加害恐怖(強迫)

 あらためて、最近気がついたことに、トラウマを負っている人は加害恐怖(強迫)を持っているケースは多いかも、ということです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 加害恐怖(強迫)というのは、「自分の言動が相手を傷つけたかも?!」という不安を持ってしまうということ。

 例えば、自分の言動がきつくなってしまったかな、と思ったら不安になってしまったり、相手からどう思われているかな、傷つけていないか、と確認したくなったりする。

 

 

 健康な人は、自分の気持ちに任せて怒ったり、自分の考えを伝えることで自尊心を守ったり、自他の区別を適切に保ったりする事ができていますが、トラウマを負っていると、加害恐怖のためにそれができなかったりする。

 

 その背景として、もともとの気質のやさしさや、理不尽なことをする人を見て「あんなふうになりたくない」という反面教師や理想主義からくる面もありますし、ローカルルールで縛られていたりもする。

 

 

 「あなたはきつい」とか、「言い方が悪い」とか、みたいなダメ出しをされてきていると、だんだんと自分が出せなくなってくる。

 自分を出そうとすると、他者からの評価、評判が意識されて、意見が言えなくなる。

 ブレーキとアクセルを両方踏むみたいな感じになって、前に進めなくなる。

(参考)→「気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 

 

 本当は感情を吐き出したり、意見を言ったりして、スパッとその場の空気を公的なものにしたり、相手との距離をとったりすることが必要で、本来そこに変な反省はいらない。

 

 「言い方が悪かったかも?」なんて思うと感情が相手に届かず、相手に巻き込まれて、なめられたり、支配されたりする。

 

   
 怒っているときは「怒っている」でそのままで良い。

 そういう時は清々しさがあったりする。

 

 

 ローカルルールに巻き込まれている場合は、自分の考えや感情と同時に、他者に意見や価値観が湧いてきて、「傷つけたかも?!」とか、「どう思われているかな?!」とか、「相手との関係が悪くなるかも?!」みたいな余計な気持ちが湧いて、アクセル&ブレーキ状態になり、自分という車はくるくる回り始める。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 もちろん、健康な人は、感情を出して変な後悔がないというのは、冷たいとか情がないということではない。
  
 ただ、自分の感情を出すときと、相手のことを考えるということが別々のこととして区分けされている。

 もっといえば、「主権」がある。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 

 野球に例えると、野球は先攻、後攻と攻守が入れ替わりますが、そのように攻守の「権利」が切り替わるような感覚。

 攻撃のときには攻撃だけをする。守備のときは守備に専念する。

 攻撃に時に同時に守備につくようなことはありません。

 

 

 トラウマを負っていると、ほんとうの意味で攻撃の権利は自分にはなくなる感覚。なんか、ずっと守備につかされているような感覚。
 
 攻撃になっても守備のことを考えさせられている。
 
 それどころか、最後は相手チームのベンチに座らされているような感じになり、自分がなくなってしまうのです。

 
 

 「トラウマを負っている人が怒り出したり、相手のことを考えない言動で平気で相手を傷つけることがあるじゃないか?」と思うかもしれません。
 例えば、境界性パーソナリティ状態になって、相手に因縁をつけたり、クレームをぶつけるようなことが。

 

 でも、それはよく見れば、自分そのものではなく、まさにローカルルールに巻き込まれている状態、ローカルルール人格にスイッチした状態であって、その人本来ではない。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 結局主権を奪われた状態で、内面化した他人の価値観(ローカルルール)を表現させられているだけで、やっぱりそこに自分には主権はないのです。

 さらに、ローカルルール人格がしでかしたおかしな言動の責任を取らされて、「ああ、やっぱり自分は人を傷つけてしまう」として罪悪感(加害恐怖)を刷り込まれ、自分を表現できない~ローカルルール人格にスイッチしてローカルルール人格の感情を吐き出させられる~自分を表現できない、という悪循環に陥らされてしまいます。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「奇異な主張」とおかしな前提

 

