「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 人に対するイライラで、頭がぐるぐるすることがあります。

 「もっとこうするべきでしょ!」とか、
 「本来は、~~であるはず!」とか、

 その「理屈」は、自分の中では完璧で、それが通らない相手は極端に言えば人間として認められない、くらいに相手を否定したくなります。

 

 さらに、「理屈」を重ね、頭の中でシミュレーションを走らせてしまいます。

 

 でも、いくらそうしても、イライラはさらに増すばかりで解消されることがありません。

 

 実際に、相手に怒りをぶつける場合もあります。
 説教のようにくどくどと相手に「理屈」を伝えますが、イライラはエスカレートしていきます。

 

 さらに、相手はそれで「理屈」を理解して、同じ行動を取らないのか、といえばそうではなく、逆にまた同じくこちらの神経を逆なでするようなことをする。

 「同じ行動をするなんて、どういうこと!?」とまたイライラして怒りをぶつける。
 
 
 こういう繰り返しに陥っている、というケースはよくあります。

 

 

 いくら「理屈」を展開して、相手をねじ伏せようとしても、相手に伝わることはありません。

 なぜなら、その「理屈」はイライラしている本人のものではないから。

 ほとんどの場合は、自分の両親や生まれてきた中で出会った他者の価値観を内面化(直訳)したもので、自分のものではありません。

 目の前の刺激をきっかけに解離して、「理屈」の世界に頭が持っていかれている状態。

 イライラ自身も、生育歴で得たストレスの投影なので、実は現在のものではなく、過去からくるイライラだったりする。

 そのため、イライラされている相手も、無意識にそのことをキャッチしていますから、

 「イライラされていて怖いけど、よくみたらそれは自分の責任ではないし・・」と感じています。

 

 

 展開される「理屈」も
 
 「正しそうに見えるけど、状況にマッチしていないし、言っている本人のものになっていないし・・」と直感しているのです。

 だから、イライラと「理屈」をぶつけられても、行動を変化させる謂れはないのです。

 

 

 イライラしている本人は、実は、生育歴で得たストレスと、親などのローカルルール(「理屈」)に巻き込まれていて、自他の区別を失っている状態です。

 本人は全くの正論を展開しているように見えて、実はそれは自分のものではなく、状況にマッチしたものではなかった。

 「理屈」を考えれば考えるほど、自他の区別を失い、自分の感情と価値観で生きることからは離れていってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 さらに、「理屈」で頭が持っていかれて自他の区別を失っていると、他人が展開した「理屈」(ローカルルール)にも巻き込まれやすくなります。  

 不全感を解消するために他者に因縁(「理屈」)をつけて、その「理屈」の世界でごちゃごちゃとやり取りするようなことに慣れてしまう。
 

 「理屈」で考えることが当たり前になりますから、「物理的な現実」からも離れやすくなる。ありのままにある現実に立脚することが自然とできなくなるのです。  
(参考)→「“作られた現実”を分解する。」 

 

 「物理的な現実」としての自分ではなく、「理屈」で作られて自分で生きることになるため、他人が作ったイメージや評価、言葉にも振り回されやすくなります。

 
 まさに、ブッダが悩みの原因とした「執着」の世界です。 
 
 

 

 こうした状況から逃れ、自他の区別をつけ、ローカルルールではなく、物理的な現実の世界に立ち戻るためにはどうしたらいいのか?

 それが、前回お伝えした「理屈」をつけず「感情」をそのまま感じるトレーニングです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 「理屈」は被せずに、ただ、自分の感情を感じて、それを表現する。

 それをずっと繰り返します。

 すると、自分がいかに自分のものではないものに支配されてきたかが、明確になってきます。

 徐々に自他の区別がついてくる。

 「理屈」に頭が持っていかれて、ぐるぐるとすることが減ってきます。

 

 

 さらにパート2の応用編としては、

 「認知」と「思考」とを切り離すということも行っていきます。

 たとえば、

 道を歩いていたときに、気になる人がいて、「なんだ、変な人だな」と思う状況があったとしたら、

 意識して、「認知」と「思考」を分けます。

 「男性が歩いているのを見た」(認知)

