愛着的世界観とは何か

 

 これまでの記事でも触れてきました愛着的世界観とは、どういったものでしょうか。

 愛着的とは、自分を取り巻く環境については、「安心安全である」ということを土台としています。
 
 その上で人間については、「弱く、不完全である」という価値観をもっています。

 自分は弱く、不完全であるが、ある人々は強く、完全だ、ということではありません。

 「人間」というのは、貴族であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、大企業のトップであろうが、金メダリストであろうが、高僧であろうが関係なく、すべての人間ということです。

 

 このブログでも触れてきましたように、まさに「落語の世界観」ということです。

 すべての人が、だらしなく、いい加減で、弱い、ということです。
 人間の理性には限界があって、すべての人は感情や欲、見栄といったもので動いている、と考えます。

 もちろん、ときに崇高さや、ヒロイックな行動を人間は取るわけですが、それもあくまで感情や欲を消化(昇華)した先にあるものと考えます。
 粋(いき)といった概念はそうしたものに近いかもしれません。頭ではなく、身体から発せられたような感覚です。

 

 この人間の弱さ、不完全さ、とは、前回の記事でも触れましたようにDoing(行動)レベルのことです。

 存在レベル(Being)は、等身大で、環境の安心安全(愛着)によって守られている領域です。
 

 そのため、愛着的世界観の中では、「自分は罪深い」とか「根本的におかしい」といったわけのわからない自信のなさ、や罪悪感といった感覚は基本的にありません。

 意思やエネルギーは有限であり、欲が満たされれば飽きる、やりすぎれば疲れる、人に対しては、人は皆それぞれ違う、合わないなら仕方がない、合わないことは自分の存在とは関係しない、といった感覚。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 行動レベル(Doing)と存在レベル(Being)とは分離しています。

 

 「善悪、正邪、無限」ではなく、「差異、弱さ、有限」といったさっぱりした感覚。

 理不尽さに出会っても、それは、人の邪悪さからではなく、人の弱さ、違いからのものだと捉えます。

 勉強や仕事においても、物理的な世界への信頼があり、着実に取組めば答えはあるだろうし、なんとかなるという感覚があります。
 もちろん、交渉や競争など相手があることについては、平均的な勝率+αを普通とします。 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」「物理的な現実への信頼

 

   
 人間というのは弱く、不完全である、という人間観が「すべて」の人に及ぶため、人からの言葉や攻撃というものが、自分の存在レベル(Being)に及ぶことがありません。そのような筋合いや権限は誰にもないからです。
 

 

 つまり、行動レベル(Doing)で、人間は弱く不完全なもの、とする人間観によって、存在レベル(Being)の安全も保たれるのです。
   
 
 具体的には、「安心安全」を土台として、等身大の人間観、世界観を育んでいく、そして、社会の中で位置と役割を獲得していくことで、通常は確立されていきます。

 

 その中では、「愛着」や「仕事」の役割は大きく、成長の段階で踏み外すとなかなか大変なことになります。
 自分だけでなせるものではなく、家族や社会の役割、サポートの必要性はとても大きなものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて
 

 
 以前ご紹介した、社会学者のマックス・ウェーバーの予定説をもとにしたテーゼは、こうした愛着的世界観のプロテスタント版と言えるもので、存在レベル(Being)を神様が予定している、とすることで、ニセの責任を免責し、存在レベル(Being)の安全を担保する。
 そのことでDoing(行動)レベルでは、しがらみなく力を発揮できる、というものであると考えられます。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 
 
 ローカルルールとは、反対に、人間を強く、完全なものである、とする世界観です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 ローカルルールを作り出した胴元の人が、ルールの創造者としてあたかも完全であるかのように振る舞い、Doing(行動)レベルで不完全であることをBeing(存在)レベルの不完全さの証拠であるとして、目の前の人を裁いて支配する、というものです。
 ローカルルールの胴元は感情的で理不尽であり、呪縛をかけられた側は、過度に客観的、理性的になります。感情への嫌悪、恐れがあります。

