「人からどう思われるのか?」が気になったり、
「自分が否定的に思われているのではないか?」と考えて、不安になったり、
「人からネガティブな考えを持たれているのでは?」と怖くなったり、ということがあります。
トラウマを負っているととくに、人の考えを考えさせられて、巻き込まれてしまう傾向があります。
人の考えがあたかも真実であるかのように考えさせられて、それに影響されてしまう。
人の考えとはなにか?についても実態を知る必要があります。
人の言葉が戯言だとということは、人の頭に浮かぶことも同様に戯言、妄想でしかありません。
(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。」
私たちは、相手からどう思われるか?ということを意識し、恐れますが、相手が考えることにも全く意味はありません。
人間が頭で考えること(とくにネガティブなこと)はすべて、養育環境で負った不全感を目の前のものに自動反応として投影しているだけです。
「この人はこんな人だ」とか、
「この人は嫌いだ」という考えが浮かんでも、それは、養育環境からくるものに巻き込まれて考えさせられているだけで、目の前の人をありのままに捉えているわけではありません。
ツイッターやインターネットの掲示板とかで披露されている意見もすべて、単なる私的領域(生育歴)の自動反応的な投影です。
TVのコメンテーターの意見も全て、単なる私的領域の自動反応的な投影です。
だから、そこには真実はないし、事実を何も指し示していないのです。
私たちに向けられる意見や考えも、客観的な私たち自身を見ているわけではありません。
以前もご紹介しましたが、
手塚治虫が同輩や後輩の漫画家について「ここがダメ」と評論していたところ、実はそれらは手塚治虫が自分の地位が脅かされる不安や嫉妬ゆえにそうしたことを書いていた、という有名なエピソードがあります。
福井英一やさいとうたかおはそれに憤慨し、石ノ森章太郎もショックを受けたと言われていますが、その評論自体は私的感情による戯言であって事実を何も指し示していなかった、単なる嫉妬であったというのです。
漫画の神様と言われる人でもこのような状態であった。人間というのはこのようなものです。
(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。」
私たちがこれまで生きてきた中で受けた誹謗や暴言、誤った評価といった理不尽な経験もすべて私たちの実態を何も示していない。単なる私的領域の投影であり、ローカルルール、戯言に過ぎない。親から受けた「あなたはこんな子どもだ」というのも全て戯言。だから、そこを真に受ける必要はまったくないのです。
では、他者がそうなら私たち自身が考える考えもそうなのか?といえば、私たち自身の考えもそうです。
単に私的領域(生育歴)の投影でしかありません。
別の言い方で言えば、(とくにネガティブな考えは)ローカルルール人格の考えでしかない。
自分の考えがどこにあるか?といえば、どこにもなかったりする。
かつては哲学において、最近は、心理学においても「自由意志などない(だろう)」とされていますから。
人間が、物事をありのままに見るためには、かなり意識的にトレーニングをする必要がありますし、公的な役割を代表している状況下においてでなければ、基本的になされることはありません。
(教養や職業によって、人格を涵養する事が必要)
人格的に一定程度成熟し、職業的な知識・経験、役割、あるいは教養をもった状態であれば、その意見はまだ耳を傾けるに値します。
(昔の人達が、教養や人格の涵養を重んじたのはこうしたことのためだと考えられます)
(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能」
しかし、プライベートな環境下では、現実にそうした事ができている人はほぼいないと言っていいのです。
では、私たちは救いがないのか?とおもうかもしれませんが、そんなことはありません。
(参考)→「すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!」
考えや意見が戯言に過ぎないとわかったときに、初めて私たちに自由と主権が宿る。
自分の考え、と思っているものも結局ローカルルールを真に受けているだけではないか?ということを疑ってみる。
養育環境で負ったローカルルールを相対化していく。
そのために、正しい知識を得て、現実を見ようと務める。
社会的な役割を得て、普遍的な何かを代表し、アウトプットする。
通常はそれが、
安心安全な環境を背景に
・反抗期
・職業に就く
・(教養を積む)
という2段階(3段階)で自然となされるようになっている。
そうした作業が、健全な成熟ということです。
人の考えもすべて戯言だと気づいたあとに初めて、世界に対する自分の自由や主権を回復させることができるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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