自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。

本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。 

 なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。

 

 では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?

 その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。

 

 生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。

 子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。

 例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
 親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
 子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。

 そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
 

  
 
 退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。

 
 そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
 「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
 

 もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。

 そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
 

  
 ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。

 人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。

 子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。

 不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。

 

 西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。

 さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
 労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。

 貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。

 そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
  個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。

 具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。

 まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。

 

 
 こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。

 悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。 
 その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。

 例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
 そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
 これらはニセの責任です。

 

 以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
 しかも、具体的な社会的な手段によって。

 そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。

 それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 

 「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。

 一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
 なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
 
 ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
 多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。

(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない

 

 

 そこで大切なのは「主権」という意識。
 いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。

 

 

 主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。

 そこでカウンセリング、セラピーの出番。
 その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
 (その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
 

 

 具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。

 自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。  
 その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。

 
 場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
 以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。

 そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
 特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
 それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 
 なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
 「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。

 自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
 
 人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。

(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。 
 自分でログインしているから積み上げを感じることができる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。

 
 自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。

 

 

 

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ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 これまでの記事で見てきましたように、私たちがこの社会と生き生きと関わるためには、主体性を持って向き合うことが必要になります。
言い換えると“私は~”で生きる。 「自分」というIDでログインすることが必須になります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 この“私は~”というものを健全に出せば出すほど、愛着的世界に入り、世の中はこちらに優しく関わってくれます。反対に、“私は~”を隠して、回避すればするほど生きづらいものになってきます。
 主権を奪われて、他人の価値観で、他人の言葉で生きていくようになってしまうからです。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 
 自分らしく生きていくためには「自分」のIDでログインする。“私は~”というものを表に開示していくということが求められます。

 ただ、多くの場合、そこには強い恐怖感がつきまといます。

 “私は~”を表に出したら、他人から攻撃される、否定される。あと、自分が独りよがりになってしまうのでは、といった不安です。過去に失敗してきた苦い思い出が蘇ってきます。

 

 そのために、“私は~”は殺して、理想的な人間を目指すニセ成熟状態となってしまうのです。

 スピリチュアルなもので回避したりすることはもちろん、“私は~”を回避するというのは、結果として他者に依存することになります。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 記憶では、今までの人生において“私は~”を出したから人から攻撃されたと捉えていますが、よくよく検証してみるとその反対だったりします。

 例えば親とか周りから理不尽に怒られたり、感情をぶつけられたりする場合も、相手はそれをローカルルールとして成立させるために「あなただから」と「あなたに問題があるから」因縁をつけることがよくあります。

 ただ、理不尽なことをされたり、感情的にされているのも嫌ですが、相手を支配するためには、自分の言動を理屈でコーティングしないと成り立ちません。
 ローカルルールは、相手に「自分が間違っている」と思わせて完結するという性質があります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 理不尽を受けた側もローカルルールに巻き込まれて、「自分はおかしい」「“私は~”を出すと攻撃される」「自分だからだめなんだ・・」というふうに捉えてしまいます。

 そうすると、“私は~”を奥へと引っ込める。“私は~”を回避するということが身につくようになります。
 

 「私は~」を出すことを回避することで、生育の過程で内面化した他者の価値観が前面に出てくるようになります。
 特に他者のローカルルールが前に出てくる。

※解離の方は、父や母など強くハラスメントを仕掛けてきた方を内面化しているのため、父母と同じ否定的な言葉を発するようにもなります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 ローカルルールは自他の区別を越境するようにして「こうあるべき」「こうあるはず」というふうになりがちです。“私は~”というものを脇においた言動になります。

(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 あるいは、自己不全感を癒やすために躁的になったり、自我肥大したように自分をアピールするような言動となることもよくあります。  

 その言動が他者の違和感を生みますから、さらに「おかしい」と指摘されるようになります。 

 本人は、自分が喋ったり行動したりしているため、まさか「私は~」を脇においているとは思いません。
 むしろ“私は~”を積極的に出して行動していると考えていますから、「おかしい」と指摘されると「“私は~”を表に出したからこうなった」と、回避を強化するようになります。

 さらに“私は~”を奥へと引っ込めるようになるのです。

 

 

 「自分のIDでログインする、といっても今まで「私」を出したら嫌われていたし、さんざん否定されて嫌な思いをしてきたから、それはできない」というのは、“私は~”を出すどころか、反対に“私は~”を回避する言動を取らされていたために起きていたのです。