 「なんだか変な人だな、と思った」(思考)

 というふうに。

 

 別の例では、

 信号が赤になって、「しまった!信号に捕まった」と思う状況に出会ったら、

 「目の前の信号が赤になった」(認知)

 「しまった!と思った」(思考)

 というふうに。

 これを繰り返して、 「認知」と「思考」を分けていくと、漫然と自他の区別なく、環境に巻き込まれるようになっていたことがなくなり、自分の認知や感情が明確になってきます。

 

 「そういえば、このせっかちさは、父に怒られたからだな。」「父はせっかちで、いつも車の運転で赤信号になったら舌打ちしていたな」といったことに気がついたりもします。

 「あっ!自分の考えと思っていたものは、父の価値観だったんだ?!」と気がつくようにもなってくるのです。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 さらにローカルルールの影響から離れ、自他の区別が明確になってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 ステイホームということが合言葉になっている昨今。
 代わりに時間がありますから、家でできるなにかを、ということで、
 「自他の区別」をつけて、ローカルルールの影響を取り除くために自分でできる方法についてお伝えしてみたいと思います。

 ストレスを解消するためにもとても有効です。

 

 
 現在、非常にストレスフルな情勢下にあります。
 誰もがイライラを感じたり、ストレスを感じることは当然のことです。

 ただ、そのストレスの解消の仕方、ぶつける対象については、かならずしも適切ではありません。

 たとえば、
 「こんな状況でもパチンコ屋に行く人はけしからん」とか、
 「政府はもっと素早く動け」「検査数を増やせ」「保障をもっと多く、もっと早くしろ」とか、著名人のツイッターでの発言にムッとしたりとか。

 

 「理屈」そのものの是非は、ここでは問題ではありません。
 政府にもたくさん問題はありますし、パチンコ屋に行くことがふさわしいかについても同様です。

 「理屈」の中身の妥当性ではなく、私たちが感じている「感情」と、その「理屈」との組み合わせが適切なのかどうか?をテーマとしています。

 

 結論から言えば、99.9%の割合でミスマッチを起こしています。

 
 そして、ミスマッチを起こした状態だと、いくら「理屈」をつけても、もとにある「感情」は解消されないのです。

 イライラなどストレスはそのままとらえないと解消されません。

 

 
 たとえば、ステイホームで外出もままならない。
 せっかくの連休なのに、行楽にもいけない。

 その結果イライラが募っていますが、そのイライラの原因はなにからきているかは実は自分でもわかっていない。
 過去のトラウマ、生育歴の問題を投影している場合もしばしばです。
 

 
 よくあるのが、子どものときに「自分の意見が通らずに嫌な思いをした記憶」「友達であったり親などが思い通りに振る舞って自分が蔑ろにされた経験」「自分は我慢しているのに、兄弟(姉妹)が自分勝手なことをしていた」など。
  

 

 そのトラウマが潜んでいる中で、「自粛して自分が我慢しているのに、パチンコ屋に行く人」「自分の考えとは異なる政府や著名人の言動」を見たときに、生育歴の記憶が刺激、投影されて、「政府への怒り」「著名人の言動への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という「理屈」がついて、イライラが表に出てきます。
 (繰り返しになりますが、その理屈の是非はここでは問題ではありません。)
 

 

 
 本人は、政府のせいでイライラしている、パチンコ屋に行く人に怒っている、と思っていますが、 本当は、親や友達、兄弟、過去の自分のトラウマに対してイライラしている。

 
 その証拠に、「政府への怒り」「著名人への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という形では、イライラは解消されないはずです。
 さらにイライラが募るだけです。
 (マッチしていれば、イライラは減ります。)

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情」

 

 こうしたときには本当はどうしないといけないのか?といえば、

 「イライラ」や「怒り」だけをただ感じてみる、体感に注目しながら、「イライラする、イライラする」「怒り、怒り」とつぶやいてみたりする。

 