 たまたま、17日付の日経新聞のオピニオン面で目にしたのですが、今回のコロナウイルスの件で、中国(政府系の新聞など)が欧州などの対応を批判し、「自分たちはウイルスの拡散を遅らせるために貢献しており、世界は感謝すべきだという説をしきりに発信している」

 さらに、「コロナの発生源は中国内ではなく、米軍から持ち込まれたという説まで広めだした」そうです。

 

 それに対して、日経新聞のコメンテーターは、「いずれも、奇異な主張と言わざるを得ない」「世界をこれ程苦しめるウイルスは、そもそも中国から拡散した。山火事を起こしてしまった人物が消化に貢献したからといって、責任が帳消しになり、称賛されるはずがない」としています。

 

 

 たしかに奇異な主張です。それを読みながら、どこやらローカルルール(人格)と似ているな、と感じました。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

 ローカルルールも、あくまで、火の手は「個人の私的情動、不全感」からなのですが、それを周囲の人のせいにするものです。

それを真に受けて内面化してしまうと「ローカルルール(人格)」として内面化した人を苦しめることになります。

 まったく奇異なことなのですが、「見捨てられ不安」だとか、「家族の愛」だとか、「自分は不完全な存在だ」といったおかしな前提が入ると、それが奇異なことに見えずに真に受けさせられてしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 例えば、親の機嫌が悪くなり、それを「あなたがいい子ではないからだ」と子どものせいにする。「あんたなんかにできるわけがない」といった心無い暴言を浴びせる。

 冷静に見れば、全く奇異な主張と言わざるを得ません。 
 でも、おかしな前提が入るとそう見えなくなる。

 

 上司が不全感からイライラして、部下に因縁をつけて怒る。「お前は態度がなっていない」と。

 全く奇異な主張と言わざるを得ません。 
 でも、おかしな前提が入るとそう見えなくなる。

 

 

 解離性障害のケースなどでは、治療者はローカルルール人格と直接話をすることがあります。
 その際に、ローカルルール人格が問題を作り出してクライアントさんの主人格を苦しめているにも関わらず、ローカルルール人格が「治療に時間がかかりすぎる」「よくならない」と治療者に文句を言ったりすることが本当に起こります。

 「火をつけているのはお前だろう!」と当然ツッコミたくなる、まさに笑い話のようなエピソードです。

 

 火をつけた人が消防署に文句を言うような全く奇異な主張ですが、もし治療者側に「罪悪感」「(間違った)責任感」というおかしな前提が入っていれば、奇異とは感じられなくなるでしょう。

(参考)→「ニセ良識、ニセのバランス感覚~2、3割は自分のせいだ、というローカルルール

 クライアントさんの主人格がそれを真に受けると、実際に治療がストップしたり、ドロップしたりしてしまいます。

(参考)→「ローカルルール人格はドロップさせようとすることもある。」 

 

 

 

 以前も、記事で書きましたが、境界性パーソナリティ障害などで苦しむ方が、医師などを批判するのも同様に奇異なことなのですが、おかしな前提によって巻き込まれると、それが奇異とは感じられなくなり、ショックを受けて治療者の仕事を辞めてしまうということも起こります。

(参考)→「共感してはいけない?!」 

 

 ※冒頭のコロナウイルスの件でも、もし発生したのが中国ではなくアメリカだったらどうか?とか、時代が違えばどうか?など状況を変えてみると、おかしな前提(アメリカは進んでいるから、とか)が入ってしまって「なるほど、もっともだ」と真に受けてしまう可能性も十分にあります。 

 

 このように、ローカルルールとは、奇異な主張でしかなく、まともに受け取る必要がないものばかりです。
 
 
 自尊心が機能していると、おかしな前提が入らず、奇異だと自然と感じることができるようになります。

(参考)→「自尊心の機能不全」 

 

 

 精神疾患や精神障害、トラウマとは結局、奇異な主張(ローカルルール)と変な前提とが組み合わさった暗示がずっと内面化して取れないままでいること、とも考えられます。

 近年、オープンダイアローグをはじめとするナラティブセラピーなどが注目されるのも、奇異な主張とおかしな前提(ナラティブ)の暗示を解く力があるからなのかもしれません。