 “私は~”を出すと否定される、というのは誤った強いられた条件づけだったわけです。
 

 
 本来“私は~”を出せば出すほど、自他の区別はつき、他人への侵害、他者からの侵害はなくなるものです。

 なぜなら、「私は~と思います」「私は~と感じます」といっている限りは、他者からも「あなたはそうなのね(私とは別)」で終わるからです。

 自他それぞれが適度に区切られた中で「つきあう」ことができるからです。

(参考)→「「私は~」というと、社会とつながることができる。

 

 

 しかし、“私は~”がなくなって、「人間全般」として言動するようになると、真逆となります。

「人としてこうあるべきでしょ?」ということから言動するため、他者には侵食的で強い違和感、反発を持たれます。

 他人の言動に対してもイライラが止まらなくなります。

 本当にあるべき行動をしてくれないし、こちらは“私は~”を抑えて我慢してがんばっているのに察してくれないという不満が湧き上がってくるのです。

 
 さらに、人とも馴染めず生きづらくなってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 “私は~”を出すことが問題の根源と思い込まされ、“私は~”を抑える方向に努力をするのか?
 
 “私は~”を出すことが解決の道と知り、“私は~”を出す方向に行くのか?

 全く真逆ですが、この迷子になっているかのような状態になっている方はとても多いです。

 というか、この迷子自体が生きづらさの本質といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示がずっと効いてしまっているようです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」 

 
 「“私は~”を出したら嫌な目に合う」という壁を越えることは、愛着を回復するためにも、自分の人生を生きるためにも一大ポイントといえます。
  

 

 

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他者の話をうまく聞き取れない!?

 前回は本を例に上げましたが、筆者はトラウマの影響から人の話もうまく聞き取れない時期がありました。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 たとえば、新入社員のころは、議事録を書いたり、というのが新人に任せる作業の定番ですがその議事録が苦手でした。
 
 イメージとしては国会の速記係みたいに一言一句記憶しなければ、と思って書いているのですが、だんだん集中力が続かなくなって、記録できなくなる。ついていけなくなって焦る。

 しかも、新入社員なので知識も足りず、専門用語や前提となる約束事がわかっていないのでふんわりした表現や曖昧な表現は意味を捉えられない。

 さらに、当時の仕事は大企業同士の取引なので、社内でも客先でも「白か黒か」はっきりしない結論になることも多く、「グレー」のままで「なんとなく好意的」「なんとなく後ろ向き」というぼんやりした内容の会議もよくあります。
そこでは結果の解釈が上司とで真逆であることもしばしばでした。

 それで余計に書いた議事録が正しいかどうか自信がありませんでした。

 

 そのうえ、当時はトラウマの症状の真っ最中でもありましたから、なぜか会議中に眠くなって寝てしまう、ということがよくありました。フリスクを食べたり、腕をつねったりするのですが、うつらうつらしてしまう。

 もしかしたら睡眠時無呼吸症候群なのでは?と診察を受けに行ったこともありました。(器具をつけて一泊して検査します)
 
 結局は、なんにも異常はありませんでした。

 

 わけのわからない症状で苦しむというのはそれはそれでとてもつらいものです。なぜなら、それが自分の責任(Being)とつながるから。「自分がおかしな人間なのでは?」という不安に襲われるのです。

 わかりやすい病気であればよほどよいなとおもいました。
 

 

 会社員時代というのは、目の前の仕事も大変ですが、不具合だらけのロボットのコックピットに乗っているかのような、あるいは、ナチス体制下のユダヤ人がユダヤ人であることを隠して働いているような(いつか自分がおかしな人間だとバレる)、そんな感覚でした。
  
 

 実は、「他者の話」というのも、前回取り上げた「本」と同様に、自分を主体にするということがなければ、聞き取ることができません。

 もっといえば、“私”を中心に身体全体で聞く、というような聞き方でなければ聞き取ることができない。

 「私は、こう捉えた」ということがなければ、聞くことができないものです。

 冒頭にあるように、「私は~」を抜いて、一言一句“客観的に”記録するみたいな聞き方、心構えでいたのでは聞き取ることは難しい。

 

 