 あるいは、体感を感じながら、「なにが言いたいの?」と問いかけてみる。

 

 すると、「悲しい」といったように答えが帰ってきたりすることがあります。
 (感じていることや帰ってきた答えを言語化してみることが重要です。)

 

 そうして「感情」と「理屈」とを切り離していきます。

 

 「感情」をそのまま感じていると、その根源が見えてきます。

 

 根源が見えると、実は「理屈」というのは、他人からの無自覚な影響であったことも見えてきます。

 
 
 自他の区別がうまくついておらず、メディアなどを通じて他者の感情や理屈を自分のものとしていたりしていた。あるいは親の価値観を直訳して内面化していた。

 

 少し複雑ですが、現在の問題について語るメディアを見ながら、親が言うであろう文句を自分のものとしていたり。他人の評価を気にしていて、他人が言うであろう批判を先回りして自分のものとしていたり。

 その「理屈」と自分のイライラがくっついていただけだった。

 

 実は、自分の考えと思っていたものは自分のものではなく、それどころか自他の区別がうまくいっていなかったことが明らかになってきます。

 他人の「理屈」を無自覚に受け入れていると、他者に支配され自分というものは失われていきます。
 また、他人との距離が適切に取れず、他人の言葉がズバッと心に侵入してきて振り回されるようにもなるのです。 

 

 

 健康な発達の過程では、安全な環境の中で自他の区別をうまくつけることができるように自然とトレーニングを受けていきますが、不適切な環境下でそれが果たせずにサバイバルしてきた方も多いのです。

 それどころか、他人の理屈をそのまま受け入れることが、「素直」であり、「相手に合わせること」であると思い、人間関係のスタイルとなっていた。 
 自分の感情なのか、相手にものかもわからずにごちゃごちゃの中で生きてきた、ということも珍しくありません。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる」 

 

 

 

 さらに、「負の感情」+「理屈」のセットというのは、よく見るとローカルルールの構造ではないか?!ということにも気が付きます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 つまり、これまで自分の中で内面化したローカルルールがウイルスのように再生産され続けていた、ということもわかってきます。

 再生産されていたローカルルールが自律的に影響を及ぼす状態を「ローカルルール人格」と呼んでいます。

 こうしてストレスによる機能障害が続くのがトラウマです。

 「自他の区別」というのローカルルールの影響を取り除いたり、悩み解決のためのキーポイントになるものです。
 

 日常でも、負の感情を感じたら、「理屈」を被せる前に、「感情」をただそれだけで感じて見るようにする。

 これを繰り返すと、感じている「感情」の根源が見えてくることでストレスが解消されやすくなりますが、なにより、自分そのものと、そうではないもの(他者の影響)に自覚的になり、区別する習慣ができてきます。

 

 自他の区別をつけるためには、なにが自分のもので、なにがそうではないかを自覚することが大切です。
 その上で、自分のものではないものを否定する。自分のものだけを感じる。
 

 まとめると、

 1.イライラなど、感じているストレスや感情を取り上げる。

 2.頭で考えているそのストレスの原因(「理屈」)はいったん脇に置く。
 
 3.ストレスそのものを感じる。

   身体のどこで感じているのか?どのように感じているのか?
   
   その際に、  
    ・その感じを取り出してみて、自分の手の上においてみても良いです。どんな形でしょうか?どんな大きさでしょうか?どんな色でしょうか?どんな肌触りでしょうか?
    ・そのストレスに名前をつけてみてください。

 

   取り出さないパターンもあります。
    ・ただ感じてみてください。どんな感じなのか、言葉に出してみてください。(「イガイガ」「ふわふわ」「カチカチ」)など

   そのストレスに問いかけてみてください。「なにがいいたいの?」と。 答えは期待しなくて良いです。ただ問いかけるだけでも良いです。ふと頭の中に浮かんできたら、それがヒントになります。
  
   ヒントが浮かんできたら、それを感じてみてください。更に問いかけてみても良いです。(「どこから来たの?」といったように)

