家では「安心安全」は得られない。~家も機能が限定された場所の一つである。

 

 安心安全というときに、問題になるのは「家」の役割(機能)をどのようにとらえるのか?ということです。

 

 人間にとって、万能の安住の地というものはなく、それぞれの場所というのは限定された機能しかありません。

 

 例えば、カフェで、フルコースの料理を頼んでも出てきませんし、宿泊したくても泊まらせてもくれません。
 ある時間以上いると、だんだんと疲れたり、倦怠感を感じてきます。カフェで何日もずっといないといけなくなったら健康を害してしまうでしょう。

 職場は働くところです。ある時間までに向かい、時間内に仕事を終えて、退社します。

 美容院は髪を整えるところです。髪を整え終わったらお金を払って後にします。
 
 休日にショッピングモールやデパートに行きますが、やはり、長くいすぎると疲れてしまいます。ソファでぐったりしているお父さんたちがいたりします。 
 
 
 このように、人間にとっての「場所」とはそれぞれに限定的な機能しかなく、想定された役割や時間以上に居ることはできません。
さまざまな場所を循環するように次々と移り変わりながらトータルで「機能」が満たされるようになっています。

 

 

 「家」も同様で、一見、多機能に見えるために誤解されがちですが、限定的な機能しかありません。
(かつては、「家」は生産の場でもあり、「しごと」にあふれていましたが、今は「消費」中心でさらに限定的です。)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 家は 社会とのかかわりの中で「家」にいる人たちが役割を果たして初めて機能するもので、社会から切り離されたり、役割が果たされていないと循環が絶たれると「機能不全な場」となってしまいます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 よりはっきり言えば、家が「永続的な安心安全が得られる場所」というのは幻想です。

 

 特に、養育環境に問題があったケースや、家庭が機能不全に陥っているために心身の不調が生じている場合に、家にいてもそこでは「安心安全」は得られません。
 

 以前の記事にも書きましたが、あるクライアントさんが、活動量計で測ってみたところ、家にいるときのほうが緊張していて、外にいるときのほうがリラックスしていることがわかりました。

 ほかのクライアントさんでも、明らかに家にいるときのほうが緊張しているという方は少なくありません。
 ※家は「私的領域」という面が強く、家にいることで、機能不全な家族とつながってしまったり、解離してしまったりということが生じ、調子を崩してしまうようです。

 「家が落ち着く先である」というのは、やはり錯覚のようです。

 

 

 前回の記事でも見たように、睡眠、食事、運動も大切です。家はそうしたことを満たす場ですが、社会から切り離された状態でずっと「家」にいることで反対に生活習慣が乱れてしまい、身体的にも「安心安全」が失われてしまうことがあります。

 (参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 睡眠がうまく取れない。昼夜逆転してしまう。
 一人暮らしであれば、栄養のある食事を摂ることができない。
 長く家にいることで、近所の目が気になり、外出もできなくなり、運動も取れなくなる。 
 睡眠、食事、運動が乱れれば、足場がなくなり、本人がいくら回復したいと意を決しても叶わなくなってしまいます。

 

 たしかに、病気などで「自宅療養」というものは存在しますが、自宅療養として機能させるためにはかなりのコストと手間、他者からの支援が必要になります。
 さらに、ただ「家」というハコモノがあればよいわけではなく、快適な環境として機能するためには構成メンバーの不断の努力が必要で、気を抜くとすぐに機能不全環境に陥ってしまいます。
 (現代で介護が大変なのも、こうした点にあるのかもしれません)

 

 
 このようなことから考えると、
 心身が不調にあるときでも「家」は安住の地ではなく、あくまで一時避難先としての機能しかありません。
 「家」という場所は、社会から離れて長期に居るようにはできていないのです。

 

 人間とはスマホのようなクラウド的存在、長くただ「家」にいるだけだと更新されないままになり、機能低下していってしまうのです。
 (「家」そのものも、あくまで社会の中の数ある場所の一つで、システムとして連携されることで機能を発揮します。)
 