 もともとトラウマの症状もある上に、他者の話が重要だと捉えて全部聞き取ろうとするから、本当に大切な部分が聞き取れなくなっている。
 パソコンやスマホで重い処理をしているかのように、だんだん頭がボーッとしてきて本当に記憶ができなくなってしまいます。
 それで頭がシャットダウンして眠くなるという症状になっていたようです。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 カウンセラーや医師でも、ベテランになると話の内容は聞き流すように聴いていて、身体の動きだけを見ていたりします。
(もっというと、ベテランのカウンセラーは自分の身体に伝わってくる身体感覚や違和感を観察していたりします。)
そのほうが、知りたいことをつかめたりする。

 特に「言葉」は一番信頼性が低い情報とされますから、一言一句拾いに行くことに意味はありません。
(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!」 
  

 

 
 他人が言ったことが正しい、ととらえていたら、そのうち「いや、私はこう言いました!」という他者の記憶に自分の記憶が圧倒されてしまうことになります。要は「記憶の主権」を声の大きい他者に取られてしまうようになるのです。

(参考)→「記憶の主権

 

 自分が話したことについては、他人が誤解したら「誤解された自分が悪い」とおもうのに、他人の言葉は一言一句捉えなければ、というのは非対称でかなり歪な感覚です。

 他人の言葉でも誤解を恐れずに主体的に解釈しに行く必要があります。

 

 

 

 「でも仕事であればできるだけ正確にしなければいけないのではないか?」と思うかもしれません。
 しかし、例えば、情報を伝えるプロである大手の新聞社でも、記者は自社の方針で解釈し、言葉をかなり切り取って報道しています。

 あれは、新聞社が「本人はそのようにしゃべったといってるが、私たちはこう解釈しました」と自信を持って切り取っているのです。
 

 別に日本だけではなく海外の新聞社でも同様で、日本人からすると「えっ、そんなふうに解釈されるの?」と意外に思うこともしばしばあります。
(保守でもリベラルでも中道でも、業界紙でも、このことは同様です。)

 つまり、情報を伝えるプロも一言一句なんて捉えていないのです。

 

 それを指して偏向報道だ、と批判されることもありますが、「絶対客観的に書く」というのは実際には不可能だとされます。

 記者なので、聞き漏らしのないように取材するのも仕事ですが、紙面には制限があり、取材したものを一言一句書いても記事になりません。
紙面が無限であったとして一言一句並べられても、読んで頭に入ってこない内容になってしまいます。
 (つまり、偏向かどうかは、客観的かどうかというではなく倫理や質の問題になります。)

 この「制限された紙面」というのは私たちの「認知」「記憶」と似ています。

 人の話も、「私」を主体として切り取らなければ、聞き取れない。

 

 自分の主体とはフォーマットです。
 仕事であれば、職業に関連した定形のフォーマットがある程度ありますからそれをもとに整理されていく。

 保険の営業マンであれば、自社の商品や顧客の将来設計というフォーマットにそってヒアリングする。仕事であれば、経験を積めば積むほどフォーマットは洗練されていく。

 
 私たちも、「私」というIDでログインし、自分の価値観というフォーマットに沿って聞く。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 トラウマを負っていると、主体性(主権)を奪われている上に、フォーマットもないまま(理想主義から持とうとしないまま)、人の話を聞きにいくものですから、他人に記憶の主権を奪われて「いや、私はこう言いましたよ(あなたの記憶はおかしいですね)」と圧倒されてしまうのです。
 

 
 上記の例にあげた新聞社などは、たとえ総理大臣やアメリカの大統領が「私は本当はこういったのだ(切り取り方がおかしい)」といっても、「いえ、私たちにはこう聞こえました」といって譲りません。 
  

 主体性を持って聞くとは、そういった聞き方なのです。
 

 

 だから、会社の議事録でも、ある価値観を代表した「私」が解釈した議事録であって然るべきだ、ということだと、今はわかります。
 その上で、職業人としてのフォーマットに磨きをかけるために、上司が「お前にはそう聞こえたのか、なるほど」「ここはもっとこういう解釈があるぞ。ここもポイントだぞ」というふうにトレーニングされていくものなのでしょう。

 

 

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自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 筆者はかつて、例えば読書をしていても、どうしても書いてあることが正しくて、それをどれだけ正しく吸収できるか?ということから離れられずに苦労をしていました。

 もっといえば、自分の解釈はできるだけ抑えて、著者の意図をそのまま正しく取り出して受け取らなければならない、さらに、著者の誤りまで見抜いて鉄板の事実だけを取り出して記憶しなければ、といった感覚。

 

