「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 これまで、「公的な領域」の大切さ、というものをお伝えしてきました。

 

  じゃあ、「私的な領域」は重要ではないのか?といえばもちろんそうではありません。「私的な領域」がなければ「公的な領域」もうまく機能しない。

 「私的な領域」とは、一つには「公的な領域」のリソース、エネルギー源となる存在です。

 

 

 たとえて言えば、鉄鉱石とか原油のようなもの。
素の状態では、利用できないし、生で食べるとおなかを壊すようなもの。
 加工して、利用できるようにしないと世の中では有用なものとはならないですが、資源がなければ、製品もできない。

 

 「私的な領域」とは、エゴとか欲とか呼ばれる場合もあります。
 かなりわがままに、「~~がしたい」「~~が欲しい」と思えることは大切。
 それがエネルギーになって、生物としての人間を支えてくれます。

 私たちは「私的な領域」の力が低下すると、調子を崩します。

 

 例えば「(本物の)うつ病」は、「私的な領域」が枯渇したような状態。そのため運動とか、投薬、人生の方向転換を通じて、「私的な領域」を養うことをします。

 「私的な領域」が回復してくると、ふたたび公の世界で活動することができるようになります。

 うつ病からの回復でも指摘されるのは、ずっと「私的な領域」にいても回復はできず、むしろ悪くなるということ。徐々に体を動かしたり、働きに行く訓練をするなど、「公的な領域」へと復帰していくことをしていく必要があるとされます。

(参考)「うつ病を本当に克服にするために知っておくべき16のこと」

 

 「私的な領域」というのはあくまで一時的な避難場所である、ということです。   

 

 生きづらさ、というのは、「私的な領域」のエネルギーを「公的な領域」で発揮するサポートや接続が提供されないような状態のこと。

 家族が機能不全で、自分のことを正しく認めてくれない。

 十分な仕事がない、仕事についても今度は職場が機能不全である。

 社会の中で「位置と役割」がうまく得られない

 などなど
 
 

 よく、「やる気が出ない」「自信がない」という言葉がありますが、
 
 やる気=「私的な領域」×「公的な領域」となっているもの。

 

 やる気とか自信は、個人の内面の問題だけではなくて、家族が提供する「愛着」や会社や学校といった、自分が出会う社会の組織がうまく機能しているかどうか、といったことが絡み合って成立するものです。

 実際に、学力というものも、所得や周囲の環境によって決まってくることがわかっています。

 

 ですから、よほど不健康で「私的な領域」が下がっているのでなければ、やる気がない、というのは、「公的な領域」との接続が十分ではないために起こっているということなのです。

 

 

 

 このように、「私的な領域」と「公的な領域」とは相互的で、それぞれがあるから成り立っているのです。
 ただ、互いに等価か?ととわれれば、あえてそうではないと答えます。

 

 なぜなら、成人した後の人間は、あくまで「公的な領域」から捉えるものだからです。
 

 

 「私的な領域」のことについては「公的な領域」へと整え、変換されないと扱うことができません。

 

 また、以前の記事にも書きましたが、
 自分や相手の「私的な領域」には立ち入らない、というのは大原則。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 立ち入っても、それを健全に扱うことができませんし、逆にやけどしてしまいます。

 
 「私的な領域」も大切だけど、あくまで「公的な領域」のためのエネルギー源として存在している、という理解が必要。
 

 しかも、私たちが原油とか鉄鉱石を手にしてもなにもできないように、素人では扱いにくいものでもある。 

 

 悩みを抱えている方の多くが、「私的な領域」を「公的な領域」と等価かそれ以上のもの、と誤ってとらえてしまって、扱い方に困り、本当の自分を見失い、その資源の生の磁力や熱風にあたって調子を崩してしまっているからです。

  
  
 「私的な領域」のエネルギーは、「公的な領域」を築き、維持することで、初めてパワーとなって発揮することができるのです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自分らしく生きるためには、「公的な環境」を築き、維持することが大事

 
 世の中にはDV(ドメスティック・バイオレンス)を行う男性がいます。家では暴力をふるい、ひどい暴言を吐く異常なふるまいを行いますが、職場や世間では、「いい人」だったりします。
 自分が悪くないということを紳士的に説くために、駆けつけたお巡りさんも騙されたりすることもある。
(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 ある評論家が、家で奥さんに暴力をふるい、それがエスカレートして警察に逮捕されてしまったそうです。
その方は、たくさん本を出して社会からは評価されていたわけですが、家ではとんでもないことをしていたようです。

 アインシュタインも奥さんに暴力をふるっていたというのを耳にしたことがあります。
 公的な業績とプライベートとは関係ない、といえばそうなのですが、なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか?
 
