ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 ルービック・キューブという玩具があります。ある面にある色が移動して6面体を完成する。

 著者の子供の頃にはすでに流行ったあとで、はじめてみたときはどういうからくりになっているのか、と不思議でした。

 一つの色を動かすと別の面の色も動いてしまうので、子どもには難しかった思い出があります。
 

 

 世の中もルービック・キューブ以上に、多面体で多次元でできています。

 一面だけではありません。多次元のバランスで成り立っている。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 しかし、流行りのダイエットみたいに、ある一面を取り上げて「これが正しい」とやると、とても大きな変化が出るように見えることがあります。
 (全体主義とかファシズムなどです。個別に言えばハラスメント、ローカルルールもそうです)
 
 その効果は一時的で結局元に戻ってしまいます。

 

 ある一面のルールを取り上げて、これが正しい、として押し付けるのは、その背後には私的な情動が潜んでいて、ローカルルールと呼ばれる現象ですが、とても効果があって、正しいように見える。

 それは正しいから効果があるのではなく、極端だから一時的にバランスが崩れて変化あるように見えるだけ。

 

 いじめで、「お前は~~だ」という決めつけも、一面的だから、その場では効果がある。
 たしかにそのとおり、だと思えてしまう。

 そのことを真に受けると、ローカルルールの呪縛にかかってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 特にトラウマを負っている人の特徴には「真面目さ」というものがあります。

(参考)→「過剰な「まじめさ」

 真面目さ、というのは、実はその方の気質による、というよりも「安心安全の欠如」からきます。
 安心安全を奪われると、目の前にあるルールを守らざるを得なくなる。

 発達障害の方などが融通がきかなかったり、真面目なのも、“そういう人だから”ではなく、身体の安心安全感が低いからです。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴
 

 

 トラウマの場合は、マルトリートメント(不適切な養育)によって安心安全を奪われ、そこに、同時に、親のローカルルールを強いられる。

 過干渉、過保護も同様です。本来の気質に反して親の意向(ローカルルール)を強いられることはトラウマを生む持続するストレスに当たります。

 
 さらに、自分の気分でルールを押し付けてくる親を見ていますから、
ルールを守らないことはそんな親みたいになる(親みたいになりたくない)、という反感を持つようにもなります。
  
 
 それがかえって、ルールを守らされることにも繋がります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 ローカルルールは単に知識としてではなく内面化していますから、内は守り、外は敵視されたりもします。 

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 

 親への反感は潜在的に持ちながらも、ほんとうの意味での反抗ということには全くならず、なぜか内を守らされている。

 

 いろいろな自己啓発本を読んだりとか、すごいとされる人の言葉を真に受けては、それも半ば、破ったら悪いことが起こるのでは、というジンクスのような捉え方をしてしまう。

 

 何気ない他人の言葉でさえも、神からの託宣かのように、真に受けてしまう。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 いつしか、ルールは自分の中心にはなく、外側にあって、自分を支配するかのようになってしまっているのです。

「ローカルルールなのだから、破ってしまおう」とはできなくなってしまう。守らされてしまう。

 

 悪法でも法は法だ、とでも言わんばかりに、ローカルルールの呪縛というのはなかなかに強力です。

 罪悪感や真面目さなど、さまざまな要素を悪用してきます。

 特に「ルールを破る」ことへの抵抗感は、なかなかのものです。

 

 ローカルルールを打ち破るために、本来のルールとはなにか、について知っておくことは役にたちます。
 

 

 社会学者の宮台真司氏が書いた「子育て指南書 ウンコのおじさん」という本があります。
 子育て指南書 ウンコのおじさん

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルの通り、子育てについて書いた本です。 

 その中に、こんな言葉が出てきます。

法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。

 

昨今は、そんな共通感覚が消え、誰が仲間か不明になりました。だから、法を少しでも破った人をみんなで名指しして「炎上」し、擬似仲間を演出するのです。

 

大人になるとは昔から、社会に生きるのに必要な共通感覚を身につけることでした。」 
 

法を破っていいから「殺していい」にはならない。これはやりすぎです。」「どこまで法を破っていいか、つまり「許されるの法外はどこまでか」「どこまでが共通感覚のうちか」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。

 

親が「殺していい」と言ったから殺すのなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。

 

法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。

 

法への依存や母への依存をやめれば、言葉の自動機械であることをやめられます。そのことで「もっと人になれる」のです。

 「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。
 

 

 