 そうすると、本当に簡単な本であればよいのですが、難しい本になればなるほど読めなくなってしまう。字面だけを追うようになって、ただ読んでいるというだけで身にならなくなる。

 

 さらに、大学院時代に研究がうまくいかなかったトラウマもあってか、「自分の解釈には落とし穴、見落としがあって、それを指摘される」という恐れみたいなものがありました。手に入れた情報を頭の中で確定できない、書いてあることもどこか本物ではないのでは?真実は別のところにあるのかも?といった感覚にも陥って、わけがわからなくなってしまっていました。
 (クライアントさんの話を聞くと同様の感覚をもつ人は多いことに気が付きます。)

 

 本が主体になっていて、本に負けているような状態でした。

 

 

 しかし、いろいろな経験を積む中で、どうやら、結局偉い先生であっても、先行研究も含めて先人や同時代の問題意識やトレンドという他人の肩を借りて本を読んでいる。そのため、純粋に客観的な解釈などは存在しないし、過去の解釈でも今から見たら間違いとされるものはたくさんあったりする、ということもわかってきました。

 

 例えば、かつて流行したマルクス主義経済学や歴史学などは、現在ではおよそ科学とは言えないものですが、昔は東大などエリート大学の先生や学生がこぞって本を読んで研究をしていました。

 

 でも、そのほとんどが否定や修正をされるに至ってみると、当時あの難しい「資本論」などを本当に正しく理解できていた人は何人いたのか? 資本論について本を書いていた人でさえかなり怪しい。極論すると理解できていた人などほとんどいないかもしれないのです。
 
 じゃあ、当時得意げに理解したつもりになっていた人たちは一体何だったのか?おそらくある種のローカルルールの世界でしかなかったのかもしれません。

 天才、秀才たちでもそんなものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 以前の記事でも紹介しましたが、私たちが学んだ国語の教科書に載っていた小林秀雄などは、現代の一部の学者や評論家からは「ドーダの人」とされます。
つまり、単に自分をすごい人だと見せたいがために、わざわざ難しい、すごそうな文章を書いていただけの人だ、というわけです。

 だから、私たちが過去に読んで難しいと諦めた本でも、「ドーダ」で書かれた本は少なくないようです。

(参考)→「生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 実際それと似た話に、アラン・ソーカルという人が、コンピューターでランダムに哲学用語を並べた論文を発表したら査読を通り、それを評価する人も現れた、というのですから滑稽ですらあります。

 つまり、本の世界、学問の世界でもその随所にしばしばローカルルールがはびこっていたりもする。その中にハマると「おかしい」と思われてしまうことでも崇めたり、信じたりといったことがおきてしまうようなのです。

 

 

 実は、本というのは、本そのものに権威を感じ、そのままで読もうとするとその著者やその威を借りる人たちのローカルルールに巻き込まれてしまいます。

 以前、人の心を覗こうとしてはいけない、と書いたことがありましたが、それと同じ現象が起きてしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本ではなく日常で接する人の意見も同様です。
人間の言説には不純物が混じっており、消化吸収する際は、こうした落とし穴があります。

 特に自分を主体にせずに対象にコンプレックスを感じたりしていると、ローカルルールにやられてしまうのです。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 「でも、伝える側は専門家だから、やはり向こうのほうがよく知っているのではないの?」と思うかもしれません。

 しかし、私たちが商品を購入する際を見ればわかりますが、専門家である伝え手(売り手)の側のほうが常にすべてを理解できているわけではなく、私たちが受け手に回ったときも「この営業さん(店員さん)わかってないな」とおもうことはよくあります。

 お店で手にとった商品について「もうちょっとここがこうなってくれれば買うのにな」と思うこともあります。

 商品を作る側はプロなのですが、でも受け手が何がほしいかを理解するのは至難の業です。
 そのためにビックデータとかAIを駆使しようというのが最近の流れです。もっといえば、AIでも完璧にはわからないのです。

 

 

 一方で、顧客の意見を聞くということばかりに気を取られて、伝え手(作り手、売り手)が主体性を放棄すると売れない商品になってしまいます。
 今度は顧客の意見を受ける側である作り手もその意見に主体をもって向き合う必要があります。

 ときに、顧客の意見とは異なっても自分たちの信念を貫くことも大切です。

 

 実は本も同様で、偉い先生であったとしても、作り手(伝え手)がすべてをわ かっているとは限らない。とくに、現在、現場で生きているのは私たちです。

 