 

 ちなみに日経新聞では、奇異な主張をしないといけないのは、「そうしないと、盤石な共産党政権の基盤を保てなくなる不安があるからだ」としていました。

 ローカルルールというのは正統性がまったくないので、事実を曲げたり、奇異な主張で外に因縁をつけない限り、維持できないくらい脆いもの、おかしなものでもあるということです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」   

 

 
 さらにいえば、私的領域での人間の発言自体がすべて戯言であり、「奇異な主張でしかない」ということでもあります。

 もっともな顔をしているだけで、戯れに扱うものでしかないし、戯れとして扱わないといけません。

 

 人間の発言の奇異さを捉え、変な前提を健全な反抗で壊して主権を自分に保つ。そのことを身体で知るのが愛着、発達ということなのかもしれません。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」   

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 目の前に起きたことは、偶然なのか、なにか本質を指しているのか?

 もっというと人生で起きたことは偶然なのか、自分のせいなのか?

 通常、私たちは本質そのものを捉えることはできません。

 TVの視聴率でも、1億人に聞くことはできないため、300世帯で計測されている。

 これはサンプル調査であり、推測統計と呼ばれる技術で全体像を明らかにしています。
 

 

 目の前で起きたことは、あくまで事象(サンプル)で、それが背後にある母集団を表している場合もあれば、そうでない場合もあります。
 
 調査というのは偶然の可能性もあり、視聴率調査でもおそらく1%くらいの確率で「偶然でした(実態とは違いました)」ということがありえます。

 

 
 自分にとって良くないことが起きると、たちまち「自分はだめだ」と断罪したり、されがちですが、それは本当なのか。

 

 「事実」とはなにか?

 

 以前の記事でも、「事実」というのは環境や人によって作られるものだ、ということをお伝えしてきました。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 作られた事実に縛られることがトラウマやローカルルールです。

 明らかにおかしなことであればはねのけられますが、
 ローカルルールは、「事実」を悪用します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 今回は、トラウマ、ローカルルールから自由になるためにも、事実とは何かを、更に詳しく見てみたいと思います。
 

 そのために、手続きが厳密だとされる学術的な調査を例に取り上げてみたいと思います。
 

 

 さて、
 学術調査などで、統計を用いる際、どのようにして得られた結果が「事実」と判断しているのでしょうか。

 例えば、質問紙を用いた調査の場合の手続きを簡単に説明しますと、

 1.調査の設計の段階で調査の対象や、実施の方法をかなり綿密に計画します。質問の配置や調査の際の教示の仕方も、正しく回答が得られるようにできるかぎり練ります。 

 

 2.調査の結果、回収された質問紙に対して、「検票」という作業を行います。明らかにいい加減な回答、おかしな回答がないかを、人間の目でチェックします。

 

 3.検票が終わったら入力作業を行います。その際も間違いがないかダブルチェックを行います。
    

 4.さらに、入力したデータについて「クリーニング」を実施。どの程度までの回答が有効とするかをデータ上でチェックします。例えば、普通であれば同時につくはずのない回答に○がある場合は「いい加減な回答」として除外します。虚偽尺度として最初からそうした設問が設定されている場合もあります。同じ回答が多いものも除外することがあります。

 ここまでで回答の1~2割くらいが除外されます。

 

 5.それからデータにラベルを付けて、分析するためのデータが整います。
   次に、「仮説検定」を行います。仮説検定とは、調査したいことが「偶然に起きたことではない」ことをチェックする作業です。

   調査とは、目の前に起きている現象をもとに母集団(調べたいこと)を推定していくものですが、目の前に起きた現象が偶然であることも実は珍しくありません。そのために、仮説検定(偶然ではないことを確認すること)でチェックを行います。偶然ではないらしい」と判断されると本格的な分析に入ることになります。

   ただし、仮説検定を通っても、1~5%は偶然である可能性は残ります。

 

