Doingとして世の中が見えるようになると、趣味も仕事も勉強でも、主権がもてる。

 

 筆者の個人的な話ですが、正月に親戚の子どもと将棋をしていたら、ふと、また暇なときに将棋をやるのもいいかも、と思い、スマホのアプリや本を買ったりしていました。

 ロールプレイングゲームみたいに時間がかかるものは大変だし、手軽にできるものとしてあらためて将棋はいいかも、なんていうことからです。

 

 もともとは、筆者は将棋が苦手で、いろんな手を読んだり、考えたりすると頭が疲れるし、うまくできないと自分の劣等感も刺激されるし、ということで、「自分は向いていない」と思っていました。

 

 特に、小学校の頃は、将棋をしても、自分勝手に駒を動かしては、うまい相手に取られる。動かしたいところには敵の駒が効いていて動かせない。角や飛車の筋を見逃す、嫌になる、ということの繰り返しだったと思います。

 

 本来、将棋も手筋とか、定跡といわれるものがあって、つまりはスポーツなど他の趣味と同様に、基礎があって、その基礎のもとに行うものです。
 ゴルフなどでも上達にはものすごく時間とお金がかかります。

 
 よほど天才でもなければ、いきなりやってうまくできるものではありません。

 人間はいろいろなことを同時には検討できませんから、ある程度決まった手順を体で覚えて、思考を省略することが普通です。 
 

 

 ただ、子供の頃の私は、将棋を「自分が頭が良いかを証明するもの」みたいなふうに考えていた部分があって、なにも基礎を身に着けないまま、将棋をやって、うまく行かないと「ああ、自分はアタマが悪いんだ・・」みたいに捉えて、自己否定的になっていたように思います。
 

 

 将棋というのは、あくまでDoing(行為) の世界のもの、Doing(行為) の世界で基礎を見つけて、行うゲームでしかありません。

 それを、Being(存在、才能)の証明みたいにとらえて、ドン・キホーテのようにむかっていって頓死する。

 基礎を身につけるのも、Beingの証明の邪魔になる、くらいに素朴に捉えていたのかもしれません。

 勉強も似たところがあって、算数の問題が解けないと、自分の Being(存在、才能)の否定と捉えて、嫌になる。

 

 勉強も、本来は Doing(行為) の世界です。
 極端に言えば、数学オリンピックに出るのであれば才能というBeingの世界があるかもしれませんが、東大に入るという段階まで、つまり入試という世界であればすべて答えや解き方も明らかで、あくまでDoingの世界なのです。  

 

 安全な環境が整っていれば、勉強も自然とできるのだとおもいます。
 なぜなら、目の前の失敗をBeing に結び付けず、Doingとして淡々とトライ・アンド・エラーができますし、「答えはかならずある」という安心安全のなかで、対応できるからです。
 これが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 しかし、トラウマを負っていて、愛着が不安定だとこうはいかない。
 勉強の問題が、なにやら落ち着かない、自分のBeing(存在)にバッテンを付けてくる審判のような気がして嫌になる。
 「答えがかならずある」という感じがしない。
 問題と答えの間のつながりが、魔術のように感じられてしまって、自分にだけ意地悪されて正解の位置が変わるような感じさえする。
 

 そうして嫌になる、勉強が嫌いになる。という感じがします。

 

 本来は、あくまでDoingの世界ですから、淡々とすれば必ず結果が出るものです。

 

 しかも、日本のお勉強の業界は、戦後だけでも80年近い歴史があります。
 その間延べ何千万人という人が取り組んできて、解法でも、勉強法でもノウハウが蓄積されているので、求めれば必ず自分にあった勉強法が得られます。

 

 筆者が昔、高校3年の担任の先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 それは、3者面談のときに、「努力がわかりやすく結果に出るのは受験の時くらいですからね」といった言葉でした。

 話の流れで何気なく言った言葉でしたが、強く印象に残っています。

 確かに、社会に出ると、将棋や勉強と違って、範囲も答えも決まっていないので、努力が結果となって出るかどうかはわからない。
 勉強は範囲や答えが決まっているのだから、今にして思えばこれほど結果が出やすいものはありません。

 

