俗にまみれる

 

 「インターステラー」という映画があります。

 地球が環境破壊や飢饉などで危機にある中で、他の居住可能な惑星を探しに行くというものです。
 並行して父と娘の物語もサブテーマとして織り交ぜられている、映像もリアルで美しく、SFの傑作といってよいかと思います。

 その中で、主人公が他の惑星へと探索に行きます。巨大な津波が襲ってくる惑星など様々な星があるのですが、その場面を見ながら、「映画では大丈夫だろうけど、もし実際に他の惑星に行ったら数分くらいで細菌やウイルスにかかって死んでしまうんだろうな」とふと考えていまいた。

 

 歴史でも、僅かな人数のスペイン人の侵略者に対して、アステカ王国とインカ帝国の何万もの兵士はバタバタと倒れて、亡くなってしまいました。
 天然痘のためだと言われています。スペイン人が進んでいくだけで文字通り現地の兵隊は倒れていったようですから恐ろしいものです。

 私たちも外国に旅行するとお腹を壊したりすることがありますが、それを指して「水が合わない」といったりします。

 同じ地球でもこのような感じですから、他の惑星になると、外気に数分さらされるだけでも血を吐いて倒れてしまうかもしれません。
(瞬時にワクチンができるような科学ができれば別ですけども。)

 

 
 私たちは、この地球に生まれてきた当初、、赤ちゃんの頃は母親からもらった免疫のバリアで守られています。当初はほとんど風邪などにはかかりません。

 でもだんだんそれも薄れていき、膨大な種類の細菌やウイルスに徐々にさらされることで免疫がトレーニングされていきます。

 接する機会が希少でかつリスクが高いなものについては予防接種によって免疫を獲得します。

 

 子どもは、土を触ったり、汚い手を口に持っていったりすることでも免疫がついてくる。

 もちろん、風邪をひいたり、お腹を壊したりすることはありますが、それは必要なプロセスだったりします。

 最近、新型コロナ対策で心配されているのが、アルコール除菌などが徹底されることで、子どもたちが過度に清潔な環境におかれすぎないか、ということです。

 新型コロナへの感染リスクは減りますが、まわりまわって、免疫力がつかず他の病気にかかりやすくなったりするのではないか、との懸念があるそうです。

 

 実際に今回の新型コロナでの「ファクターX」とは、東アジアでは古くから蔓延していた風邪(従来型コロナ)による交差免疫のためではないか?とされます。
 欧米など他の地域ではインフルエンザはありますが、風邪は少なかったそうです。

 それに訓練されていることでアジア人は幸いにも感染者数や死者数が少なく抑えられているのでは、と考えられています。

 

 有名なH・G・ウェルズの「宇宙戦争」で地球に侵略してきた宇宙人も最後、細菌でやられてしまうのは有名なエピソードです。

 宇宙人たちもワクチンを打ったり、免疫をトレーニングしていれば、地球を征服できたかもしれませんね。
 

 私たちも、よく対人関係とかストレスに対する抵抗力を指して「免疫」とか「ワクチン」と表現したりします。
 そんなことをタイトルに冠した本も出版されていたりします。

 
 人からの言葉に傷つかない、とか、世の中で受けるストレスから身を守りながら生きるためには、どうやら、適切なプロセスで免疫を獲得し、それが機能することは必要だろうと思います。

 「宇宙戦争」の宇宙人やインカ帝国の人々みたいに死んでしまうわけには行きませんから。
 

 

 では、傷つきやすい私たちは平均よりも免疫がないのか?というとそれは違います。
 

 トラウマを負った状態というのは、免疫がないというよりは、獲得した免疫をオーガナイズすることができていない状態と考えられます。

 トラウマを負っているというのはむしろ他の人よりも厳しい状態を生きてきたということ。
 強い細菌やウイルス(≒ストレス)を浴びてきた、ということです。
 逆説的ですが、トラウマを負っている人は傷つきやすいが、打たれ強かったりします。

