哲学者カントは、Doingの限界とBeing の限界のなさを論理的に証明してみせた

 

 今まで、Doing とBeingを分けること、Doing は不完全でみんなおかしいけど、Being は完全で大丈夫なんだよ、ということをお伝えさせていただいてきました。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 実は、そのことを論理的に証明した哲学者がいました。それが、イマニュエル・カントです。

 カントは「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」などを記した哲学者です。

誰でも、名前は聞いたことがあるかと思います。

 

 

 哲学って何か?といえば、宗教に代わって神の存在証明を試みたり、人間は真理を知ることができるか(人間の認知の仕組みとは)? といったことを考える学問のことです。

 その中でもカントは、人間のDoingって完全なのか?ということを検討した人です。

 理性批判とはそいう意味です(理性≒Doing、批判≒吟味、検討する)。

 

 

 結論から言えば、「Doingは不完全でした」ということがわかりました。
 私たちの実感からすれば当たり前ですが、そこを論理的に証明してみせたわけです。 

 

 

 ただ、Doing がダメなら、人間は真理も何もわからず、グダグダなのか?となってしまいます。

 しかし、カントはDoing とBeing を分けて、Doingには限界があるけど、Being には限界はないよ、といったのです。

 

 

 近代に向かっていく上で、この証明はとても重要でした。
この裏付けがあることが、近代の社会を作る上での土台となったのです。

 Doingの不完全さと、Beingの限界のなさがあることで、Doingに集中できて、どんどんトライアンドエラーができる。
 
 失敗しても、それはBeingには影響しない。Doing と Being とが切り離された。まさに近代的なアグレッシブさを支えています。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 トラウマを負っていると、カントの言っていることの全く逆になります。

 自分のBeing は限界があるように感じて、一方で、Doingの完璧を求めてファインプレーを目指してガムシャラになって、自分を責めたり、他人にも憤る。
  
 そして、Doing とBeing は癒着して、不完全なDoingをみて、「ああ、自分はなんておかしな存在なんだ」と絶望してしまう。他者の中に幻想を見て支配されてしまいます。

(参考)→「Doingは誰しも、もれなく、おかしい

 

 

 カントは、さらに、限界のないBeingがDoingへと反映するためにどうすればいいか?ということも考えてくれています。

 それが、カントの有名な言葉で「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」というものです。

 定言命法と呼ばれるものです。

 簡単に言えば、「ローカルルールではなく、普遍的でパブリックなルールに沿って行動しろ」ということです。※

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 もっと意訳すると、パブリックなルールに沿うと人間は機能する。限界のないBeing が Doing にも現れるようになる(代表される)、というわけです。

 

 以前も書かせていただきましたが、人間はプライベートな空間では容易におかしくなります。反対にパブリックな空間では機能する存在です。
 人間とは社会的な動物で、社会を何かをそれぞれに代表する時、はじめて人として十全に生きていることを実感できるのです。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

※注:「ローカルルール」がなぜ「“ローカル”ルール」というのか? 

 「ブラックルール」でも、「ハラスメントルール」でもよさそうですが、特に「ローカル」とついているのは、「普遍的なルール」の反対ということです。ブラックルールとしていると、ローカルルールであっても一見まともなもの、良さそうなものは「良いルール」とされてしまいます。その場面で、ある人の都合ででっち上げたローカルなルールらしきものは、普遍的なもの(普遍的立法の原理)を代表しておらず、それ自体が他者に悪い影響がある、ということです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 前回、魔術的なものの介在する感覚が、私たちを苦しめる、ということを取り上げました。

(参考)→「目に見えないもの、魔術的なものの介在を排除する」 

 

 なにやらわけのわからないもので、私たちの存在が規定されるような感じ、結果が左右される感覚が私たちを生きづらくしてしまう、というものです。

 A をすれば Bになる、ということが当たり前ではない、予測できない、というものほど不安にさせるものはありません。

 この間の訳のわからないものを「魔術的なもの」と表現しています。

 一番、魔術的なものの介在を感じるのが、人間関係です。

 