  自動的に目の前のものや人に原因を求めていた「理屈」が本当の原因ではないことに気がついてきます。「理屈」と「感情」とを分ける間隔が身につきます。

 

 4.日常でもストレスや「感情」を感じたら、「感情」だけを感じて、「理屈」は常に脇に置くことを習慣とします。

 

 このトレーニングは本来の自分を取り戻すことにつながります。

 よろしければ、ステイホームの期間にでもお試しください。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

 TVも新聞も、毎日、新型コロナウイルスのニュースばかりです。
 健康と経済生活とを両方天秤にかけながら、政治・行政も難しい決定が強いられているな、と感じます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 
 意思決定というときにしばしば問題になるのは「結果」です。
 

 結果が悪いと、「なぜ、あのときもっとこうしておかなかったのか!」と叩かれてしまいます。

 

 私たちも、失敗すると、「ああ、なぜあのときこうしておかなければ」と後悔することがあります。
 
 特にトラウマを負っていると、自責感、後悔というのは激しく心のなかでうずまきます。

 自分を責めて叩いて、後悔する。

 そして、次に同じ機会が訪れたときに、結果が気になって萎縮してしまって、自信を持って決断できなくなる。
 

 今度は失敗するまいと判断する範囲や情報を広げすぎてしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 「自信がない」「決めることができない」
 これは、トラウマを負っているとよく見られる現象です。
 

 

 

 例えば、野球などのスポーツでも、「あのときこうしておけば」というのはあります。

 阪神ファンのおっちゃんは、みな監督気分ですから、「あそこで、あの球に手を出せば」とか「あそこに投げていれば」ということを言いますが、当事者の立場になれば、果たしてそれができたかどうかはわかりません。 

 人間というのは全知全能ではないですから、常に結果から見て最善手を打てるわけではないからです。

 その瞬間には不十分な情報と時間とで判断をくださなければならない。

 

 新型コロナウイルスの件でも、例えば、最初の時点で外国からの往来を完全に止めていれば日本での感染は広がっていなかったかもしれません。
 しかし、それは結果論で、そのときにそれが判断できたかはとても難しい。
 往来が止まって仕事を失うと、それによって命を断つ人も実際には存在するからです。
 

 

 人間は全知全能ではない。
 しかし、近現代の傾向として、人間は自分たちが全能であると錯覚しやすくなっているので(近代人のトラウマティックな万能感)、人間の判断力を大きく見積もって、「(人間はもっと賢いはずのだから)あのときこうしておけば」と批判する傾向があります。

 たまたまうまく言ったケースを持ってきて、「できている人がいるんだから、できるはず」と考えて、万能感は修正されなくなってしまう。

 

 

 

 人間の判断力は思っている以上に小さく、限界があります。
 弱い人間にとってはすべてを見通すことはできない。

 できることは、プロセスが適切であったかどうか、価値観の軸がブレなくあったかどうか、だけです。

 野球においても、先日亡くなった野村監督は、ピッチャーが打たれた際にキャッチャーにリードの選択の根拠を聞いて、根拠があれば叱らなかった、というエピソードがあります。

 人間は結果を常に制御できるわけではなく、少なくとも自分として根拠(プロセス)があるかどうかが大切ということです。
 

 

 

 私たちの日常は、常に長距離戦で、1回の勝負で終わりではありません。常に次がある。

 長期戦で結果を出すためには、プロセスが大事で、自分の基準や価値観(フォーム)を持つことがとても大切になります。
 
 目の前の結果を出すために自分のフォームが乱れてしまうよりは、自分のフォームを成熟させて、長期で結果が出るほうが良いのです。
 

 

 

 しかし、日常生活や職場でも、結果論で相手をマウンティングする人というのはいます。「だから、こうしておけば」ということを言うのです。

 「結果がすべて」ということを言われますから、一見正しいように見えます。

 人間は全能ではないので、途中のプロセスですべてが見通せるわけではありません。結果が出なくても、プロセスとしては、そのように判断するしかないことがほとんどなのです。