 
 だから、免疫はあります。しかし、それが発揮されるようにするためには全体を管理する機能が必要になります。

 特に、日常の人間関係からのストレスとは、長くじわじわかかるもの。
 ですから、日常においては免疫も強ければよいのではなく、調和して発揮される世界です。

 しかし、トラウマによって免疫の司令塔となる機能が混乱しているためにサイトカインストームのように過剰に働きすぎたり、反対に働かなかったりすることになります。

 そうすると、日常の微細なストレスにやられてしまう。

 

 日常のストレスに対する免疫は、自分のIDでログインして「俗にまみれて」はじめてオーガナイズされる。

「俗(ぞく)」というのはそうしたオーガナイズ機能をスイッチONにしてくれる。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 免疫がうまく機能しないために、日常のストレス、特に対人関係のストレスではすごく痛い目を見るように傷ついてしまう。
 

 そして、痛い目にあいたくないために自分を解離(ログアウト)させて無菌、減菌状態に置こうとしてきた。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 もともとログインできていない → 免疫が機能しない → 傷つく → さらにログインを避ける → 機能しない →・・・

 という悪循環です。

 結果、いつまでたっても「人生が始まらない」「始まる感じがしない」。

 

 周りの人とペースが合わず、世の中にも馴染めず、いつのまにか、自分のことをまさに「宇宙人」のように感じてしまうようになります。

(参考)→「トラウマ的環境によって、裏ルールを身に着けるための足場を失ってしまう

 

 トラウマを負っていると、どうしても、「俗にまみれたくない」「汚れたくない」(≒ログインしたくない)っていう気持ち、怖さがあります。

 この怖いからログインできない、ログインできないから免疫が機能しない、よけいに怖いとかんじる(ログインして免疫が機能すれば全然怖くないのに)、この悪循環にさらされている方はとても多いです。これがログインできない大きな要因の一つとなっています。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

他者の視点は神の視点ではない。

 前回の記事と関連しますが、

 トラウマを負っている人の特徴として、他人に指摘されると、頭が真っ白になってしまう、ということがあります。

 自分が気がついていない事柄を、欠点を他人が指摘してきた、として、顔面蒼白、足元がひんやりするのです。

 他人の指摘をあたかも「客観的な事実」であるかのように、そのまま受け取ってしまいます。

 その背景には、前回の記事でも見ましたように「自分は不注意で、おかしな考えや行動を取る変な人間」といった自己イメージがあり、一方、「他人はもっと立派な真実を知っている」といった他者イメージがあります。

(参考)→「不意打ちの恐怖」 

 

 

 他者を「神化」している。
 

 本来は、世の中は「主観」と「主観」のぶつかり合いです。
 「客観」なんてものはどこにもありません。

 私たちが普段「客観」といっているものは、あくまで「視点B」「視点C」ということでしかありません。

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 例えば今は新型コロナの問題で、いろいろな専門家が発言、提言をしますが、誰が正しいか?ということを誰も判定してくれることはありません。

 すべて、「専門家Aの視点」「専門家Bの視点」といったことでしかない。

 

 であれば、どこにも真実はないか?といえばそうではなく、物理的な現実を見て妥当性を検証していきます。 科学とはそういうものです。

 人間関係の現場では物理的な現実がわかるまでにタイムラグがあり、そこにローカルルールが紛れ込んできます。
 そのために、「事実に対する主権」を持つことはとても重要になります。

(参考)→「「事実」に対する主権

 

 

 私たち人間は、自分では自分のことがわからないこともたくさんあります。

 「岡目八目」といって、他者のほうが問題の所在や背景がよく分かるということもよくある。

 指揮官に参謀がいたり、プロの選手がコーチを雇っていたり、というのもそうです。

 一方で、当事者でないとわからないこともあります。
 スポーツで観戦者としてみていて「もっとこうすれば」というふうに思うことはありますけど、当事者の方が深い考えで取り組んでいることもあります。

 昔、高校野球でPL学園と横浜高校との対戦を当事者の証言などで検証したNHKの特集がありましたが、一球一球にすごく深い読みと考えがあったことを知り、驚いたことがあります。

