神はお急ぎにならない。急がされたり、焦燥はローカルルール

 

 「焦らされる(どんくさいお前は変だ、遅いのは無能だ、など)」というのは、ローカルルールによく見られます。

 急いだり、効率的であることが良いという感覚。丁寧さよりもスピードを重視する。時間を浪費することを過度に嫌がる。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 背後には、親をはじめ大人への怒りが潜んでいたりします。

 丁寧さやゆっくりするということへの嫌悪がある。

 人前で作業するときも、人の目を気にして急いでしないといけないと感じて焦ったり、過度に緊張してしまったりします。

 これは、ローカルルールによって、焦らされている状態。

 もっと言えば、「自分の時間を奪われている」状態です。

 

 

 「自分の時間」とは、時間の流れの基準が自分の内部にあって、自分の内部から時間が流れていく感覚。
 反対にそれが奪われるとは、時間の流れの基準が外部にあって、その流れに支配されている感覚。

 「でも、時計のように時間って客観的でしょう?」と思うかもしれませんが、トラウマを負った人は、客観的な時間、時計に従っているわけでもない。

 

 ローカルルールの時間に踊らされている。もっとベタに言えば、他人の私的な感情の影響を受けている。
「遅いと思われたらどうしよう?」「どんくさいと思われたらどうしよう」「仕事ができないやつと思われたらどうしよう」「怒られるのではないか」といった感覚。
(参考)→「焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない」 

 

 安心安全のある人というのは、自分の中に時間の流れがある感覚を持っている。

 

 例えば、仕事でも、安心安全のある人が作業していると、落ち着きがその人の中からにじみ出ていて、周りが「早くして」とは言わせない雰囲気があったりします。

 時間の流れがその人の中にある。

 自他の区別がちゃんとある。

 自他の区別というのは、空間や意識のみならず、時間にも及ぶということです。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 

 

 ガウディが、サグラダ・ファミリアについて「いつできるのか?」と問われた際に、「神はお急ぎにならない」と答えたといいます。安心安全とはまさにそんなかんじ。必要な時間が必要なだけかかるというだけ。
  

 

 「焦り」「焦燥」というのは、ローカルルールの世界であり、「急げ」といのは、ローカルルールが巻き込むために仕掛けるフィッシングメールだったりします。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」 

 

 

 トラウマを負った人が、普段焦ったり、急がなければ、と思う気持ちが湧いてきたら、それはローカルルールに巻き込まれているからで、自分の時間が奪われてしまっていることに気づく必要があります。

 ローカルルール人格は自分で問題を作り出しているのに、その人や周りのせいにします。(泥棒が警察に「治安が悪い」と文句を言うみたいに)

 

 目の前に動きの遅い人がいて、他人に時間を奪われた気がしてイライラする、という場合、「その人に時間を奪われている」と思っているのは実はローカルルールに巻き込まれているだけで、本当に時間の主権を奪っているのはローカルルールの側なのです。

 

 「なぜ、急げないのか?!」と焦らせてきたら、「お前が時間の主権を奪っているからだろ!時間の主権を返せ」と言い返す必要があります。 
 (治療者に対しても、ローカルルール人格が「早く治せないのか!遅い」と文句を言うことが実際にあります。ローカルルールが悩みを生み出しているのですから、まさに「盗っ人猛々しい」とはこのことです。)

 私たちは、ローカルルールから自分の時間の主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

 そのためには、急いだり、焦ったりすることの反対に、「ゆっくり動き」「ゆっくり話すこと」を心がける。
 

 

 これは決して道徳や心構えのため、ではありません。

 
 医師の小林弘幸さんが書いた本を読んだ際に、書かれていたエピソードですが、小林さんがイギリスに留学した際のイギリスの医師(外科医)たちは、みんな動きがゆっくりだったそうです。

 カルテを書くのもゆっくり、話すのもゆっくり、でも、手術は結果として速く終る。

 忙しく、スピードが重視されるような現場で、医師たちは努めてゆっくりゆっくり動いていたそうです。

 日本でも、神の手と呼ばれるような外科医も、動きはゆっくりですがその結果は速いそうです。

 

 

 なぜ、ゆっくりなのでしょうか?
 

