親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールやファンタジーから離れ、”現実”へ

 

 負の暗示をいかにして除いていけばよいのか?

 世の中が無秩序に見える、のであれば、
 世の中の秩序、現実を知る、ということは、その解決の助けとなります。

 

もう一つのヒントは、悟りを開いたとされるゴータマ・ブッタがどのようにして苦から楽になったか、にあります。

 仏教は、「覚りの宗教」と呼ばれます。

 仏教は、世の中の摂理を何の期待も、執着も盛り込まずに捉える。幻想(執着)から覚醒して世界をありのままに見る。これが「悟り」とよばれるものです。

 

 世がこういう理想であるべき、というファンタジーもありません。

 そのため意外ですが、本来の仏教には、神様とかそういう要素は出てきません。
 梵天とか、マーラとかがそういう存在は出てきますが、それらはゴータマが生きていた時代にすでにあったインドの神様たちのことで、仏教そのものには神という要素はないそうです。

 むしろ、仏教はファンタジーを持たないことで苦から自由になる、というものです。

 かなり理知的な哲学で、現代哲学の現象学なども仏教から影響を受けているとされます。

 

 仏教の悟り、ということからわかることは、親や環境から入った負の暗示、から逃れるというのは、理想に逃れる、ということではなく、ありのままの現実を見る(覚める)、ということ。

 

 なぜなら、理想やファンタジー、というのも結局は暗示(脳内に発作、解離を起こすもの)でしかなく、新たな苦を生み出すものでしかないからです。あるファンタジーから逃れるための手段として一時的ならば、もしかしたら許されるかもしれませんが、根本的な解決にはならない。
 どうして自己啓発とか、スピリチュアルなど理想を語るものが解決にはならないかというのはこうしたことにあります。結局、別の発作の種を脳内にもたらすものでしかない。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

 ただ、仏教のように覚るということは、私たち凡人にはちょっとハードルが高い。

ではどうするのか?といえば、

 

 もう一つのヒントは、学問とか、“常識”の力を借りる、ということです。

 “常識”というのは、決して今の世の中の俗な意味での常識、といったことではありません。
 また、特定の個人や団体の常識、でもありません。うまくいかない現実を受け入れろ、といったシニカルな意味でもありません。
 歴史等を背景としたもので、世の中が多元的であるということを踏まえてありのままの人や世の中に向き合う姿勢のこと。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 

 例えば、「家族」といったテーマについても、今の世の中の当たり前や個人の価値観ではなく、歴史的に見て、家族とは何か?家族の機能とは何か?といったことをしっかりと押さえる。

 あたかも、自然科学者が研究対象を見るような目で世の中を見てみる。

 そうすると、人間にとっての「家族」というものの本質が見えてきます。今の世の中で当たり前とされる家族像も特定の条件がなければ成立しない一時的な姿でしかないこともわかってきます。

 人間にとっての家族というものの意味が分かると、私たちが苦しんでいる家族は、実は当たり前ではなく、「機能不全家族」であることが見えてきます。逃れられない現実だと思っていたことが、実はファンタジーであったことが分かります。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 

 そのように歴史に根差して、”常識”から照らしてみると、鉄壁のように見えていた呪縛の壁も、実はハリボテであることが見えてくる。ハリボテなので、捨てても悔いはないし、そこから自由になることもできるのです。

 「家族」「恋愛」「仕事」「会社」、そして「人間関係」など、個人の価値観で語るのではなくて、一度徹底的に、歴史や社会学などの知見も借りながら、棚卸して整理することが必要かもしれません、そうするだけでも、呪縛を解くスクリプトたりえます。

 

 知見も借りて棚卸し、というとなかなか厄介だという方は、例えば、カウンセラーと対話しながら、家族の本質とは何か?人間関係とは何か?社会とは何か?仕事とは何か?を一緒にとらえていくと、誰でも呪縛を解き、現実を見る助けとなります。

 

 発達障害の方が受ける、SST(ソーシャルスキルトレーニング)などは、まさにこうした機能があって、生活や仕事について、本質を踏まえながら、その手順などを自分に合う形で学んでいきます。
 無秩序に見える世界を秩序立てていく作業をともにしていくわけです。

 

 定型発達の方でも、本来カウンセリングというのは、安全な環境でありのままの現実を見るために、秩序をもたらすためにあります。

 決して、同情されたりするためにあるのでも、
 甘い理想を語られたり、慰められたりするのでも、
 自己責任だとか、選択だといった、個人主義のローカルルールから、うまくいないことを責められたりするためにあるのでも、ありません。