 「善悪、正邪、無限」の一元的な世界です。

 
 呪縛をかけられた側は、存在レベル(Being)の不完全さという呪縛を、Doing(行動)レベルでの完全さで挽回しようとして、どこまでいっても果たすことができずに、さらに呪縛の縄が強く絞まる、という悪循環に陥ります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 人間が強く、完全なものである、という世界観では、主権は他者に奪われてしまうのです。

 愛着的世界観には、「こうあるべき」という思想はありません。
 健康に発達する中で感取される現実からくるものだからです。
 

 生物学者が、植物、動物を見るように、人間のそのままを見ている、というものです。

 

 前回の記事でも例としてあげましたように、カラスを見て、その存在(Being)が呪われている、だなんて、誰も思いません。
 そのため、カラスの存在(Being)にはなにも問題はありません。
 しかし、カラスは完全な生き物であるわけではもちろんなく、習性や行動(Doing)は、弱く不完全なものです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 
 人間も同様で、その存在(Being)が呪われているものなど、一人もいません。しかし、行動(Doing)は不完全で、弱いものだ、ということになります。

 弱く不完全なものだという観点からは、誰も他者の存在を云々する権限はなく、たしかな自他の区別があります。
 もちろん、その発する言葉も不完全なものですから、戯言として流すことができます。

 

 

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「言葉」偏重

 

 SNSが普及した現代では、ニュースや投稿に様々なコメントが寄せられます。
それぞれのコメントなど真に受ける人はいませんが、量や勢いで圧倒されて「炎上」ということが起きることはあります。

 

 かつてのインターネットがない時代では、世の中に自分の意見を言える人というのは、それぞれの分野でそれなりの実績があり、発信する資格があると認められていた人達に限られていました。

 出版社やマスコミ、各種団体等がそのフィルタになっていたわけです。

 人間の言葉とは常に戯言でしかありませんが、かろうじて意味があると認めてもらうためには実績、資格が必要だったということです。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 近所のおじさん、おばさんが世間話で、政治や哲学を立派に語っていても真に受ける人はいません。

 「そうなんですね~」と言いながらスルーしています。 
  

 居酒屋で偉そうに武勇伝や説教をしている酔っぱらいの話を聞いて、真に受ける人もいません。
 

 スポーツなどで、あまり上手ではないのに「教えたがり」の人がいますが、それもそのまま真に受ける人はいません。

 

 それぞれに共通しているのは、「(それを言う)資格がない」ということです。

 人間の言葉とは、何を言うか、ではなく、「誰が言うか(資格、筋合いがあるか)」です。
 

 上記の近所のおじさんが「安倍首相はね~」というのは、内容は正しいかもしれません。でも、正しくても真に受けたりはしないものです。

 

 それは、健康な状況では人間は、「言葉」ではなく、「態度」や「資格」「筋合い」に目を向けるからです。もっといえば、物理的な現実を見ている。

 言葉ではなく、その「実態」を見ている。

 

 言葉は立派でも、そこに劣等感や嫉妬などを感じ取れば、それは、「劣等感」「嫉妬」なんだと捉えます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 
 近所のおじさんが「あなたはね~」と言っても、真に受けたりはしない。

 「安倍首相」が「あなた」になっただけで、近所のおじさんがそれをいう「資格」「筋合い」がないからです。

 この「資格」「筋合い」の範囲というのは、思っている以上に狭いものです。

 基本的に、なにか契約とか権限がなければ言うことはできません。

 
 どんな立派な人でも、通りすがりの人を捕まえて説教をたれたりすることはできない。「なんの筋合いでそんな事を言ってきているんだ?」でおしまいです。

 

 電車の中などで、マナーの悪い人に注意する、ということでも、よほどわきまえてないと、トラブルになってしまうのは、「筋合い」が明確になりにくいからです。
   

 街中で人に関わる、というのは、「僭越ながら」という弁え(わきまえ)がないと成り立たないと言えそうです。

 

 

