人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 前回、魔術的なものの介在する感覚が、私たちを苦しめる、ということを取り上げました。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 なにやらわけのわからないもので、私たちの存在が規定されるような感じ、結果が左右される感覚が私たちを生きづらくしてしまう、というものです。

 A をすれば Bになる、ということが当たり前ではない、予測できない、というものほど不安にさせるものはありません。

 この間の訳のわからないものを「魔術的なもの」と表現しています。

 一番、魔術的なものの介在を感じるのが、人間関係です。

 

 

 人というのは思ったとおりに動きません。いろんなタイプの人がいる。しかも解離します。突然分けのわからないことを言ったりするし、失礼なことを言ってきたりもする。

(参考)→「あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 睡眠や栄養、運動が不足するとてきめんにおかしくなります。
 子どもがわけがわからなくなるのも、眠い時、お腹が空いたときですが、成人も同様です。
 さらに、そこに自己不全感も影響しますから、人間がまともである時間は思っているよりも少ない。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 内的にも外的にも環境が安定している状態を、「愛着が安定している」あるいは、「機能している」といいます。
 そうした家庭で育てば、人間関係についても、A をすれば Bとなる、ということを感じやすくなります。 相手の反応を予測しやすい。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 そこで「基礎」を身につけた後であれば、おかしな行動という「例外」も認識しやすくなります。

 
 学校などで、友達の態度が突然おかしくなる、急に無視される、というようなことについても、ショックは受けますが、「基礎」に対する、「例外」としてとらえることができます。

 やがて、「ああ、人間っていうのはおかしくなるものなのだ(「基礎」+「例外」で成り立っている)」というように学習することができる。

 
 「基礎」を学んだ上での「例外」は、「基礎」によって統制されたものであるために、「例外」でさえも、予測できるかのような安心感があるのです。

 

 

 中学、高校、大学と進むと、さらに嫉妬とか、上下関係とか、もっと難しい人間の心の機微への対応が生じてきます。
 しかし、それらは「応用」としてとらえることができます。
 難しい人間関係についても、身を守ったり、人間関係を落ち着かせるために必要な「礼儀」「社交辞令」も身体で覚えていくことができます。

 「基礎」+「例外」、そして「応用」と、あくまで外的な問題を学ぶ感覚で人間関係を学ぶことができます。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」 

 

 
 一方、不安定な環境ではこうはなりません。
 不安定な環境とは、夫婦・家族の不和、過干渉な家族、反対にネグレクト傾向の家族、一貫性のない家族、学校でのいじめなどなど。

 相手の対応が不安定なので、A をすれば Bとなるとは感じられない。A をすれば C にもなり、Yにもなる。
 いきなり「例外」 からスタートです。

 

 なぜ、A が B になり、 Yにもなるのかを理解するために自分なりの法則を当てはめようとします。それが例えば、「自分がいい子じゃないから」というもの。

 

 「自分がいい子じゃないから」といったものを介在させると、一応「例外」を説明できたように感じますから、そのときは落ち着きます。
 「ニセの基礎」を自分でこしらたということです。どうとでも解釈できて結果を統制できない「魔術的なもの」です。

 

 それはあくまで「ニセの基礎」にすぎません。
 ニセモノだから、「応用」に進んだときに 全く機能しません。
 
 人間関係が比較的シンプルな小学校のときは友達関係がうまくいっても、中学以降に進むと人間関係につまずく人が多いのはこのためです。

 本当の「基礎」がないために、複雑な「応用」になってくると予測と対処ができないのです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」 
  

 

 そして、「ニセの基礎」とは、結局、「自分が悪い」と考えることで成り立っているものなので、「例外」「応用」に直面しても、すべて、「自分のせいだ」で対処しようとしますから事実をそのままに見ることができません。
 結果として、さらなるハラスメントを呼び込むことになります。

 

 「礼儀」や「社交辞令」についても体得できておらず、自信がありません。
 むしろ、過剰にへりくだったりしてしまいます。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・」 

 「形ではなく本音で人と付き合う」を理想にしていたりもしますから、どこか「礼儀」をニセモノとして軽視している場合もあります。
 結果として、自分を守ることもできず、人間関係を安定させる形式も自分のものとすることができずに、どうしていいかわからなくなってくる。
(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ」 

 
 

 やがて、人がモンスターのように怖くなってきます。
 

 なにやら「自分はおかしなものを引き寄せやすい」とか、「そもそも、嫌われやすい」と言った具合に、目の前の現象を説明するために、さらに魔術的な考えにとらわれることになります。
 