 6.いよいよ分析に入ります。
   統計解析を用いると、結果がすぐに出ると思うかもしれませんが、100~200個分析して、ようやく1つ意味のある結果が出るか出ないか、ということも珍しくありません。思っている以上に、分析結果とは、平凡で、取り上げる必要もないような結果ばかりが出てきます。

 

 7.なんとかひねり出してひねり出して、ようやく意味がありそうな結果を見つけることができます。ただ、それでもあくまで「ある仮説」というレベルです。

 

 つまり、起きた事象は、ここまでしてようやく「とりあえず事実らしい」といっていいレベルになるのです。

 ある一定のサンプル数(最低100サンプルはほしい)を確保して、かつ、これだけの手続きが必要になる。
 
 根気よく好きでなければできない面倒な手続きです。
( 多くの人は、勉強や研究がここで嫌いになるところでしょう)

 

 

  
 ただ、そうやって手続きを踏んだ研究結果でさえ、追試をするとだいたい6割くらいは再現できないことがわかるようになり、最近問題になっています。
 (米科学誌「サイエンス」が主要な学術誌に掲載された心理学と社会科学の100本の論文が再現できるかどうかを検証したところ、結果は衝撃的で、同じ結果が得られたのはわずか4割弱にとどまったとしています。

 関連:クリス・チェインバーズ 「心理学の7つの大罪――真の科学であるために私たちがすべきこと」(みすず書房))

 

 

 STAP細胞など、捏造が問題になりましたが、科学的な手続きを経れば自動的に事実が明らかになるのではなく、かなり人間の営みや意思が介在しています。捏造をした研究者たちももともと悪者というよりも競争や研究費を獲得するための焦りなど、いろいろな都合がまぜこぜになって違反を犯してしまうようです。
 (福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、科学者たちの人間臭いやりとりが紹介されています。)

 

 

 さて、ここまでお話をしたように、「事実」というものが私たちが思っている以上に厳密な手続きを経てようやくできるものです。

 

 上のような科学的な手続きを踏んだとしても何割かの「事実」はかなり怪しいものであるということですから、私たちの身の回りで私たちを評価するようなこと、私たちが何者かを示す事柄のほとんどは再現のできない「偶然」でしかありません。
 人の発言なんていい加減の極み。手続きを踏まないものはそのはるか以前の戯言レベルでしか無い、ということです。

 

 

 私たちは、ミスや失敗など、自分にとってマイナスになるような出来事が起き、それを他者が取り上げて、私たちを裁いたり、レッテルをはったりするようなことで苦しんでいます。
 それを別名ローカルルールといいますが、結局は「偶然」をとりあげて相手を支配しようとしているだけ。

 

 「あなたって、だめな人ね」というような他人の言葉はすべて戯言で、おそらく、統計を取れば、検票や虚偽尺度の段階で落とされるレベルのことでしかなかった。

 

 
 単に、「偶然だし、戯言だから気にしなくていいよ」というのは、勇気づけレベルにしか聞こえませんが、実際、学術的な手続きを踏んでもなかなか事実はわからない。
   

 

 自分に都合が悪いことが、立て続けに起きたとしてもそれはほとんど偶然でしか無い。
 

 「いや、そんなことはない」「自分はだめな人間で、その証明として都合が悪いことが起きてきた」
 「現実から目をそらすのではなく、客観的な事実を見て、向き合わなければ、おかしな人間になってしまう」

 と思うかもしれませんが、上にも書きましたように、その出来事を仮説検定にでもかければ帰無仮説(偶然)とされてしまうレベルです。

 仮にそれが通ったとしても、今度は再現できないからやっぱり事実ではない、となってしまう程度でしかありません。

 

 

 筆者が最近たまたま、Youtubeで見たある経営者の講演の内容で印象に残ったことがあります。

 それは、麻雀にたとえての内容だったのですが、
 
 「麻雀では、4人で卓を囲むので、平均して2割5分、強い人でもだいたい3割程度前後の割合でしか勝てないようになっている」
 「ただ、なぜか4回連続で最下位になることもある。そのときに、皆、精神を崩す。(単なる偶然なのに)自分のやり方はなにか間違っているのではないか、自分のおかしいところは何が原因なのか、見直さなければならないのではないかと不安になってブレる。そこでブレてはいけない。反対に4回連続でトップになることもある。そのときに調子に乗ってもいけない」といった内容でした。

 

 

 私たちも、普段「自分のおかしいところは何が原因なのか」と考えさせられているが、それは本当に事実に基づいているのか?
  