 家で仕事をしている、勉強をしている、といった場合は別ですが、基本的には、ある程度回復したら早めに社会活動を再開しなければなりません。

 

 「安心安全」の確保に家を活用するためには、まず、本来家の持つ役割が限定的であることを知ることです。そのうえで、社会とのつながりを切らさないように意識することがとても大切です。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自信はどこからやってくる?~「安心安全」は、自信ともつながっている。

 

 自信がない、というのは多くの人が感じる悩みの一つです。

 これまでの認知行動療法などや、自己啓発でも、自信は個人の考え方などに起因するとしてきました。そのため考え方や行動を変えることで自信が得られるとしてきました。

 ただ、実際に取り組んでみると(もちろん全く効果がないということはありませんが)なかなかうまくはいきません。

 自信のなさは、個人の頭(心)の中に原因があるという仮説は、実はそうではないことがわかります。
 
 

 

 もう一つ、自信がないのは実績が無いからだ、実績があれば自信が持てる、という考えも俗な観念としてあります。

 例えば、容姿とか学歴とか、収入とかが良ければ自信ができる、悪ければ自信がなくなる、という考え方。

 たしかにある部分はそうです。
 例えば、野球選手が練習の結果、活躍できれば、自信になるといったことはあります。

 

 しかし、実績が十分にあったとしても、自信がない人は世の中にはたくさんいます。

 どういうわけか自信がありません。

 他者から「これだけ実績があるのだから自信を持ったら」と言われても、全然ピンとこない。

 筆者も、どういうわけだか自信がないということがあって、いくら実績を積んでも、セラピーをしてみても、どうしても自信が高まらずに苦しんだ、ということがありました。
 

 いろいろと経験し、調べてみてわかってきたことは、実績というのは、すでにある自信を強化する要素の一つでしかなく、自信そのものではないということです。実績は基礎的な自信があってその上に積み上がっていくものです。

 

 

 

 では、本来の自信というのは 何によって決まるのでしょうか?

 まず、結論から言えば、それは「他者からの承認の量」で決まります。

 一番わかりやすいの例は、親からの承認です。
 いわゆる「愛着」です。

 親自体が「安全基地」として機能して、支えてくれることは、社会生活を送るうえで様々な領域で高い汎用性を持つことが明らかになっています。
 まさに、パソコン、スマホにおけるOS(オペレーティングシステム)のような役割を果たしてくれます。

 「愛着」は存在(Being)レベルで体感的に承認をしてくれますから、根拠のない自信というものをもたらしてくれます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 

 反対に、親が不安定であったり、不和で喧嘩が絶えない、暴言が止まらないといった機能不全環境に生きてこられた方は、必然的に自信がなくなってしまいます。
 (暴言は、自信に向けられたものだけではなく他者に向けられているものも含まれます。)
(参考)→「「汚言」の巣窟」 

 

 

 機能不全家族では、親や家族といった身近な人から味方をしてもらえないといったこともしばしば生じます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 親が偽りの公を騙り、喧嘩両成敗的な言い訳で、対外的にトラブルにあったときに、いつも「あなたにも悪いところがある」といった対応をする。

 夫婦が不和や家族への嫉妬から、そのストレスのはけ口に「あなたはだめなところがお父さん(お母さん)にそっくり」といった言い方をされる。
 単に自分の不満を子どもをダシに解消しているだけ。

 あと、兄弟間でえきひいきがあり、公正さや正義が行われていない。

 などなど

 こうしたローカルルールが支配する環境で長く巻き込まれていると、自信はボロボロになります。まさに戦争や災害の被害に巻き込まれたかの如くトラウマを負ってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 一見自信がありそうでしっかりしていそうな人でも、”自分”という中身は空っぽ、ということも少なくありません。
 