 筆者も最近読んだのですが、ローカルルールの嘘や、それを破るためのヒントが隠れている、と膝を打ちました。

 上記の本によれば、法(ルール)とは、それを「守る」という片側だけではなく、「破る」という反対の片側と、両側で成り立っている、というのです。

 

 たしかにそのとおりで、私達は日常では、そうした破ることも含んだ裁量の中で生きています。

 特に、「ここまでは破っていい」というまさに安心安全を背景にした共通感覚で、そこにこそ社会とのつながりが生まれていってよい。

 

 反対に、「ルールは絶対に破るな」というのは、まさにローカルルールの命じるところで、そうしたことは嘘であることがわかります。

 

 なぜなら、社会とは多元的であり、多様であって、一元的に「こうするべき」とは決めることができないからです。

 

 刑法や民法などは、日常の外苑を囲うもので、健全な社会であれば、個々人の思想信条や生き方には口をだすことはしませんし、できません。

 そこにルールを張ろうとするのはかなりおかしいのです。

 私たちが苦しむローカルルールは刑法や民法といったものではなく、
 身近な人達によって都合よく架けられた、私達の生き方を縛るルールです。

 嘘だというさらなる証拠として、そこには安心安全もないし、温かな共通感覚がありません。
 

 

 ローカルルールとは、片側だけの、映画のセットのようなものです。
  
 本物であれば、それを「破ってもいい」ということとセットで両側でなりたっているもの。

 あるルールを守るというのは、多元的、多面的な社会の中で、ある一面に閉じ込められることを意味します。
 多様さを感じることができない。

 ローカルルールに呪縛されている人にとっての社会とは、一面的で自分を拘束する恐ろしい存在として感じられます。

 本来、社会はローカルルールの呪縛から解き放つためのフィールドでもあります。
 
 しかし、そこにアクセスできない。
  
   
 そのためにローカルルールに留めさせられてしまいます。
 (いわゆるひきこもりという現象などもこうした背景があると考えられます。)

 

 

 筆者も、昔働いていた職場でモラハラを行う人達を見ましたが、共通する手口が、「ここまでは破って大丈夫」ということで成り立っていた共通感覚を壊すということ。
 
 それまでは裁量で良しとされてきたことを、「これはルールだぞ」ということで衝立をたてるようにして、相手を追い込む。

 突然のことで驚いた被害者は、確かにルールを破っているので反論できずにマウンティングされてしまう。
(「あなたはルールを守れない人だ」とでも言われて、ウッとなったらもう抜けれなくなります。「さあ、私の指導に従いなさい」となります)

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 家庭でも同様で、本当は破ることも含めてしつけは存在する。

 子どもは賢いですから、守破離というように、しつけを守らせたあとは、破って離れてしていいわけですが、ローカルルールによって縛る親は、「絶対破るな」として片側だけのものにしてしまう。

 しつけも、本来は「破ってもいい」という反対サイドも含めて両側で成り立っているはずなのです。

 

 職場でも、活力のある職場は、破ってもいいということを含めて文化、風土は成り立っているはずで、そこに自発性、自律性も存在しているのです。

 「宗教のような職場だ(家庭であれば)機能不全家族だ」と言われるかそうではないかの差は、そこで展開されるルールが片側だけか、両側も含めてのものか、にあるのかもしれません。

 

 

 本来のルールというのものは、全て一度破るためにある。
 ルールは破らないと自分のもの、そして共同体のものにはならない、ということです。

 個人の発達のプロセスでもそれが二度あります。反抗期です。

 反抗期を経た人が、法を破って反抗すると愚連隊になるわけではありません。大人になる。
 むしろ、反抗期を経ないと大人として発達しきれないように、ルールはまず破る必要がある。

 破ることで両側から支えられる、多元性を獲得できる。
 

 

 
 ローカルルールをどうしても守らせられて、
 「ルールだから破るとなにか良くないことが起こるかも」と思ったら、とりあえず全て破ってみる。

 
 「~~しなければならない」と頭に浮かんだら、中指立てて、「NO」といってみる。

 もし、偽物(ローカルルール)だったら、壊れるし、
 本物だったら、共通感覚が生まれて、腑に落ちる感覚が芽生えますから、安心しておいて良い。

 (いずれにしても頭の中にあるルールは基本すべて偽物ですけれどもね。)

 

 

足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 私たちが重いものを持ち上げるとき、自分の体を支える足場が必要になります。

 足場がグラグラしていたら持ち上げることができません。

 宇宙のように無重力だと、力を入れると自分の体自体が浮いてしまうことになってしまいます。

 

 それと同様に、私たちが生きていく上でも足場が必要になります。とくに何かを考えたりするときは。

 