 ローカルルールというのは、たった1回の失敗でも取り上げて、「ほら、だからあなたはだめな人間だ(だから私に従いなさい)」とやってくるわけですが、これがいかに嘘であるか。

 「いやいや、ローカルルール人格だったとしても、私はそれ以外にも失敗しています」と思うのも、ローカルルールの影響です。

 経営者の発言でもあるように、4回連続の最下位もザラにある。

 

 

 私たちは、原因帰属を間違える生き物。

 繰り返しになりますが、科学の世界でも、起きた現象から事実を確定することはかなり難しく、査読を通った論文でも、あとからチェックしたら、
 4割が再現できないくらいなのですから(つまり事実ではなかった)、
 
 果たして、私たちの身の回りにいる人達が、1,2の事象を取り上げて、私たちを評価して、断定していることがどれほど怪しいか言うまでもありません。

 「事実は作られる」「人間の言葉は全ては戯言である」というのは、こうした点からもわかります。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」「“作られた現実”を分解する。

 

 

ローカルルールとは、まさにエセ科学。

 

 

 自尊心が機能している人は、「私は大丈夫」として否定的な事象を深刻に受け止めません。気の強い人なら失礼なことを人から言われたり、弱点を指摘されても「何よ!!ふん!」としてはねつける。

 一見、独りよがりだと見えるかもしれませんが、目の前の事象や“作られた事実”に惑わされずフィルタを掛けて偽りの事象から身を守っており、結果として“科学的な”態度と親和性がある。

 

 自尊心があることで、それがフィルタとなり、事実を検定(チェック)することになる。その結果、物理的な現実に根ざすことができたり、普遍的な何かを感じることができるようになるのです。

(参考)→「自尊心の機能不全

 

 反対に、ローカルルールにとらわれて、自尊心が機能不全に陥っていると自分を否定する事象が続いただけで、「受け止めなければ」「自分はだめなのでは」と捉えて、過剰な客観性、偽の誠実さに陥り、ブレて、まどって、作られた事実に振り回されてさらにローカルルールにとらわれていてしまうのです。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

神はお急ぎにならない。急がされたり、焦燥はローカルルール

 

 「焦らされる(どんくさいお前は変だ、遅いのは無能だ、など)」というのは、ローカルルールによく見られます。

 急いだり、効率的であることが良いという感覚。丁寧さよりもスピードを重視する。時間を浪費することを過度に嫌がる。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 背後には、親をはじめ大人への怒りが潜んでいたりします。

 丁寧さやゆっくりするということへの嫌悪がある。

 人前で作業するときも、人の目を気にして急いでしないといけないと感じて焦ったり、過度に緊張してしまったりします。

 これは、ローカルルールによって、焦らされている状態。

 もっと言えば、「自分の時間を奪われている」状態です。

 

 

 「自分の時間」とは、時間の流れの基準が自分の内部にあって、自分の内部から時間が流れていく感覚。
 反対にそれが奪われるとは、時間の流れの基準が外部にあって、その流れに支配されている感覚。

 「でも、時計のように時間って客観的でしょう?」と思うかもしれませんが、トラウマを負った人は、客観的な時間、時計に従っているわけでもない。

 

 ローカルルールの時間に踊らされている。もっとベタに言えば、他人の私的な感情の影響を受けている。
「遅いと思われたらどうしよう?」「どんくさいと思われたらどうしよう」「仕事ができないやつと思われたらどうしよう」「怒られるのではないか」といった感覚。
(参考)→「焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない」 

 

 安心安全のある人というのは、自分の中に時間の流れがある感覚を持っている。

 