 自信があるように見えても、躁的に自分を盛り上げたり、
 他者からよく見えることや称賛を得ることばかりに意識が行っていたり、
 あるいは他者を見下すような感覚であったり、
 世の中に反発するような感覚であったりすることもあります。
 
 いずれにしても、どこか地に足がついていない、本当の自信とは違う感覚なのです。

 

 

 

  
 トラウマを負った人にとっての悲劇は、自信を取り戻そうとする過程でも起きます。
 

 自信とは他者からの承認、ということですが、承認を得ようと努めてみても、なかなかうまくいきません。

 集めようと努力するのですが、なぜかうまく承認は得られない。承認らしいものがあったとしても受け取れない。
 

 
 自信とは心の問題だ、という言葉を信じて気持ちを盛り上げようとしますが続かない。反対に躁的な感じになり、傲慢やプライドが高いと取られて、反対に傷ついたり、自分を責めるようになってしまう。

 

 今度は、自信≒実績なのだとして頑張ろうとしますが、瞬間的に評価を得られますが、長くは続かない。
 トラウマを負った人は、それまでのなかで否定されてきたので、少しの成果は実績とは受け取れません。
 そのため実績が積みあがらない感覚に襲われる。
 誰からもケチのつけようもない圧倒的な実績を求めるのですが、そのためにはどのように努力していいのかがわからなくなってくる。

 

 

 また、継続的な成果を上げるためにはチームプレーが必要です。
 さらに、表面的には成果が上がらない「待つ」時間もとても大切。

 しかし、トラウマを負っていると、「安心安全」(足場)がないために、それがうまくできません。他者との関係が築くことができなかったり、成果を「待つ」時間が「成果が得られていない」と感じて怖くなったりして、余計な動きをしてしまい、待てば得られるはずのものを台無しにしてしまったりします。

 

 そうして努力が続かなくなり失速していく、ということが起こります。
 トラウマを負っている人の中には、会社などでも最初は評価されるんだけど、結局ダメになってしまう、という方は多い。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 これは、「安心安全」(足場)がないために生じる現象です。
 

 前回の記事でも書きましたが、
 人間の成長、成熟(社会に出る)とはなにかといえば、それは、自分の心身や関係において安心安全を築きながら徐々に領域を開拓、攻略していくことです。
 その開拓、攻略の果てに「社会」というものがあります。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 「安心安全」とは公的な環境によって作られます。

 公的な環境による安心安全があるとあたかも騎士道精神のように、相互にリスペクトし、承認し合うことができます。

 承認をもらうためには、公的な環境づくりによる「安心安全」が不可欠です。

 対人関係において公的環境を形成するのは礼儀やマナーと言ったプロトコルであったり、嫌なものについては「NO」といったり、必要に応じて突っ込んだりすることです。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 しかし、公的環境が作れないままだと、「人間は私的環境では解離して容易におかしくなる」という性質があるために、ただ承認を貰おうとしても、嫉妬で発作を起こしてしまい、こき下ろされたり、ローカルルールに巻き込まれて、そのままでは承認が得られない。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 

 人間とは社会的(クラウド的)な生き物で、社会に接続されることで初めて機能する。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 だから、社会とつながろうとして努力するのですが、トラウマを負っていると、そもそも足場(愛着≒安心安全)がないためにそれがうまくできない。
 ローカルルールを真に受けると、ローカルルールが社会そのものになってしまいます。
 本来つながりを持つべき「社会」が何やら危険で不安な場所となってしまう。自信の源から自然と遠ざかるようになる。

 そのうち、対人恐怖や社会恐怖が強まっていき、、安心安全から人とかかわることができず、承認をうまくもらうことができない→自信が育たない、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 

 仮に、相手から承認が得られたとしても、安心安全がないために、それらを受け取ることができない。
 成果によって得られた承認は、「また次に成果を挙げないと失われてしまう」という事になり(見捨てられる不安)、承認を得られたとしても不安なままです。次から次へと成果を上げる必要がある、と思うと絶望的な気分になります。

