ローカルルールとは実は少数派だった。

 

 ローカルルールというのは、人間一般や常識を語りますが、単なる私的情動でしかありません。個人の不全感が常識ルールの殻をかぶって化けているだけです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そのため、社会の何も代表をしていません。

 

 何も代表していないからこそ、目の前の人に「NO」といわないと、それ自体では存続できない、とも言えます。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 私たちが、ローカルルールと接したときに、ローカルルール側は、「自分たちは多数派よ。あなたのほうが変よ」と言ってきますが、実は、ローカルルールとは、まったくの少数派(その人とその仲間、親族など)でしかありません。
 
 対して、「私は~」と自分の考えや感覚でいることは社会の何かを代表しており、その背後には何万人、何十万人もの人たちが存在しています。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 

 特に、家庭や学校、職場といった閉鎖空間では、見かけの多数派に圧倒されて、自分が間違っていると思わされてしまいますが、そうではありません。  
 見かけの多数派に属しようとして自分の意見や感覚を隠してしまうと、代表が機能せずに、自分もローカルルールと同様に少数派に転落してしまいます。

 

 ローカルルールは存続するために、「自己を開示したら、人からひどい目にあう。支配される」という恐怖を私たちに植え付けているともいえます。
  

 その恐怖に基づいて、自分は多数派なのだ、ということを証明しようと努力すればするほど、実は、ローカルルールに合わせることになり、おかしくなっていってしまいます。

 悩みにある人の努力が報われないのはこのためです。 
 やればやるほど、首がしまっていく。
 

 

 見かけの事実と、本当の事実とは異なります。
 見かけの事実は、単に手元のサンプル数が多かったり、声が大きいために、多数派に見えているだけだったりします。ローカルルールのサンプルは歪められたもの(虚偽回答)ですから、代表性がありません。

(参考)→「「事実」とは何か?その2」

 いじめ、ハラスメントがわかりやすいですが、見かけの多数派は、ローカルルールで動いているために代表が機能しておらず少数派でしかなく、自分自身は主権を保っていれば、たとえ1人であったとしても多数派を代表しているという逆説が存在しているのです。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 直感は、「あなたは大丈夫だよ」と告げてくれていることはよくあります。でも、見かけの事実によって、「そんなことはない目の前の“事実”を見ろ」といって打ち消されてしまっているだけで。 

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 見かけの恐れを超えて、「私は~」とログインして社会のクラウドにつながっていれば、徐々にローカルルールは上書きされていきます。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 前回の記事でも見ましたが、人間というのは、クラウド的な生き物です。なにげに生きていても、実は社会を代表している。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 社会を代表するにはいくつか要件があり、その重要なものの一つが「私は~」ということ。

 
 「私は~」とは、自分の考えや感覚を表現、表明することです。なにか言葉を発するときには「私の考え」から始めることです。

 

 アンケート調査でも、「私の考え」で答えることで適切な調査になります。もし、「人からどう思われるかな?」とか、「望ましい回答はどれかな?」とか、「親から怒られない答えはどれかな?」といった感覚で回答をすれば、適切な調査にはなりません(評価懸念をもって回答しており、サンプルにならない)。

 

 自分の回答は、何十万人、何百万という世の人たちを代表しています。アンケート調査の例などでもわかるように、私たちは個であり、全であります。

(参考)→「「私は~」というと、社会とつながることができる。」 

 つまり、「私の考え」を表明することで、社会を代表し、社会とつながっています。
 
 

 社会というクラウドの側にとっても、「私」に代表されないと形を表すことができません。
 「私」の側も、社会というクラウドを代表しないと、本当の「私」になることはできない。
 代表が機能しない状態に人間は、「私的領域」という自分でも制御できない有象無象の感情の宝庫で、容易にローカルルールに支配されてしまうからです。

 親の価値観から自立した「私」が、社会を代表することで、「社会人(市民)」になることができるのです。
(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

 「私は~」という言葉は、さながら社会のクラウドへのログインするためのID、パスワードです。

 「私は~」ということで社会というクラウドにログインして、つながることができる。

 トラウマを負った人はしばしば「私」というID、パスワードが奪われてしまっています。

 