 西洋(欧州大陸)の哲学とは、人間は真理を認識できるか、人間の認識とはどこまで可能なのか?を主要なテーマにしてきました。

 近世ごろからキリスト教が明らかな限界を迎えて、代わりに「世の中はどうなっているのか?(神はいるのか?)」を人間の認識(理性)を使って知ろうとしたのです。

 

 そこで大切になるのは、はじめに私たちの認識(理性)はどこまで正しいのか?を疑う(批判)ということ。

 
 もしかしたら、今この現実は夢かもしれない。幻覚かもしれない。その恐れがあるわけです。

 夢だとしたら、認識したものも幻となり、考えたことも意味がなくなってしまいます。

 

 

 そこで哲学者たちは、人間はどこまで疑えるのか?(可疑性)を検討しました。

 デカルトの「我思う故に我あり」というのもその一つで、「徹底的に疑っても、思っている私まで疑ったら疑うことさえ成立しなくなる。」ということ。
たとえ、夢であったとしても、この思っている私、ということを疑うことは意味がない、としました。 

 カントは人間の理性の限界を示しました。

 

 現象学のフッサールなどもどこまで疑ってよいのかを研究していました。
 「私たちが物事を認識する志向性自体については疑うことは意味がない」としたのです。

 そうして、思考の「底(足場)」を定めてから、哲学を組み立てていきました。

 

 

 ちょっと難しそうな話からスタートしましたが、私たちが疑うためには「足場」が必要です。足場がなければ疑えません。

 

 日常に生きる私たちは哲学者ではありませんから、そもそも深く疑う必要はありません。自分の存在は是認、肯定した上で具体的な行為や思考のみを疑います。これが健康な状態です。

 

 

 しかし、トラウマを負った人は、疑いえないもの、疑う必要のないものまで疑わされてしまっている。

 それは、「自分」というもの。
「自分はそもそもおかしいのではないか?」とか、「自分の考えは異常なのでは?」といったような感覚にとらわれさせられてしまっている。

 これは養育環境で理不尽なコミュニケーションを繰り返された結果です。

 

 例えば、人からなにか気になることを言われたら、自分の存在までさかのぼって疑わされてしまう。

 仕事でちょっと失敗したら、自分の存在や前提まで疑う。

 そうやって、疑ってすべてを相対化して焼け野原のようになるまで疑わされてしまう。

 その結果、世の中を見通す最高の哲学者になれればよいのですが、そういうわけでもない。

 徹底した相対化とは、実は暗黙の前提の絶対化を意味します。

 つまり、焼け野原を支配しているのは実はローカルルールということです。

 

 何もない状態には人間は耐えられませんから、自分を疑って無になる、のではなく、実はおかしなものを絶対化してしまう。
 自分を疑う、ということは、イコール、ローカルルールを信じさせられる、ということです。

 

 

 健康な状態の私たちは、自分を疑う、ということ自体、原理的にできないし、する必要がない。

 

 「自分」という足場をもとに、「行動」や「考え」を修正したりすることはありますが、そもそも「自分」を疑うようなことはできない。

 

 ハラスメントや虐待というのは、このできないはずの行為ができるかのように錯覚させること
 そして、それを通じて、ローカルルールで支配することです。
 

 

 洗脳セミナーなどでは、罵倒や睡眠不足などを通じて、「自分」そのものを疑わせるようなことをして、主催者の都合の良い考えを刷り込みますが、まさに原理的には同じことです。

 親などが「あなたはだめな人間だ」「根本的におかしい」というメッセージを出すのは、「自分」を疑わせて、親にとって都合の良いメッセージを刷り込みたいということ。それによって「自分の不全感を発散させたい」ということです。

 

 

 しかし、ローカルルールを真に受けてしまった人は、自分を疑うことがあたかも正しく、誠実で、客観的な行為だと錯覚させられたまま、大人になっても、自分を疑う、ということを当たり前としてしまう。

(参考)→「「過剰な客観性」

 

 

 仕事や勉強においても同様で、「定理」や「公式」や確認された「事実」はお約束(前提)として、考えるものですが、それができなくなる。

 

 前提を前提とすることができず、いつも疑いを向けて、不安になります。
 
 疑うということで真理に到達するわけではなく、反対にローカルルールに絡め取られる。

 

 計算ミスがあったら、計算ミスをしたポイントに立ち返って再度間違えないようにして答えにたどり着きますが、計算ミスがあったら、「自分はだめだ」と足場まで疑い始めて、不安になり、絶望的になり、勉強が嫌になる。

 

