神はお急ぎにならない。急がされたり、焦燥はローカルルール

 

 「焦らされる(どんくさいお前は変だ、遅いのは無能だ、など)」というのは、ローカルルールによく見られます。

 急いだり、効率的であることが良いという感覚。丁寧さよりもスピードを重視する。時間を浪費することを過度に嫌がる。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 背後には、親をはじめ大人への怒りが潜んでいたりします。

 丁寧さやゆっくりするということへの嫌悪がある。

 人前で作業するときも、人の目を気にして急いでしないといけないと感じて焦ったり、過度に緊張してしまったりします。

 これは、ローカルルールによって、焦らされている状態。

 もっと言えば、「自分の時間を奪われている」状態です。

 

 

 「自分の時間」とは、時間の流れの基準が自分の内部にあって、自分の内部から時間が流れていく感覚。
 反対にそれが奪われるとは、時間の流れの基準が外部にあって、その流れに支配されている感覚。

 「でも、時計のように時間って客観的でしょう?」と思うかもしれませんが、トラウマを負った人は、客観的な時間、時計に従っているわけでもない。

 

 ローカルルールの時間に踊らされている。もっとベタに言えば、他人の私的な感情の影響を受けている。
「遅いと思われたらどうしよう?」「どんくさいと思われたらどうしよう」「仕事ができないやつと思われたらどうしよう」「怒られるのではないか」といった感覚。
(参考)→「焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない」 

 

 安心安全のある人というのは、自分の中に時間の流れがある感覚を持っている。

 

 例えば、仕事でも、安心安全のある人が作業していると、落ち着きがその人の中からにじみ出ていて、周りが「早くして」とは言わせない雰囲気があったりします。

 時間の流れがその人の中にある。

 自他の区別がちゃんとある。

 自他の区別というのは、空間や意識のみならず、時間にも及ぶということです。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 

 

 ガウディが、サグラダ・ファミリアについて「いつできるのか?」と問われた際に、「神はお急ぎにならない」と答えたといいます。安心安全とはまさにそんなかんじ。必要な時間が必要なだけかかるというだけ。
  

 

 「焦り」「焦燥」というのは、ローカルルールの世界であり、「急げ」といのは、ローカルルールが巻き込むために仕掛けるフィッシングメールだったりします。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」 

 

 

 トラウマを負った人が、普段焦ったり、急がなければ、と思う気持ちが湧いてきたら、それはローカルルールに巻き込まれているからで、自分の時間が奪われてしまっていることに気づく必要があります。

 ローカルルール人格は自分で問題を作り出しているのに、その人や周りのせいにします。(泥棒が警察に「治安が悪い」と文句を言うみたいに)

 

 目の前に動きの遅い人がいて、他人に時間を奪われた気がしてイライラする、という場合、「その人に時間を奪われている」と思っているのは実はローカルルールに巻き込まれているだけで、本当に時間の主権を奪っているのはローカルルールの側なのです。

 

 「なぜ、急げないのか?!」と焦らせてきたら、「お前が時間の主権を奪っているからだろ!時間の主権を返せ」と言い返す必要があります。 
 (治療者に対しても、ローカルルール人格が「早く治せないのか!遅い」と文句を言うことが実際にあります。ローカルルールが悩みを生み出しているのですから、まさに「盗っ人猛々しい」とはこのことです。)

 私たちは、ローカルルールから自分の時間の主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

 そのためには、急いだり、焦ったりすることの反対に、「ゆっくり動き」「ゆっくり話すこと」を心がける。
 

 

 これは決して道徳や心構えのため、ではありません。

 
 医師の小林弘幸さんが書いた本を読んだ際に、書かれていたエピソードですが、小林さんがイギリスに留学した際のイギリスの医師(外科医)たちは、みんな動きがゆっくりだったそうです。

 カルテを書くのもゆっくり、話すのもゆっくり、でも、手術は結果として速く終る。

 忙しく、スピードが重視されるような現場で、医師たちは努めてゆっくりゆっくり動いていたそうです。

 日本でも、神の手と呼ばれるような外科医も、動きはゆっくりですがその結果は速いそうです。

 

 

 なぜ、ゆっくりなのでしょうか?
 

 小林医師によると、ゆっくりすることで自律神経が整います。自律神経が乱れないことで、結果として早く正確に動くことにつながるというのです。

 反対に、「急いだり」「焦ったり」すると、自律神経が乱れ、動きは遅くなり、ミスも増えます。

 私たちの筋肉は力を入れると反対に動きのブレーキにもなります。
スポーツでも、力を入れると反対にブレーキになるよ、とコーチに指導されたりします。

 サッカーでも、ゴール前でいかに焦らないかが大事だと言われます。
 急ぐことが大切なスポーツでも、急ぐことが結果にはつながらない。

 
 トラウマというのはストレス障害のことですが、ストレス障害の主な影響とは自律神経の乱れですから、まさに焦らされるというのは、トラウマそのものといえます。

 
 ローカルルールとは、まさに私達を焦らせることで、時間の主権を奪い、本来の力が発揮できないようにします。
 

 

 

 ローカルルールから主権を回復するためにはどうすればよいのか?