 解説者でもそこまではわからないことです。  

 

 

 歴史学が、過去の歴史事件の背景を研究したりしていますが、どこまでいっても確定した答えというのはありません。
 
 当事者は、当事者の視点で見て限界がありますが、歴史家の方も視点には限界があります。歴史家は「当事者がどう思っているのかもっと知りたい」と思っていたりします。

 つまりは、それぞれに視点がある、ということでしかありません。
 神の視点(絶対客観)はないということです。 

 

 

 私たちの話に戻してみると、私たちも、自分のことで見落とすことは必ず生じます。
(男性だったらズボンのチャックが知らず識らずに開いていることもあるし、寝癖がついていることもある。)

 しかし、それは、簡単に言えばDoingの問題であって、Beingの欠陥を証明するものではありません。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 Doingが見落としたことを指摘する他人の視点にも限界があって、ある部分を指摘できるに過ぎません。
 私たちの状態を完全にわかるわけもないことは言うまでもありません。

 
 他人を「神」としてしまうのは、多くは幼少期に受けたローカルルールのためでもあります。幼少期はただえさえ、周囲の大人は完全な存在であるかのように見えます。

 その上に支配的な親である場合は、「ほらあなたはなにもわかっていない」「親である私は何でもお見通し」といったような関わりをする場合があり、そこで受けたローカルルールを真に受けたまま成長したということもよくあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもに対して自分は完璧であることを示して、「I’m OK」を得るということをしているわけです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 人間は自分の存在(Being)の不全を埋めるためには、子どもでも(だからこそ)容易に犠牲にするということですね。

 

 さらに、生育の過程で自分がわかっていなかったことを知らされるような体験を通して、「自分はわかっていない」「不意打ちされる恐怖」が強化されてしまう。

 

 

 例えば、仲の良いと思っていた友達が陰で自分の悪口を言っていた、みたいなこともそうしたケースに当たります。 

 筆者も中学の頃に、親戚のお兄さんが実は筆者を嫌っているというようなことを親から聞かされて人間不信に陥ったことがあります。
 今から思えば親もそんなこと知らせてくるなよ、とおもいますが、とても大きなショックでした。「ああ、自分はわかっていなかった」という衝撃です。

 

 芸人の千原ジュニアが子どもの頃に、友達の親が「あの子(ジュニア)はおかしいから、遊んでいはいけません」というのを耳にして、ひきこもりになった、みたいなことを書いていましたが、その気持は良くわかります。  

 スティグマ感というか、自分が見えない背中に自分がおかしい証拠が貼り付けられているような感じがして、それを他人に見透かされるというような感覚に苛まれてしまう。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 会社とかでも、なにか物事を見透かしそうな偉い人に接すると過度に恐縮してしまう。
 本やテレビでは、その道のすごい人はちょっとしたことで全てを見抜いてしまう、みたいなことも頭にあって、自分も見透かされるかも、と思ってしまう。

 これらはローカルルールの世界観に過ぎません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 確かに、他者は私たちの背中を見ることはできますが、ただそれだけです。
 足の裏は見ることができない、私たちの内面を捉えることはできない。
 背中を見ている瞬間には前面を見ることはできない。
 

 私たちの身体感覚を感じることができるのは私たちだけです。
 私たちの人生の時間をすべて経験できているのも私たちだけです。
  
 私という人生にログインできるのも私だけです。
  
 
 トータルで見れば、私のことは私が一番捉えることができるし、その権利(筋合い)、その動機は私にしかありません。

 だから、主権というものをしっかり持てていれば、他者も同じ程度に限界のある「主観B」でしかないと捉え、他人から指摘されても、「ああ、ありがとう」「あなたからはそういうふうに見えるのね」でスルーすることができます。
 

 新型コロナのワクチンの治験でも何百万人の反応(意見)を集めても、安全かどうかの「客観」は確定しないのですから。1,2人の指摘なんて何の意味もありません。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 

 

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不意打ちの恐怖

 

