常に示唆に富んだ知見を提示していたのです。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる
 

 

 今すでに起きている未来というのは、「物理的な現実」という観点で見てもわかります。未来のことは誰もわからないのですが、今ある「物理的な現実」から延長してどうなるかはある程度わかったりします。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 例えば、家とかマンションの建設現場でまだ基礎を作っている段階。家やマンションは完成していません。しかし、計画、工程表があって、何ヶ月後にはマンションになることは「予定」されているわけです。

 よほどの災害とか倒産でもない限り、何ヶ月後かに立つであろうマンションの存在を通常疑うことはありません。

 目の前にある「物理的な現実」は建物の基礎でしかありませんが、その「予定」を含んで捉えています。

 

 植物の種があったとして、まだ芽も出ておらず、葉も出ておらず、実もなっていないわけですが、これを植えて育てれば実になるだろう、ということはある程度は「予定」されています。
 特に、複数の種があれば、ほぼ確実だと言えます。

 現代において、今年や来年の食料がなくなることを私たちは心配してはいません。
 季節が来ればスイカがスーパーに並ぶ、ナシが並ぶ、新米が出荷されることは「予定」されています。

 

 人間の子どもに対しても同様で、子どもとはいえ大人が一方的に価値観を押し付けず、個性を尊重して育てることが大切だ、というのも、それが道徳的にそうだからではなく、将来、子どもが一人の独立した大人になる、ということが「予定」されているからです。

 特に健康な世界であれば、ほぼ問題なく未来は予定通りになるわけですから、その「予定」も含んで、相手へのリスペクトを持って私たちは目の前の人間や事物に対して向き合っています。

 

 こうした「予定」も含んだ向き合い方というのは「愛着」の特徴と言えます。

“安心安全”というのは物事が予測できること、「予定」されていることだからです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 愛着的な世界観では、現在の物理的な現実には「予定(未来)」も含まれているのです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 物理的な現実という観点から見た自分自身についてもそうで、今の自分だけではなく、未来の「予定(自分)」も含んでいます。

 それは、継続していけば積み上がっていくであろう「経験」や「技能」であったり、「機会」であったり。

 その予兆は現在にもすでにあるわけです。
 

 

 実は私たちはその予兆を体感レベルでは感じ取っていたりします。それが未来への楽観であったり、予感として漠然と感じ取られていたりします。
 懐疑的な意見や視線は、「愛着」がフィルタを掛けて取り除いていってくれます。その上で周囲からの物心両面でのサポートが十分であれば「やる気」となって湧いて出て、行動となって具体化していきます。
 
 物理的な現実の積み上げは更に促進されるわけです。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 

 「非愛着的世界観」では、こうはなりません。「予定」というものへの信頼が低い。

(参考)→「非愛着的世界観

 目の前の物理的な事象に対して「予定」というものを含めて捉えることができない。

 非常事態モードですから、将来何が起こるかわからない。安心できないという感覚があります。

 

 これが自分自身に対しても向かってきます。

 そのために、直感としては「自分は大した人間だ」ということは感じるのですが、目の前の物理的な現実に対して「予定」を含んで捉えることができない。

 今のコンディションが悪いから「自分はだめな人間だ」、過去に失敗があったから「おかしな人間だ」と表層的に捉えてしまう。
 未完成の過去や今の自分を卑下する感覚しかわかない。他人のこき下ろす言葉をそのまま受け取ってしまう。
 

 
 本来は、前回紹介しましたウェーバーの言葉のように、「それでも」といって、「ゆっくりと穴を開けていく」ところで折れてしまって、「やっぱり、自分はだめな人間だ。それが現実だ」として、くじけていってしまいます。

 「俺はまだ本気出してないだけ」というタイトルの漫画がありましたが、将来の可能性を「予定」として感じ取っているというのは決しておかしなものではありません。それは健全な自尊心です。

 

 もちろん、現在を未来につなぐのは、行動であったり、あるいは「待つ」ということであったりします。
 くじけてそれを壊してしまっては、「未来(予定)」も失われてしまうことは言うまでもありませんが。