 小林医師によると、ゆっくりすることで自律神経が整います。自律神経が乱れないことで、結果として早く正確に動くことにつながるというのです。

 反対に、「急いだり」「焦ったり」すると、自律神経が乱れ、動きは遅くなり、ミスも増えます。

 私たちの筋肉は力を入れると反対に動きのブレーキにもなります。
スポーツでも、力を入れると反対にブレーキになるよ、とコーチに指導されたりします。

 サッカーでも、ゴール前でいかに焦らないかが大事だと言われます。
 急ぐことが大切なスポーツでも、急ぐことが結果にはつながらない。

 
 トラウマというのはストレス障害のことですが、ストレス障害の主な影響とは自律神経の乱れですから、まさに焦らされるというのは、トラウマそのものといえます。

 
 ローカルルールとは、まさに私達を焦らせることで、時間の主権を奪い、本来の力が発揮できないようにします。
 

 

 

 ローカルルールから主権を回復するためにはどうすればよいのか?

 それは、「神はお急ぎにならない」と思い、常にゆっくり動き、ゆっくりと話す。

 その際に、「急げ」と焦らせる声が聞こえてきたら、自分の母親や父親の声だったりすることに気づく必要があります。
 結局はそれはローカルルールにすぎないということに。
 
 
 ゆっくり、ゆっくりで、ローカルルールに奪われた時間の主権を取り戻す必要があります。
 

 ゆっくり動くことは、自他の区別にも繋がります。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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知覚の恒常性とカットオフ

 

 新型コロナウイルスへの対応が社会で問題となっています。
お仕事に、プライベートにと大変な制限を受けるようになりました。

 当初は、中国で発生したウイルスということで、外国のニュースという印象でした。

 武漢で広まったときも中国の中では大変だな、という印象だったのではないかと思います。

 そのうち、クルーズ船の問題が起きました。
 このときも、クルーズ船に乗り合わせた人たちは大変なことだな、という感覚でした。

 このときくらいまでは、私たちの日常からは遠い問題と感じていました。
 

 

 しかし、ある時点からは、「これは大変なことになるな」とフェーズが変わった感覚がありました。
(休校の要請のもっと前の段階です)

 

 政府の対応も同様で、あるところから急に対応を強めるようになりました。
 その結果、後手に回ったのではないか、と疑問を呈されるようになっています。

 おそらく、政府も当初はまだ楽観的だったのではないかと思いますが、あるところから、「これはまずい」と感じて慌てるようになったような印象があります。

 

 

 コロナウイルスに限りませんが、私たちの身の回りでは、仕事でもそうですが、ぼちぼち進捗していると思っていたら、急に事態の質が変わったような気がしてお尻に火がつく、ということはよくあります。
 
 プロジェクトの進捗について、決して油断しているわけではなく推移を見守っているつもりだったのに、気づいたら後手に回っていた、なんてことも。

 

 どうしてこういう事になってしまうのでしょうか?

 実はこれは、人間の知覚のバイアスによるものです。
 

 例えば、視覚の実験で、遠くから人が歩いて近づいてくる。
 物理的には同じペースで近づいてきていますから、徐々に大きくなるように見えるはずですが、実際は、しばらく同じサイズに見えていて、あるところから急に大きく見えるようになることが知られています。

 

 これは、「知覚の恒常性」と呼ばれる現象です。

 

 物事に対しても同様で、最初はしばらく変化がないように見えて、あるところから急に質が変わることが感じられる。

 同じ → 同じ → 同じ → 変わった!? という感じ

 
 統計の世界では、質が変わるポイントのことを「カットオフ」といいます。

 