 

 ※ひきこもりのケースなどは 機能不全環境の中でまさに足場を失わされてきたと考えられる。それは本人の心の問題などではもちろんなく、「安心安全」(足場)やそれを形成する公的環境づくりができなくさせられてきた、ということに起因する。社会が怖いし、自信がないし、わかっているけどどうしようもできない、という状態になるのはそのためです。

(参考)→「上手に退却(引きこもったり)し、上手に社会とつながる」 

 

 このように自信がない、という場合に、ただ、考え方を変えて自信を持とうとか、実績を作ろう、としても意味がありません。
 自分の内外に「安心安全」を少しずつ作り出す必要がある。それが承認を生み、自信につながっていきます。
  

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、「ニセの責任」が免責されると、ありのままの現実がみえてくる。

 

 私たちは、「ニセの責任」を背負わされすぎて、「過責任」状態になっている。それによって、自分を守ることに労力を注がざるを得なくなって、本当に大切なことに責任が取れなくなる。主体的になれなくなる。

 「ニセの責任」からいかに自由になるかが、生きづらさから抜け出すポイントになる。

 

 本当を言えば、「機能している家族」「愛着」、というのは、免罪の装置として働きます。親が「安全基地」として存在し、「あなたは大丈夫よ」という態度、言葉で接してくれることで、免罪(代謝)が機能します。
 そして、成長する中で愛着が内面化し、自分の中でニセの責任を免責することができる。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 ただ、多くの場合、愛着に不安があり、免責が機能しなくなる。 
 親が親の機能を果たせず、親自身が「ニセの責任」発生装置になってしまい、子供を苦しめることになる。

 「ニセの責任」を免責する機能が内面化されていないため、「ニセの責任」がどんどん蓄積していってしまい、大変な苦労をすることになる。

 
 これが生きづらさや、トラウマ、であると考えられる。

 ※生きづらさとのメカニズムとは、社会学者によれば、「関係性の個人化」とされます。「関係性の個人化」とは、環境の影響などをすべて自分のせいだとしてしまうこと、です。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 

 依存症の世界でも指摘されていますが、「底をつかない」と治療が機能しない、ということがある。つまり、依存症とはそれまでに背負ったさまざまな生きづらさを癒すための自己治療である、ということ。

 元プロ野球選手の清原さんなど、依存症に陥った人を見てもわかるように、とても繊細で強いストレスや生きづらさを抱えていたことがわかる。
 それを癒すために依存が必要であった。

 

 それを、周りが本人の責任のようにお世話をすると(イネーブリング)、周囲から「ニセの責任」が流れ込んできて、本人は余計に問題行動を起こすようになる。

 自助会など様々な場を通じて「ああ、自分には何もないんだな、もう神様、仏様にでも任せるしかない。」「結局、自分は自分だ」と底をついたときに、本当の回復が始まる。

 つまり、「底をつく」とは、「ニセの責任に気づき、免責される」ということだと考えられます。 

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 

 トラウマも同様です。

 トラウマの主要症状にフラッシュバックというものがありますが、まさに、自分にとってつらい体験が繰り返される。
ふつうは睡眠をとることで、徐々に薄れていって「免責」されていきます。

 しかし、トラウマの場合は、自分にとって過去のつらい経験、嫌な経験が、ずっと反復される。

 「自分は何も悪くないけども、嫌ない経験だったんです」という風にはならず、
 ほぼすべてのケースで、「自分が悪かった。迂闊だった」という恥や罪悪感が伴っている。

 もちろん、トラウマとは、外からやってきたイベントにすぎないのですから、「自分は何も悪くない」でいいわけですけども、自分の中に免責機能が十分に機能していない場合、あるいは周囲がおかしな理屈で、「あなたにも問題がある」といったように責めてきた場合などは、処理できずトラウマになってしまう。

 