 親などからの養育環境で入った暗示が入っているとさらに厄介で、「ほら、やっぱりあなたはおかしい」となって、暗示も強化される、という構造になっているわけです。

 

 

 
 ネガティブな自己イメージからポジティブな自己イメージへ、というように、解決策にも魔術的なものを求めてしまいます。
 (そういうことで“夢”を売って商売している人も世の中にはたくさんいるのです)

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」 

 次から次へと本を読んでは失望する。セミナーを受けては実行できず、自分を責めて、がっかりする、といったことになってしまうのです。

 そうしたものから逃れるためには、本当の「基礎」に立ち返る、Being とDoing を切り離す。そして、物理や現実が一番自分を守ってくれます。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 

 

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目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する

 

 現在私たちが住む社会は近代社会と呼ばれます。

 近代社会の定義というのは色々取りますが、一つには、出自によって制限がないこと、とされます。
 
 出身地や身分によって、差別されたり、制限を受けることがない。

 

 言い換えれば、Being(存在) ではなく、Doing(行動) のみで評価され、Doing(行動) によって人生を切り開くことができる。

 以前記事にもかきました、ウェーバーという政治学者のテーゼというのは、まさに、プロテストタントは、予定説によって、Being(存在)の部分をまるごと神に預けて、人間はDoing(行動)に専念する。
 それが、近代資本主義社会の駆動力になったのではないか?というものでした。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 反対に、Being と Doing をつなげてしまうのは、前近代的な仕組みです。

 なぜくっつくの?と聞かれたら、「いや、そうきまっているから」とか、「生まれがそうだから」といった答えが返ってくるような世界。
 つまり、Being とDoing の間が、なにやら非合理的な、魔術的と言ってもいいものによって繋げられている状態です。

 

 技術についてもそうです。

 近代化された世界であれば、AをすればBになる、CをすればDになる、ということで、そこには非科学的なものが入る余地はありません。

 すべてDoing の世界です。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感

 

 しかし、前近代的な発想であれば、Yさんが、Aをするから、Bになる。 ZさんがAをしても、Bになるかはわからない。Yさんも気持ちがこもらなければBにならないかもしれない。といったもので、AとBの間に、Beingの良し悪しや、何やら目に見えないものが介在していると考えるものです。
 

 

 臨床心理では、フラクタル(相似形)という概念が用いられることがあります。
 個人や社会のある部分で成り立つことは、形が似た他の場面でも成り立つというもの。

 近代社会云々という例を取り上げましたが、人間個人の発達についてもこうしたことは当てはまります(フラクタル=相似形)。 
 

 

 人間が成人するというのは、まさに社会に置き換えれば前近代の状態から近代社会へと発展するということと相似形と考えられます。

 

 実は、かつての社会であっても、一人前になる、というのは、その人が生きる世界において身分のや出自の制約が少なくなるということです。
 例えば、大工の棟梁になる、というのは、それによって自分が生きる世界では制約が少なく自分の腕を振るうことができるわけです。

 簡単に言えば、自分のBeing とDoing との間の繋がりが切れて、目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなる。

 あくまで、Doing によって評価され、自分のBeingは、Doingの成否や良し悪しで左右されない状態になる、ということです。

 気兼ねなく、Doing に集中することができます。

 

 スポーツで言えば、試合に集中できている状態で、人格云々は問われない。
 
 Doingのみに集中できていることで、社会の中で位置と役割を得て、それがやがてBeingへと健全にフィードバックされてくる、という感覚。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 反対に、発達の過程でトラウマを負っているとこうはいきません。

 必ず、Doing とBeing には変な癒着がつけられています。目に見えないもの、魔術的なものが介在させられている。

 「自分だからダメだ」「自分は変だ」といったものがついていて、Doingに専念できない感覚がある。
 
 Beingにケチが付いていて、Doing と切り離すことを許されていない。

 多くの場合は、親などの家族や、学校といった生育環境でその癒着という暗示をつけられている。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 A をすればBになるという確信がないから、仕事が積み上がらない。
 他人がすればなるけど、自分の場合はそうなるかどうかわからない。
 
 日々Aをして、Bになってよかった~!とほっとして、なんとか仕事をこなすのに、やりすごすのに精一杯という感覚。

 そうしている間に時間は立つけど経験は身についた感覚はなく、精神はヘトヘト、というふうになっている。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 

 