 知覚の恒常性とは、もともとは私たち安定をもたらしてくれるものでもありますが、ここに執着が加わると、「変化が怖い」「変化が来ない」という恐れにもなります。

 執着とはローカルルールと言い換えてもいいですが、私的な情動から、現実を歪めます。

 

 健康な世界では、物事は常に有限(諸行無常)です。同じように見えて常に移り変わっています。
 反対に、ローカルルールやトラウマは、「無限」という感覚を作り出します。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 悩みが変わらないような気がしたり、物事が動いていないように、あるいは、時間がとてもゆっくり進んでいるかのように感じさせたりする。

 絶望や不安、焦燥を生み出して私たちを支配する。

 

 

 以前、福岡で道路が陥没したことがありました。
 
 大きな穴が空き、水道からの水が溜まった映像が流れていました。

 そこにミキサー車などが土砂やコンクリートを流し込んで、穴を埋める様子が映し出されていました。

 ただ、最初の頃は、いつまで経っても穴が埋まる様子がありません。
 「こんな大きな穴が本当に満たされる日が来るのか」と途方に暮れるほど。

 しかし、実際は、ある時点から穴は埋まり始め(カットオフ)、
 道路として舗装され、復旧されました。

 

 

 変化とは素朴には「知覚の恒常性」が働き、

  同じ → 同じ → 同じ → 急に変わった!!

 と感じられるもの 

 もちろん、物理的な現実は、

  変わった → 変わった → 変わった → 変わった(ここで質が変わったとみなせる)

 ということで常に変わっているのですが、普通にしていると変化を感じることが難しい。

 

 そのため、人間は、経験や教養によって知覚の恒常性を越えてそれを感じるように努める。アスリートや、職人や、受験生とか勉学に励む人は、すぐに上達しなくてもコツコツと目の前のことに取り組む。

 
 仕事でも成果を上げる人は、物事は変化していないように見えて常に変わっていることを知るので、長い時間でも次を待てる。
 
 変化していないように見えることに目を奪われる人が、焦って変な行動をしている間に、徐々に変化していることを知っている人はカットオフを待ちながら、コツコツと準備を積み上げていく。

(参考)→「「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 

 

 悩みからの回復も同様に、徐々に変わって、カットオフ値で質が変わったように感じる。それまでは知覚の恒常性が働きますから、変化は常に知覚しにくい。

 さらに、ローカルルールが「無限」「焦燥」というバイアスをかけてきますから、真に受けると、ドロップさせられたりすることがある。
 治療者も、巻き込まれると「変化がない」ということに罪悪感を感じさせられたり、焦らされて、結果ローカルルールが延命してしまったりします。

 

  同じ(焦燥、不安) → 同じ(焦燥、不安) → 絶望 → 変化を待てずドロップ

 

 というように、

 

 ただ、実際は、変化は背後で常におき続けている。
そして、変化とは、無限から有限に、焦燥からゆっくり動く世界へと移行することでもあります。
 

 本来、安心安全とは変化しないことではなくて、変化(有限)の中で恒常性が維持されること(ゆっくり動く世界)。
 例えて言えば、遠洋を進む船のようにずっと景色が変わらないけど動いていて、船は安定が保たれている状態。

 トラウマ、ローカルルールとは、無限の中で恒常性(の感覚)が奪われて、焦燥の中で悶え苦しむこと。
 
 
 ローカルルールとは、事実の認知を歪める。なかでも時間の主権を奪います。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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自尊心の機能不全

 

 トラウマを負った人にとって一番特徴的なのは、自尊心が機能不全に陥っているということです。

 通常、健康な人であれば、自尊心が中心にあって山のようにそびえています。

 自尊心があるから尊大だ、とか、プライドが高い、ということではありません。いろいろな性格の人がいますが、他者から見て、なにやら侵し難さがあります。

 

 他人から、欠点をいじられることもあります。 
 でも、真に受けないし、それを戯れとして扱って、仲間意識を作ることができます。
 

 自尊心がセンサーになっているのに、いじりではなく、本当に馬鹿にしたり、マウントされたりしそうになると、「やめてください」と自然と言えたりします。

 