 では、家族同士はどうか?といえば、実はこれも基本的には同じです。

 家族といえども別の人間。

 夫婦などがわかりやすいですが、意見が通るためには「やることをやっていないと」いけなかったりします。 

 「やること」とは、夫としての機能(役割)、妻としての機能(役割)。
 しかもそれは時代とともに微妙に変化もしていきます。
 
 家のことを何もしないで、夫(妻)が妻(夫)に対して偉そうなことを言っても、話が通るわけがありません。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 あと、例えば、キッチンなど妻の領域については、基本的には夫の意見は通らない。そこは権限(なわばり)外だからです。
 (家のこともしっかりやっていれば、聞いてもらえる一時的な資格は得られるかもしれませんが・・・)
(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 機能不全家庭に育ってトラウマを負ってしまった人は、その「資格」や「筋合い」がわからず、家のことはしないまま、妻や夫に実の母や父の役割を求めて怒り出したりして、混乱を起こしたりすることはよくあります。
 
 さらに、何が問題かわからず、「相手は頑固だ」とさらにイライラしてしまう。でも、それは相手が頑固なのではなくて、町中の人に説教するのとおなじく、資格、筋合いがないから耳をかさないのです。

 

 

 親子でも同様です。

 基本的には別の人間同士であって、さらに子どもは今は未熟でも将来は一人前の社会人として独立することが予定されていますから、過度に価値観を押し付けたりする筋合いは、実の親にもありません。 

 かつては生みの親というものの価値は低く、「~~親」という社会的な役割はたくさんありました。
 子どもは共同体で育てるもの、という考えもあるように、「血が繋がっている」というだけでは、ほとんど正統性はありません。  

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

 親は、自分の価値観を伝えるのではなく、社会の常識を自分が翻訳(代表)して伝える役割である、と言えます。

 さらに、子どもの年齢(発達の段階)によって関わり方も変わってきますから、柔軟に対応していかなければなりません。 

 

 うまく関わればよい(質)のではなく、関わる時間(量)も必要です。
  
 そうしてようやく、子どもに何かしら、偉そうなことを言える権利は発生します。でも、聞くか聞かないかは子ども側の権限です。   

 子どもは、反抗期には精神的に直訳していた価値を殺して独立していきます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ここまで見たように、何かを言うためには、資格が必要で、それ以外の言葉は受け取ってもらえません。

 
 「友達からなにか言われて傷ついた」という場合も、相手には言う資格がありませんから、もちろん「意味のない音」としてスルーする。

 愛着的人間観は、「人は皆、だらしがなくて、いいかげんで、どうにもまとまらないもの(人は弱い)」というものです。

 誰も自分を棚に上げて、他人のことを言うことはできません。

 立派に見える人でも、そう見せているだけ。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 社長を継いだ二代目が社員から認めてもらえずに苦労した、という話はよくあります。社長という肩書があっても、その役職に足る力があると認めてもらえなければ、部下も言うことを聞かないのです。

 戦国武将などもそうであったようで、部下の武将から認められるように常に心を砕いていた。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 親もそうで、親として日々機能していなければ、子どもも言うことを聞かないのは当然のことです。

 「とにかく、お母さんの言うことを聞きなさい!」というのは、「資格がないけど、私の私的感情をのみ込んでくれないと、居ても立っても居られないのよ」といって恐怖で言うことを聞かせているだけです。

 

 人が他人に介入できる場面というのは、本当にごく限られたもので、よほどの実績と筋合いと、さらに相手の同意とがなければ成り立たないものです。

(参考)→「自他の壁を越える「筋合いはない」

 
 野球では“超”がつく実績があるイチロー選手ですが、実は、マリナーズでは孤立して、最後は逃れるように移籍していったことがありました。どうやら、ストイックな態度がチームメイトから反発を買ってしてしまったようです。

 

 サッカーの元日本代表で、かつてローマなどで活躍した中田英寿選手がいましたが、ドイツワールドカップの日本チームの中では、海外の経験からこうするべきと主張するものの軋轢を生み、孤立してしまったようです。

 

 あれだけの選手でも、チームメイトの同意、つまり、相手の領域を尊重するといったことがなければ、その話(意見)を真に受けてもらうことはできない、ということです。

 

 実績で劣る選手でも同じプロ同士、「イチロー選手のご意見であればなんでも承ります」とはならないものです。

 