 勉強ができるかどうかは、早くそのことに気がつけるかだけ、いいかえれば、BeingとDoingの切り離しが早々にできているかどうか、ではないかと思います。
 言い切ってしまえば、頭の善し悪しは入試レベルではほぼ関係ありません。

 

 さらに、人生2,3周回って今思うのは、社会や仕事においても、勉強や将棋と違って範囲や条件は圧倒的に広くなりますが、それでも、Doingとして捉えられる状態になっていれば、必ず答えはあるでしょうし、ノウハウとして考えることはできるのだろうと思います。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 日本の経営コンサルタントの草分けとも言える大前研一という人がいますが、実は、コンサルタントになった当初は活躍できず、どうしたものかと思ったいたら、どうやら、パターンがあることに気がついて、過去の事例を社内の倉庫で読み漁って、コンサルタントとしての方法を身に着けた、ということを読んだことがあります。

 すごく頭のいいとされる人ですが、そういう人でも、種を明かすと頭の良さで仕事をしているわけではなくて、仕事をDoingとして捉えて、手筋や定跡を身につけていた、ということです。

 

 近年、話題のAIなんかも、コンピュータの能力のみによってではなく、膨大なデータをパターン化して予測しているわけですから。
 AIは、世の中を究極にDoing化するものといえます。
 

 

 仕事でうまく行かなかったり、職場で問題が生じるのは、Doing仕事に Being が乗っかかってしまっていたり、ハラスメントによって、Being とDoing が一体化させられたりということから来ます。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 冒頭に筆者の将棋についてのエピソードを書きましたが、また将棋をやってみてもいいかも?と以前とは違う感覚になったのも、筆者の中で、Being と Doing が切り離されてきたためかもしれません。
 目の前にあるものがDoing として捉えられ、失敗してもBeingには影響がない。
 Doing として世の中が見えるようになると、自分でコントロール可能な、自分に主権のある感覚を感じられるようになります。
 
 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人に対して幻想、信仰を持ってしまう。

 

 
 トラウマのダメージを負うと、人格の成熟の過程でエラーが生じるとされます。

 他者のイメージや、自己のイメージが妙に大きくなってしまったり、小さくなったりする。

 他者については、なんか妙な信仰をもってしまう。

 自分から見て、「この人はしっかりしているな」とか、「安定しているな」と思うような人、「この人に認められたい」と思う人に対して、妙な信仰心とでも言うような感覚を持ってしまう。

 妙な感覚なので言葉にするのはなかなか難しいのですが、ベタッとした、媚びるような、子どもが憧れのお兄さんに認めてもらいたいという羨望のような感覚を持ってしまう。

 自分でもなんか変な感覚だな、と感じたりする。
でも、無意識的にそのように感じてしまう。

 

 「この人は、何をやっても感情が乱れないんじゃないか?!」みたいな気さえしてきたりする。(実際は、怒ったりしますけど)

 それで、相手にベタッとした関わりをして、相手を怒らせるような言動をして、相手が怒ったらショックを受けて、神様に怒られたがごとく自分がとんでもないようなきがしたり、相手が豹変した悪魔のように見えたりするようになる。 

 あるいは、妙な信仰を感じている相手から自分を否定するような言葉が来てショックを受けたりする。

 信仰を感じている相手から、内面が見透かされたような感じがしてしまう。 
 

 
 現実には、相手は信仰するような対象でもなんでもなく、ありのままのその人を見ることができていないことから生じるのですが、トラウマを負っているとどうしてもそういう事が起きてしまう。

 人以外でも、会社、団体、組織、に対してそのような幻想を持つこともあります。

 マスコミに取り上げられるような会社などは、自分に自由と解放をもたらしてくれる理想の仕組みがあるに違いない、と考えてしまう。

 実際はそんな事はありませんけども。  

 

 

 筆者も、お店とか仕事で店員さんとかジムとかでインストラクターとかされている方で「しっかりしているな」と感じるような人が、トイレから出てくることに遭遇すると、(そりゃ、人間だからトイレに行くこともあるわけですが)、少し意外さを感じている自分がいることに気がついて、「あっ、ないとおもっていたけど、自分はその人を全体で見れていなかったな、理想化、幻想を持っていたのかも?」と自覚することがありました。