 

 中国の「中庸」という古典にも
「至誠の道は、以って前知すべし」という言葉がありますが、現在の物理的な現実の中に「予定」を感じ取って、人生を作っていく、ということは人間にとって正常な姿です。

 

 ただ、トラウマがあると、「未来に対する主権」を奪われて、やる気の起動も起きず、行動の具体化も起きないままで、積み上げに時間がかかってしまい、本当に諦めてしまう、ということが起きてしまうのです。

 「予定(未来)」というのは、「物理的な現実」のうちに含まれていますから、物理的な現実の力を借りることができていないと、未来が立ち現れることにも余計な時間がかかってしまうことになるのです。 

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 

 

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「事実」に対する主権

 

 先日の記事では、物理的な現実の力を借りることがとても大切であることを数回に渡ってお伝えさせていただきました。

 物理的な現実の力を借りることそのものは難しいことはありません。
積み上げやカットオフができるまでの間、「待つ」ことができれば変化してきます。

(参考)→「「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 

 

 極端に言えば、ただ時間を過ごしているだけでも物理的な現実は積み上がっていって満たしてくれます。

 例えば、統合失調症とか、発達障害でも「晩熟」とか、「晩年軽快」という現象が知られています。
重いケースであっても、歳をとっていくと軽くなっていくのです。
 その方がなにか特別なことをしているわけではないですが、バックグラウンドで物理的な現実としての自分は積み上がっていっているということだと考えられます。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント」「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴

  
 だから、物理的な現実の力があることを知り、日常に取り組めれば多くの場合問題はありません。

 

 ただ、ここで疑問が浮かんできますが、「でも、(物理的な現実の力を借りれず)うまくいかない人が多いじゃない?」「私もそう」と。

 そうです。多くの場合、待てなかったり、途中で諦めてしまいがちです。
 経験が積み上がる感覚がなく、いつも出来事を流しているだけのように感じる。

 それどころか、待っていれば積み上がるところを、自分で壊していってしまう、という感じ。
 

 多くの人にとって、物理的な現実を実感できない、その力を借りることができない(実感がない)、焦りや不安が大きいという悩みがあります。

 

 

 その理由はなぜかといえば、「事実に対する主権」がないからです。

 まず、私たちの目の前にある事象というのはそれだけでは「事実」とは言えません。そのことは、以前の記事でも何度かお伝えさせていただきました。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する」「「事実」とは何か?その2

 

 たとえば、新型コロナの治療薬としてアビガンが注目されました。
少なくない医療関係者が「効果がある」としました。でも、治験をしてみたら「効果は実証できない」となりました。

 つまり、「アビガンが新型コロナウイルスに効果がある」ということは、“事実”とは確定できなかった、ということです。

 
 もちろん、人間の意識の以前に、物理的な現実というものは存在しています。
アビガンが効果がある、というのも「物理的な現実」かもしれません。
 しかし、人間がそのことを認知するためには、時間がかかったり、検証を要します。

 アビガンの効果も、時間をかければ否応なく物理的な現実として立ち現れるのかもしれませんが、薬の治験や検証は、それを実験によって短期間に集中して確かめようとする試みです。

 

 

 科学の実験も同様です。
 ある成分が病気に効く、ということは人間の認識以前に物理的な現実として存在していますが、それを私たちが認識できるように、積極的に活用できるようにするために実験はあります。

 その検証や確定にかかる時間が、私たちにとっての「質的転換(カットオフ)」に要する時間とも言えます。
  

 認知しづらい物理的な現実を、認知できるようにしたものが「事実」というものです。

 

 同様に、「私たちが何者であるか?」ということも、私たち自身は物理的な現実なのですが、それを認知できるまでにはある程度の時間を要します。

 人間社会でややこしいのは、その時間や認知のギャップを狙って「ローカルルール」の邪魔が入る、ということです。

 「あなたなんかにできるわけがない」とか、「他の人はできてもあなたはそうではない」「いい気になっているとろくなことがない」とか。

 特に親など身内の言葉は強烈です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 そうすると、物理的な現実を積み上げていても、「質的転換(カットオフ)」まで待つことができず諦めてしまったりしてしまうのです。