 自他の区別が厳然として存在していて、
 そこで人に何かを云うためには、資格、実績が必要。
 さらに、すごい実績があったとしても、相手の領域を尊重することがなければ(関係性ができなければ)、耳を傾けてもらえなくて当然。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 つまり、人間は、そもそも人の意見などは聞く筋合いはない、というところからスタートしているということです。相手がいくら偉い人でも、自他の区別の境界は絶対です。境界を明け渡すことはありません。

(参考)→「他者の領域に関わる資格、権限がない以上、人間の言葉はやっぱり戯れでしかない。

 

 これは会社の中であっても同様です。社長でも実績がなければ部下は言うことを聞かないのですから。
 

 かろうじて耳を傾けるとしても、せいぜい話半分で受け入れる、ということが人間にとっては健康なスタイルだ、と言えそうです。

 

 イチロー選手や中田選手の言うことでさえチームメイトは耳を傾けなかったのに、なぜ、私たちは、はるかに実績の劣る親や友達の言葉(おかしな理屈)を真に受けなければならないのでしょうか?
 

 

 しかし、ローカルルールとは、恐怖や不安とかなり変な理屈とで、こうした手続きを壊して、全権を委任したかのように、「すべての言葉を真に受けろ」という形にしてしまいます。

 

 変な理屈とは、「親子だから」「上司と部下だから」「あなたはおかしいから」とか、冷静に見れば、なんの根拠にもならないような因縁のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そして、いつの間にか言葉をやたらと真に受け重んじるような「言葉」偏重の状態、さらには言葉=現実としてしまうのです。

 

 

 

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「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 人に対するイライラで、頭がぐるぐるすることがあります。

 「もっとこうするべきでしょ!」とか、
 「本来は、~~であるはず!」とか、

 その「理屈」は、自分の中では完璧で、それが通らない相手は極端に言えば人間として認められない、くらいに相手を否定したくなります。

 

 さらに、「理屈」を重ね、頭の中でシミュレーションを走らせてしまいます。

 

 でも、いくらそうしても、イライラはさらに増すばかりで解消されることがありません。

 

 実際に、相手に怒りをぶつける場合もあります。
 説教のようにくどくどと相手に「理屈」を伝えますが、イライラはエスカレートしていきます。

 

 さらに、相手はそれで「理屈」を理解して、同じ行動を取らないのか、といえばそうではなく、逆にまた同じくこちらの神経を逆なでするようなことをする。

 「同じ行動をするなんて、どういうこと!?」とまたイライラして怒りをぶつける。
 
 
 こういう繰り返しに陥っている、というケースはよくあります。

 

 

 いくら「理屈」を展開して、相手をねじ伏せようとしても、相手に伝わることはありません。

 なぜなら、その「理屈」はイライラしている本人のものではないから。

 ほとんどの場合は、自分の両親や生まれてきた中で出会った他者の価値観を内面化(直訳)したもので、自分のものではありません。

 目の前の刺激をきっかけに解離して、「理屈」の世界に頭が持っていかれている状態。

 イライラ自身も、生育歴で得たストレスの投影なので、実は現在のものではなく、過去からくるイライラだったりする。

 そのため、イライラされている相手も、無意識にそのことをキャッチしていますから、

 「イライラされていて怖いけど、よくみたらそれは自分の責任ではないし・・」と感じています。

 

 

 展開される「理屈」も
 
 「正しそうに見えるけど、状況にマッチしていないし、言っている本人のものになっていないし・・」と直感しているのです。

 だから、イライラと「理屈」をぶつけられても、行動を変化させる謂れはないのです。

 

 

 イライラしている本人は、実は、生育歴で得たストレスと、親などのローカルルール(「理屈」)に巻き込まれていて、自他の区別を失っている状態です。

 本人は全くの正論を展開しているように見えて、実はそれは自分のものではなく、状況にマッチしたものではなかった。

 「理屈」を考えれば考えるほど、自他の区別を失い、自分の感情と価値観で生きることからは離れていってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 さらに、「理屈」で頭が持っていかれて自他の区別を失っていると、他人が展開した「理屈」(ローカルルール)にも巻き込まれやすくなります。  