 それは、「神はお急ぎにならない」と思い、常にゆっくり動き、ゆっくりと話す。

 その際に、「急げ」と焦らせる声が聞こえてきたら、自分の母親や父親の声だったりすることに気づく必要があります。
 結局はそれはローカルルールにすぎないということに。
 
 
 ゆっくり、ゆっくりで、ローカルルールに奪われた時間の主権を取り戻す必要があります。
 

 ゆっくり動くことは、自他の区別にも繋がります。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 常に自分の寝室(私的領域)に他者を上げたり、他者の寝室(私的領域)に上がり込むようなコミュニケーションは、例えば、親が自分の不全感を慰めるために子どもに仕掛けていたローカルルールでした。

 「私の気持ちを察しなさい、そうしないあなたは悪い子だ」と

 子どもが距離をとって反応しなかったら

 「あなたは冷たい」
 「あなたは気が利かない」

 とフィッシングメールで巻きこんで、自分の心の中の寝室(私的領域)に連れ込んでいた。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 こうしたことをが繰り返されると、子どもはそうしたコミュニケーションが当たり前だと思うようになる。むしろ、そうしたコミュニケーションこそが親密であり、正しいのだと思い込まされてしまう。

 大人になっても、相手の私的領域に上がり込むようなスタイルが抜けなくなる。

 あるいは、相手が自分の私的領域に入ってくることを期待する。
 
 自他の区別が曖昧な状態が本来なのだと思わされてしまう。

 

 

 すると、自他の区別がちゃんとできている人の態度がそっけなく見えて、それが自分への見捨てられ不安のサインだと錯覚して、不安になったり、怒りを覚えるようになったりする。

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 これは歪められたコミュニケーションスタイルでしかない。

 

 

 愛着不安になると「見捨てられ不安」という状態になりますが、これは、実は上記のようなことも背景にあると考えられる。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

    →「境界性パーソナリティ障害を正しく理解する7つのポイント~原因と治療

 

 

 人間というのは健全に発達し、自他の区別がちゃんとついていれば、私的領域には立ち入らず、人との関わりはさっぱりしたものになり、いちいち、ウェットに他者のことを気にかけたりはしなくなる。ドライなスタイルになる。

 そして、人の言葉も戯言だとわかっていて、言葉に価値を置かずに気楽に使うことができる。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 ドライで、言葉を戯れに使うことができる結果、人との付き合いが軽くできるようになり、「あの人は気が利く」とか、「思いやりがあるわね」なんて言われるようになる。

 

 これが本来の状態なのですが、ローカルルールによるコミュニケーションスタイルの歪曲によって、他者の健全なコミュニケーションスタイルが見捨てられのサインだと思い込まされてしまう。

 

 

 素っ気く、自分に関心がないのは、相手が怒っているからだ、自分が無価値だとされているからだ、と感じさせられてしまっている。

 ドライなコミュニケーションスタイルは、自他の区別が着いている健全なことで、自他の区別をつけて接してくれるからこそ、私達も自他の区別をつけることができて良い関わりができる。

 

 

 そっけなく見えるコミュニケーションは大歓迎でなければいけない。

 反対に、ウェットなコミュニケーションは、実はそれはローカルルールの歪んだもので、本来のものではない。
 実は不全感を抱えた親のローカルルールの世界観でしかなかったりする。

 

 

 「世の中の人は価値のないあなたには興味がなく、誰も相手にしない。その証拠にそっけない態度をとってくるでしょう?それはあなたに価値がなく見捨てられている証拠」「私的な領域に立ち入ることが本来のコミュニケーションなの」と親のローカルルールは言っていて、それをトラウマを負った人は内面化しているだけなのです。

 

 その結果、普通の人の態度を見て、「やっぱり、私は価値がない」(見捨てられ不安)と思わされているのです。

 

 ウェットなコミュニケーションが当たり前だと思うので、いつまでたっても自他の区別がつかず、生きづらいままにさせられてしまっている。

 

 これらは、単なる親のローカルルールですから、放おっておいてよいのです。

 

 むしろ、自他の区別がついた素っ気ないコミュニケーションは大歓迎。

 

 もし、日常で、見捨てられ不安を感じたら、これはローカルルールの影響では?と立ち止まってみることがとても大切です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 最近、いくつかのケースに共通して気がついたことですが、