 「私は~」と表明すると、つっこまれたり、嫌な思いをするから、と自分の意見は言わずに隠しているのは、まさに、ID、パスワードを他人に差し出しているようなもの。
 あるいは、「私は変だ」「私は間違っている」と思わされて、どこか外に正しい答えがあると思わされているのも同様です。

(参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。

 外に答えなどありません。答えは、(クラウドにつながった)自分の内側にしかない。
(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。」 

 

 ID、パスワードがないために、社会というクラウドにログインすることができず、代わりに家庭内LAN、学校内LAN、社内LAN(ローカルルール)に接続し、親や他者の価値観(私的領域)という歪んだコンテンツをダウンロードさせられて、孤立してしまうのです。
 

 

 「私は~」と意識して使うこと(頭の中や、発言で)で、社会のクラウドにつながることができると、徐々に、ローカルルールが、社会(公的領域)からダウンロードされてくる良質なコンテンツに上書きされていきます。

 

 

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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ローカルルールには、「私」がなく、「私」が苦手

 

 前回までの記事で見ましたように、
(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム」  

 「私」というものを曖昧にすると、他者から干渉されやすくなります。
 人間は社会的な動物ですから、権利の所在が明確なものには干渉することはとても難しく、反対に、所在が曖昧だと、干渉されても抵抗することはなかなかできません。

 そして、「私」を曖昧にすることはローカルルールのありようと似たものになります。

 

 ローカルルールとは、私的情動であるにも関わらず、それが一般的なルール、常識だと騙るということです。

 「私」というものの存在を後ろに隠すことで、社会の中で他者に対する影響力(支配)を持たせようとしているのです。
 
 あたかも生命体かどうかも定かではないウイルスが他の生命体への感染力をもつのと似ています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールは、他者の「私」も消そうとします。

 

 ローカルルールの影響から自分を守ろうとする側も、いつの間にかローカルルールと同じ構造をもつようになってしまうのです。

 

 ローカルルール:     私的情動を隠す  +  ニセの常識、ルールでコーティング

 
 恐れからくる回避・防衛: 私を隠す     +  常識や一般的なルールで防御線を張る

 つまり、わたしたちが無意識に行う回避・防衛もローカルルールに影響された営みである、ということです。

 現実には足場のない、所在の怪しい一般的なルールや常識についての問題になっていますから、権利の所在が曖昧になり、他者から干渉されやすくなります。

 

 おもしろいことに、
 実態としては、単なる私的情動でしかないローカルルールには主体性、「私」というものがありません。

(参考)→「ローカルルールは自分のことは語れない。

 

 一方、公的環境において、自他の区別が明確な言動には、「私」があります。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 「私」を隠せば隠すほど、ローカルルールとは噛み合わせがよくなり、支配されやすくなります。
 
 反対に、「私」を明示すればするほどに、「私」のない状況を利用しているローカルルールにとっては、都合が悪いのです。
 

 トラウマを負っていると、自分が社会、周囲から受け入れてもらうためには、自分を抑えて殺して、周りに合わせなければいけない、と思っていますが、それは全くの逆だ、ということです。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 公的環境とは、健全な愛着を土台に、自他の区別をつけた「私」によって生み出されるものです。

 「私」の範囲、程度がわかっていますから、そこには、無理もないし、わきまえがあり、他者への干渉もない。

 
 反対に、私的領域は、「私的」とついていますが「私」はありません。範囲や程度がわからず、わきまえもなく、帝国のように他者に干渉しないと、生きていくことができません。

 
 ハラスメントを防ぐ公的環境とは、「私」を明示することから生まれてくる、ということを頭においておくだけでも自分を取り巻く環境は変わってきます。
 
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる

 

 私たちは、責任を引き受けなければならない、物事には責任が不可欠だ、と考えています。

 

 
 しかし、これまで見てきましたように、人間が主体的に動くためには、いったんすべての責任がチャラになることが必要になります。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 人間というのは、クラウド的な存在、社会的な動物であるために、何もしていなくても、いろいろな(ニセの)責任が他者から覆いかぶさってくるものです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 ただ、実は責任という概念は、ローカルルールと親和性がとても高い。際限なく広がり、人を支配するものでもあります。