 

 人というのは思ったとおりに動きません。いろんなタイプの人がいる。しかも解離します。突然分けのわからないことを言ったりするし、失礼なことを言ってきたりもする。

(参考)→「あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 睡眠や栄養、運動が不足するとてきめんにおかしくなります。
 子どもがわけがわからなくなるのも、眠い時、お腹が空いたときですが、成人も同様です。
 さらに、そこに自己不全感も影響しますから、人間がまともである時間は思っているよりも少ない。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 内的にも外的にも環境が安定している状態を、「愛着が安定している」あるいは、「機能している」といいます。
 そうした家庭で育てば、人間関係についても、A をすれば Bとなる、ということを感じやすくなります。 相手の反応を予測しやすい。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 そこで「基礎」を身につけた後であれば、おかしな行動という「例外」も認識しやすくなります。

 
 学校などで、友達の態度が突然おかしくなる、急に無視される、というようなことについても、ショックは受けますが、「基礎」に対する、「例外」としてとらえることができます。

 やがて、「ああ、人間っていうのはおかしくなるものなのだ(「基礎」+「例外」で成り立っている)」というように学習することができる。

 
 「基礎」を学んだ上での「例外」は、「基礎」によって統制されたものであるために、「例外」でさえも、予測できるかのような安心感があるのです。

 

 

 中学、高校、大学と進むと、さらに嫉妬とか、上下関係とか、もっと難しい人間の心の機微への対応が生じてきます。
 しかし、それらは「応用」としてとらえることができます。
 難しい人間関係についても、身を守ったり、人間関係を落ち着かせるために必要な「礼儀」「社交辞令」も身体で覚えていくことができます。

 「基礎」+「例外」、そして「応用」と、あくまで外的な問題を学ぶ感覚で人間関係を学ぶことができます。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く」 

 

 
 一方、不安定な環境ではこうはなりません。
 不安定な環境とは、夫婦・家族の不和、過干渉な家族、反対にネグレクト傾向の家族、一貫性のない家族、学校でのいじめなどなど。

 相手の対応が不安定なので、A をすれば Bとなるとは感じられない。A をすれば C にもなり、Yにもなる。
 いきなり「例外」 からスタートです。

 

 なぜ、A が B になり、 Yにもなるのかを理解するために自分なりの法則を当てはめようとします。それが例えば、「自分がいい子じゃないから」というもの。

 

 「自分がいい子じゃないから」といったものを介在させると、一応「例外」を説明できたように感じますから、そのときは落ち着きます。
 「ニセの基礎」を自分でこしらたということです。どうとでも解釈できて結果を統制できない「魔術的なもの」です。

 

 それはあくまで「ニセの基礎」にすぎません。
 ニセモノだから、「応用」に進んだときに 全く機能しません。
 
 人間関係が比較的シンプルな小学校のときは友達関係がうまくいっても、中学以降に進むと人間関係につまずく人が多いのはこのためです。

 本当の「基礎」がないために、複雑な「応用」になってくると予測と対処ができないのです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」 
  

 

 そして、「ニセの基礎」とは、結局、「自分が悪い」と考えることで成り立っているものなので、「例外」「応用」に直面しても、すべて、「自分のせいだ」で対処しようとしますから事実をそのままに見ることができません。
 結果として、さらなるハラスメントを呼び込むことになります。

 

 「礼儀」や「社交辞令」についても体得できておらず、自信がありません。
 むしろ、過剰にへりくだったりしてしまいます。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・」 

 「形ではなく本音で人と付き合う」を理想にしていたりもしますから、どこか「礼儀」をニセモノとして軽視している場合もあります。
 結果として、自分を守ることもできず、人間関係を安定させる形式も自分のものとすることができずに、どうしていいかわからなくなってくる。
(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ」 