 トラウマを負った方に多いのは、不意打ちされるのではないか、という恐れが強いということがあります。

“不意に”嫌なことを言われるのではないか? とか、

“不意に”自分が気づいていない欠点、弱点を指摘されるのではないか? とか、

街を歩いていたら、
“不意に”怒られるのではないか?とか、

仕事でも、
“不意に”上司やお客さんが怒り出すのではないか?とか

そういった恐れを持っていたりします。

 

 攻撃が外から来るだけなら、まだマシです。

 その恐怖心を解消し、日常では確率が低い出来事なんだ、ということがわかれば、警戒は解けていきますから。

 しかし、“不意打ちされる”原因が自分にある。だから自分はおかしい。自分はミスが特別に多いのだ。楽観的にわかったつもりになっているとろくなことがない。自分は大事なことに見落としがある不注意な人物なんだ、といった感覚を持っている場合は、なかなかそうもいきません。

 

 外からの攻撃だけではなくて、自分の内部(Being)も信頼できない、という感覚があるからです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 こうしたことは、ローカルルールによる因縁付け、原因帰属によって生じます。

 例えば、親が自分の機嫌が悪いことに任せて子どもに感情をぶつける。子どもにとったら平和な日常の中で急に怒られる。
でも、その理由を「お前が悪いからだ」として、真に受けると、上記のように「自分は大切なことを見落としていた」「自分はおかしい」と捉えるようになります。

「自他の区別」がぐちゃぐちゃになってしまいます。

 

 相手は単に感情に任せて理不尽なことをしているだけなのに。
 ローカルルールは、ルールとして成立させるために理由をつけて相手に原因を帰属させてしまうからです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 不意打ちの恐怖があることで、物理的な現実への信頼感も低下します。

 「1+1=2」であることが信頼できない。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 算数(数学)が苦手な人に多いのですが、単に計算ミスをしても自分がおかしいせいにしたり、なにか魔術的なトリックで答えがすり替わったかのような感覚をもってしまう。

 本当は間違ったところまで立ち戻って、計算しなおせばよいのですが、そういう気持ちが起きない。

 これまでの境遇の中で、積み上がるようなプロセスではなく、“不意に”理不尽な結果が降り掛かってくる経験をしているために、算数で間違いがあっても、同様に感じてしまう。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 仕事でもそうですが、「自分の意見」「自分の考え」を提案するときにも、どこかで、自分の考えには見落としがあって、それを“不意に”指摘されてしまうのではないか?という恐れでビクビクしている。

 

 

 結果、絶対に突っ込まれない内容にしようとガチガチの理屈になってしまったり、過度に完璧を目指そうとしてしまったりします。

 しかし、完璧なものなどありません。誤解や見解の相違もつきまといます。
 ちょっとでも疑問を呈されたり、批判されると、「自分がおかしなことがバレた」という感じに頭が真っ白になってしまう。

(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 愛着的な世界観であれば、あくまで私の意見。完璧なんてありえない。相手の批判もあくまで相手の意見でしかなく、完全ではない。
 だから自分の視点を伝えて、意見を交換する。その結果、さらによいものになるかもしれない、と捉えます。

 

 トラウマ的な世界観ではそうではなく、自分の存在(Being)をかけて、真理か否か?と完璧を目指そうとしたりしてしまいます。
 でも、どこまでいっても真理なんてありませんから異論が出ます。
 それを「自分がおかしい証拠」「真理が崩れた」と捉えて絶望し、顔面蒼白になってしまうのです。

 

 不意打ちされないことをあらゆることの第一条件にしているために、身体も緊張しているし、人の言葉にも弱いし、自然体でいることができません。

 不意打ちの恐怖から逃れる方略として、絶対安全や完璧を目指すというのはローカルルールの世界観、トラウマの世界観です。

(参考)→「「素晴らしい存在」であるべきと「弱さ、不完全さ」を隠していると、いつのまにかローカルルール世界にとらわれるようになる

 