 会社であれば、「なんか、私にきついですね~」とか「ちょっとひどくないですか?」とやんわり牽制できたりする。
(TVのバラエティに出ているアナウンサーなどをイメージするとわかりやすいかもしれません)

 

 自尊心というのは、人間にとって公的環境を維持する灯台のようにそびえているイメージ。自尊心は、健全な発達の過程で社会の中での公的な役割を身につけて「公的人格」として成り立っている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 例えば営業マンが、接待でおちゃらけたりしているが、あくまで公的な役割として行っていて、目の奥では自尊心が保たれて、自分の存在まで卑下したりしているわけではない、という感覚。
 でも、「私的な自分」というものは公的(職業的)人格の後ろに下がっているので、顧客に対しては失礼がない。

 これが健康なあり方なのではないかと思います。

 

 

 対して、トラウマを負った人は、自尊心が機能不全に陥っています。

 以前の記事でも指摘しましたが、例えば、過剰な客観性であったり、足場もないのに自分を疑う、というのはなぜその様になってしまうか、といえば、中心に自尊心の山がなく、ポッカリと真空があるだけで、自尊心のセンサーが働かないから。

(参考)「過剰な客観性」

 自尊心がないまま、自分が馬鹿にされても受け入れるというのは、ニセの寛容さです。

 

 

 通常であれば、自尊心を中心にして世界を構成するものなのですが、それがないまま、ただ、「事実」と思われるものを全て受け入れていってしまうからです。

 実際の世の中では、ローカルルールもたくさんあるし、環境からのマイナスの影響もあって、「事実」というのは作られます。
(生物学的に差異がないのにも関わらず、マイノリティが、経済的、社会的に低い地位から抜け出せないのと同様)

 人間社会は、そのままで客観的なのではなく、怪しい事実も含めて玉石混交です。

 それを自尊心のセンサーが史料批判して選り分けるのが本来の姿。

 
 そしておかしなものには近づかない。

 自尊心そのものが足場となっていますから、自分それ自体を疑うことはしない。

(参考)足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 他者が実際にどの程度なのかも等身大に見えています。
 そのため、自分にとってネガティブな情報が入ったとしても、過度に引っ張られることはありません。
 
 

  
 自尊心とは、Being(存在)とも言いかえられますが、トラウマを負った人は、Being(存在)の機能不全を、Doing(行動)やHaving(成果)で埋めようと頑張っています。

 そのため、自分は自尊心が低い、という自覚がなかったりすることもしばしばです。

 ポッカリと心に真空が空いたまま、外側だけ頑張っているようなイメージ。
 内面は、その真空が外にばれないように一生懸命に防衛している。

 

 

 自尊心が低いことで、「本来の自分」も機能せずに、「ローカルルール人格」を中心に動くことにもなります。ローカルルール人格とは、他者のローカルルールを内面化したもので、ものすごいエネルギーで動きますが、不思議世界のルールに従っていて、自信がなく、歪んだ認知で世の中を見ては他者を疑い、自分を低くする存在です。

 

 ここまで「自尊心がない」と書かず、「自尊心の機能不全」と書いてきましたが、それは、自尊心がないわけではなく、自尊心が機能しないような様々な呪縛にかかっているということを示すためです。

 

 呪縛とは、例えば、暴言や汚言を浴びてきたり、ローカルルールを真に受けてきたり。夫婦喧嘩や、親の過干渉や、機能不全な親の関わり方、外部ではいじめといったことが自尊心の機能不全の原因です。
 (相手を支配するためには、相手の自尊心をへし折る、というのは常套手段で、映画「フルメタル・ジャケット」や「ラスト・エンペラー」でも巧妙に自尊心を折る様が描かれています)

(参考)→「「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 「自分は根本的に変だ」とか、「頭がおかしい」とか、「人とうまく付き合えない」とか、そういったローカルルールが内面化されている。