 公式や定理そのものへの信頼も持つことができない。何か不思議な力によって、不意打ちのように間違いが起こるような気がして安心できない。
 さながらこの世の中が自分を駄目にする不思議な力が支配しているようなオカルトのみたいな感覚にとらわれるようになります。

 

 安心してコツコツと積み上げていくことができなくなる。コツコツとは、一度確かさが確認できたものは再度疑わない、ということです。

 それができなくなる。すべてを再度疑わなければならなくなる。頭はヘトヘト、仕事も勉強も嫌になってしまう。

 

 

 その結果、「自分はだめだ」「世の中は不確かだ」というローカルルールの世界に陥ってしまうのです。

 足場がないまま、根性で努力をして頑張ってそこそこに成功する人もいますが、エネルギーは続かなくなり、壁にぶつかることになります。

 「巨人の肩を借りる」といいますが、私たちは、先人たちの知恵(前提)にうまく乗っかかり、答えにたどり着くものです。

 さらに言えば、他者に代わりに確認してもらうなど協力してもらえばもっと楽に生きることができます。

 

 

 私たち人間は本来、「自分」というものは原理的に疑うことができない。その必要もないし、意味もない。

 デカルトも言うように、思っている「私」を疑っては疑うことさえできなくなってしまうのですから。

 

 「自信がない」という現象それ自体が論理的にはありえず、実はローカルルールの産物なのです。

 

 ローカルルールによって本来は疑うことができない自分を疑うという作業を強いられている。

  「自分」というものを疑っているときは、実はその足場は「ローカルルール」に置かれているということなのです。

 

                 足場       疑う
 (通常)            自分※ → 実際的な行動・思考
              
               ※自分というのは原理的に疑えない

  
          足場      疑う       疑う
 (トラウマ) ローカルルール → 自分  → 実際的な行動・思考

 

 

 ローカルルールがひどい場合になると、関係妄想などにとらわれて、事実も歪められてしまい、戻る足場がどこにあるのかさえもわからなくさせられてしまうのです。
  

                              
 (ひどい場合)  ローカルルールが自分のように振る舞う(いわゆるローカルルール人格にスイッチ) → 世界や他者はひどいと捉え、疑い否定する → ローカルルール世界を肯定する
       

 

(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由

 

 

 

 生きていると、フィッシングメールのように「自分を疑え(あなたは変だ)」と言われることがありますが、論理的にも成立しないことを要求されているということです。
(裏のメッセージは「私のローカルルールに服従せよ」ということ。)

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 私たちは本来、無前提に、自分を肯定していてよいのです。

 (足場は常に自分において、疑いを向けるべき対象はローカルルールです。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

変な設定のスマートフォン

 

 ローカルルールについてわかりやすく説明すると、変な設定のスマートフォン、のようなものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 スマホの機械自体は一つですが、アプリは複数入っています。これがいわゆる人格です。ローカルルールに感染するというのは基本的にアプリ(プログラム)単位で感染します。

 
 トラウマを負っているというのは、ローカルルールに感染したアプリが入っていて、バックグランドで起動している状態です。 

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」 

 

 

 本当であれば、インターネットに接続して、クラウドサービスを利用したり、快適に過ごすのが普通です。他者とのコミュニケーションもスムーズです。

 しかし、ローカルルールアプリが入っていると、まず家族のローカルネットワークに繋がるように設定されています。

ですから、いつも動作が重いし、遅い(過緊張)。

 
 さらに、人とコミュニケーションをとる際も、まずは相手のスマホの情報を読みに行くように設定されている。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 そのために、コミュニケーションがスムーズに行かなくなったり、相手スマホに入っているローカルルールアプリに接続するので、動作が遅くなったりする(過剰適応と巻き込まれ)。

 子供の頃からこのような設定になっているので、他者とコミュニケーションをとる際も、まずは相手のスマホの情報を読み取ること、相手のスマホのローカルルールアプリに接続することが当たり前だと思わされている。

 

 こうした状態なので、家族の重いデータを保存させられて、スマホが重くなったりする。自分の情報と家族の情報が混ざって、自分のスマホであって、自分のものではないような状態になってくる。

 

 他者と接続することが当たり前になっているので、他者のスマホからのフィッシングメールのような情報をブロックすることができなくなったりする。フィッシングメールを真に受けて、おかしなことになったりする。

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 その結果、「私のスマホは能力が足りない。人とは違う」と思わされて、苦しむことになる。 
 
 

 こうしたことをスマホで例えると、「おかしなことだ」と思えますが、人間では、こうしたことはよくありますし、“変な設定”が「家族への責任だ」とか、「当たり前だ」となっていたりする。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 