 
 

 やがて、人がモンスターのように怖くなってきます。
 

 なにやら「自分はおかしなものを引き寄せやすい」とか、「そもそも、嫌われやすい」と言った具合に、目の前の現象を説明するために、さらに魔術的な考えにとらわれることになります。
 

 親などからの養育環境で入った暗示が入っているとさらに厄介で、「ほら、やっぱりあなたはおかしい」となって、暗示も強化される、という構造になっているわけです。

 

 

 
 ネガティブな自己イメージからポジティブな自己イメージへ、というように、解決策にも魔術的なものを求めてしまいます。
 (そういうことで“夢”を売って商売している人も世の中にはたくさんいるのです)

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する」 

 次から次へと本を読んでは失望する。セミナーを受けては実行できず、自分を責めて、がっかりする、といったことになってしまうのです。

 そうしたものから逃れるためには、本当の「基礎」に立ち返る、Being とDoing を切り離す。そして、物理や現実が一番自分を守ってくれます。
(参考)→「言葉は物理に影響を及ぼさない。」 

 

 

 

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コロナ禍に見る「自分の感覚」とトラマティックな感覚

 

 悩みから抜け出すためには、自分の感覚を感じる、ということはとても大切です。

フォーカシングとか、マインドフルネスなどそのための心理療法があるくらいです。 

 

 たとえば、「他人の言葉」というものがあります。

 他人の言葉で「あなたはこんな人ね」といわれても、「自分の感覚」を感じることができれば、それに対して、「自分の感覚」が違和感を伝えてきますから、「いや、違うと思う」と言えます。

 でも、多くの場合それができないのは、「自分の感覚を感じる」ことができていないためです。

 もっと言えば、自分の感覚を疑わされてしまっている。感じることを曖昧で下等なものだとしてしまっている。

 
 
 私たちの土台として大切とされる、「愛着(アタッチメント)」というものは、まさにこの自分の感覚を形成するための核となるもので、親と子供との間で、感覚を確認、承認するやり取りを身体レベルで行うものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「自分の感覚」が信頼できなければ、身体ではなく、思考という不安定な道具で対処しなくてはならず、他人からの影響に左右されてしまいます。

 

 

 

 今はまだ新型コロナウイルスで大変な時期ですが、例えば新型コロナウイルスを材料として、「自分の感覚」とはなにか?について考えてみたいと思います。

 

 新型コロナウイルスのリスクをどう評価するか? どこまで恐れるのか? というのは、まず科学的な知見があり、そして次に個人の感覚があります。

 個人の感覚には個人差があります。個人差は単に感覚の差、というだけではなく、年齢や既往症の有無などでの実際的なリスク差もあります。

 TVやインターネットからの情報などを私たちは浴びるように受けています。
  

 そうした情報と「自分の感覚」とをあわせて、「まあ、こんなものかな」とそれぞれリスクを判断しています。

 

 病気を持っている、あるいは高齢なために家でじっとしている、という方もいらっしゃるかと思いますが、筆者の周りでしたら、街でもマスクをしながら普通に買い物したり、食事をしている方が多いように感じます。

 政府からは外出は控えるように、といわれていますが、出張や旅行に行く方もいらっしゃいます(その是非はともかく)。

 
 日本で「まあ、こんなものかな」と感じさせているものこそ、山中教授などが言うファクターX なのかもしれません。

不謹慎と批判されましたが、首相や大臣までもが「会食しても、まあ大丈夫だろう」とおもうのも、肌感覚だと言えます(その是非は、さらにともかく)。

 

 

 それに対して、「気の緩みだ」という意見もあります。

 ただ、カウンセラーからすると、各人が「肌感覚(自分の感覚)」で適切に判断しているのだろう、と感じます。
 

  ※適切というのは100%正しいという意味ではなく、生きる上で「それなりに正しい(妥当だ)」という意味です。

 