 不全感を解消するために他者に因縁(「理屈」)をつけて、その「理屈」の世界でごちゃごちゃとやり取りするようなことに慣れてしまう。
 

 「理屈」で考えることが当たり前になりますから、「物理的な現実」からも離れやすくなる。ありのままにある現実に立脚することが自然とできなくなるのです。  
(参考)→「“作られた現実”を分解する。」 

 

 「物理的な現実」としての自分ではなく、「理屈」で作られて自分で生きることになるため、他人が作ったイメージや評価、言葉にも振り回されやすくなります。

 
 まさに、ブッダが悩みの原因とした「執着」の世界です。 
 
 

 

 こうした状況から逃れ、自他の区別をつけ、ローカルルールではなく、物理的な現実の世界に立ち戻るためにはどうしたらいいのか?

 それが、前回お伝えした「理屈」をつけず「感情」をそのまま感じるトレーニングです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 「理屈」は被せずに、ただ、自分の感情を感じて、それを表現する。

 それをずっと繰り返します。

 すると、自分がいかに自分のものではないものに支配されてきたかが、明確になってきます。

 徐々に自他の区別がついてくる。

 「理屈」に頭が持っていかれて、ぐるぐるとすることが減ってきます。

 

 

 さらにパート2の応用編としては、

 「認知」と「思考」とを切り離すということも行っていきます。

 たとえば、

 道を歩いていたときに、気になる人がいて、「なんだ、変な人だな」と思う状況があったとしたら、

 意識して、「認知」と「思考」を分けます。

 「男性が歩いているのを見た」(認知)

 「なんだか変な人だな、と思った」(思考)

 というふうに。

 

 別の例では、

 信号が赤になって、「しまった!信号に捕まった」と思う状況に出会ったら、

 「目の前の信号が赤になった」(認知)

 「しまった!と思った」(思考)

 というふうに。

 これを繰り返して、 「認知」と「思考」を分けていくと、漫然と自他の区別なく、環境に巻き込まれるようになっていたことがなくなり、自分の認知や感情が明確になってきます。

 

 「そういえば、このせっかちさは、父に怒られたからだな。」「父はせっかちで、いつも車の運転で赤信号になったら舌打ちしていたな」といったことに気がついたりもします。

 「あっ!自分の考えと思っていたものは、父の価値観だったんだ?!」と気がつくようにもなってくるのです。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 さらにローカルルールの影響から離れ、自他の区別が明確になってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 目の前に起きたことは、偶然なのか、なにか本質を指しているのか?

 もっというと人生で起きたことは偶然なのか、自分のせいなのか?

 通常、私たちは本質そのものを捉えることはできません。

 TVの視聴率でも、1億人に聞くことはできないため、300世帯で計測されている。

 これはサンプル調査であり、推測統計と呼ばれる技術で全体像を明らかにしています。
 

 

 目の前で起きたことは、あくまで事象(サンプル)で、それが背後にある母集団を表している場合もあれば、そうでない場合もあります。
 
 調査というのは偶然の可能性もあり、視聴率調査でもおそらく1%くらいの確率で「偶然でした(実態とは違いました)」ということがありえます。

 

 
 自分にとって良くないことが起きると、たちまち「自分はだめだ」と断罪したり、されがちですが、それは本当なのか。

 

 「事実」とはなにか?

 

 以前の記事でも、「事実」というのは環境や人によって作られるものだ、ということをお伝えしてきました。

(参考)→「“作られた現実”を分解する。

 

 
 作られた事実に縛られることがトラウマやローカルルールです。

 明らかにおかしなことであればはねのけられますが、
 ローカルルールは、「事実」を悪用します。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 今回は、トラウマ、ローカルルールから自由になるためにも、事実とは何かを、更に詳しく見てみたいと思います。
 

 そのために、手続きが厳密だとされる学術的な調査を例に取り上げてみたいと思います。
 

 