 

 理想(ローカルルールやファンタジー)へと回避せずに、安心安全を醸成しながら、 徐々に、ありのままの現実の中へと入って、発作(呪縛)を取って、目を覚ましていく。セラピーの様々な手法の本質というのは、このためにあります。

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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お悩みの原因や解決方法について

「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 機能不全にある家族、夫婦、恋愛に関することでしばしば起こることとして、「恩」とか「愛」とか、「義務」が無限に続くように思わされてしまうことです。

 

 どうしようもない親やパートナーなのはわかっているのに、離れられない。離れようとすると罪悪感を強く感じてしまう。どこまでも面倒を見ないといけない、どこまでも義務を果たさないといけない、と思わされて、離れたほうがいいとわかりながらも関係を続けさせられてしまうのです。

 こうしたケースはとても多いです。

 

 これは、無限の愛は美しい、他の関係と異なり、家族(恋愛)だから当然だ、といったことではありません。

 

 実は、「無限」という感覚は要注意で、ストレス障害(トラウマ)で、報酬系、算数機能が失調して生じる症状の一つです。「恩」とか「愛」とか、「義務」に対する見積もりが狂っているために起こるのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 

 

 無限の「恩」「愛」などは、少なくとも人間には存在しません。

 人間にとってものごとは常に有限であって、適切に見積りされて、「貸し-借り」がまわりまわってバランスされるものです。

 

 もちろん、家族はほかの関係とは違って、貸し借りの総量は大きいわけですが、たとえ家族の同士であっても、目に見えない「貸し-借り」で本来やり取りしています。
(それは2者間だけではなく、世代間で申し送りのようになっているとも考えられます。今、子どもの面倒を見るのは、それを前の世代がしてくれていたりしていたものを次の世代返している、というところがあります。しかし、それも「無限」ではありません。)

 

 もし、無限のものが存在してしまうと危険なことです。
人間には代謝、更新が必要ですが、無限なものは代謝がなく、常に縛られてしまいます。

 

 トラウマによって起こる症状の一つがパーソナリティ障害です。自己愛性パーソナリティ障害の特徴に「限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想へのとらわれ」といったことがあるように、トラウマを負うと、「無限(限りない)のもの」を求めるようになってしまいます。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 トラウマによっておこる別の症状に依存症があります。
ご存じのように、依存症には限りがなく、アルコールや薬物、ギャンブルを身が破綻するまで「無限に」行います。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 もう一つ、摂食障害も同様です。
必要を越えてどこまでも(無限に)痩せようとしたり、飽くことなく(無限に)食べ続けたりしてしまいます。

(参考)→「摂食障害とは何か?拒食、過食の原因と治療に大切な7つのこと

 

 

 このように、「無限」というのは生物にとっては異常なことです。

 

 家族(やパートナー関係)の「機能」も有限であり、常に更新、変化し続けるものです。そして、機能不全な状態が長く続けば、貸し借りのバランスが崩れて、最後は「愛想が尽き」て当然です。そうすることで、支配を避け、別の環境を選択できるようになります。

 

 最近話題になっている、介護問題などは、有限な貸し借りのバランスが大きく崩れたところに起きる問題といえます。(あまりにも負担が大きく、家族だけではその収支を背負えないので、外部のサービスを活用する)

 

 無限の「恩」「愛」「義務」などはありませんし、罪悪感を持つ必要もありません。親しい関係ほど、距離を取ったほうが関係は続くものであったりもします。

 

 無限とは、ニセ成熟の感覚で、本来の成熟とは有限を知ることにあります。

 

 もし、ご自身の中に「無限(と思わされているもの)」があるならば要注意。それは不自然なものではないか?見積もりが狂っていないか?とチェックしてみるとよいかもしれません。何かそこに歪なものが隠れています。

(参考)→「更新されない人間関係

 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 前回の記事でも書きましたが、
悩みの解決では、環境からアプローチすることはとても大事です。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 うつ病でも、本当に治すためには生き方(働き方、暮らし方)の変更が必須といわれます。

(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと

 

 生き方がそのままでいては、いくら薬やカウンセリングでよくしても、また再発したりして戻ってしまうようです。

 

 

 

 私たちが直面する中でもなかなか厄介な問題である「家族との関係」の問題をどうするか?ということについても、環境を変える工夫が必要になってきます。

 