 物理的な現実の積み上げはバックグラウンドでも日々生じていますが、積極的に促進することができなくなってしまいます。右往左往して、時間が余計にかかることになるわけです。

 

 

 トラウマを負っていると、「間違った素直さ」「過剰な客観性」というものを持っていることがあります。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる」「「過剰な客観性」

 簡単に言えば、他人の言葉をそのまま客観的な事実、事実を担保する意見として受け取ってしまう。
 
 自分の感覚のままでいては勘違いして失敗してしまうから、他人の意見をよく聞かなければと思ってしまう。

 

 筆者も昔、大学の研究室にいた頃に研究が全くうまく行かず、先輩とか先生の意見、助言を聞くのですが、皆言うことが違うのです。
 先輩や先生というのは、まさにそれぞれの分野で優秀な業績を収めている人だったりするのですが、じゃあ、その意見を受けて足し算すればいいかといえばそうではない。

 すると訳がわからなくなってくる。

 あるとき、「あまりアドバイスを聞きすぎても良くないよ」と言われたことがあります。

 なるほどと思うのですが、じゃあ、自分の考えでやったらまた突っ走っておかしな失敗をするのではないか?と恐れて、結局、人の意見をばかりを聞いて、自分を見失う、ということがありました。

 

 

 ここでわかるのは「物理的な現実」を感じ取れるまでにはある程度時間がかかるので、その間の時間は、自分が意思を持って、主体性を持って向き合うしかない、ということです。

 言い換えれば、「主権」をもって事実に向き合う。

 
 主権を持って向き合うとは、目の前にある事象を検証し、物理的な現実の兆候を逃さず、捉えていく、ということです。

 

 例えば、何かのプロジェクトを行っていて、「もしかしたら失敗するかもしれない」と不安になることもあります。「どうせできない」「うまくいくわけがない」といわれます。

 でも、「プロジェクトがうまくいった」という物理的な現実が現れるまでには時間がかかります。

 なので、コツコツとレンガを積み上げながら、日々現れる事象については、自分が主権を持って解釈を行っていく必要があります。
 
 そして、危うい方向に行っているなら修正する。
 人の意見については、フィルタを掛ける。ネガティブな意見は鵜呑みにしない。嫉妬、やっかみでおかしなことを言う人も多いものです。

 直近の事象はネガティブなことばかり、といった状態であることもしばしば。

 めげずにレンガを積み上げていく。
 するとやがて「質的転換(カットオフ)」が訪れる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 この過程が、「事実に対する主権」のある状態です。

 

 

 別の場面で言えば、

 他者から、「あなたは、嫌な人だ」と言われたり、「あなたはおかしい」と言われたりしたとします。でも、それは意見でしかなく、事実ではありません。しかも、サンプル数は1しかない。

 他者の意見を真に受けて「私は嫌な人間だ」と思うというのは、「事実の主権」がない状態です。

 他人から何を言われようが、物理的な現実としての自分は1ミリも変化ありません。 

 多くの場合は、入り口のところで、「失礼なこと言わないでください!」とはねのける。

 発言者の人格や様子から発言を検証をしても良いな、と思ったら自分がもつ「代表」という機能を通じて検証を行う。
 検証を行っても、ほとんどの意見は却下してよいものです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 こうした状態も「事実の主権」がある状態です。

 

 大切なのは、「事実」とは他者から直接には得られない、ということです。
 他者の意見とか評判というのは事実を知らせる手段としてはあまりにも貧弱で、信頼性が低いものです。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 他者というのは物理的な現実が立ち現れてから間接的に知らせてくれる存在であって兆候の段階で「事実」を掴むことができるのは自分しかいないということです。

 直接、自分がさまざまな予兆を感じて、さらに、自分の体感を感じてしか「事実」はつかみ得ない。 

 途中で弱気になって「人の意見を聞いてみよう」ではうまく行かない。

 

