これまでの記事でも触れてきました愛着的世界観とは、どういったものでしょうか。
愛着的とは、自分を取り巻く環境については、「安心安全である」ということを土台としています。
その上で人間については、「弱く、不完全である」という価値観をもっています。
自分は弱く、不完全であるが、ある人々は強く、完全だ、ということではありません。
「人間」というのは、貴族であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、大企業のトップであろうが、金メダリストであろうが、高僧であろうが関係なく、すべての人間ということです。
このブログでも触れてきましたように、まさに「落語の世界観」ということです。
すべての人が、だらしなく、いい加減で、弱い、ということです。
人間の理性には限界があって、すべての人は感情や欲、見栄といったもので動いている、と考えます。
もちろん、ときに崇高さや、ヒロイックな行動を人間は取るわけですが、それもあくまで感情や欲を消化(昇華)した先にあるものと考えます。
粋(いき)といった概念はそうしたものに近いかもしれません。頭ではなく、身体から発せられたような感覚です。
この人間の弱さ、不完全さ、とは、前回の記事でも触れましたようにDoing(行動)レベルのことです。
存在レベル(Being)は、等身大で、環境の安心安全(愛着)によって守られている領域です。
そのため、愛着的世界観の中では、「自分は罪深い」とか「根本的におかしい」といったわけのわからない自信のなさ、や罪悪感といった感覚は基本的にありません。
意思やエネルギーは有限であり、欲が満たされれば飽きる、やりすぎれば疲れる、人に対しては、人は皆それぞれ違う、合わないなら仕方がない、合わないことは自分の存在とは関係しない、といった感覚。
(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”」
行動レベル(Doing)と存在レベル(Being)とは分離しています。
「善悪、正邪、無限」ではなく、「差異、弱さ、有限」といったさっぱりした感覚。
理不尽さに出会っても、それは、人の邪悪さからではなく、人の弱さ、違いからのものだと捉えます。
勉強や仕事においても、物理的な世界への信頼があり、着実に取組めば答えはあるだろうし、なんとかなるという感覚があります。
もちろん、交渉や競争など相手があることについては、平均的な勝率+αを普通とします。
(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」「物理的な現実への信頼」
人間というのは弱く、不完全である、という人間観が「すべて」の人に及ぶため、人からの言葉や攻撃というものが、自分の存在レベル(Being)に及ぶことがありません。そのような筋合いや権限は誰にもないからです。
つまり、行動レベル(Doing)で、人間は弱く不完全なもの、とする人間観によって、存在レベル(Being)の安全も保たれるのです。
具体的には、「安心安全」を土台として、等身大の人間観、世界観を育んでいく、そして、社会の中で位置と役割を獲得していくことで、通常は確立されていきます。
その中では、「愛着」や「仕事」の役割は大きく、成長の段階で踏み外すとなかなか大変なことになります。
自分だけでなせるものではなく、家族や社会の役割、サポートの必要性はとても大きなものです。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
以前ご紹介した、社会学者のマックス・ウェーバーの予定説をもとにしたテーゼは、こうした愛着的世界観のプロテスタント版と言えるもので、存在レベル(Being)を神様が予定している、とすることで、ニセの責任を免責し、存在レベル(Being)の安全を担保する。
そのことでDoing(行動)レベルでは、しがらみなく力を発揮できる、というものであると考えられます。
(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。」
ローカルルールとは、反対に、人間を強く、完全なものである、とする世界観です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
ローカルルールを作り出した胴元の人が、ルールの創造者としてあたかも完全であるかのように振る舞い、Doing(行動)レベルで不完全であることをBeing(存在)レベルの不完全さの証拠であるとして、目の前の人を裁いて支配する、というものです。
ローカルルールの胴元は感情的で理不尽であり、呪縛をかけられた側は、過度に客観的、理性的になります。感情への嫌悪、恐れがあります。
「善悪、正邪、無限」の一元的な世界です。
呪縛をかけられた側は、存在レベル(Being)の不完全さという呪縛を、Doing(行動)レベルでの完全さで挽回しようとして、どこまでいっても果たすことができずに、さらに呪縛の縄が強く絞まる、という悪循環に陥ります。
(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」
人間が強く、完全なものである、という世界観では、主権は他者に奪われてしまうのです。
愛着的世界観には、「こうあるべき」という思想はありません。
健康に発達する中で感取される現実からくるものだからです。
生物学者が、植物、動物を見るように、人間のそのままを見ている、というものです。
前回の記事でも例としてあげましたように、カラスを見て、その存在(Being)が呪われている、だなんて、誰も思いません。
そのため、カラスの存在(Being)にはなにも問題はありません。
しかし、カラスは完全な生き物であるわけではもちろんなく、習性や行動(Doing)は、弱く不完全なものです。
(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」
人間も同様で、その存在(Being)が呪われているものなど、一人もいません。しかし、行動(Doing)は不完全で、弱いものだ、ということになります。
弱く不完全なものだという観点からは、誰も他者の存在を云々する権限はなく、たしかな自他の区別があります。
もちろん、その発する言葉も不完全なものですから、戯言として流すことができます。
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