ローカルルール人格の言葉は意味がわからない

 ローカルルール人格の特徴として、発する言葉が支離滅裂である、ということがあります。

 支離滅裂と言っても、もちろん日本語しては成立しています。

 

 日本語としてはなんとなく成立しているけども、文脈からは意味は通っていない、というもの。

 

 以前は、筆者も、意味が通っているように感じていました。 

 どうしてかというと、自他の区別を超えて理解しようとしていたから。
相手のローカルルールの世界に巻き込まれるようにして、理解していたからです。

 

 だから意味があるように先回りして捉えていた。

 

 

 キン肉マンと同じです。

「言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信だ」と、ローカルルールの勢いを受けて、なんとなくすごいような気がしていただけだった。

 

 

 しかし、ローカルルールというものの存在を知り、ローカルルール人格というものがわかってくると、それが発している言葉や理屈は、全く意味がわからない。支離滅裂であると感じられるようになってくる。

 

 ただ、巻き込むためなので、巻き込まれなくなると、
「大層なことを言っているけど、ピンとこない」といったものでしかなくなる。
 

 

 しゃべり方もしばしば

  酔っぱらいが相手に絡むようなしゃべり方
  くだを巻くようなしゃべり方
  ぶつぶつと独り言のようなしゃべり方

 になります。

 とくに、独り言をいっている、一人で解けないパズルを解いているような、というような印象です。

 

 あるいは、
  
 相手に因縁をつけるために理屈をこねる、
 深刻そうだけど中身がない、
 急に悲しくなって、力が抜けたような話し方になる、

 といった場合もあります。

 

 それも言っていることは全く意味をなしていない。因縁をつけるために事実も曲げられてしまっている事が多い。

 

 クライアントさんでも、セッション中にローカルルール人格にスイッチすると、そんな話し方になります。

 

 それは、本来の姿ではなく、ローカルルール人格が話している、ということ。
 (参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」  

 

 

 ローカルルールに気づくと、こうしたことが見えてくる。

 

 

 私たちは、意味のないものも意味のあるように受け取ってしまう、ということはよくあります。

 なぜなら、人間はインクのシミにも意味や形を感じる生き物だからです。

 

 

 

 そのこと自体は、単なる人間の特徴なのですが、その特徴をローカルルールは悪用して、自分自身に意味があるように見せてしまう。

(参考)→「ローカルルールとは良いことに聞こえ、意味があるように見えるもの。

 

 そして、フィッシングメールのような言葉で巻き込んで、意味のない言葉で相手を呪縛、支配する。 

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 本当は全く意味がない。
 人間の言葉はすべて戯言ですが、ローカルルールに影響された言葉は一層意味がありません。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 先日、M-1グランプリがTVで放送されていましたが、漫才のネタの定番として、ボケの人がわけのわからないことを言ったり、妄想に基づいて暴走したりすることがあります。恋愛の妄想や、悲しいしんみりした妄想など、多岐にわたります。

 

 それに対して、ツッコミは必死に訂正したり、おかしい、ということを常識に基づいて指摘していって、笑いに変えていく。

 おかしいことに突っ込む、否定するというのが本来の健康的な状態だと言えます。

 対して、ローカルルールに支配されるというのは、ボケの言った妄想を真に受ける、というようなもの。それでは健康なコミュニケーション(漫才)は成立しない。

 

 「漫才のボケの言うことを真に受けるような人っているわけないよ」とわたしたちは思いますが、でも、ローカルルール人格の言う戯言は真に受けている自分がいたりする。

 

 「ボケ(相手)の言っていることが本当かも?」とか、
 「なぜ、ボケ(相手)がそんな事を言うのか相手の心の奥底を考えてあげなければ」とやっている。

 

 とても滑稽な姿です。

 

 そうではなく、常識に基づいて、ツッコんでいっていい。否定していいのです。

 ユーモアは悩み解決の最大の武器だ、というのもまさにこうしたことにあるのだと思います。
 

 相手がツッコめないくらいおかしい場合は「変な人だな」と相手にせずにスルーするのです。

 

 親の言ったこと、友たちが言ったこと、パートナーが言ったこと、上司が言ったこと、などこれまで強く影響を受けてきたことについてもローカルルールを抜けてみると、ツッコミどころ満載の全くのデタラメであることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 ローカルルール人格の特徴として、目の前の人を攻撃したくなる(文句を言いたい、否定したい、非難したい)、ということがあります。

 ローカルルール人格にスイッチしていると、あたかも目の前の人がそのとおりに悪い人のように感じます。
 

 もちろん、それは真実ではなく、ローカルルールによる因縁でしかありません。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 どうして、目の前の人を攻撃したくなるのか、ということですが、ローカルルールが成立する要件を考えるとその理由がわかります。

 

 ローカルルールが社会を覆うような状態をファシズムとか、全体主義といわれるものですが、特徴として、必ず「敵」を必要とする、ということがあります。

 