 こうした肌感覚でのリスク判断や感覚を「常識」と呼ぶのだと思います。

 「常識」とは、科学的な知見そのものではありません。「理想」でもありません。専門的な知識も参考にしますが、生活での感覚など実際的なもので掛け算して出された生きる上でムリのない総合判断です。
 ですから、多くの場合は極端にならず、中庸なものに落ち着きます。

 医療関係者からすれば、「そんな常識では困る。もっと対策を」ということかもしれませんが、多くの人は自分の身体、肌感覚でリスクを判断して、マスクや手洗いなど対策をしながら、それぞれに適度に経済活動、消費活動をしながら、日常を過ごしている、というのが実際のところではないかと思います。
 実際に、今年はインフルエンザは例年の何万分の1レベルの発生状況だそうで、「常識」「肌感覚」で動いていても、かなりの効果が伺えます。

 残念ながら、「肌感覚」以上のことは人間は長くは続けることはできなさそうです。

 ※筆者も、春頃には、知人に「スーパーで買ってきたものも除菌したほうがいいみたいよ」みたいなことを伝えたら、「確かに頭では理屈はわかるが、今でも対策しているのに、もうこれ以上の対策は疲れて、難しいよ・・・」と言われて、そうだよなぁ・・と感じたことがあります。

 やりすぎると疲れる、無理は続かない、というのも「常識」「肌感覚」の特徴です。
 (やりすぎる、疲れないというのは、依存症の特徴です。)

 

 

 

 新型コロナウイルスに限らず、私たちの人生はリスクだらけですが、ほとんどのことはこのように「まあこんなものかな」「最悪のことが起きても仕方がない」と、ある意味鷹揚に構えているものです。

 医学的に見て完全に健康な生活をしているわけでもありません。タバコ・お酒はもちろん、甘いものもたくさん食べるし、ある程度身体を犠牲にしても自分が求める何かを獲得しに行くこともある。

 車の運転も事故の可能性を考えればとんでもないリスクですが、毎日仕事や日常生活で使っています。

 
 地球の反対側に飢えている子供がいても、私たちは直接救に行くことはせずに、罪悪感もなく楽しんで生活しています。
 自分の仕事、経済活動をそれぞれしながら、余力のあるときに関心を向けたり、専門家に対策を託したりしながら、自分として社会の中でわずかながらも貢献している、という実感を持っています。
 (「いつも、飢えている子供のことが頭から離れません」となっていると、お医者さんからも、「うつか不安障害かもしれませんね」と言われてしまうでしょう。)
 

 この感覚は健康で健全な感覚です。

 トラウマを克服した先にあるのはこうした感覚です。

 

 

 一方、トラウマを負うと、そうはなりません。

 「肌感覚なんていっていて、リスクを見落とすかも?!」とか、「昔から自分は独りよがりに考えて失敗して怒られてきたから、自分の感覚、肌感覚なんて信用できない」という気持ちが湧いたりする。
 

 誰かから「お前はおかしい」とツッコまれる不安にも苛まれている。
ヒステリックな大人から怒られるようなイメージがある。罪悪感も感じている。

 例えば、「医療体制が逼迫しているのに、のんびりしているとはどういうことだ!!」と怒られるような恐れ、不安を感じてしまう。

 ※「火垂るの墓」というジブリの映画で、主人公の兄妹がピアノを弾いていると、身を寄せた先の親戚のおばさんに、「よしなさい!」と怒られる場面がありますが、まさにあんな感じですね。
  おばさんはローカルルールで意地悪しているのですが、「戦況が逼迫している中、皆、お国のために働いているのに、あなた達は!」ともっともなことを言っています。

 