 さて、
 学術調査などで、統計を用いる際、どのようにして得られた結果が「事実」と判断しているのでしょうか。

 例えば、質問紙を用いた調査の場合の手続きを簡単に説明しますと、

 1.調査の設計の段階で調査の対象や、実施の方法をかなり綿密に計画します。質問の配置や調査の際の教示の仕方も、正しく回答が得られるようにできるかぎり練ります。 

 

 2.調査の結果、回収された質問紙に対して、「検票」という作業を行います。明らかにいい加減な回答、おかしな回答がないかを、人間の目でチェックします。

 

 3.検票が終わったら入力作業を行います。その際も間違いがないかダブルチェックを行います。
    

 4.さらに、入力したデータについて「クリーニング」を実施。どの程度までの回答が有効とするかをデータ上でチェックします。例えば、普通であれば同時につくはずのない回答に○がある場合は「いい加減な回答」として除外します。虚偽尺度として最初からそうした設問が設定されている場合もあります。同じ回答が多いものも除外することがあります。

 ここまでで回答の1~2割くらいが除外されます。

 

 5.それからデータにラベルを付けて、分析するためのデータが整います。
   次に、「仮説検定」を行います。仮説検定とは、調査したいことが「偶然に起きたことではない」ことをチェックする作業です。

   調査とは、目の前に起きている現象をもとに母集団(調べたいこと)を推定していくものですが、目の前に起きた現象が偶然であることも実は珍しくありません。そのために、仮説検定(偶然ではないことを確認すること)でチェックを行います。偶然ではないらしい」と判断されると本格的な分析に入ることになります。

   ただし、仮説検定を通っても、1~5%は偶然である可能性は残ります。

 

 6.いよいよ分析に入ります。
   統計解析を用いると、結果がすぐに出ると思うかもしれませんが、100~200個分析して、ようやく1つ意味のある結果が出るか出ないか、ということも珍しくありません。思っている以上に、分析結果とは、平凡で、取り上げる必要もないような結果ばかりが出てきます。

 

 7.なんとかひねり出してひねり出して、ようやく意味がありそうな結果を見つけることができます。ただ、それでもあくまで「ある仮説」というレベルです。

 

 つまり、起きた事象は、ここまでしてようやく「とりあえず事実らしい」といっていいレベルになるのです。

 ある一定のサンプル数(最低100サンプルはほしい)を確保して、かつ、これだけの手続きが必要になる。
 
 根気よく好きでなければできない面倒な手続きです。
( 多くの人は、勉強や研究がここで嫌いになるところでしょう)

 

 

  
 ただ、そうやって手続きを踏んだ研究結果でさえ、追試をするとだいたい6割くらいは再現できないことがわかるようになり、最近問題になっています。
 (米科学誌「サイエンス」が主要な学術誌に掲載された心理学と社会科学の100本の論文が再現できるかどうかを検証したところ、結果は衝撃的で、同じ結果が得られたのはわずか4割弱にとどまったとしています。

 関連:クリス・チェインバーズ 「心理学の7つの大罪――真の科学であるために私たちがすべきこと」(みすず書房))

 

 

 STAP細胞など、捏造が問題になりましたが、科学的な手続きを経れば自動的に事実が明らかになるのではなく、かなり人間の営みや意思が介在しています。捏造をした研究者たちももともと悪者というよりも競争や研究費を獲得するための焦りなど、いろいろな都合がまぜこぜになって違反を犯してしまうようです。
 (福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、科学者たちの人間臭いやりとりが紹介されています。)

 

 

 さて、ここまでお話をしたように、「事実」というものが私たちが思っている以上に厳密な手続きを経てようやくできるものです。

 

 上のような科学的な手続きを踏んだとしても何割かの「事実」はかなり怪しいものであるということですから、私たちの身の回りで私たちを評価するようなこと、私たちが何者かを示す事柄のほとんどは再現のできない「偶然」でしかありません。
 人の発言なんていい加減の極み。手続きを踏まないものはそのはるか以前の戯言レベルでしか無い、ということです。

 

 

 私たちは、ミスや失敗など、自分にとってマイナスになるような出来事が起き、それを他者が取り上げて、私たちを裁いたり、レッテルをはったりするようなことで苦しんでいます。
 それを別名ローカルルールといいますが、結局は「偶然」をとりあげて相手を支配しようとしているだけ。