 
 社会を“外”、自分の家族や実家を“内”としたときに、

 守る必要のない“内(ローカルルール)”を一生懸命守らされている人が多いということ。

 “内”とは、特に家族から強制され、内面化されたローカルルールのこと。

 これを一生懸命に守っている。

 

 

 本人は、家族のことをちゃんと否定しているつもりでいる。
 客観的に見ているつもりでいる。

 でも、実際はそうではない。

 
 さながら、家族や親の守護者・救済者、カウンセラーとして、家族の否定的な感情を癒やし、家族の期待に応え、家族の秘密を守らされている。

 家族の秘密は、とんでもない極秘事項のように思わされて、大事に大事に守らされている。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む

 

 

 “内”を守れなくなると、世界が崩壊する、といったくらいに感じている場合もあります。

 一方、(家の)外に対しては、不信感があったり、疑わされて、一体が得られずに苦しんでいる。

 

 そのため、カウンセリングを受けているし、治療者を信頼していないわけではないけど、本当の問題(内を守らされている、ということ)は俎上に乗っていない、なんていうこともあります。

 なんてたって、“極秘事項”ですから。

 

 実際に、その極秘事項というのは、他人が見たら、すごくもなんともない。
 本当につまらないことだったりする。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 

 家族が安全基地だと思っていますが、実際はそうではありません。
 家庭は、機能が正常に発揮されていないと安全基地にはなりません。

 トラウマを負った人にとって、(機能不全の)家庭とは、緊張や呪縛をもたらす場所です。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 

 “内”を守らされていることで、一番良くないことは、自他の区別がつかなくなること。

 自我というのは、自分の中に秘密ができ、家族を一旦否定し、社会に参画していくことで形成されていく。

 自分を“内”として自我が確立していれば、社会に参画して自分も保ちつつ、他者と付き合うことができる。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

 以前も書きましたが、本来の人間というのは、パブリックな場面においてはじめて可能になります。

自分とは、社会に参画して普遍的な何かを代表して、はじめて成立するもの。

 

 一方、

 家族を“内” そして、社会が“外”だとすると、
 両者にまたがる自分の中に“内側”は存在しなくなってしまう。
 

 さながら、家族のローカルルール自体が自分となって、自分がないために苦しみ。
 さらに、社会に出ては、自他の区別がないために他者のローカルルールへの防壁がなく苦しむ。
 ひどい場合は、パニック障害といった身体症状に現れることもある。

 

 トラウマを負った人というのは、多くの場合、「自分がない人」です。
自分がないというのはつまり、自他の区別がなく、ローカルルールを代表させられている、ということです。

 ローカルルールを代表させられているので、自分があるようで自分がない。
 

 

 自分の中に“内”がなく、そのために、社会のストレスを浴びて、仕事ができなくなったり、対人関係に苦しんだりする。

 
 いったん、家族から与えられた“内”(ローカルルール)を捨てる必要がある。
 その上で、自分の中に“内”を作って、社会に参画していく。そうして、パブリックな存在となっていく。

 人とうまく付き合うというのは、決して心の壁を取り払うことではない。
反対に、自分の内と外を明確にしていくことです。

(参考)→「自他の区別がつかない。」

 

   
 ニセモノの“内”を懸命に守らされていないか、“外”を敵とされていないかどうか?確認し、自分の中に本当に自分の“内”を作っていくことで、生きづらさを解消していくことができます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分は他者とは違う」と思って落ち込み、「他者は自分と同じ」と思ってイライラし、不安になる。 

 

 先日の記事でも書きましたが、トラウマを負っていると、「自分は他者とは違う(おかしい)」として、自分の感覚を信じられなくなります。

自分が感じる腑に落ちない感覚や、気が乗らない状況を不調、うつ状態であるととらえて、治すべきものだ、と考えてしまう。
そして、ソワソワに巻き込まれて、しなくてもいいことをしてしまう。

 

 

 以前筆者の家の洗濯機の「乾燥モード」が動かなくなったことがありました。操作して動かすと最初は動くのですが、しばらくすると、「ピーピーピー」と止まってしまうのです。
 
 こちらは腹を立てて、「なんだよ、ちゃんと動いてよ」「故障だ」と思っていましたが、よく調べてみると、排気口にホコリがたまって排熱できなくなっていたために、センサーが作動して自動停止していたようなのです。つまり、洗濯機は正しく機能していたわけです。ただし機能して、停止してくれていた。

 正しく機能していたのに、それを「故障だ」と決めつけていた。

 もし動いていたら、熱がたまって本当に壊れてしまっていたことでしょう。
 
 この洗濯機と同じように、私たちも私たち自身の感覚を「異常だ」と思わされて、自分の感覚がわからなくなってしまっています。

 