 養育環境などはもちろん影響しますが、現在おかれた環境も強く関係します。

 

 

 以前の記事にも書きましたが、人間は公私があいまいな環境、もっと言えば私的な環境では容易におかしくなるのです。

 

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 家でのふるまいだけを見たら、おかしなことをする人を止めることは難しいように思います。
実際、DVを行う人を治療するのは専門家でもなかなか大変な作業です。うまくいかないケースもあるようです。

 しかし、そのような人でさえ、職場や世間では紳士的なふるまいをする。

 ここには、私たちがハラスメントを防ぎ、自分が望むような関係を作り生きていくためのヒントが詰まっているようです。

 

 

 

 つまり、わたしたちが自分らしく生きていくためには、「公的な環境」を築き、うまく維持していく必要がある、ということ。

 

 「私的な環境」が本来であり、自然体である、というのは実は大きな間違い。

 トラウマを負っている人、生きづらさを抱えている人は、「私的な環境」を本来のものと考え、そこに陥ってしまいやすい。

 

 なぜかといえば、原家族が機能不全を起こしていているケースが多いから。

 “機能している”とは、公的役割をそれぞれが果たすということにほかなりません。

 父という役割、母という役割、兄、姉という役割、祖母、祖父という役割。社会通念に照らして適切な役割を果たす必要があります。

 “機能している家族”は緩やかにそれがうまくできている。 

 

 一方、“機能不全”な家族は、それがうまくできていない。それぞれが未昇華(消化)の私的な情動で動いている。

 父が父らしくなく、子供っぽい。気ままにふるまい、自分勝手なルールを家族に強いている。

 母は、気分のアップダウンが激しく、急に機嫌が悪くなったり、急に愛情深くなったりする。

 家族の中に秘密がある。

 家族の内面にずけずけと立ち入ってくる。

 などなど
 

 そうした環境で育つと子どもは健全に自我が芽生えず、常に自信がない状態になります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 会社の仕事で考えたらそうしたことは本来はあり得ない。「店員」は「店員」らしく振舞わないといけない。感情ままにふるまうことはできない。少々イライラしても我慢して、役割に殉じます。

 「課長」は「課長」の役割を果たさないと、減給や降格になるかもしれません。
 ※もちろん会社でも機能不全はしばしばあって、感情的にふるまう人がいますが(≒パワーハラスメント)。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちの多くがしばしばおちいっているのは、家庭は「私的な環境」であるという誤解です。

 
 「家庭」というのは、夫婦という血のつながらない他人同士と、社会から養育の責任を負わされた親と被養育者である子が営む共同生活の場であり、そこは立派な「公的な環境」であるということです。

 

 成人していない子供はまだ私的にふるまうことはやむをえませんが、成人のしたあとは、「私的な環境」というのは基本的には本来どこにも存在しません。あっても自分の部屋の中くらい。
 
 あとはどこにいても、「公的な環境」。

 

 だからといって、窮屈で、居場所がないということではありません。

 人間の本来の居場所は「公的な環境」だからです。

 大人になる、成長する、成熟するというのは、「私的な環境」を徐々に整えて「公的な環境」へと変えていくということ。
 “私的な情動”を公的に表現する手段を学び、獲得していくということ。
 公的な活動の場を得ていくということ。社会の中で「位置と役割」を持てるということ。
 社会というクラウドにつながる、ということ。
 
 それが本来の姿。

 

 
 「精神障害」というのは、何らかの原因で公的な環境が乱れて、公私の区別があいまいになっている状態、社会というクラウドにうまくつながれていない状態、を言います。
 

 自分の部屋にひきこもっている状態が快適か、自然体か、といえばまったくそうではありません。苦しんでいるわけですから。あくまで一時的な避難場所としてそうしているだけ。

 

 私たちは、「公的な環境」を築き、維持していく必要があります。

 

 「公的な環境」とはどんな状態か?といえば、

 自他の区別がついていることですし、距離が取れていること、
 相手へのリスペクトがありながらも、対等な関係を持てていること。
 礼儀はあるけど気をつかわないこと、
 公的な行動から逸脱した他者の振る舞いは取り合わないこと。

 

 「愛着」というOSがあれば、ワンパッケージでそれらを備えられますが、愛着が不安定である場合は意識して身に着けていく必要があります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 重いトラウマがあったとしても、公的環境を築く、ということ、それが自分を守ってくれるのだということを意識しているだけで普段の生きづらさは変わってきます。

 

 自分が生きてきた家とか学校とかおかしなローカルルールが占めていたところは私的な闇の環境だとして、そこに呪縛されていると自分も闇の側にいるような感覚に陥ります。

 そこから脱して、自分は闇の側にいるのではなく、常に明るい公の光の側にいる、という感覚。

 今までは、例えば親の闇(私的な)の部分を背負わされていて、闇の暗示をかけられていただけ。
 

「公的な環境」を築くには、いろいろな方法がありますし、条件がありますが、暗示の言葉の力を借りるのであれば、 

 「公の光(おおやけのひかり)」

   あるいは、

 「公の力(おおやけのちから)」

 
と普段、唱えてみるのはけっこう良いです。

「公的な環境」を築き、守るのに役立ちます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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