トラウマを負った人のもう一つの特徴(症状)は、「まじめさ」です。過剰なほど「まじめ」なのです。
なぜまじめかと言えば、「一元的価値観」で、さらに「過剰な客観性」を持っていて、「世界には善悪、正誤の基準がある」という感覚があるからです。
そのため、目の前にあるものを相対化して受け取ることができないのです。相対化とは、もっと簡単に言えば、「茶化したり」「諧謔(面白い気のきいた冗談。しゃれ。ユーモア)」をもって接することです。
それができません。
なぜなら、目の前にあることが客観的に事実だと思い込まされているから。
人の言動も真に受けすぎてしまいます。
とても傷つきやすいのです。
なぜなら、人の言葉も事実だと思い込まされているから。
もう一つの理由は、トラウマを負った出来事によります。
自分勝手な親のふるまい、人によってはレイプといった理不尽な出来事によってトラウマを負いますから、そうした勝手な人間の行動については嫌悪しますし、自分はそうはなるまいとかたくなに考えています。それもまじめさを後押しします。
まじめさは、学校の勉強など決められた線路を進む場合は強力な推進力になりますが、広い世の中を渡る場合には、足かせになることが多く、生きづらさの原因にもなります。
人生の意味や目的を考えすぎて、虚無的になり、人によっては自ら死に至る、というケースもあります。
本来の人生は、「ただ生きるだけでよいもの」。
価値観も多元的で、落語の人物たちのような人生観(業の肯定≒人間とはどうしようもないもの)です。
「借金を負えば自己破産すればいいじゃないか」
「ひどい家族なら捨てればいいじゃないか(仏陀もキリストも家族を捨てているし)」
「仕事も変えればいいじゃないか」
でも、なぜかそうは考えられない。
トラウマを負ったゆえの「まじめさ」ゆえに「人生とは立派に生きるもの」と考えさせられてしまっているからです。
社会とは、「自分が楽しく生きるためなら、少々のズル賢さがあったり、グダグダしてもいいじゃないか」という価値観でぼちぼちと進んでいくものですが、それがありません。
残念ながら、会社などに入ったり、社会に出ると、実は暗にそのように生きている人たちにいいようにされてしまうのです。
トラウマを負った人たちは、その苦難に際してどうするか?と言えば、自分を見つめなおして、自分を高い精神性へと高めることで生きづらさを乗り越えようとします。
しかし、ほとんどの場合は破れてしまいます。
なぜなら、それはトラウマを負ったニセ成熟の夢、幻想だからです。
トラウマによって幼いまま時間が止まり、青くウブなままなのです。そのウブで清廉潔白な自分が好きでもあり、とても辛くもあるのです。
→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
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