 それらはすべて事実ではなく偽物なのですが、確証バイアスによって作られた事実を集めて強固になっている。

 あたかも「秘密」のように思わされて、その秘密を守るために、バレないように内面ではものすごいエネルギーを費やしている。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 上では、「事実」と思われるものをすべて受け入れる、と書きましたが、トラウマを負っていると、物理的現実、特に物理的な自分というものへの信頼が失わされ、ローカルルールが作り出すイメージの世界(評価、評判)があたかも自分そのもののように思われてしまいます。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 その結果、「~~さんって、~~な人ね」と言われたら、あくまでそれはその人の印象や意見(イメージ)であり、ほとんどがローカルルールなのですが、真に受けてしまい、そのローカルルールが作り出す自己イメージに呪縛されてしまうのです。

 その結果、自尊心は一層、機能不全に陥ってしまいます。
 
 

 自尊心の機能不全には、植え付けられた恐怖もあります。これもローカルルールの一種と言ってよいですが、よくあるのは、他人が怖かったり、社会が怖かったり、ということ。

 

 こうしたローカルルールが折り重なるようにして存在しているので、なにか成果(学歴とかキャリアとか収入)があったとしても自尊心の機能回復には全く役には立たないのです。

 
  
 自尊心の機能を回復するためには、折り重なったローカルルールを解いていく必要がある。
 
 
 
 例えば、汚言のトラウマを取っていったり、「自分は変だ」というような、ニセの“秘密”を壊していく。

 ローカルルールとは、結局は偽物ですから、それらがなくなっていくことで、自尊心の山が徐々にせり上がってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 
 最近、新型コロナウイルスが問題となっていますが、外国の物や人が国に入るときには検疫があったり、審査があったりします。

何のチェックもなく外国に入れるということはありません。

 信用できる国同士だとチェックを軽くしたり、ということはあるようですがチェックするのが原則。

 

 

 私たち個人も同様に、相手をそのまま信じることはなく、チェックをしています。

健康に発達していれば、言葉を鵜呑みにすることもありません。

 そのまま受け入れるなんて言うのはとても危険なので、必ずチェックが入るのです。
 
 親から受けたしつけや教育についても、わざわざ反抗期というプロセスで一旦否定して、検疫して、翻訳し直して、自分のルールというものにするのです。

 

 

 人間は素直な方がいい、というふうに言われますが、その「素直さ」というのも要注意です。主語をチェックしないといけません。

 素直な方がいいというのは、「(支配する側にとって)」という言葉が隠れていることがしばしばだからです。

 

 「自由貿易とは、強者にとっての保護貿易」という有名な言葉がありますが、国と国との関係でも、「ノーチェックでやりとりしましょう」というのは、強い国にとっては都合が良いのですが、弱い国にとっては実は相手に知らず識らずの間に支配されているということがあります。

 EUでも、結局はドイツのような強い国が得をしている(EU≒ドイツ帝国)のでは?ともいわれています。

 

 

 個人同士の素直さというのも同様に、それは強者にとって都合の良い、ということだったりします。

 もっと言えば、家庭の中での親であったり、配偶者であったり、会社では上司、経営者であったり。過干渉やモラルハラスメントというのは、相手を否定することでノーチェック状態を強制することです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 反抗期を経て健全に発達した大人であれば、相手の言葉をそのまま受け取ることはありません。

 例えば、会社で会社の上司に言われたことでも、そのまま受け取るなんてしません。

 でも、あからさまに従わないなんてこともしません。

 基本は、「面従腹背(表面的には従っているが、本心はそうではない)」です。

 

 もちろん、業務として決められたことや、しなければならないことはしますが、「心から臣従」なんてしない。

 (個人同士の人間関係で言えば、裏表があるとか、心のなかでいつも相手を悪く思ったりとかそういうことではありません。)

 

