人に対して幻想、信仰を持ってしまう。

 

 
 トラウマのダメージを負うと、人格の成熟の過程でエラーが生じるとされます。

 他者のイメージや、自己のイメージが妙に大きくなってしまったり、小さくなったりする。

 他者については、なんか妙な信仰をもってしまう。

 自分から見て、「この人はしっかりしているな」とか、「安定しているな」と思うような人、「この人に認められたい」と思う人に対して、妙な信仰心とでも言うような感覚を持ってしまう。

 妙な感覚なので言葉にするのはなかなか難しいのですが、ベタッとした、媚びるような、子どもが憧れのお兄さんに認めてもらいたいという羨望のような感覚を持ってしまう。

 自分でもなんか変な感覚だな、と感じたりする。
でも、無意識的にそのように感じてしまう。

 

 「この人は、何をやっても感情が乱れないんじゃないか?!」みたいな気さえしてきたりする。(実際は、怒ったりしますけど)

 それで、相手にベタッとした関わりをして、相手を怒らせるような言動をして、相手が怒ったらショックを受けて、神様に怒られたがごとく自分がとんでもないようなきがしたり、相手が豹変した悪魔のように見えたりするようになる。 

 あるいは、妙な信仰を感じている相手から自分を否定するような言葉が来てショックを受けたりする。

 信仰を感じている相手から、内面が見透かされたような感じがしてしまう。 
 

 
 現実には、相手は信仰するような対象でもなんでもなく、ありのままのその人を見ることができていないことから生じるのですが、トラウマを負っているとどうしてもそういう事が起きてしまう。

 人以外でも、会社、団体、組織、に対してそのような幻想を持つこともあります。

 マスコミに取り上げられるような会社などは、自分に自由と解放をもたらしてくれる理想の仕組みがあるに違いない、と考えてしまう。

 実際はそんな事はありませんけども。  

 

 

 筆者も、お店とか仕事で店員さんとかジムとかでインストラクターとかされている方で「しっかりしているな」と感じるような人が、トイレから出てくることに遭遇すると、(そりゃ、人間だからトイレに行くこともあるわけですが)、少し意外さを感じている自分がいることに気がついて、「あっ、ないとおもっていたけど、自分はその人を全体で見れていなかったな、理想化、幻想を持っていたのかも?」と自覚することがありました。

 

 よく、「ありのまま」というと、きれいな素の存在、本来あるべき理想の存在、というような感じで間違って解釈されていますが、ありのままとは、文字通りありのままで、いいところもわるいところもひっくるめてのもの。

 

 「全体対象関係」と専門的にはいいますが、トラウマが取れて人格が成熟してくると、現実をそのまま捉えることができるようになってきます。

 妙な信仰をかぶせてみるのではなく、ベールを剥いでそのまま見れるようになる。

 

 現実が怖い、嫌なものと感じているから、妙な信仰も延命してしまっている部分がありますが、怖い現実というのは、ローカルルールがもたらしたニセのものです。本来はそのままの現実というのは、ニュートラルで、そのまま捉えることができるようになると、自分のIDでログインする事ができるようになります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

言葉は物理に影響を及ぼさない。

 

 前回、世界は物理でできている、という信頼感。と書きました。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 

 本来は脅かされないはずのBeing が他者の言葉で簡単に覆されるように感じられてしまう。これがまさにトラウマというか、ハラスメントの本質とも言えるものです。

 多くの人は、この状況を自己啓発やセラピーによって対抗しようとします。

 自分に対して持っている負の感情とは、言葉でできているんだから、それを変えれば自分は変われる、というわけです。

 しかし、ここには重大な落とし穴があって、言葉によって変われる、という前提をおいているために、いつまでたっても「自分の存在は、言葉で容易に覆ってしまう」という感覚が拭えない、という状態が続いてしまうのです。

 オセロのように、黒を白にしたけども、また白が黒にひっくり返されてしまうかもしれない?!