 ローカルルール自身は、中身が全くありません。
そのために、ローカルルール自身がを成立させるためには、正統性を偽り、人々を巻き込み協力させ、中身が無いことに気が付かせないようにしないといけません。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ナチスだと、敵は、「ユダヤ人」と「共産主義」でしたし、
 共産主義は、「資本主義」や「帝国主義」でした。

 

 特にナチスなどは主体的な教義や主張というのはなにもなく、すべてが「反(アンチ)でできていた」と言われています。

 

 全体主義を描いたジョージ・オーウェルの小説「1984年」でも、「人民の敵」という敵が設定されていて、それを憎むための「憎悪週間」なるキャンペーン期間がありました。
 
  

 「敵」が存在するとそれに対処するために、「(たとえ間違っていたとしても)ローカルルールが必要だ」ということになり、ローカルルールは、「敵」が存在する間、延命できることになります。

 

 個人の中で内面化されているローカルルールも同様で、それが成立し、延命するためには「敵」が必要なのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 そのために、トラウマで苦しむ方の多くは「身の周りの人へのイライラ」という症状に苦しんでいます。
 

 職場の人が許せない、とか。
 楽しそうにしている人を見ると腹が立つ、とか。
 治療者に怒りや文句、イチャモンを付けたくてしようがなくなる、とか。
 

 愛着の不安やトラウマが重い人ほど、ローカルルール人格の影響は真に受けやすく、目の前の人を攻撃したくなる、ということは強く出ます。

 それは、ローカルルールが大きいために、「敵」もより必要になる、というためです。

 

 人格がスイッチしてしまって、自分でも自覚できない場合もあります。

 これは結局は、ローカルルール人格が起こしたことで、その方本来が起こした行為ではない。
 だから真に受ける必要はない。

 怒り、イライラを真に受けると結局は、ローカルルールに協力していることになり、悩みの原因は延命することになります。

(参考)→「「本当の敵」から目をそらされる

 

 人に因縁をつけたくなるのは、ローカルルール人格によるものだ、ということに気がつくと悩みは変わってきます。

 
 
 こうしたローカルルールの構造に気がつくことは、生きづらさから抜け出すためにはとても大事です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 最近、いくつかのケースに共通して気がついたことですが、

 
 社会を“外”、自分の家族や実家を“内”としたときに、

 守る必要のない“内(ローカルルール)”を一生懸命守らされている人が多いということ。

 “内”とは、特に家族から強制され、内面化されたローカルルールのこと。

 これを一生懸命に守っている。

 

 

 本人は、家族のことをちゃんと否定しているつもりでいる。
 客観的に見ているつもりでいる。

 でも、実際はそうではない。

 
 さながら、家族や親の守護者・救済者、カウンセラーとして、家族の否定的な感情を癒やし、家族の期待に応え、家族の秘密を守らされている。

 家族の秘密は、とんでもない極秘事項のように思わされて、大事に大事に守らされている。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む

 

 

 “内”を守れなくなると、世界が崩壊する、といったくらいに感じている場合もあります。

 一方、(家の)外に対しては、不信感があったり、疑わされて、一体が得られずに苦しんでいる。

 

 そのため、カウンセリングを受けているし、治療者を信頼していないわけではないけど、本当の問題(内を守らされている、ということ)は俎上に乗っていない、なんていうこともあります。

 なんてたって、“極秘事項”ですから。

 

 実際に、その極秘事項というのは、他人が見たら、すごくもなんともない。
 本当につまらないことだったりする。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 

 家族が安全基地だと思っていますが、実際はそうではありません。
 家庭は、機能が正常に発揮されていないと安全基地にはなりません。

 トラウマを負った人にとって、(機能不全の)家庭とは、緊張や呪縛をもたらす場所です。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 

 “内”を守らされていることで、一番良くないことは、自他の区別がつかなくなること。

 自我というのは、自分の中に秘密ができ、家族を一旦否定し、社会に参画していくことで形成されていく。

 自分を“内”として自我が確立していれば、社会に参画して自分も保ちつつ、他者と付き合うことができる。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

 以前も書きましたが、本来の人間というのは、パブリックな場面においてはじめて可能になります。

自分とは、社会に参画して普遍的な何かを代表して、はじめて成立するもの。

 

 一方、

 家族を“内” そして、社会が“外”だとすると、
 両者にまたがる自分の中に“内側”は存在しなくなってしまう。
 

 さながら、家族のローカルルール自体が自分となって、自分がないために苦しみ。
 さらに、社会に出ては、自他の区別がないために他者のローカルルールへの防壁がなく苦しむ。
 ひどい場合は、パニック障害といった身体症状に現れることもある。

 

 トラウマを負った人というのは、多くの場合、「自分がない人」です。
自分がないというのはつまり、自他の区別がなく、ローカルルールを代表させられている、ということです。

 ローカルルールを代表させられているので、自分があるようで自分がない。
 

 

 自分の中に“内”がなく、そのために、社会のストレスを浴びて、仕事ができなくなったり、対人関係に苦しんだりする。

 
 いったん、家族から与えられた“内”(ローカルルール)を捨てる必要がある。
 その上で、自分の中に“内”を作って、社会に参画していく。そうして、パブリックな存在となっていく。

 人とうまく付き合うというのは、決して心の壁を取り払うことではない。
反対に、自分の内と外を明確にしていくことです。

(参考)→「自他の区別がつかない。」

 

   
 ニセモノの“内”を懸命に守らされていないか、“外”を敵とされていないかどうか?確認し、自分の中に本当に自分の“内”を作っていくことで、生きづらさを解消していくことができます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!