 苦の原因というのは、「ニセの責任」にある。
 人間が持つ過剰な意味づけなどが誤った原因帰属がさらに「ニセの責任」を重くしてしまう。

 

 

 こうした側面について、「ニセの責任」から抜け出す方法を提示したもう一人の巨人は、ブッダです。

 ブッダの悟りというのは、要は、世界の仕組みをありのままに真に客観的に捉えることができれば、苦から逃れられるということ。  

 私たちは、嫉妬や支配など、様々なローカルルールに縛られて「ニセの責任」でがんじがらめになっている。ローカルルールの中で、それを解決しようとあくせくしているけども、新たな苦を生み出すだけ。

 

 さらに、過剰な意味づけが働いて、何気ないことにも「自分だけに」とか、「何か良いこと(悪いこと)が起こるに違いない」と思ってしまっている。

(参考)→「過剰な合理性や意味づけ

 

 でも、客観的に見たら、自分だけに、ということはない。

 自分の子供が死んだ婦人が、ブッダに相談した際に、「一度も死者が出たことがない家からカラシダネをもらってきなさい」といわれて、家々を訪問してみたら、「実は、私の家でも・・・」とか、「数年前に、子供が・・」となって、婦人が客観的な事実に目覚め、「ニセの責任(私の落ち度で子供が死んだ。私だけがおかしい)」が免責され、苦から解放されていった。 

 

 通常の人間というの、見栄など、軽い幻想を持って生きている。
 また、嫉妬や支配、あとは、精神障害などさまざまなノイズが飛び交っている。その処理をするために、因縁(ニセの責任)を他人にふっかけて何とか自尊心を保っている人たちもいる。それが社会ですが、裏ルールがわからない状態だと、真に受けてしまって「ニセの責任」を強化する材料とされてしまう。

 

 実際は、「自分だけが・・」とか、「自分が悪い・・」なんてことはない。

 

 そのありのままを捉える方法を「悟り」としてブッダは発見した。「因縁(ニセの責任)」から逃れるのが「解脱」ということなのかもしれません。
   

 実は、客観的に見れば見るほど、迷妄は取れてきて、本来の自分になってくる。

 

 「事実、現実」というと恐ろしいように見えていますが、

実際は、
 「(ニセの現実を回避するための)幻想」-「ニセの現実」-「ありのままの現実」と3層になっている。

 

 私たちが恐れる「現実」とは、「ニセの現実」。
「幻想」と「ニセの現実」の間にも、ニセの責任からもたらされるものすごい恐怖があるので、見れなくなりますし、「ニセの現実」とありのままの現実との間にもさらにものすごい恐怖があります。

 ですから、容易にそこをクリアすることができない。

 

 でも、「ニセの現実」は「ニセの責任」による罪まみれで、みじめで苦しいもの。「ニセの責任」が免責されてくると、ありのままの現実がちゃんとみえてくる。

 

 ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、
 「ニセの責任」が免責されてさらにありのままに客観的に現実が見える。

 そうするなかで生きづらさは徐々に無くなっていきます。
 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 私たちが日常で出会う「ニセの公的領域」について書いてきましたが、視点を社会に移した時、社会的な現象としてのニセの公的領域の典型は、ファシズム、全体主義というものです。

 

 ファシズムというのは、本来多元的であるはずの社会の規範を一元的に単純化して、ニセの公共を作り出す現象です。

 

 社会の状況が深刻な際は、問題が輻輳して閉塞感が覆っている中で、問題が単純化されるので、その社会にいる人々は一気に問題が解決したような気になります。

 

 ただ、実際は解決したわけではないですし、多元的である現実世界とは不適応を起こします。そこで、一元的なニセの公共を維持するために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とします。

 