 

 よく、「ありのまま」というと、きれいな素の存在、本来あるべき理想の存在、というような感じで間違って解釈されていますが、ありのままとは、文字通りありのままで、いいところもわるいところもひっくるめてのもの。

 

 「全体対象関係」と専門的にはいいますが、トラウマが取れて人格が成熟してくると、現実をそのまま捉えることができるようになってきます。

 妙な信仰をかぶせてみるのではなく、ベールを剥いでそのまま見れるようになる。

 

 現実が怖い、嫌なものと感じているから、妙な信仰も延命してしまっている部分がありますが、怖い現実というのは、ローカルルールがもたらしたニセのものです。本来はそのままの現実というのは、ニュートラルで、そのまま捉えることができるようになると、自分のIDでログインする事ができるようになります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 前回、世界は物理でできている、という信頼感。と書きました。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 

 本来は脅かされないはずのBeing が他者の言葉で簡単に覆されるように感じられてしまう。これがまさにトラウマというか、ハラスメントの本質とも言えるものです。

 多くの人は、この状況を自己啓発やセラピーによって対抗しようとします。

 自分に対して持っている負の感情とは、言葉でできているんだから、それを変えれば自分は変われる、というわけです。

 しかし、ここには重大な落とし穴があって、言葉によって変われる、という前提をおいているために、いつまでたっても「自分の存在は、言葉で容易に覆ってしまう」という感覚が拭えない、という状態が続いてしまうのです。

 オセロのように、黒を白にしたけども、また白が黒にひっくり返されてしまうかもしれない?!

 なぜなら、言葉でできている、という前提を持っているから。

 

 

 生きづらさが続いているケースでは、他人の言葉が自分のBeingに影響を及ぼすという呪術的な感覚が拭えない、ということがあります。とくに、母親父親の言葉は、自分の存在を規定しているように感じている。

 ポジティブに気持ちや考え方を変えても、また、頭の中で、母親や父親の言葉が響いてくる・・・

 たとえば会社で人からの評価が気になる・・

 「いかんいかん、ポジティブ、ポジティブ。私はすごい、私はすごい!」

 とやってみても、また覆されてしまうかもしれない。

 なぜなら、人間は言葉でできている、と本に書いてあったから。。

 

 もちろん、こうしたことは間違いです。 

 現代の自己啓発やセラピーの多くは、基本的にキリスト教文化の亜型ですから、言葉が大事というときには、それは「神の言葉」ということの言い換えで、言葉とは「人間の言葉」のことではありません。
 人間の言葉は戯言でしかありませんし、影響を及ぼす力はありません。

 

 自己啓発難民のようになっている場合、その背景には、「言葉が大切」と考えていることがあります。

 言葉なんてとても価値が低いもの、言葉は物理に影響を及ぼさない、と知ることのほうが絶大な威力があります。

 
 
 認知療法、認知行動療法など信念や内言を書き換えるといった療法も、ネガティブな信念(言葉)をポジティブな信念(言葉)に書き換えるものではなく、正しくは、内面化したネガティブな信念(言葉)によって現実を見れなくなった状況から、そのままに現実を見れるようにすることです。
 

 間違った用いられ方をしていて、 言葉 から 言葉 へ イメージ からイメージ へ といった空想界の戦いにとどまっているものが多いのですが、そうではありません。  

 

 言葉 から 現実へ  イメージ から 現実 へ これが本来の方法。

 

 ※現実というとあまりにも怖いイメージが付いてしまっているので、一時的にポジティブな言葉を経由させてもよいですし、実際、現実の自分はポジティブなものだから、ネガティブな信念から ポジティブな信念へ と書き換えても概ね間違いではありません。ただ、最後は、言葉やイメージというものから抜け出すようにしないと、またオセロゲームのようにくつがえってしまいます。

 

 言葉の呪術的な価値を解体していくのが本来の認知行動療法。 現実を拠点に主権を回復させるものです。

 
 現実というと怖く感じるかもしれませんが、もちろんそうではありません。
 怖く感じさせているのは言葉やイメージによってであって、現実というのは本来は抵抗の拠点となるものです。

 