 

 以前の記事でも書きましたが、私たち人間には、責任という概念は必要なく、「役割」さえあればいい。

 役割があれば、人間は機能するものです。

(参考)→「“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 

 前回見た、マックス・ウェーバーの仮説も、責任という観点で言い直せば、そういうことではないかと思います。プロテスタントの場合は、予定説がその機能を果たしてくれていたわけです。

 神様がニセの責任をすべて引き取ってくれて、安全な環境でスポーツマンのようにのびのび自由と主体性を発揮できるわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 
 その一方で、「本当に責任がなくていいの?」と不安もよぎります。

 お金を払ったのに食べ物が出てこない、
 家を頼んだのに作ってくれない、
 電化製品を買ったのに配達されない、では困ります。

 

 責任と、主体性とを改めてどのように考えればよいのでしょうか?

 ウェーバーだとか、小難しいカッコつけたような考えを持ってこなくても、わかりやすい例で見てみたいと思います。

 

 例えば、元首相の田中角栄のよく知られた逸話があります。

 田中角栄が大蔵大臣になったときの官僚たちへのスピーチで

「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」

 

 自由にやってくれ、責任は私が取る。といって、官僚たちは心酔させた。
 官僚たちは田中角栄のために一生懸命働くようになった、という話です。

 

 
 私たちも、会社勤めなどをしていれば、やはり一番働きやすい環境というのは、上司なり、会社が責任をとってくれて、仕事を任せてくれる環境、ではないでしょうか。

 もちろん、自分に責任がないからといっていい加減に仕事をするなんてことにはなりません。 
   

 上司が、「責任は自分が取るから、思い切って頑張って」というとき、ニセの責任はフィルタされ、免責されてピュアな役割意識、信頼関係が残ることがわかります。

 そこには、自分が間違って評価されるとか、自分にはコントロールできない要因に左右されるという恐れがありません。

 
 ただ、純粋に誰かのために、といって頑張ることがどれほど、力になることか。

 仕事のプレッシャーに押しつぶされそうなときは、実は、純粋にプレッシャーを感じていると言うよりは、不安定な愛着ゆえにニセの責任をフィルタしきれずに、誰かに評価されるのでは?見捨てられるのでは?という感覚(ニセの責任)に苛まされている時です。

 

 私たち人間社会はニセの責任が多すぎます。

 例えば、仕事の責任も、「本当の責任」ではなく、単に上司や経営者の「不安」「不全感」を周りにぶつけているだけ、それに周囲が感染しているだけかもしれない。

 

 
 プレッシャーに押しつぶされそうな閾値を超えると、腹がくくれて、仕事に集中できるときがまれにあります。その時は、ニセの責任の幻想が破れて、純粋に役割意識に目が向いたとき、なのかもしれません。

(参考)→「「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 つまり、無責任とは、ちゃらんぽらんということではなく、ニセの責任がない状態、本来の役割に集中できる状態、ということです。

 

 

 私たちが親に求めているのも結局、「どんなことがあっても私の味方をして。私のことをちゃんと理解して」ということではないでしょうか?

 簡単に言えば、こうしたことをただただ求めていただけ。

 

 いま生きづらさの渦中にある方も、その苦しみは、ニセの責任による苦しみです。たとえ、発達障害だとか何か他の要因があったとしても、愛着が安定している方、つまりニセの責任を背負っていない方は生きづらさを抱えたりはしません。

 

 「誰か、私に罪はない、責任はない、と言ってくれ!!」という心の叫びを抱えています。

 

 

 結局はニセの責任を免責するための機構を外部(内部)にもちたい、という切実な欲求です。

 

 先日の記事にもかきましたが、一般の私たちの場合、「愛着」や「ストレス応答系」がその役割を果たしてくれます。 
 ニセの責任をフィルタしてくれるために、純粋に役割に集中できるようにしてくれているわけです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 あらためて人間が悩みから解放されて、主権を持って生きるためには、いったんすべての責任がチャラになる機構を持つことが必要になるのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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