 それがさらに強くなると、「私ってわかってなかったのかしら?自分はおかしいのかしら?!」と自分の感覚を疑いだして、頭で考えるようになってしまう。
あるいは、「もっと、人の気持ちを考えなきゃ」と人の心の中を想像して覗き込もうとしてしまう。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 頭で考えると、過去の不全感が疼いて、自分の感覚を我慢しているフラストレーションがたまり、マスクしていない人や、飲食店でのんきな若者を見ると怒りが湧いてきたりしてしまう。
 インターネットで自粛していない飲食店の名前を書き込んだり、、、みたいなことをしてしまう(これはローカルルール人格へのスイッチです)。
  

背景には、非愛着的世界観も潜んでいます。世の中はひどい人ばかりで、自分は脅かされている、という不安感です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 

 トラウマというのは、近代に入り惨事や戦争で注目されるようになったものですが、新型コロナウイルスが起こしている情勢というのは、まさにトラウマティックといって良いと思います。

 そうした状況であるからこそ、反対に本来の自分の感覚とはなにか?がわかりやすい。

 

 戦時中に、不謹慎とされても、パーマやおしゃれを楽しもうとしていた人がいたそうですが、「おしゃれをしたい」という感覚は自分の感覚といえそうです。
反対に、「戦時中だから、押し殺して我慢をするべきだ」というのは、どちらかというとトラウマティックな感覚です。

 

 昔、「白洲次郎」というNHKのドラマがありましたが、その中で、白洲次郎が召集令状が来たのを拒否して、裏から手を回して徴兵を逃れます。
 それに対して「多くの国民が高潔な魂を胸に戦地に赴いている。恥ずかしいと思いませんか?」と非難されますが、白洲は「それは自分の役割ではありません」といい、自分の信念を貫きます。
 後日、そのことを、刑務所から出てきた吉田茂に報告した際に、白洲次郎は徴兵を逃れた自分の判断への後悔、迷いを見せます。
 そのときに、吉田茂に「自分の決断に自信を持てよ!」と励まされて、「はい!」と気を取り直す、というシーンがあります。
 法的にも、道義的にも当時、徴兵から逃れるというのは良くないとされたことですが、その結果、生き残り、戦後のGHQとの交渉などで白洲次郎は大活躍をすることになります。
 

 

 こうした例も、自分の感覚を感じる、と言えるかもしれません。

 
 

 

 こういうと、「無限定に自分の欲望のままになるのでは?」「なんでもかんでも思い通りではいけないのでは?」という気持ちが湧いてくる。実はこれもトラウマティックな感覚なのですが、でも大丈夫。

 人間は「社会的な動物」ですから、だまっていても社会の常識を代表して生きる存在です。ですから、社会の常識から逸脱しようにも離れることはできない。スマホのような存在。自分の感覚に従えないと、社会を代表できない。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 大事なことは、それが、主権を持った自分の身体を通して、翻訳されて、自分の内側から湧いてくるものか否か、です。反対に、上に挙げたような、「こうするべき」という頭ごなしに、罪悪感とともに湧いてくる感覚は、ニセの常識であり、言い換えればローカルルールのものです。

 これを区別することはとても大事です。
 区別できないことが、生きづらさや、悩みの根幹とも言えます。それは人格構造の機能不全から来ます。

 

 そうしたことから抜け出すために大切なことは、頭でではなく、自分の身体(肌感覚、ガットフィーリング)で判断するということです。
 「自分の感覚」とは、社会の何かを代表して身体に湧いてくるものです。
その際に罪悪感とか義務感といったことは「自分の感覚」を感じる邪魔になります。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 くれぐれも、「他人の目」とか、「こうするべき」という感覚からではありません。それは結局、自分の親とか他者に自分の主権を明け渡すことになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

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イライラ、怒りの背後にある「不安」

 職場や日常生活で人に対してイライラして困る、
 
 なんでこの人はこんなことをするんだろう? と怒りが湧く、

 そして、イライラや怒りを感じている自分にがっかりしたりする。
 

 こうしたお悩みは珍しくありません。

 