 「結果がすべて」という言葉を間違ってとらえて、その批判を真に受けてしまうと、自分のフォームが崩れてしまいます。

 

 

 日常生活でも親が子どもに対して、結果だけを取り上げて、「だから、言わんこっちゃない」とか、「だから、あなたはいつもだめだ」といったことを繰り返すと、子どもの価値観の軸が崩れ、自信が育たなくなります。

 そのことが続くと、他人の判断や価値観が正しく、自分の価値観が間違っているように感じられ、自他の区別がなくなり、自信を持って意思決定ができなくなります。

 本当は他人の価値観が正しいわけではなく、それは「結果論」から正しそうに見えていただけだった。
 

  
 結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想にとらわれると、同じように結果が出せない自分に自信がなくなり、自分の「主権」が奪われるようになる。

 「結果論」で相手の意思決定を批判する、というのは実はローカルルールだったのです。

 

 

 私たちにとって、目先の結果が悪くても、自分で決定することは必須です。人間にはそれしかありえない。

 もちろん、意思決定のプロセスや価値観の未熟-成熟ということはあります。より良い意思決定はあります。
 しかし、それも、「自分が意思決定をして」「成功と失敗も繰り返して」身につける以外に道はない。

 選手の代わりにコーチが打席に立つことはできないのですから。

 

 「結果だけを見て判断したり」「意思決定の基準を他者に求めること」では、人間は成熟にたどり着くことはできない。
 

  
 
 自分の判断基準を持って、自分で決定をする。

 その場合に、俯瞰の立場に立って見ている自分がいて、迷いがあったら要注意。

 それは、冷静な目で自分のことを見ることができているのではなく、「結果論を振りかざす他者に目線」を内面化している、ということ。別の表現で言えば、他人の価値観で判断している、ということです。

(参考)→「「過剰な客観性」

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 

 私たちは常に自分の主観で見て(主観的客観性)、その瞬間得られる不完全な情報でしか判断できません。

 自分の主観で物事を見るようになると、無意識(身体感覚)が協力してくれるようになります。  

 思考の力の上に、腑に落ちる-落ちないという基準が出てくる。

 だんだんと概ね間違いのない決定できるようになってくる。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」  
 

 

 

 もちろん、「間違いのない」とは、結果から見て最善の手ということではありません。

 以前、TV番組で投資のプロの方がおっしゃっていた言葉で印象に残った中に、「一番安いときに買えると思うな。一番高いときに売れると思うな」というものがあります。

 人間は全知全能ではないのですから「一番安いとき」や「一番高いとき」を判断できません。
 だから、あとから見て、「あのときに売らなければ」「あのときに買っておけば」はまったく意味がない、ということです。

 

 

 人間は結果から見て最善の手を打つことは「絶対に」できないのです。
 投資の世界でも、できることは自分の判断基準を持ってブレなく実行する、ということだとされるそうです。

 そのように考えると、私たちも日常において、自分の価値基準を持つことが大事で、結果は、六勝四敗くらいか、場合によっては三勝七敗くらいで、勝ち方も最善ではなく、ほどほどくらいでよい(というかそれしかできない)。

 

 でも、トラウマを負っている人は、結果から見て最善手を打つことを強いられている。
 常に頭の中で焦って、最善手を打つことができないことを責める他人の評価を気にしている。

 

  
 結果から見て最善の手を打とうとすると、どうなるかといえば、他人の価値観(ローカルルール)に支配され、自分の主権が奪われてしまうのです。 

 

 頭の中で私たちを責める「あなたはだめだ」「あなたはいつも~だ」という言葉とは、あたかもインチキ評論家が結果で物事をあとから論じて自分は事前に見通せていました、というように、自分の親や身近な他人が結果論(後出しジャンケン)で全能の神を演じていただけだったのです。

 

 

 たまたまうまくいった人はどこにも必ずいますから、それと比べて「うまくいった人がいて、自分はできていいないのは事実だ」というのは、“作られた事実”でしかありません。※「他にうまく行っている人がいますよ」というのは詐欺の常套句です。
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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