 不意打ちされる恐怖を持っているということは、言い換えれば、「主権がない」ということ。

 自分が自分にまつわる出来事の主権を持っているという感覚を奪われているということです。

 主権を持つこと、自他の区別をもって人と付き合うということをすることは、愛着的な世界観です。

 主権というのは「それが及ぶ範囲が決まる」ということでもあります。
 だから、範囲が及ばない出来事については、不意打ちとも思わない。「自分の責任ではない」として、自分を免責することができるのです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 

 

 さらに具体的にいうと、
 相手の理不尽まで含めて「理屈を整えて」反応しようとすると、頭も体も固まってしまいます。

 意味のある反応をしようとすればするほど、かえって相手の呪縛にとらわれてしまいます。固着してしまいます。

 相手の方程式(理不尽さ)も含めて連立方程式を解こうとする感じです。

 

 私たちが解くのは自分の方程式だけです。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 ですから、不意なコミュニケーションでうまくいえないときは、「言う言葉がないなあ」といったり、「言葉が思いつかない」と口に出すことです。

 どう動いていいかわからないときは「どうしていいかわからない」。

 相手の言動が訳がわからないなら、「わけがわからない」「急に怖いなあ」「あぶない」。
 気まずいなら、「なんか、気まずいですね」と言葉を発します。

 
 つまり、常に何かを反応して返す。

 お笑いのツッコミなんかはその一番良い見本ですが、不意打ちな理不尽の空気から主権を戻して、自他の区別をつける作用がある。

 言葉が出ない場合は言葉を飲み込む習慣がついてしまっています。身体で言えば喉につまりがある状態。
 

 言葉を発する習慣が戻ると、どうしても立場的に発することができない場合でも、頭の中で突っ込むようになって、自然と自他の区別がつくようになります。
 

 こうしたことをしていくと、“不意打ち”へのトラウマティックな恐怖がなくなってきます。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分(私)」というものの価値を低く捉えているためにログインできずにいる。

 

 筆者は、中学の頃に吃音になり、思うように言葉が出せなくなります。吃音というのは、自分が出したいときに言葉がうまく出せなくなる原因不明の症状です。
 さらに仲の良いと思っていた親戚のお兄さんから嫌われていると聞かされて人間不信になり、吃音もあって、中学3年~高校では友達がほとんどできなくて悩みます。
 

 高校3年間、友達との付き合いをほとんどせずに勉強ばかりしていたので大学以降でも自然に人と付き合う方法がわからなくなります。

 家庭では、両親の不和があり、毎日のように喧嘩や悪口を聞かされ続けていて、慢性的なトラウマ(ストレス障害)に陥ります。
 非愛着的な世界観の中で足を取られ、トラウマ由来の症状が発症するなど、とても苦労するという経験をしてきました。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 なんとか挽回しようと気楽に喋ろうとすると。自分でも言いたくないけど変なことを言ってしまったり。
 「きついですね」と言われてしまったり傷ついたり。

 人間不信からすごく言葉を吟味して喋ろうとして言葉が重くなっているのに、 「きつい」と言われるとさらに余計に自然体での話ができなくなります。 

 こうしたストレスからてんかんにもなりました。
 てんかんの発作で、突然頭がもや~っと気持ちの良いような悪いような状態にもなります。
 結局は、薬で治ったのですが、薬を飲んでいるときは日中眠くなるため大変でした。

 その上、これもトラウマの影響ですが、気分の低下、鬱っぽさもありました。
 当時の筆者は、辛気臭い、能面のような顔だったのかもしれません。
 
 
 さらに過緊張で緊張しやすいし、人のことを過剰に気にして自然体になれないし、、、、何重苦という地獄ですよね。

 気楽に楽しんでいる人がいる中で、なんで自分がこんな苦労をしないといけないの?と思いました。

 

 こうした状況について当時はどの様に考えたかというと、「自分が悪い部分を認めて、よし、自分を高めるために、自分の欠点を洗い出してそれを改善だ!」ということでした。

 逃げずに努力する、という意識は高かったですから。

 他人をベンチマークして理想の自分になるために、毎日努力する。

 人付き合いもすごくがんばって、話をして、いろいろなところに出ていって、とやっていました。

今思えば、躁的というか、自分のテンションを無理に上げて明るくしているような感じだったと思います。

 心の壁を取り除いて、もっとオープンに、と考えていました(これが大間違い)。

 