 

 

 もう一つ、それと対になるように、私たちは「他者は自分と同じだ」として、同じように考えてくれない、動いてくれない相手にイライラしたり、相手の気持ちを考えて不安になったりすることがあります。

 
 

 

 「自分は他者とは違う」と「他者は自分と同じ」ということは矛盾しているようですが、実は、一貫しています。

 

 一貫しているトラウマティックな人間観、社会観が背後にあります。

 それは、「社会、人間というものは一元的で一つの基準でできている」と考えています。それを自他に当てはめてる。そして、次に、「その基準から見て、自分は劣っている」というもの。

 

 ただ、現実には人間は多様、多元的ですから、他者はその基準に従って必ずしも動くわけではありません。こちらが思っているようには、社会や他者は動いていないのでズレが生じます。

 そのずれは、「他人は自分が思う通りには動いてくれない」というイライラ、不安につながります。

 さらに「自他の区別」が弱いために、相手のことを考えすぎて振り回されてしまうのです。

 

 

 

 なぜ、「相手は自分と同じだ」となるか、といえば、不適切な環境(親など)がそれを強いていたからでもある。

 自他の区別がついていない未熟な自分の理不尽な言動を正当化するために、「私の気持ちを考えろ」と親が子供に強いたりすることがある。

(参考)→「トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

 

 あるいは、他者の理不尽の原因について、「お前がいい子ではないからだ」と本人に原因帰属をさせる。

 

 理不尽な人や物ほど、「相手の身になれ」「私のことを理解しろ」と巻き込んでくるものです。でも、それは相手を支配する手段だったりする。

 

 そうすると段々と「自他の区別をつける」という大事なことがわからなくなってしまう。

(参考)→「「自他未分」

 

 

 大人になってもそれが習性になってしまう。

 大人になると、そのおかしなことを言う人が、恋人や上司となって現れる。 
 

 パートナーは、「私の気持ちを考えろ」「このイライラはお前のせいだ」といって、自分の不安定な情動に一体化させようとする。
  

 
 上司は、「顧客の気持ちを考えろ」とか、「上司や同僚の身になって考えろ」といってくる。もっともらしく見えますが、実は相手の身になって考えると、うまくいかなくなる。

 

 

 TV番組で、「帰れま10」という番組があります。
 その飲食店で人気10位以内のメニューを当てるまで帰れない、という番組ですが、
 出演者は、
 「やっぱり、レストランといえば、〇〇でしょ」
 「女性が多い店だから、△△が受けるはず」
 とか、顧客の身になって、人気メニューを想定するのですが、なかなかうまくいかない。

 絶対これは当たるはず、というメニューでも、30位代なんて言うこともザラ。

 つまり、身になって考えたことは当たらない。それではわからない。

 (撮影が長時間になり、疲れて頭(意識)が働かなくなってどうでもよくなった時に、うまく距離が取れて、当たったりする。)

 

 

 母子が密着した親が、私は子供のことがわかっていると考え、「子どものために」といったことは、大抵がずれている。子どもは渋々、着たくない服を着たり、進みたくない進路に進んだり、陰鬱な顔をしている。

 

 マーケティングが進んだ会社では、相手の身になってなど考えず、統計データなどで自他の距離をとって、感覚ではわからない解を見出す。

 大学の研究室でも、対象物から距離をとった研究者が客観的な結論を導き出す。

 

 

 本来、相手を理解する、というのは、相手も自分と同じだ、として相手の気持ちを考える、ことではない。

 「相手は自分とはまったく違う、異文化である」として、まずはしっかりと距離を取って、“外形的”に理解する。
 
 さながら、自然科学者が生物を研究するかの如く、社会科学者が異文化を研究するかの如く、相手を見ます。
 
 私たちは、生物とか、外国の文化などに接したときに、容易には感情移入することはありません。

 もちろん、頭で「擬人化(自分に擬して)」すると、理解の助けとすることはありますが、同一化して、という感覚ではない。

 ある意味ドライに見えるかもしれないが、そうしたほうが本当に理解ができる。これが、本来的な自他の関係、ということ。

(参考)→「カエサルのものはカエサルに

 

 他者を理解するためには一度十分に距離を取らないと、相手の身になることもできない。身になったつもりでいると、それは単なる陶酔であったりする。
 (相手に距離を詰めた理解を求めれば求めるほど相手は自分を理解できなくなる。)

 

 
 「自分は他者と同じく健全」であり、同時に「他者は自分とは異なる」という感覚、

 これが本来的な感覚といえそうです。
 (負の暗示が入ると、これができなくなります)

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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