 ただ、やはりネックになるのは、経済的な問題です。
特に女性にとって、日本はとても暮らしにくい社会です。平均年収は男性の半分程度。ある調査ではシングルマザーの8割以上が生活が苦しいと回答しています。軽々には自立しては?とは言い難いところがあります。それぞれの価値観も多様ですから、治療者が「こうしなさい」と押し付けることもできません。

 

 そのため、医師や、カウンセラーも、なんとか現況のままで打開策を探ろうとしますが、それでも症状が変わらず環境が明らかに原因であるならば、自立への一歩を勇気をもって進む、ということも必要になってきます。

 

 

 「家族」というものは、どんな方にとっても、厄介なものです。実の家族だから(実の家族だからこそ)、ややこしい。

 

 家族だからといって、愛してくれるとは限りません。
家族だからといって、味方をしてくれるとも限りません。
家族だからといって、自分を認めてくれるとは限らないのです。

 

 でも、私たちはいつのまにか、「家族」に対して幻想を抱かされてしまっていて、「(他の家庭は仲がいいのに)仲が悪い、私はおかしいに違いない」と思い悩んだり、「世話をしなければならない」「見捨ててはならない」といった「~~ねばならない」のとりこになってしまいます。

 

 また、セラピストが書いた本にあるような美談、宣伝にも影響されて、「解決出来ていない自分に問題がある」というに思われている方もいらっしゃるかもしれません。本に書いてあるようにはなかなかうまくいかないものです。

 

 

 他の悩みでも同様ですが、
「家族」というものを考える際は、歴史や、常識(古典)を知ることはとても役に立ちます。
 多様な価値観の元に、判断を迫られる問題については、軸となる知識を持っておくことは大切です。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 まず第一に知らなければならないのは、
家族、特に「生みの親」とこれほどまでに密着した関係を持つようになったのは、現代に特有のことであり、かならずしも、皆さんが直面している家族のスタイルは歴史的に見て普遍的なものとは言えない、ということです。

 

 過去の時代では、生みの親は自分の子どもを産んでもさほど関心を示さない社会もありました。

 

 また、生みの親を離れて奉公に出て、そこでの親方と疑似的な親子の関係になる、ということも普通のことでした。やくざの世界では、親子、兄弟の契りを交わして、ということですが、あのような感覚です。


 やくざほど極端でなくても、現代でも、例えば部活とか、会社などで、ある種疑似的な親子の機能をそれぞれが果たしていたり、といったことはあります。監督、上司のあだ名が「親父」「~~の母」だなんて、ということを耳にしたことはないでしょうか。

 

 簡単に言えば、「親」「家族」とは、機能であって、実の家族かどうかとはイコールではない、ということです。ですから、生みの親、実の家族とうまくいっていないことについて罪悪感を持つ必要もありませんし、こだわって問題を解決しようとする必要もありません。

 

 生みの親、実の家族が必ずしも親、家族の機能をはたしている「良い親、良い家族」とも限りません。どうしてもわかってくれない、家族の機能を果たせない人たちもいます。その場合は、家をの外で、社会の中で少しずつ親の機能の代替を得ていくものです。

 

 人間には生理的に、反抗期が存在する、ということも見逃せません。私たちは、反抗期に、“精神的に親を殺して”自立を果たすとされます。社会的には、経済的にも独立をしていき、空間的にも離れて一人前になっていきます。
親子仲良く、べったりということは普通とは言えない。

 

 今の社会は、親元にずっとい続ける、ということも多くなったために、自立の境目があいまいになってしまっていて、それも問題を生む原因になっているようです。

 

 普通の人でも、家族とはややこしいものです。皆、それぞれ問題を抱えています。

 

 筆者が子どものころ、ドラマやアニメでは、親子の葛藤(葛藤する親子)というの珍しくなかったように思います。父親というのは決まって頑固で、雷を落とす、というのが定番でした。

 わからず屋の親に反発して家を出て、ということも陳腐すぎるくらいによくある題材でした。
(そういえば、マンガ「美味しんぼ」も父子の葛藤が物語の軸でした。)

 

 逆に、物分かりのいい親、というのはとても珍しかった。筆者が、1988年公開の「となりのトトロ」を見たときに一番印象的だったのは、糸井重里が声を演じていた、優しい友達みたいなお父さんでした。父親というの親父で頑固で、ということがお決まりだった中で、画期的で驚いたのを覚えています。

 

 本来、家族、親とは「機能」ですから、機能がどうしても満たされない場合、本人が家を飛び出して自立する。社会(特に仕事)に出た中で出会う人たちとのやり取り中で 代わりに少しずつ親、家族からもらえるはずの機能が満たされていく。そして、自分が自立に成功した暁に、生みの親、家族にも“遠くから恩を返す”というものだったのではないか?