 たしかに、努力によってよくなる部分もあるのですが、基本的には「私はだめだ、おかしい」ということが前提にあるために、あるところで限界がやってきます。
 努力するということは、自分はだめだということを暗に強化することにもなる。
 (積み木の玩具ジェンガのように、自分の足元(自尊心)の積み木を抜いて上に足すようなものですから無理があります。)

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう

 さらに、頑張って明るく社交的にしているので、エネルギーを消耗して、だんだんくたびれてきます。心の壁を取り除こうとするものだから、傷つきやすくもなる。

 反動で、人付き合いが面倒になってきます。

 

 努力してもうまくいかないし、だんだん努力することにも怖さが出てくる。

 
 そこで、そうした状況を突破するために、当時流行った「願望実現」とかそうしたことも試してみます。要は、「迂回ルート」ですね。
 いろいろと取り組んでみますが全然うまくいきません。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 次にはそれよりも実際的にということで「無意識の活用」といったことにも興味を持ちます。

 これは色々と参考になるし、助けてもくれますが、気がつくのは、無意識の活用の前提にも「自分(私)」がおかしくて間違いを犯しやすいから無意識に頼る、という理解でいたことです。

 結局、「自分(私)」というものの価値を低く捉えているということ。

 

 そのためか、いつまで経っても「自分の人生は始まらない」という感覚が続きました。

 当然です。「自分(私)」というものを排除すべき程度の低いものとして捉えているからです。
 人生が始まる、始まらないなにもあったものではありません。「自分(私)」を除外しようとしているんですから。
 

 
 さらに、以前の記事でもお伝えしましたが、「自分(私)」というものを出すと攻撃されるとか、嫌われる、という意識がありますから、自分(私)を表に出す、ということをしたくないし、してはいけないと思っているのですから、人生が始まらない感覚も当然です。

 悩みが治るというのは、「自分(私)」を隠したまま問題と感じている症状が取れることなんだ、という理解をしていました。

 

 ここでも、自分で矛盾に気がついていません。
 物理的な現実としての自分は、身体としてあるこの「自分(私)」しかいないのに、「自分(私)」は否定して、隠して、理想的ななにかになることが生きづらさがなくなることだと捉えているおかしさです。

(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 何が自分にあうのか、何が自分なのかも、すべては「自分(私)」の身体から湧いてくるのですから、それ以外の高尚なものになろうとしてもできるわけがありません。

(参考)→「自分を主体にしてこそ世界は真に意味を持って立ち現れる

 

 

 「自分(私)」を回避する手法というのは、一次避難としては良いのですが、解決のメインの方策としては採用してはいけない。

 悩みの症状を取るためにも「自分(私)」というものを避けるのではなく、それが働く環境を整えるようにしていくことが必要。

 心の壁をしっかり持って、自他の区別をつける。人格構造を確立させていく。
 
 風邪のときに、対症療法として解熱剤を飲んで過ごすのではなく、そもそも免疫力を高めるのと似ています。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 そもそも、「無意識の活用」にしても、なにか「私」以外の助けを借りる、と捉えていた時点で大間違いだったと今はわかります。
  

 

 別のものの力を借りようという形をとっているとおかしくなって、うまくいかなくなります。
 「自分(私)」ではない別のものに縛られるのが「支配」「依存」ということですから。

 自分の悩みを解決するはずの手法によって、いつの間にか、「自分(私)」の価値を低く見るようになってしまっているとしたら本末転倒なことはありません。

 わたしたちは、「自分(私)」の力をあまりにも過小評価してきました。
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示のためです。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 

 

 「自分(私)」とは、思っている何倍も何十倍もすごいもの、大したものです。

 「自分(私)」のIDでログインすることではじめて自分の人生がスタートする。

 
 「自分(私)」が「自分(私)」としてログインして「自分(私)」の人生を生きる、結局ここに戻ってくるのです。 
 
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

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