 

 以前取り上げた政治学者のマックス・ウェーバーが「職業としての政治」という本の中で、以下のように言っています。
 ※職業というのは「ベルーフ」といい、「使命」とか「天職」という意味です。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

「政治というのは、硬い板に力強く、ゆっくりと穴を開けていく作業です。」
「情熱と目測能力を同時に持ちながら掘るのです。この世界で何度でも不可能なことに手を伸ばさなかったとしたら、人は可能なことすら成し遂げることはなかった。これはもちろん絶対に正しいし、歴史的な経験はすべてこのことを証明しています。」
「そして、導く人でも英雄でもない人も、あらゆる希望がだめになっても持ちこたえるハートの強さで、今すぐ武装しなければなりません。さもなければ、今日可能なことすら実現できない。自分の立っているところから見て、自分が世界のために差し出そうとするものに対して、この世界があまりにも愚かでゲスだとしても、それで心が折れてしまうことなく、こうしたこと全てに対してすら「それでも」ということができる自信のある人だけが、政治への「ベルーフ(使命、天職)」を持っているのです。」

 政治というのは、自分の仕事や生活と置き換えてみることができます。

 

 私たちは、日々「自分ってなんだろう」とか、「自分のやりたいことってなんだろう」と考えますが、結局占いをしても、人に意見を聞いてもそれは絶対にわからない。

 目の前の世界が「あまりにもおろかでゲスだとしても」「あらゆる希望がだめになっても」主権を持って、「それでも」といって、「ゆっくりと穴を開けていく」ことで、物理的な現実の兆候としての「事実」を掴むものだということです。

 そうしていると、そのうちに、誰がなんと言おうとねじ伏せるような「物理的な現実」は立ち現れてくる、ということのようなのです。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる」 

 

 おそらく悩み、生きづらさというのは、その「物理的な現実」がたち現れてくるまでの時間差を悪用して主権を奪う妨害でしかないのかもしれません。

 自分の悩みは変わらない、自分は良くならない、とネガティブに感じるときに、その解釈はローカルルールのものであることはしばしば。
 その裏に直感する「でも、自分は本来はこうではないはず」というほのかな感覚が実は「事実の主権」の土台となるものです。

 

 

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「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 言葉やイメージによって人を操る、というと新興宗教の教祖とか独裁者が浮かびます。

 有名なところでは、ナチスのヒトラーがいます。

 巧みな宣伝と演説で人々を熱狂させて権力を握って、ユダヤ人を虐殺したり、戦争をしたり、と考えられています。

 親衛隊のユニフォームは有名デザイナーにかっこよくデザインさせて、ヒトラー自身も多くの人に支持されるようにと軍人にもサラリーマンにも労働者にも見えるような制服を着ていました。
 党大会では一糸乱れぬ行進と、サーチライトを光の柱に見立てて幻想的な風景を演出したり、といったように。

 そんなことから、大衆というのは、言葉とかイメージで簡単に操られてしまう、と考えられてきました。 

 

 

 しかし、最近の研究ではこうしたことは否定されています。 

 どうやら「巧みな宣伝で人々を熱狂させた」という事自体がナチスの宣伝だった、ということのようです。

 今残っている映像などは、ナチスが撮ったものなので、宣伝がうまくできているように見えるように編集されているわけです。

 

 
 実際のナチスの宣伝の方法などは、他の政党もやっていたもので特別なものではなかったようですし、それほど巧みでもなかったようです。 

 しかも、当時のナチスの支持率は高くなく、政権を取れたのも偶発的な要素も強い。
  
 宣伝の力というよりも、どちらかというと、議会戦術で他党が妥協しているあいだに権力を握った、というのが実際のところです。
 

 現代のプロパガンダの元祖ともいえるナチスの実態もこのようなもので、言葉やイメージで現実をなんとかできる、というのは、実はかなり怪しい「神話」なのです。

 

 そのナチスドイツは、戦況が不利になってきた1943年に、宣伝大臣が巧みな演出で盛り上げた演説を行います。
 宣伝大臣自身が「最高」と自賛するような演説ですが、その結果はどうなったでしょうか?