 トラウマを負っていると、スピリチュアルなものにどこか親和性を感じる方が多いのですが、それも、実はBeing とDoing の癒着、魔術的なものの介在という暗示にかかっていることが背景の一つとして考えられます。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 やっかいなのも、生きづらさや悩みから解決を図るはずのセラピーも、ポップなものほど、魔術的なものを肯定していたりする。
 それが例えば、ポジティブシンキングであったり、口ぐせであったり、引き寄せ、といったものであったり、などなど。
 魔術の世界から脱出させるのではなく、その世界の中にとどまったままで対抗しているような感覚。ここには大きな落とし穴があります。

 

 
 映画「ハウルの動く城」で、魔法使いハウルが魔女を恐れて自分の部屋でたくさんのまじないやお守りに囲まれているシーンがありますが、まさにあのようになってしまいます。

 目に見えないもの、魔術的なものというのは、結局はイメージや言葉の世界なので、他人から容易にひっくり返されやすいものです。
 だから、安心! という感覚はなくどこかオドオドしているのです。

 

 悩みを解決するために進むべき道は、魔術的なものの介在を排除することです。多くは家族などからもたらされています。物理や現実に立脚することが何よりも強く、私たちを守ってくれます。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」といいましたが、まさに至言です。
 (ゴータマにもたしか似たようなエピソードがあったと思います。)
 

 Being と Doing そして、Doing間での目に見えないもの、魔術的なものの介在がなくなっていくと、私たちはもっと生きやすく、自由になっていきます。

 

 

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Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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人に対して幻想、信仰を持ってしまう。

 

 
 トラウマのダメージを負うと、人格の成熟の過程でエラーが生じるとされます。

 他者のイメージや、自己のイメージが妙に大きくなってしまったり、小さくなったりする。

 他者については、なんか妙な信仰をもってしまう。

 自分から見て、「この人はしっかりしているな」とか、「安定しているな」と思うような人、「この人に認められたい」と思う人に対して、妙な信仰心とでも言うような感覚を持ってしまう。

 妙な感覚なので言葉にするのはなかなか難しいのですが、ベタッとした、媚びるような、子どもが憧れのお兄さんに認めてもらいたいという羨望のような感覚を持ってしまう。

 自分でもなんか変な感覚だな、と感じたりする。
でも、無意識的にそのように感じてしまう。

 

 「この人は、何をやっても感情が乱れないんじゃないか?!」みたいな気さえしてきたりする。(実際は、怒ったりしますけど)

 それで、相手にベタッとした関わりをして、相手を怒らせるような言動をして、相手が怒ったらショックを受けて、神様に怒られたがごとく自分がとんでもないようなきがしたり、相手が豹変した悪魔のように見えたりするようになる。 

 あるいは、妙な信仰を感じている相手から自分を否定するような言葉が来てショックを受けたりする。

 信仰を感じている相手から、内面が見透かされたような感じがしてしまう。 
 

 
 現実には、相手は信仰するような対象でもなんでもなく、ありのままのその人を見ることができていないことから生じるのですが、トラウマを負っているとどうしてもそういう事が起きてしまう。

 人以外でも、会社、団体、組織、に対してそのような幻想を持つこともあります。

 マスコミに取り上げられるような会社などは、自分に自由と解放をもたらしてくれる理想の仕組みがあるに違いない、と考えてしまう。

 実際はそんな事はありませんけども。  

 

 

 筆者も、お店とか仕事で店員さんとかジムとかでインストラクターとかされている方で「しっかりしているな」と感じるような人が、トイレから出てくることに遭遇すると、(そりゃ、人間だからトイレに行くこともあるわけですが)、少し意外さを感じている自分がいることに気がついて、「あっ、ないとおもっていたけど、自分はその人を全体で見れていなかったな、理想化、幻想を持っていたのかも?」と自覚することがありました。

 

 よく、「ありのまま」というと、きれいな素の存在、本来あるべき理想の存在、というような感じで間違って解釈されていますが、ありのままとは、文字通りありのままで、いいところもわるいところもひっくるめてのもの。

 

 「全体対象関係」と専門的にはいいますが、トラウマが取れて人格が成熟してくると、現実をそのまま捉えることができるようになってきます。

 妙な信仰をかぶせてみるのではなく、ベールを剥いでそのまま見れるようになる。

 

 現実が怖い、嫌なものと感じているから、妙な信仰も延命してしまっている部分がありますが、怖い現実というのは、ローカルルールがもたらしたニセのものです。本来はそのままの現実というのは、ニュートラルで、そのまま捉えることができるようになると、自分のIDでログインする事ができるようになります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

 

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