 なぜなら、言葉でできている、という前提を持っているから。

 

 

 生きづらさが続いているケースでは、他人の言葉が自分のBeingに影響を及ぼすという呪術的な感覚が拭えない、ということがあります。とくに、母親父親の言葉は、自分の存在を規定しているように感じている。

 ポジティブに気持ちや考え方を変えても、また、頭の中で、母親や父親の言葉が響いてくる・・・

 たとえば会社で人からの評価が気になる・・

 「いかんいかん、ポジティブ、ポジティブ。私はすごい、私はすごい!」

 とやってみても、また覆されてしまうかもしれない。

 なぜなら、人間は言葉でできている、と本に書いてあったから。。

 

 もちろん、こうしたことは間違いです。 

 現代の自己啓発やセラピーの多くは、基本的にキリスト教文化の亜型ですから、言葉が大事というときには、それは「神の言葉」ということの言い換えで、言葉とは「人間の言葉」のことではありません。
 人間の言葉は戯言でしかありませんし、影響を及ぼす力はありません。

 

 自己啓発難民のようになっている場合、その背景には、「言葉が大切」と考えていることがあります。

 言葉なんてとても価値が低いもの、言葉は物理に影響を及ぼさない、と知ることのほうが絶大な威力があります。

 
 
 認知療法、認知行動療法など信念や内言を書き換えるといった療法も、ネガティブな信念(言葉)をポジティブな信念(言葉)に書き換えるものではなく、正しくは、内面化したネガティブな信念(言葉)によって現実を見れなくなった状況から、そのままに現実を見れるようにすることです。
 

 間違った用いられ方をしていて、 言葉 から 言葉 へ イメージ からイメージ へ といった空想界の戦いにとどまっているものが多いのですが、そうではありません。  

 

 言葉 から 現実へ  イメージ から 現実 へ これが本来の方法。

 

 ※現実というとあまりにも怖いイメージが付いてしまっているので、一時的にポジティブな言葉を経由させてもよいですし、実際、現実の自分はポジティブなものだから、ネガティブな信念から ポジティブな信念へ と書き換えても概ね間違いではありません。ただ、最後は、言葉やイメージというものから抜け出すようにしないと、またオセロゲームのようにくつがえってしまいます。

 

 言葉の呪術的な価値を解体していくのが本来の認知行動療法。 現実を拠点に主権を回復させるものです。

 
 現実というと怖く感じるかもしれませんが、もちろんそうではありません。
 怖く感じさせているのは言葉やイメージによってであって、現実というのは本来は抵抗の拠点となるものです。

 

 前回もかきましたが、目の前の りんご を 「みかんだ!」と言ってみても、りんごがみかんになることは絶対にないのですから、現実の力、物理の力ほど私たちを守ってくれるものはありません。

  
 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

世界は物理でできている、という信頼感。

 

 昨年のM-1グランプリをテレビで見ていましたら、審査員のコメントで、劇場で毎日着実に経験を積んでいるから」とか「芸を磨いてきているから(それが現れている)」といった言葉がありました。

 審査員たちが言っているのは、「実力をつけているから、面白い」「その実力も、毎日の積み重ねで積み上がっていく」というもの。

 例年よりも、そういうコメントが多いように感じました。
 レンガ職人がコツコツ積み上げていくような感覚。

 しかも、どこかでそれを芸に関わる人が共同作業で取り組んでいるような一体感もあるような。

 

 そこには“芸”という捉えづらいものなのに、「物理的な信頼感」がある、という感じでしょうか。
(参考)→物理的な現実への信頼」 

 

 それを聞いて、「トラウマを負った人にはこういう感覚はないな」と筆者は思いました。
 

 

 トラウマを負った人の感覚というのは、M-1グランプリでいえば、

 一発勝負だから、そこでファインプレーをできるかどうか。

 審査員に好かれるかどうかがすべて。

 審査員の言葉は神の言葉、それこそが現実。

 
 実力とは、人のご機嫌が得られるかどうか、ということだけ。
 得られれば自分は選ばれた存在で、そうでなければ自分は汚れた存在である。

 「芸を磨く」というのとは真逆の感覚。
 

 

 なぜこうなるか?といえば、
 生育の過程で、身近な人の言葉に翻弄されてきたから。

 自分というものの存在が、他人の言葉で一瞬で覆される、という理不尽な経験をしてきたから

 
 言葉で自分の存在が覆るといったことでよくあるのが、「あなたって、怒りっぽい」とか、「わがままだ」とか、

 夫婦に不和があると、対立する相手側に「似ている」といわれる。

 「あなたのそういうところがお父さん(おかあさん、おばあちゃん)とそっくりだ」というような言い方
(参考)→「「言葉」偏重

 