 

 「あなたって、だめな人ね」というような他人の言葉はすべて戯言で、おそらく、統計を取れば、検票や虚偽尺度の段階で落とされるレベルのことでしかなかった。

 

 
 単に、「偶然だし、戯言だから気にしなくていいよ」というのは、勇気づけレベルにしか聞こえませんが、実際、学術的な手続きを踏んでもなかなか事実はわからない。
   

 

 自分に都合が悪いことが、立て続けに起きたとしてもそれはほとんど偶然でしか無い。
 

 「いや、そんなことはない」「自分はだめな人間で、その証明として都合が悪いことが起きてきた」
 「現実から目をそらすのではなく、客観的な事実を見て、向き合わなければ、おかしな人間になってしまう」

 と思うかもしれませんが、上にも書きましたように、その出来事を仮説検定にでもかければ帰無仮説(偶然)とされてしまうレベルです。

 仮にそれが通ったとしても、今度は再現できないからやっぱり事実ではない、となってしまう程度でしかありません。

 

 

 筆者が最近たまたま、Youtubeで見たある経営者の講演の内容で印象に残ったことがあります。

 それは、麻雀にたとえての内容だったのですが、
 
 「麻雀では、4人で卓を囲むので、平均して2割5分、強い人でもだいたい3割程度前後の割合でしか勝てないようになっている」
 「ただ、なぜか4回連続で最下位になることもある。そのときに、皆、精神を崩す。(単なる偶然なのに)自分のやり方はなにか間違っているのではないか、自分のおかしいところは何が原因なのか、見直さなければならないのではないかと不安になってブレる。そこでブレてはいけない。反対に4回連続でトップになることもある。そのときに調子に乗ってもいけない」といった内容でした。

 

 

 私たちも、普段「自分のおかしいところは何が原因なのか」と考えさせられているが、それは本当に事実に基づいているのか?
  

 ローカルルールというのは、たった1回の失敗でも取り上げて、「ほら、だからあなたはだめな人間だ(だから私に従いなさい)」とやってくるわけですが、これがいかに嘘であるか。

 「いやいや、ローカルルール人格だったとしても、私はそれ以外にも失敗しています」と思うのも、ローカルルールの影響です。

 経営者の発言でもあるように、4回連続の最下位もザラにある。

 

 

 私たちは、原因帰属を間違える生き物。

 繰り返しになりますが、科学の世界でも、起きた現象から事実を確定することはかなり難しく、査読を通った論文でも、あとからチェックしたら、
 4割が再現できないくらいなのですから(つまり事実ではなかった)、
 
 果たして、私たちの身の回りにいる人達が、1,2の事象を取り上げて、私たちを評価して、断定していることがどれほど怪しいか言うまでもありません。

 「事実は作られる」「人間の言葉は全ては戯言である」というのは、こうした点からもわかります。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない」「“作られた現実”を分解する。

 

 

ローカルルールとは、まさにエセ科学。

 

 

 自尊心が機能している人は、「私は大丈夫」として否定的な事象を深刻に受け止めません。気の強い人なら失礼なことを人から言われたり、弱点を指摘されても「何よ!!ふん!」としてはねつける。

 一見、独りよがりだと見えるかもしれませんが、目の前の事象や“作られた事実”に惑わされずフィルタを掛けて偽りの事象から身を守っており、結果として“科学的な”態度と親和性がある。

 

 自尊心があることで、それがフィルタとなり、事実を検定(チェック)することになる。その結果、物理的な現実に根ざすことができたり、普遍的な何かを感じることができるようになるのです。

(参考)→「自尊心の機能不全

 

 反対に、ローカルルールにとらわれて、自尊心が機能不全に陥っていると自分を否定する事象が続いただけで、「受け止めなければ」「自分はだめなのでは」と捉えて、過剰な客観性、偽の誠実さに陥り、ブレて、まどって、作られた事実に振り回されてさらにローカルルールにとらわれていてしまうのです。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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