 他者に対するイライラや怒りの背景は、実は「不安」であることがあります。

 もともと根底に「不安」があって、人の言動が不安を強くする。

 例えば、仕事のあるプロジェクトでストレスが掛かっている。

 そのときに、「もしかしたら、うまくいかないかも」とメンバーが発言したことに対して、「なんで、悲観的なことを言うんだ!」みたいなことで怒る、イライラする。

 

 そのときになぜ怒るかといえば、もともと自分も「プロジェクトが上手く行かないかも?」という不安があるから。

 そして、「私をこれ以上不安にさせるな!」と怒っているのです。

 でも、不安から怒っているので、相手にはその怒りは伝わりません。
 

 たしかに、怒りの勢いで相手は“萎縮”はするのですが、「実は不安だから八つ当たりしているだけ」ということが伝わり、相手はそのことを無意識に感じて取っています。だから、態度は萎縮しますが、内心はそのメッセージに従えない、ということがおきます。
 だって、原因は自分の言動にはない、ということが相手はわかっていますから。

 

 私たちも人からいらいらや怒りを向けられたときに、態度を萎縮させますが、内心全く納得してないことがありますが、それも相手が不安から怒っているからです。

 

 本来は、「僕も不安なんだ」「不安だけど、頑張ろう!」といったほうが良いのです。そして、ありのままに現実を見ればいい。実際には現実のほうがずっと優しかったりするものです。

 

  
 トラウマを負っていると、根本の部分に安心安全がありません。だから、ベタッとした「不安」が根底にはあります。

 日常生活においても不安がある。
 
 物理的な現実に対する信頼がありません。

 そのため、自分の思考や他人の言動という「空想界」を、現実そのものとしてしまう。

 不安から目をそらすために、自分の思考や他人の言動を自分の思い通りに保とうとする。

 だから、自分が求める安定を壊すような、乱すような言動を他者がするとものすごくイライラしたり、腹をたてるのです。

 
「自分の思い通りに」「自分が求める」というと自分に主体性があるように感じますが、全くの逆です。

 他者の言動、あるいは、根底にある不安に主体性を持っていかれてしまい、自分は右往左往しているだけ。

 
 「なんで?自分の気持ちを察してくれないんだ?! こいつ空気読めないな~!」と相手にイライラしながら、自分の主権を奪われている。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 相手に意識が向くことで、自分の悩みの主因に目が向かなくなる。

 本当の主因は、「不安」であり、それをもたらした過去の逆境体験(ストレス)であるわけです。

 それどころか過去の逆境体験をもたらした家族などについては、その価値観を守ろうとしてしまったり、いびつな愛着を感じていたりする。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 自分のエネルギーを本当の原因にぶつけることはせず、目の前で自分を不安にする人に八つ当たりさせている。
 
 

 もっといえば、不安から、目の前の人を「巻き込もう」としている。
自他の区別が見えなくなり、相手とジトッとした関係になることで、不安を紛らわそうとしている。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 依存症とか、パーソナリティ障害の方と接すると、まとわりつくようなエネルギーを感じることがありますが、まさにあのような感じ。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」 

    →「パーソナリティ障害の正しい理解と克服のための7つのポイント

 

 
 結局このような巻き込むようなジッとりした関わりは、その人の家族が行っていた関わり方だったりします。不安とともにその関わり方も、内面化して引き継いでいる。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響
 

 人に対してイライラしたり、怒りを感じたときは、「自分の不安からでは?」と疑ってみて、チェックしてみるとものすごく良いです。

 ほぼすべてのシーンで、自分の不安が原因であることに気が付きます。
気がつくと、スーッと、イライラが消えていったりします。根底にある「不安」をこそ手当をしないといけない問題ということに目が向くようになるのです。

 

「不安」を健康な性質、水準に戻すことも、自我を確立するためには必須と言えます。

 

 

 

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