 

 これまで書いてきましたように、 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 特にプライベート(私的な領域)な場面では100%戯れ言と考えて間違いない。

 公的環境では、心身のコンディションが良ければ、人の発言は信じられる余地があります。
 
 それは公的な役割をまとって、“普遍的な何か”を代表しているから。  

 「すべてが戯れ言なら、何も信じられなくなってしまうのでは?!」 と不安になる方もいらっしゃいます。

 

 「医師やカウンセラーの言っていることも戯れ言ということになる」

 と。

 たしかにそうです。

 

 すべてが戯れ言というなら、そうなります。

 治療者が「私の言うことは正しいですよ」といえば、宗教になってしまいます。そんな事を言う人の言葉は信じてはいけない。

 このブログの言葉でさえ、戯れ言です。

 本に書いてあることも戯れ言です。
 

 ローカルルールから逃れるために、自分の感覚、常識に立ち戻るのではなく、スピリチュアルなものやカリスマセラピストと言った、別のローカルルールにただ移ってしまう人も多い。
  (参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 健全な成長を遂げた人というのは、反抗期を経て、世界というのは等身大なのだ、でもなにやら普遍的な何かというのがあることもなんとなく感じています。

 

 そのために、目の前の情報を真に受けたりはしません。特に人の言葉は。カリスマなんて言うのは胡散臭いと感じる。
 

 なぜなら、人は等身大だと知っている。言葉が戯れ言と知っているから。
 

 では、「この世には正しいものはなく、すべては無意味だ」といって虚無的になるかといえば、そうではありません。

 

 自分に軸を持ち、普遍的な何かを感じて生きていくことができる。

 言葉を吟味して、信用度を体感で測り、専門的な知見などをうまく利用できたりする。人の意見の背後にある普遍的な何かを感じ取ったりすることができる。

 特別なことではなく、普通の生き方です。

 

 トラウマなどで悩んでいない人に、この話をすれば、おそらく

「そんなの自分でチェックして、判断すればいいじゃん」「なんとなくわかるでしょ?」とかえってきます。

 

 もちろん、絶対の正しい判断というものはありませんが、生きていくのに支障のないレベルで、真偽を分けることができる。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 

 一旦全てを疑うことを「方法的懐疑」といいます。
あくまで、「方法的(手順として行うこと)」なので、その手順が終わったら、次は信用できるものを受け入れることになる。

 これは普通のことです。
 

 「全ては戯れ言」と聞いて、虚無的になったり、不安になったりするのは、トラウマを負っているケースに多い。

 これは、もちろん、「寄る辺がなくなるのでは?」「ローカルルールとはいえ、それがなくなったあとに信頼に足る世界はあるの?」という不安のためであることがまず挙げられます。

 安心安全がなく、世の中が自分にとって危険と感じられている以上、まず疑って、吟味して、なんて悠長なことはできない。

 トラウマの処理で頭がいっぱいですから、「これ以上負担になるような考え事はしたくない」のです。
 
 
 とにかく信じられるものを、ということで「絶対のもの」を探そうとしています。

 その結果、ローカルルールというニセモノを掴まされてしまう。

 

 

 そして、次には、
 ローカルルールがもたらすニセの相対主義に陥っているためでもあります。

 ニセの相対主義とは何か? といえば、それは隠れた呪縛のことです。

 つまり、「すべてを相対化する」といいながら、ローカルルール自身は「絶対化」している。 

 

 全ては戯れ言なんでしょ、と言い、外部のものすべてを否定したまではいいですが、そのまま「自分の感覚も信じられない」と自己も否定し、不安になった暁に、「結局、これしか信じられない」と、これまで慣れ親しんだローカルルールを絶対化してしまうのです。

 具体的に言えば、世間(外)にある様々な知恵や自分の感覚は相対化(否定)したあとに、内面化した親の教えや言葉は絶対化してしまう。
 親から「あなたはダメな人間だ」「良い子であれ」という価値観は絶対化してしまう、というようなことです。
 

 
 迷ったときは、
 「相対化の果に、結局ローカルルールに戻っていないか?」をチェックする必要があります。
 
 方法的懐疑(すべてを戯言だといったん否定し)のあとに、自分自身の軸、常識に戻ることができているか?
 
 を見ることがとても大事です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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