 前回もかきましたが、目の前の りんご を 「みかんだ!」と言ってみても、りんごがみかんになることは絶対にないのですから、現実の力、物理の力ほど私たちを守ってくれるものはありません。

  
 

 

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世界は物理でできている、という信頼感。

 

 昨年のM-1グランプリをテレビで見ていましたら、審査員のコメントで、劇場で毎日着実に経験を積んでいるから」とか「芸を磨いてきているから(それが現れている)」といった言葉がありました。

 審査員たちが言っているのは、「実力をつけているから、面白い」「その実力も、毎日の積み重ねで積み上がっていく」というもの。

 例年よりも、そういうコメントが多いように感じました。
 レンガ職人がコツコツ積み上げていくような感覚。

 しかも、どこかでそれを芸に関わる人が共同作業で取り組んでいるような一体感もあるような。

 

 そこには“芸”という捉えづらいものなのに、「物理的な信頼感」がある、という感じでしょうか。
(参考)→物理的な現実への信頼」 

 

 それを聞いて、「トラウマを負った人にはこういう感覚はないな」と筆者は思いました。
 

 

 トラウマを負った人の感覚というのは、M-1グランプリでいえば、

 一発勝負だから、そこでファインプレーをできるかどうか。

 審査員に好かれるかどうかがすべて。

 審査員の言葉は神の言葉、それこそが現実。

 
 実力とは、人のご機嫌が得られるかどうか、ということだけ。
 得られれば自分は選ばれた存在で、そうでなければ自分は汚れた存在である。

 「芸を磨く」というのとは真逆の感覚。
 

 

 なぜこうなるか?といえば、
 生育の過程で、身近な人の言葉に翻弄されてきたから。

 自分というものの存在が、他人の言葉で一瞬で覆される、という理不尽な経験をしてきたから

 
 言葉で自分の存在が覆るといったことでよくあるのが、「あなたって、怒りっぽい」とか、「わがままだ」とか、

 夫婦に不和があると、対立する相手側に「似ている」といわれる。

 「あなたのそういうところがお父さん(おかあさん、おばあちゃん)とそっくりだ」というような言い方
(参考)→「「言葉」偏重

 

 本来は理不尽なものは、怒り一発で払いのけるものなのですが、その怒りという感情表現も封じられてしまっている。
 
 そのために、より深く理不尽さの中に抑え込まれてしまう。

 物理的な自分というものは、あくまで物理的に存在し、他人の言葉で変わるものではありません。

 りんごはりんご、みかんはみかん。
 目の前のりんごに「これはメロンだ」といっても、メロンに変わるわけではありません。

 
 でも、自分に対して向けられた言葉は、自分を「おかしなもの」「汚れたもの」へと瞬時に替えてしまう。

 そうすると、言葉や印象、人の思考がすべてを決めているような気持ちになってきて、相手の気持ちを過剰に読み、合わせるようになってしまう。

 コツコツ積み上げての一瞬で崩される感覚があり、また、相手に無理難題を叶えると喜ばれるので、つねにファインプレーを目指そうとしてしまう。

 

 自分のペースはなく、自分というものはありません。

 そうしてヘトヘトになっていってしまう。

 これはトラウマティック(トラウマ的)な感覚です。
 

 主権を奪われてしまっている。

 

 冒頭に、例としてあげましたお笑いの世界でも「面白いやつは、結局売れる」と言われるそうですが、世の中は本来、ある種の物理法則でできています。実力(Doing)がついたものは時間がかかっても認められる。

積み上げたものは容易に覆されることはない。

一方、存在(Being) については不可侵である、ということ。
 (デカルトによって、物理と精神(魂)とは分離されましたから。精神は物理に、物理は精神に影響を及ぼさない、というのが近代思想の基本です)

 Beingは誰にも脅かされませんが。脅かされるように感じられるのは、見せかけの暗示でしかありません。

 

 

 人格が順調に成熟してくると、Doing と Beingの分離が起きてきます。そして、世界は物理でできている、という信頼感を自然と持つようになります。
 反対に、うまくいかないと、Doing と Being がくっついたまま、しかも、Doing は他者の気まぐれで成功失敗が判定され、Beingも一瞬で塗り替えられるような感覚になってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 

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