 本来は理不尽なものは、怒り一発で払いのけるものなのですが、その怒りという感情表現も封じられてしまっている。
 
 そのために、より深く理不尽さの中に抑え込まれてしまう。

 物理的な自分というものは、あくまで物理的に存在し、他人の言葉で変わるものではありません。

 りんごはりんご、みかんはみかん。
 目の前のりんごに「これはメロンだ」といっても、メロンに変わるわけではありません。

 
 でも、自分に対して向けられた言葉は、自分を「おかしなもの」「汚れたもの」へと瞬時に替えてしまう。

 そうすると、言葉や印象、人の思考がすべてを決めているような気持ちになってきて、相手の気持ちを過剰に読み、合わせるようになってしまう。

 コツコツ積み上げての一瞬で崩される感覚があり、また、相手に無理難題を叶えると喜ばれるので、つねにファインプレーを目指そうとしてしまう。

 

 自分のペースはなく、自分というものはありません。

 そうしてヘトヘトになっていってしまう。

 これはトラウマティック(トラウマ的)な感覚です。
 

 主権を奪われてしまっている。

 

 冒頭に、例としてあげましたお笑いの世界でも「面白いやつは、結局売れる」と言われるそうですが、世の中は本来、ある種の物理法則でできています。実力(Doing)がついたものは時間がかかっても認められる。

積み上げたものは容易に覆されることはない。

一方、存在(Being) については不可侵である、ということ。
 (デカルトによって、物理と精神(魂)とは分離されましたから。精神は物理に、物理は精神に影響を及ぼさない、というのが近代思想の基本です)

 Beingは誰にも脅かされませんが。脅かされるように感じられるのは、見せかけの暗示でしかありません。

 

 

 人格が順調に成熟してくると、Doing と Beingの分離が起きてきます。そして、世界は物理でできている、という信頼感を自然と持つようになります。
 反対に、うまくいかないと、Doing と Being がくっついたまま、しかも、Doing は他者の気まぐれで成功失敗が判定され、Beingも一瞬で塗り替えられるような感覚になってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

コロナ禍に見る「自分の感覚」とトラマティックな感覚

 

 悩みから抜け出すためには、自分の感覚を感じる、ということはとても大切です。

フォーカシングとか、マインドフルネスなどそのための心理療法があるくらいです。 

 

 たとえば、「他人の言葉」というものがあります。

 他人の言葉で「あなたはこんな人ね」といわれても、「自分の感覚」を感じることができれば、それに対して、「自分の感覚」が違和感を伝えてきますから、「いや、違うと思う」と言えます。

 でも、多くの場合それができないのは、「自分の感覚を感じる」ことができていないためです。

 もっと言えば、自分の感覚を疑わされてしまっている。感じることを曖昧で下等なものだとしてしまっている。

 
 
 私たちの土台として大切とされる、「愛着(アタッチメント)」というものは、まさにこの自分の感覚を形成するための核となるもので、親と子供との間で、感覚を確認、承認するやり取りを身体レベルで行うものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「自分の感覚」が信頼できなければ、身体ではなく、思考という不安定な道具で対処しなくてはならず、他人からの影響に左右されてしまいます。

 

 

 

 今はまだ新型コロナウイルスで大変な時期ですが、例えば新型コロナウイルスを材料として、「自分の感覚」とはなにか?について考えてみたいと思います。

 

 新型コロナウイルスのリスクをどう評価するか? どこまで恐れるのか? というのは、まず科学的な知見があり、そして次に個人の感覚があります。

 個人の感覚には個人差があります。個人差は単に感覚の差、というだけではなく、年齢や既往症の有無などでの実際的なリスク差もあります。

 TVやインターネットからの情報などを私たちは浴びるように受けています。
  

 そうした情報と「自分の感覚」とをあわせて、「まあ、こんなものかな」とそれぞれリスクを判断しています。

 