 「でも、結構上司と部下が仲が良くて、尊敬されているいい環境の職場もあるよ」と思われるかもしれませんが、それは、それが当たり前なのではなく、環境が整った結果であるということ。

 上司や会社が尊敬されるに値する正統性と役割を果たしている結果、部下がそれに敬意を払い、いい関係になっているということ。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 例えば戦国時代のお侍さんでも、主人の言うことを何でも言うことを聞くなんてことはありませんでした。 主人がそれ相応の力を示して尊敬されなければ、言うことは聞いてくれなかった。

 武田信玄などもそうだったようで、部下から尊敬されることに腐心していた。
 
 

 戦前の軍隊でも、山本五十六(連合艦隊司令長官)の有名な言葉に、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
 

というものがあります。

 

 戦前の軍隊という絶対服従のイメージのある職場でも、上官が言ったから部下が何でも聞いてくれる、なんてなかったのです。

 これだけ、丁寧に関わって初めて人は動く。

 人というのは、やはり基本的には「面従腹背」なのです。

 

 ただ、面従腹背なのですが、そのほうが結果として、「素直だ」と捉えてもらえたりする。
 「面従(表面的には従っている)」しているためです。

 人間は心からやり取りをしているわけではなくプロトコル(外交儀礼)でやりとしているので、プロトコルに従っていれば良く評価される。
 

 普段、挨拶しているだけで、罪を犯した人でさえも、「あの人はいつも挨拶してくれて、いい人そうだったけどね~ 残念ね~」とご近所の人から言われるものです。

 

 それに対してトラウマを負った人はどうか?
 「面(反)腹()」という感じで、人の言葉をそのまま受け取りすぎる。心からやり取りしようとしてしまう。

 他者が大きく見えているので、へりくだりすぎてしまったりして、ちょっと言われた言葉を大きく捉えてしまったりする。

 会社の会議でも指摘があると、黙ってしまったり、深刻に受け止めすぎてしまったり。

 
 人に振り回されることに疲れているし、傷ついてもきたので、本当は距離を取りたい、人の言葉に動じない強い自分になりたいと思っています。心からやり取りしたいと思っていたりもする。
 結果、それが表情に現れて「面(反)」となり、上司から「なんだ、気に入らないのか」となって、「あいつは素直じゃない」と悪い評価されてしまう。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 本当はめちゃくちゃ素直で柔軟なのですが、それが仇となるのです。

 

 ノーチェックで相手の言葉を通してしまうことで、公的環境ではなく、私的環境になってしまって、相手の理不尽さ(ローカルルール)を招いてしまう、ということもあります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 TVや本で取り上げられている活躍しているプロフェッショナルを見ると真に受けて、実際の責任以上に仕事を引き受けてしまう。

 活躍している人は、それを支える環境があったり、負の側面もあるのですが、そのことは見えない。
 (もちろん、TVで取り上げられる人の中には自己愛性パーソナリティ傾向のあるワーカホリックな人もたくさんいますが)
 
 表面だけ真似して、すごく気を利かせたり、何でも自分の責任だと捉えたり。
 

 とても頑張っているのに、
 「~~さんは、最初はいいんだけど、結局は駄目だね」と悪く評価されてしまう。
 

 頑張ってその結果ですから、もうどうしていいかわからなくなる。
 自信をなくして、人や仕事が怖くなったりしてしまいます。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

    →「あなたの人間関係の悩みの原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 ちょっとしたことから始まりますが、「面従腹背」と「面(反)腹()」というように、トラウマを負った人と、健康な人とでは、見えている世界が180度違っていたりするのです。

(参考)→「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 仕事や対人関係の基本は、「面従腹背」。そして、自分の体の範囲より大きな責任は負わない。 

 しっかり「面従」はする。

 

 「面従」というのは、挨拶であったり、ポイント、ポイントでの愛想であったり、「OK,BOSS(かしこまりました)」といったり、などプロトコルに従うということです。
  

 そうしていれば、自他の区別もちゃんと保てますし、人からの評価を得ることもできます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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