 ナチズムであれば、反ユダヤ主義、反資本主義、反社会主義、反軍国主義、反平和主義、反キリスト教、反無神論・・
 何についても「反」で、互いに矛盾していてまったく合理的ではありません。
 内容はめちゃくちゃなのですが、「反(You are NOT OK)」とすることで成り立たせています。
 (ドラッカーは「全体主義には、前向きな心情がないかわりに、おびただしい否定がある」(「経済人」の終わり)としている。)
 

 「反((You are NOT OK))」を必要とするのは、それがなければ一元的に単純化した規範を維持できなくなるからです。
 だから、ファシズムというのは常に敵を必要とします。
 (これがファシズムというもので、日本で素朴に理解されているように、必ずしも、ファシズム=軍国主義というわけではない。
 「反」であればなんでもよいので、平和主義のファシズムもあるし、民主主義のファシズムもあるし、人道主義のファシズムも成り立つ)

 

 

 私たちの身近な現象に視点を戻した時に、私たちが接する「ニセの公的領域」もまさにこうしたことが当てはまります。

 たとえば、「いじめ」。
 いじめは典型的なニセの公的領域、ファシズム的現象です。

 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 「いじめられっ子」のいない、いじめというものは存在しないように、「いじめ」でいじめる側が主張する「空気が読め」「ノリに乗れ」といったことは、多様な人間の在り方には全く反します。
 ノリに乗らないマイペースも人間の素晴らしいリソースであるし、人間のタイプは様々です。暗い性格でもよいし、運動ができなくてもよい。
 

 

 しかし、「いじめ」は社会の多元性を否定して、一元化して、人を裁きます。

 

 実際に、いじめについての研究書の中で、インタビューされた学校の先生の発言に「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかないし、それはわかるんですよ」といった発言があります。
 いじめがおきると、教師もその空気に支配されて、一元的な価値観で人を判定するようになってしまいます。
 

 一元的な価値観(ニセの公的領域)というのは現実と齟齬を起こしますから、「敵((You are NOT OK))」を作り出して、一元的価値観が正しいことを維持しようとします。
 (「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかない」≒だからいじめには正当性がある)

 

 

 いじめまでいかなくても、私たちが日常で接するハラスメントも同様です。
多元的であるはずの人間の在り方を、一元化しているために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とする。
 だから、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」というメッセージを私たちに投げかけてきます。

 

 「ニセの公的領域」は、もっともらしく見えても、直感的には矛盾だらけですから、直感的に矛盾を感じたら、「You are NOT OK」といわれていても、真に受けずに、「I’m OK」と受け流す必要があります。

 

 

 例えば、親から投げかけられる「You are NOT OK」も、ニセの公的領域の典型といえます。
 「あんたは理屈っぽい」
 「あんたはかわいげがない」 
 「あんたは文句ばかりで、やかましい」

 といって、親の不全感から、子供を否定する親というのは少なくありません。

 ただ、よくよく見ると矛盾だらけで、たとえば、兄弟がいるケースだと、ある兄弟にはダメだけど、同じことをした別の兄弟は許されたり。親自身に非があっても謝らずごまかしたり、といったことが起きています。

 そうした矛盾があっても気が付かず、子供への否定を繰り返すのは、
 私的な情動から生まれたニセの公的領域を正当化するためなのです。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 本来、多元的な社会の中にある、真の「公的な領域」というのは、成員すべての「I’m OK」を成り立たせるために存在しています。そのため、すっきりもしませんし、ある意味あいまいなところも多い。

 法律に反するなど他者の「I’m OK」を侵害すると制されますが、極端に何かを否定(You are NOT OK)することもありません。 

 

 私たちが日常で、
 「You are NOT OK≒I’m NOT OK」を感じたときは、
 その元となっている「公的な領域」が本当はニセモノではないか、
 あるいは、自分の中にある過去に形成された規範がニセモノではないか、と疑ってみる必要があります。

  (※例えば、目の前にある人は「You are NOT OK」とはいっていないけど、過去に親や学校から受けたトラウマによって、
   「You are NOT OK」と捉えてメッセージを受け取っていることもあります。)
 

 

 

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