 戦況は全く好転しませんでした。当たり前です。巧い演説したからと言って敵が手を緩めるわけはありません。

 当時は東側でソ連と戦っていましたが、ソ連は大量の戦車と人員を投入して怒涛のように迫ってきます。

 1年後には、国内でもヒトラーを暗殺しようという人が出てきます。
 このように人々が熱狂的に支持していたわけではありません。

 さらに、ノルマンディー上陸作戦の成功で、米英軍も西から迫ってくる。

 結局、左右から挟まれるように首都ベルリンが陥落して負けてしまいました。

 宣伝が巧みといっても、実際はこのようなものです。

 
 

 同じ時期、日本も戦争をしていましたが、最終的に、世界の5分の4の国を相手に戦うような状態に陥っていました。
 
 「軍部が暴走して、人々はいやいや悲惨な戦争していた」と私たちがイメージするのと違って、当時の日本人の戦意はとても高かったようです。

 一般市民もアメリカとの戦争を期待していて、慎重な政府や軍部の上層部もその声を無視できず、「ここで引き返しては世論やすでに中国大陸で犠牲になった人たちに顔向けできない」という面子もあって、ズルズルと戦争に突入していったという要素も強いようです。
 (新型コロナで政府が世論とマスコミに押し切られて緊急事態宣言を出した状況とどこか似ていますね。)

 先日の記事でご紹介したような日記もなぜあのような言葉出てきたかというと、「負けるはずがない」と考えていたからです。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 

 でも、戦意がいくら高くても、「負けるはずがない」とおもっていても、物理的な現実には歯が立ちません。
 最新鋭のB29の大編隊で空襲されて焼野原になる、さらに原爆も投下されるなどして、ご存知のように日本も負けてしまいました。

  
 言葉やイメージは、「物理的な現実」によってかんたんにねじ伏せられてしまいます。

 

 

 例えば、現代でも、電通などの広告会社がキャンペーンをしたりしますが、何十億円を投じても、失敗することがあります。

 平成は「モノが売れない時代」といわれましたが、そんなときにいくら巧みに宣伝をしても人々が熱狂して買うなんてことはありません。

 
 じつは売れるモノというのは最初から売れる要素・価値があって、宣伝というのはあくまで早くそれを必要な人に伝えるためにあるものなのです。

 

 

 確かに、言葉というものが持つ力、というものはあります。
 人を勇気づけたり、感動させたり。時代を先どったり。
 
 ただ、それは言葉が時代をつくる、というよりは、あいまいな時代の変化を「代表」して表現している、というもので、言葉が時代、社会を変えるというものではどうやらないらしいのです。

 糸井重里さんなどが、「おいしい生活」などのコピーで80年代を代表しましたが、あれも、キャッチコピーが時代を変えたのではなく、時代の空気を感性でキャッチして言語化した、としたほうが適切。

 

 
 近年は災害が多いですが、歌手などのアーティストが、「こういうときは、僕たちは無力で」みたいなことをおっしゃるのをよく耳にします。
 
 筆者などはそうはおもわないのですが(「歌は十分に社会の力になるよ」とおもいますが)、確かに、災害が発生した直後は、物資がまず第一。直接的な物理的な援助こそ求められるというものです。
 言葉でいくら励ましても、物理的なものがなければたちゆきません。

 カウンセラーなども同様で、災害時への対応の指針となる「サイコロジカル・ファーストエイド」というものがあります。
 その中でうたわれているのは、「見る・聞く・つなぐ」というものです。
 つまり、災害時の支援では、なにか言葉かけをするとか、そういうことではなく、物理的な支援につなぐこと、安全を確保すること、そばにいることで安心を提供することが仕事になります。

(参考)→「【保存版】災害(震災、水害、事故など)時の心のケアと大切なポイント

 そこでは言葉は求められていません。 

 アーティストが災害時に「僕たちは無力」と感じるのも常識的な感覚です。

 

 