 

 

 国や会社でも他社(他国)に経済的な実権(株など)を持たれたり、借金をしたりすると、依存している分だけ口を挟まれます。これは資本の論理です。同様に、経済的に親を頼るということは、精神的にも束縛される(口を出される)ということを意味します。経済的な依存関係にある場合、親子が問題を抱える、共依存関係になる、ということは構造的には当たり前とも言えます。

 

 家族の問題とは、心理主義の風潮の中で勘違いされているような「心理」の問題ではなく、本来は「機能」の問題であり、「経済的」問題でもあるのです。ケースによっては、経済的にも独立して、対等な関係を築いて初めて関係が良くなることもあります。

また、時間が立ち、互いの成熟を待たないと解決しない問題だってある。

 

 

 逆に、「愛着」だとか「支配」といった理屈を根拠に、機能不全の家族が経済的、空間的にも一緒のままで、「親、家族に変わってほしい」とこだわり続けることは果たして生きやすさにつながるのか?冷静に検討してみる必要があります。結局、カウンセリングを受けてみても、親は変わることなく、生きづらさは解消されないまま時間とお金だけがかかることになりかねません。

 

 さながら、うつ病の人が、生き方を変えないまま、薬やカウンセリングだけで症状を回復させようとして、結局再発を繰り返すような状況です。

 

 ※「愛着」理論は大変便利な仮説ですが、ただ、生みの親との関係をあまりにも強調しすぎる、という短所もあるように思います。本来は、生みの親に限らず「社会的なネットワークが絆を作る」と広く捉えられるものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと」  

 

 

 

 人類の中で、精神的な文化に大きく寄与したゴーダマ・シッダールタ(仏陀)、とキリストも、ともに故郷や家族を捨てて悟りや教えを啓きました。

 

 彼らほどの人物であれば、家族のもとにいたままで悟りを開いてはどうか?と思うのですが、どうしてもそれはできなかったようです。

 

 

 特に、キリストについて、指摘されている、とても面白い有名な事柄があります。

 キリストは弟子を連れて各地で奇跡を起こしていますが、唯一、故郷に戻った時には、奇跡は起こせていないそうです。つまり、しがらみのある家族のもとではキリストでも本来の力を発揮することはできなかった、というのです。

 

 彼らほどの天才でも、親元、家族の元にいては精神的に自立を果しえなかったのですから、凡人の私たちにおいては、なおさら、その難しさは自覚する必要がありそうです。

 

 

 

 当然ですが、何でもかんでも、自立が解決策とは言えません。それぞれの価値観、経済的な事柄にも慎重な配慮が必要です。冒頭にも書きましたが、特に女性は経済的にも生きづらい社会ですし、発達障害傾向や体質的に家から出れない、という深刻な問題を抱えている人も少なくありません。

 

 ケースによっては家族のもとにいたままでカウンセリングなどを通じて解決を目指さざるをえないものもあります。

 

 ただ、どのケースにおいても、環境にはあらがえないという人間の限界を踏まえて、「家族」については、機能的、構造的にとらえる必要があります。

 

 

 

 「家族」との悩み解決を考える際のポイントを簡単にまとめるてみます。

 

1.機能をはたしている存在こそが「親」「家族」である、ということ踏まえる。

2.そのため、機能不全に陥っていたら、まず、機能を満たすように働きかける。

3.それがかなわなければ、機能を外に求めてその家族の元を離れる、ということになります。

 

 仮にカウンセラーに役割があるとしたら、1~3それぞれのパートを支える、ということになろうかと思います。

 特に、家族に対しては幻想や罪悪感を持たされやすく、一人では行動が制限されてしまいますから、「機能(環境)」という判断材料を軸に、クライアントがより良い機能(環境)を得られるように側面から支援するということになるのではないか?と思います。

 憎しみやわだかまりについてはトラウマケアなどで解消していくことになります。

 

 

 こうしたことを自分で判断するためにも、「家族」というものを相対化する目をもっておく。そのために、家族の歴史や機能などについての知識を持っておくことはとても役に立ちます。
(知識があると、カウンセリングを受けても、解決は早くなります。)

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 

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