 例えば、仕事でも、安心安全のある人が作業していると、落ち着きがその人の中からにじみ出ていて、周りが「早くして」とは言わせない雰囲気があったりします。

 時間の流れがその人の中にある。

 自他の区別がちゃんとある。

 自他の区別というのは、空間や意識のみならず、時間にも及ぶということです。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 

 

 ガウディが、サグラダ・ファミリアについて「いつできるのか?」と問われた際に、「神はお急ぎにならない」と答えたといいます。安心安全とはまさにそんなかんじ。必要な時間が必要なだけかかるというだけ。
  

 

 「焦り」「焦燥」というのは、ローカルルールの世界であり、「急げ」といのは、ローカルルールが巻き込むために仕掛けるフィッシングメールだったりします。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」 

 

 

 トラウマを負った人が、普段焦ったり、急がなければ、と思う気持ちが湧いてきたら、それはローカルルールに巻き込まれているからで、自分の時間が奪われてしまっていることに気づく必要があります。

 ローカルルール人格は自分で問題を作り出しているのに、その人や周りのせいにします。(泥棒が警察に「治安が悪い」と文句を言うみたいに)

 

 目の前に動きの遅い人がいて、他人に時間を奪われた気がしてイライラする、という場合、「その人に時間を奪われている」と思っているのは実はローカルルールに巻き込まれているだけで、本当に時間の主権を奪っているのはローカルルールの側なのです。

 

 「なぜ、急げないのか?!」と焦らせてきたら、「お前が時間の主権を奪っているからだろ!時間の主権を返せ」と言い返す必要があります。 
 (治療者に対しても、ローカルルール人格が「早く治せないのか!遅い」と文句を言うことが実際にあります。ローカルルールが悩みを生み出しているのですから、まさに「盗っ人猛々しい」とはこのことです。)

 私たちは、ローカルルールから自分の時間の主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

 そのためには、急いだり、焦ったりすることの反対に、「ゆっくり動き」「ゆっくり話すこと」を心がける。
 

 

 これは決して道徳や心構えのため、ではありません。

 
 医師の小林弘幸さんが書いた本を読んだ際に、書かれていたエピソードですが、小林さんがイギリスに留学した際のイギリスの医師(外科医)たちは、みんな動きがゆっくりだったそうです。

 カルテを書くのもゆっくり、話すのもゆっくり、でも、手術は結果として速く終る。

 忙しく、スピードが重視されるような現場で、医師たちは努めてゆっくりゆっくり動いていたそうです。

 日本でも、神の手と呼ばれるような外科医も、動きはゆっくりですがその結果は速いそうです。

 

 

 なぜ、ゆっくりなのでしょうか?
 

 小林医師によると、ゆっくりすることで自律神経が整います。自律神経が乱れないことで、結果として早く正確に動くことにつながるというのです。

 反対に、「急いだり」「焦ったり」すると、自律神経が乱れ、動きは遅くなり、ミスも増えます。

 私たちの筋肉は力を入れると反対に動きのブレーキにもなります。
スポーツでも、力を入れると反対にブレーキになるよ、とコーチに指導されたりします。

 サッカーでも、ゴール前でいかに焦らないかが大事だと言われます。
 急ぐことが大切なスポーツでも、急ぐことが結果にはつながらない。

 
 トラウマというのはストレス障害のことですが、ストレス障害の主な影響とは自律神経の乱れですから、まさに焦らされるというのは、トラウマそのものといえます。

 
 ローカルルールとは、まさに私達を焦らせることで、時間の主権を奪い、本来の力が発揮できないようにします。
 

 

 

 ローカルルールから主権を回復するためにはどうすればよいのか?

 それは、「神はお急ぎにならない」と思い、常にゆっくり動き、ゆっくりと話す。

 その際に、「急げ」と焦らせる声が聞こえてきたら、自分の母親や父親の声だったりすることに気づく必要があります。
 結局はそれはローカルルールにすぎないということに。
 
 
 ゆっくり、ゆっくりで、ローカルルールに奪われた時間の主権を取り戻す必要があります。
 

 ゆっくり動くことは、自他の区別にも繋がります。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について