 私たちは、ポップ心理学や自己啓発の影響のためか、いつの間にか人の言葉や評価イメージが物理的な現実よりも大きく感じさせられています。ポジティブな言葉を言えば現実が変わる、みたいなことを聞いて確かに勇気づけられますが、言葉やイメージの価値がインフレーションを起こした結果、他人の言葉やイメージにも過剰に敏感になってしまう副作用も起こしている。
 (そもそも生育環境で他人の言葉や評価に振り回されてきた経験も重なります。)

 そのために、他人から「あなたってダメな人ね」と言われたら、そんな気になって落ち込んでしまう。

 なぜなら、言葉やイメージはすごいって思わされているから。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 
 もちろん、それはいわゆる暗示にかかっているだけで、「物理的な現実」としての私たちが言葉によって変わることは絶対にありません。

 目の前の「みかん」が、言葉やイメージによって「りんご」に変わることはありません。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 以前も書きましたが、フッサールという人間の認知の仕組みを研究した哲学者も、認知とはすべて主観だが、「物理的な現実」というのはその主観をねじ伏せるように立ち現れる、としました。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 本来、言葉やイメージというのは力がなく、「物理的な現実」によってねじ伏せられてしまうものなのです。

 セラピーとかカウンセリングも、負の暗示から別の言葉イメージに移すためにあるのではなくて、本来の「物理的な現実」に気づいて、それによって、おかしな暗示、”作られた事実”をねじ伏せるためにあるものです。

 

 
 筆者も最近、スポーツをしていたときに、人の目が気になって調子を崩しそうなことがありましたが、そのときに、「物理的な現実は変わらないから、これまで練習してきた分の力は自然と出るはず」と自覚してみると、力が出て、思う通りにプレーすることができました。「物理的な現実」が負の暗示をねじ伏せてくれたな、と感じました。

 他者から「あなたって、~~な人ね」と言われて力を奪われてしまう、ということはしばしばあります。

 現在や過去に人から言われたひどい言葉、気になる言葉で力が抜けそうになったら、「物理的な現実」「物理的な自分」と思ってみることです。

 言葉に対して言葉、イメージに対してイメージの場合は、打ち消そうとしても、すぐにぶり返しますが、「物理的な現実」だとサーッと負の暗示が抜けていくことを感じることができます。

  
 「物理的な現実」としての自分は、言葉やイメージによって1ミリも変わることはありません。

 そこに気がつけば、「物理的な現実」が他者からの言葉やイメージもねじ伏せていってくれます。
 

 

 

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物理的な現実がもたらす「防御壁」

 
 スポーツをするときに、自分がこう動きたい、とおもってもなかなか体が言うことを聞いてくれないことは多いものです。

 コーチから「こうしたほうがいい」といわれても、そのとおりにできない。

 自分では従来のほうが心地よいのですが、結果は出ないので、やはり変えたほうがいいことは明らか。でもうまくできない。

 もちろん、完全に意識と自分の身体が連動したら、プロになれるわけですけど、そんなことは難しいです。プロでも思ったように動かすためには相当なトレーニングが必要です。

 

 皆さんもスポーツやエクササイズをしててもどかしい思いをしたことがあるのではないでしょうか?

 
 わかっているんだけど、うまくできない。

 身体としての自分というものは、なかなかもどかしい存在です。

 

 

 このように「現実」というものは、なかなか変わりません。一朝一夕には変化しない。

 同じような日常が繰り返されます。

 先日の記事にもかきましたが、
 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」
 というように、こちらの気も知らず、変化してくれない。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 私たちも、生き辛さの中にあえいでいる自分を変えようと、気持ちを新たにして、何かに取り組みますが、躁的な気持ちが一段落したら、何も変わっていないことに気づく。
 そして絶望的な気持ちになる。

 「ああ、また変わらなかった」と。 
 
 そして、自分は永遠に変わらないのか、といった気持ちになっていく。

 トラウマを負うというのは、こうした気持ちの中でもがくこととも同義です。

 いつまで経っても、「自分は世に出ることができない」という感覚。 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 かつては筆者もこのような感覚にとらわれていました。
 休みのときも何かをしなければと焦るけども、何をしていいかわからない。何をしても変わらない、と。