 私たちは問題意識から本を読みます。
 問題意識や私たちの経験を本に照らしてそれを投げてみて、跳ね返ってくるものを捉えようとしています。

 なので、「この点はどうなの?」とか、「この本の著者わかってないな~」ということが出てきても当然です。

 そうしてみると、実は、本を読む際も本を主役として読むのではなく、あくまで自分が主体で読まなければならない、ということが見えてきます。
    

 

 本を書く側、伝え手においても、その方の等身大の経験、身体感覚(問題意識)に基づいて世に問うものでなければ良い本にはならない。
 「ドーダ」で書いていたり、その人が属する業界のローカルルールにとらわれて書かれた本はその方の主体がそこにはないのです。

 伝える側も受ける側も自分を主体にしないと世界は何も答えてくれない、ということです。

 

 実は、自分たちを主体にして世界と向き合う、というのは歴史的にも時代が下るにつれて庶民にも広まっていった方法です。

 

 例えば、「宗教改革」というのは、聖書の解釈を聖職者ではなく、「自分たちに直接解釈させろ(自分たちが主体で聖書を読みたい)」という運動でした。
 聖書の主人公(伝え手)であるキリストの生き様に触れたい、という情熱も後押しした運動であったと言えます。

 そのために、ラテン語で書かれていた聖書を各地の言葉に翻訳して印刷機で大量に印刷されるようになりました。

 宗教改革というのは、実はプロテスタントに限らずカトリックでも対抗した改革が起きました。

 それが近代人の基礎になったのでは?というのがウェーバーのテーゼであったわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 20世紀後半から現代に至る「ポストモダン」という思潮もその延長線上にあります。

 ポストモダンとは、「人間の言説には、価値の上下はなく、差異しかない」というもの。

 だから、ポストモダンでは、ある意味いい加減に言葉は扱われ、やたらめったら難しい本ばかりという印象がありますが、人間を主体として言葉を単なる道具(差異)とみなすトレンドであったということです。

 

 実は、近年のアメリカでのトランプ現象(「フェイクニュース!」という言葉をよく耳にしました)や日本でも見られるマスコミや専門家への不信といった風潮も、一部のエリートのみが社会の言説の主体であるのではなく、自分たちも伝え手、受け手それぞれに主体でないとおかしい、という運動だと考えられます。
 

 ここまでは、「本」とか「読書」を例としてあげましたが、「他者」「家族」「上司」「友達」などと置き換えていただけると良いかと思います。

 

 私たちの発達の過程も実はこうした歴史の流れとフラクタル(相似形)で、他者の言葉を鵜呑みにする時期があってそれを壊すイヤイヤ期がある、また素直な時期があってそれを全否定する反抗期がある。
 成人するというのは、内面化した大人の価値観を自分の言葉で解釈し直すことです。

  
 前回の記事でも見ましたように、おそらく正しくは、受け手、伝え手いずれにしても、私たちにとって言葉とは、主権を持ち、身体のフィルタを通してはじめて意味のあるものになる、ということなのだとおもいます。

(参考)→「「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 もっと言えば、どのような場合にも私たちにこそ主権がある。
自分を中心にする、自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れてくるのです。
 

 

 反対に、主権なく他者の言説を“正”として押されっぱなしの状態が「いきづらい世界」です。

 

  
 人の言葉というのは、耳から脳に入って理解する、というものではなく、まずは免疫でチェックして取捨選択され、その後必要なものは身体から染み渡るように吸収して、内的な感覚として湧き上がるようにして私たちに「身体感覚」が来る、との順番で身になるものです。

 咀嚼、吸収するのは私たち自身の身体なのです。
 そのまま吸収ことは絶対にできない。

(参考)→「「人の意見を聞く」とはどういうことか?

 

 もしそのまま吸収したらどうなるか?といえば、「支配」や「洗脳」ということになってしまいます。

 「親の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」「人望のある人の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」「経験がある人の言葉だから(違和感があってもそのまま受け止めなきゃ)」といった感覚があるとしたら、それはそのまま吸収しているということです。
 

 そうすると、その言説が健康なものであればあるほど、エートス(魂)が伝わらず死んでしまいます。

 人の意見、本などの言説に敬意を持って活かそうとすればするほど、できるかぎり、こちらが主権を持って積極的に自分の体験や体感で解釈する。

 
 これは仕事や人間関係においても同様で、こうした捉え方こそが自分の世界を作っていくということになるのです。
 

 

 

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