 人間とは、社会的動物(クラウド的存在)です。社会的動物ということのポイントは2つ。「ルール」「ネットワーク」です。
 ローカルルールというのは、このルールとネットワークを悪用しています。

 「人とはつながっていて当たり前」
 「設定(ルール)はなくてはならない」ということを悪用して、おかしな設定を受け入れさせて、変なネットワークに接続することを当たり前のものと思い込ませて、変な設定のスマホ(トラウマ)にするのです。

 

 

 人間は社会的動物であり、ルールとネットワークが不可欠だからこそ、設定を自分のものとしなければならない。

 

 機能している家族というのは、自分の家のローカルネットワークとはあくまでグローバルネットワークを代表しているもので一部でしか無い、ということをわきまえている。

 そして、ローカルネットワークの中でも徐々に幼い頃にインストールしたアプリはアンインストールして、データも共有せず、ローカルネットワークから離れていく(反抗期)。徐々に、インターネットに直接接続するようになっていくものです(社会化)。

 安易に他人とは接続しない。ファイアーウォールとアンチウイルスソフトで自分を守って、信頼できるアプリを通してやり取りをする(社交)。
 

 まちがっても、相手のスマホの中のデータを覗きに行ったり、相手のローカルルールアプリをダウンロードしたり、自分のスマホの中を覗かせたりもしない。

 
 
 対人関係に苦しんだりしている場合、おかしな設定になっていないか、見直してみる必要があります。ローカルルールアプリは使い慣れているからそのままでいい、変えるのは面倒だ、他のアプリが使えるかどうか不安だ、なくなったら困る、と思わされていますが、アンインストールしなくてはなりません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 ローカルルール人格の特徴として、目の前の人を攻撃したくなる(文句を言いたい、否定したい、非難したい)、ということがあります。

 ローカルルール人格にスイッチしていると、あたかも目の前の人がそのとおりに悪い人のように感じます。
 

 もちろん、それは真実ではなく、ローカルルールによる因縁でしかありません。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 どうして、目の前の人を攻撃したくなるのか、ということですが、ローカルルールが成立する要件を考えるとその理由がわかります。

 

 ローカルルールが社会を覆うような状態をファシズムとか、全体主義といわれるものですが、特徴として、必ず「敵」を必要とする、ということがあります。

 

 ローカルルール自身は、中身が全くありません。
そのために、ローカルルール自身がを成立させるためには、正統性を偽り、人々を巻き込み協力させ、中身が無いことに気が付かせないようにしないといけません。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ナチスだと、敵は、「ユダヤ人」と「共産主義」でしたし、
 共産主義は、「資本主義」や「帝国主義」でした。

 

 特にナチスなどは主体的な教義や主張というのはなにもなく、すべてが「反(アンチ)でできていた」と言われています。

 

 全体主義を描いたジョージ・オーウェルの小説「1984年」でも、「人民の敵」という敵が設定されていて、それを憎むための「憎悪週間」なるキャンペーン期間がありました。
 
  

 「敵」が存在するとそれに対処するために、「(たとえ間違っていたとしても)ローカルルールが必要だ」ということになり、ローカルルールは、「敵」が存在する間、延命できることになります。

 

 個人の中で内面化されているローカルルールも同様で、それが成立し、延命するためには「敵」が必要なのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 そのために、トラウマで苦しむ方の多くは「身の周りの人へのイライラ」という症状に苦しんでいます。
 

 職場の人が許せない、とか。
 楽しそうにしている人を見ると腹が立つ、とか。
 治療者に怒りや文句、イチャモンを付けたくてしようがなくなる、とか。
 

 愛着の不安やトラウマが重い人ほど、ローカルルール人格の影響は真に受けやすく、目の前の人を攻撃したくなる、ということは強く出ます。

 それは、ローカルルールが大きいために、「敵」もより必要になる、というためです。

 

 人格がスイッチしてしまって、自分でも自覚できない場合もあります。

 これは結局は、ローカルルール人格が起こしたことで、その方本来が起こした行為ではない。
 だから真に受ける必要はない。

 怒り、イライラを真に受けると結局は、ローカルルールに協力していることになり、悩みの原因は延命することになります。

(参考)→「「本当の敵」から目をそらされる

 

 人に因縁をつけたくなるのは、ローカルルール人格によるものだ、ということに気がつくと悩みは変わってきます。

 
 
 こうしたローカルルールの構造に気がつくことは、生きづらさから抜け出すためにはとても大事です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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