 

 あるゴールデンウィークのときに、連休前半にイベントに参加したのですが、そのときに同席していた同じ世代の男性が、「ああ、これで、とりあえずは充実したと感じられる」といったのがとても印象に残っています。
 連休前半にそれらしいイベントに参加していれば、連休を終わったときに有意義ではなかったと後悔しなくてすむ、というわけです。

 充実感を感じるために充実できたと感じることを探して安心するなんて本末転倒な話だけど自分もそういう感覚があるな、と感じたことを記憶してます。

 

 しかし、ローカルルールが解けてくると、日常をのんびり過ごせるようになってきました。
 さらに、現実の「変わらなさ」を感じるとき、「これは都合がいいな」と筆者は感じるように変わってきました。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 「時間がかかる」「容易に変わらない」というのは私たちにとってとてもよいことだ、というように。

 なぜかというと、その変わらなさ、時間がかかる、ということが、私たちにとって「防御壁」になってくれるからです。

 

 なぜ、修行した職人が作ったものに価値あるか?といえば、修行や技能の習得に時間がかかるからです。簡単にできれば、価値などありません。

 学歴とか、難しい資格になぜ価値があるか?といえば、容易には取れない、取るのに時間がかかるからです。

 

 すごく手間の掛かる仕事もそうで、手間がかかるというのは、他人にとっても面倒で容易には参入(真似)することはできません。

 「手間がかかりそう」ということが自分を守ってくれる。

 

 社会的な技能とか資格とかだけではなくても、単に年月を重ねて人間としてここに存在しているということ自体も実は守ってくれています。その人の持つ経験、時間というのは他者が介入できないものだからです。私たち人間は別々のトラックを走っていて、そのトラックの間にも「防御壁」は存在しています。 

 

 一日で変わるものは、一日で覆されます。

 一日でできるものは、他者にも一日で追いつかれてしまいます。

 世の中では、簡単にできるものの価値は低く、いわゆる差別化になりません。
 (経済の世界だと「参入障壁」といいますが)
 

 

 

 「物理的な現実」というのは、その容易には変わらない、時間がかかる、という性質で私たちを守ってくれています。

 前回の記事で、「5年、10年もすれば景色がガラッと変わっているものです」と書きましたが、生きづらさを抱えていると、「5年も10年も待てないよ」と感じるものです。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 こんなに生きづらいのですからすぐにでも変わってくれないと困る。

 それはそうなのですが、すぐに変えようと「言葉」や「イメージ」世界に留まってしまうと、結局はローカルルールからローカルルールへというように積み上げることができなくなる。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 言葉で変わった気になっても、頭の中で他人からの汚言や自責感によって、すぐにひっくり返される。
 イメージを変えようとして取り組んでみても、すぐにひっくり返されるの繰り返し。  

 物理的な現実のもつ「積み上げ」の力、「質的転換」の力を借りることができません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 「物理的な現実」はある時点を超えるとぐっと大きく変化、飛躍をもたらしてくれます。

 しばらく淡々と続けることで、その力を借りることができる。

 

 
 変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→質的転換(カットオフ)→大きく変わっていた。

  ↑この変化への長さ、変わらなさが壁となって自分を守ってくれる。我慢できない人は途中で脱落していきます(そして、言葉を唱えたり、イメージトレーニングするだけになってくれる)。一方、続けた自分にはカットオフがやってきます。だから、容易に変わらない取り組みであればあるほど、「よしよし、都合がいいぞ」と密かに企むことを楽しむ。

 

 さらに、積み上げた物理的な現実は他者からの否定的な言葉やイメージからも守ってくれます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 「変わらない、変わらない」と感じる状況は、私たちにとってはとても良いことです。

 その容易に変わらなさ加減が自分を守ってくれます。

 

 「物理的な現実」は、大きな変化と大きな防御と、その両方を提供してくれる。とっても頼りがいのあるものです。
 

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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