 病気を持っている、あるいは高齢なために家でじっとしている、という方もいらっしゃるかと思いますが、筆者の周りでしたら、街でもマスクをしながら普通に買い物したり、食事をしている方が多いように感じます。

 政府からは外出は控えるように、といわれていますが、出張や旅行に行く方もいらっしゃいます(その是非はともかく)。

 
 日本で「まあ、こんなものかな」と感じさせているものこそ、山中教授などが言うファクターX なのかもしれません。

不謹慎と批判されましたが、首相や大臣までもが「会食しても、まあ大丈夫だろう」とおもうのも、肌感覚だと言えます(その是非は、さらにともかく)。

 

 

 それに対して、「気の緩みだ」という意見もあります。

 ただ、カウンセラーからすると、各人が「肌感覚(自分の感覚)」で適切に判断しているのだろう、と感じます。
 

  ※適切というのは100%正しいという意味ではなく、生きる上で「それなりに正しい(妥当だ)」という意味です。

 

 こうした肌感覚でのリスク判断や感覚を「常識」と呼ぶのだと思います。

 「常識」とは、科学的な知見そのものではありません。「理想」でもありません。専門的な知識も参考にしますが、生活での感覚など実際的なもので掛け算して出された生きる上でムリのない総合判断です。
 ですから、多くの場合は極端にならず、中庸なものに落ち着きます。

 医療関係者からすれば、「そんな常識では困る。もっと対策を」ということかもしれませんが、多くの人は自分の身体、肌感覚でリスクを判断して、マスクや手洗いなど対策をしながら、それぞれに適度に経済活動、消費活動をしながら、日常を過ごしている、というのが実際のところではないかと思います。
 実際に、今年はインフルエンザは例年の何万分の1レベルの発生状況だそうで、「常識」「肌感覚」で動いていても、かなりの効果が伺えます。

 残念ながら、「肌感覚」以上のことは人間は長くは続けることはできなさそうです。

 ※筆者も、春頃には、知人に「スーパーで買ってきたものも除菌したほうがいいみたいよ」みたいなことを伝えたら、「確かに頭では理屈はわかるが、今でも対策しているのに、もうこれ以上の対策は疲れて、難しいよ・・・」と言われて、そうだよなぁ・・と感じたことがあります。

 やりすぎると疲れる、無理は続かない、というのも「常識」「肌感覚」の特徴です。
 (やりすぎる、疲れないというのは、依存症の特徴です。)

 

 

 

 新型コロナウイルスに限らず、私たちの人生はリスクだらけですが、ほとんどのことはこのように「まあこんなものかな」「最悪のことが起きても仕方がない」と、ある意味鷹揚に構えているものです。

 医学的に見て完全に健康な生活をしているわけでもありません。タバコ・お酒はもちろん、甘いものもたくさん食べるし、ある程度身体を犠牲にしても自分が求める何かを獲得しに行くこともある。

 車の運転も事故の可能性を考えればとんでもないリスクですが、毎日仕事や日常生活で使っています。

 
 地球の反対側に飢えている子供がいても、私たちは直接救に行くことはせずに、罪悪感もなく楽しんで生活しています。
 自分の仕事、経済活動をそれぞれしながら、余力のあるときに関心を向けたり、専門家に対策を託したりしながら、自分として社会の中でわずかながらも貢献している、という実感を持っています。
 (「いつも、飢えている子供のことが頭から離れません」となっていると、お医者さんからも、「うつか不安障害かもしれませんね」と言われてしまうでしょう。)
 

 この感覚は健康で健全な感覚です。

 トラウマを克服した先にあるのはこうした感覚です。

 

 

 一方、トラウマを負うと、そうはなりません。

 「肌感覚なんていっていて、リスクを見落とすかも?!」とか、「昔から自分は独りよがりに考えて失敗して怒られてきたから、自分の感覚、肌感覚なんて信用できない」という気持ちが湧いたりする。
 

 誰かから「お前はおかしい」とツッコまれる不安にも苛まれている。
ヒステリックな大人から怒られるようなイメージがある。罪悪感も感じている。

 例えば、「医療体制が逼迫しているのに、のんびりしているとはどういうことだ!!」と怒られるような恐れ、不安を感じてしまう。

 ※「火垂るの墓」というジブリの映画で、主人公の兄妹がピアノを弾いていると、身を寄せた先の親戚のおばさんに、「よしなさい!」と怒られる場面がありますが、まさにあんな感じですね。
  おばさんはローカルルールで意地悪しているのですが、「戦況が逼迫している中、皆、お国のために働いているのに、あなた達は!」ともっともなことを言っています。

 

 それがさらに強くなると、「私ってわかってなかったのかしら?自分はおかしいのかしら?!」と自分の感覚を疑いだして、頭で考えるようになってしまう。
あるいは、「もっと、人の気持ちを考えなきゃ」と人の心の中を想像して覗き込もうとしてしまう。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 頭で考えると、過去の不全感が疼いて、自分の感覚を我慢しているフラストレーションがたまり、マスクしていない人や、飲食店でのんきな若者を見ると怒りが湧いてきたりしてしまう。
 インターネットで自粛していない飲食店の名前を書き込んだり、、、みたいなことをしてしまう(これはローカルルール人格へのスイッチです)。
  

背景には、非愛着的世界観も潜んでいます。世の中はひどい人ばかりで、自分は脅かされている、という不安感です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 

 トラウマというのは、近代に入り惨事や戦争で注目されるようになったものですが、新型コロナウイルスが起こしている情勢というのは、まさにトラウマティックといって良いと思います。

 そうした状況であるからこそ、反対に本来の自分の感覚とはなにか?がわかりやすい。

 

 戦時中に、不謹慎とされても、パーマやおしゃれを楽しもうとしていた人がいたそうですが、「おしゃれをしたい」という感覚は自分の感覚といえそうです。
反対に、「戦時中だから、押し殺して我慢をするべきだ」というのは、どちらかというとトラウマティックな感覚です。

 

 昔、「白洲次郎」というNHKのドラマがありましたが、その中で、白洲次郎が召集令状が来たのを拒否して、裏から手を回して徴兵を逃れます。
 それに対して「多くの国民が高潔な魂を胸に戦地に赴いている。恥ずかしいと思いませんか?」と非難されますが、白洲は「それは自分の役割ではありません」といい、自分の信念を貫きます。
 後日、そのことを、刑務所から出てきた吉田茂に報告した際に、白洲次郎は徴兵を逃れた自分の判断への後悔、迷いを見せます。
 そのときに、吉田茂に「自分の決断に自信を持てよ!」と励まされて、「はい!」と気を取り直す、というシーンがあります。
 法的にも、道義的にも当時、徴兵から逃れるというのは良くないとされたことですが、その結果、生き残り、戦後のGHQとの交渉などで白洲次郎は大活躍をすることになります。
 

 

 こうした例も、自分の感覚を感じる、と言えるかもしれません。

 
 

 

 こういうと、「無限定に自分の欲望のままになるのでは?」「なんでもかんでも思い通りではいけないのでは?」という気持ちが湧いてくる。実はこれもトラウマティックな感覚なのですが、でも大丈夫。

 人間は「社会的な動物」ですから、だまっていても社会の常識を代表して生きる存在です。ですから、社会の常識から逸脱しようにも離れることはできない。スマホのような存在。自分の感覚に従えないと、社会を代表できない。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 大事なことは、それが、主権を持った自分の身体を通して、翻訳されて、自分の内側から湧いてくるものか否か、です。反対に、上に挙げたような、「こうするべき」という頭ごなしに、罪悪感とともに湧いてくる感覚は、ニセの常識であり、言い換えればローカルルールのものです。

 これを区別することはとても大事です。
 区別できないことが、生きづらさや、悩みの根幹とも言えます。それは人格構造の機能不全から来ます。

 

 そうしたことから抜け出すために大切なことは、頭でではなく、自分の身体(肌感覚、ガットフィーリング)で判断するということです。
 「自分の感覚」とは、社会の何かを代表して身体に湧いてくるものです。
その際に罪悪感とか義務感といったことは「自分の感覚」を感じる邪魔になります。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 くれぐれも、「他人の目」とか、「こうするべき」という感覚からではありません。それは結局、自分の親とか他者に自分の主権を明け渡すことになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について