物理的な現実がもたらす「防御壁」

 
 スポーツをするときに、自分がこう動きたい、とおもってもなかなか体が言うことを聞いてくれないことは多いものです。

 コーチから「こうしたほうがいい」といわれても、そのとおりにできない。

 自分では従来のほうが心地よいのですが、結果は出ないので、やはり変えたほうがいいことは明らか。でもうまくできない。

 もちろん、完全に意識と自分の身体が連動したら、プロになれるわけですけど、そんなことは難しいです。プロでも思ったように動かすためには相当なトレーニングが必要です。

 

 皆さんもスポーツやエクササイズをしててもどかしい思いをしたことがあるのではないでしょうか?

 
 わかっているんだけど、うまくできない。

 身体としての自分というものは、なかなかもどかしい存在です。

 

 

 このように「現実」というものは、なかなか変わりません。一朝一夕には変化しない。

 同じような日常が繰り返されます。

 先日の記事にもかきましたが、
 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」
 というように、こちらの気も知らず、変化してくれない。

(参考)→「私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?」 

 

 私たちも、生き辛さの中にあえいでいる自分を変えようと、気持ちを新たにして、何かに取り組みますが、躁的な気持ちが一段落したら、何も変わっていないことに気づく。
 そして絶望的な気持ちになる。

 「ああ、また変わらなかった」と。 
 
 そして、自分は永遠に変わらないのか、といった気持ちになっていく。

 トラウマを負うというのは、こうした気持ちの中でもがくこととも同義です。

 いつまで経っても、「自分は世に出ることができない」という感覚。 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 かつては筆者もこのような感覚にとらわれていました。
 休みのときも何かをしなければと焦るけども、何をしていいかわからない。何をしても変わらない、と。

 

 あるゴールデンウィークのときに、連休前半にあるイベントに参加したのですが、そのときに同席していた同じ世代の男性が、「ああ、これで、とりあえずは充実したと感じられる」といったのがとても印象に残っています。
 連休前半にそれらしいイベントに参加していれば、連休を終わったときに有意義ではなかったと後悔しなくてすむ、というわけです。

 充実感を感じるために充実できたと感じることを探して安心するなんて本末転倒な話だけど自分もそういう感覚があるな、と感じたことを記憶してます。

 

 しかし、ローカルルールが解けてくると、日常をのんびり過ごせるようになってきました。
 さらに、現実の「変わらなさ」を感じるとき、「これは都合がいいな」と筆者は感じるように変わってきました。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 「時間がかかる」「容易に変わらない」というのは私たちにとってとてもよいことだ、というように。

 なぜかというと、その変わらなさ、時間がかかる、ということが、私たちにとって「防御壁」になってくれるからです。

 

 なぜ、修行した職人が作ったものに価値あるか?といえば、修行や技能の習得に時間がかかるからです。簡単にできれば、価値などありません。

 学歴とか、難しい資格になぜ価値があるか?といえば、容易には取れない、取るのに時間がかかるからです。

 

 すごく手間の掛かる仕事もそうで、手間がかかるというのは、他人にとっても面倒で容易には参入(真似)することはできません。

 「手間がかかりそう」ということが自分を守ってくれる。

 

 社会的な技能とか資格とかだけではなくても、単に年月を重ねて人間としてここに存在しているということ自体も実は守ってくれています。その人の持つ経験、時間というのは他者が介入できないものだからです。私たち人間は別々のトラックを走っていて、そのトラックの間にも「防御壁」は存在しています。 

 

 一日で変わるものは、一日で覆されます。

 一日でできるものは、他者にも一日で追いつかれてしまいます。

 世の中では、簡単にできるものの価値は低く、いわゆる差別化になりません。
 (経済の世界だと「参入障壁」といいますが)
 

 

 

 「物理的な現実」というのは、その容易には変わらない、時間がかかる、という性質で私たちを守ってくれています。

 前回の記事で、「5年、10年もすれば景色がガラッと変わっているものです」と書きましたが、生きづらさを抱えていると、「5年も10年も待てないよ」と感じるものです。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 こんなに生きづらいのですからすぐにでも変わってくれないと困る。

 それはそうなのですが、すぐに変えようと「言葉」や「イメージ」世界に留まってしまうと、結局はローカルルールからローカルルールへというように積み上げることができなくなる。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 言葉で変わった気になっても、頭の中で他人からの汚言や自責感によって、すぐにひっくり返される。
 イメージを変えようとして取り組んでみても、すぐにひっくり返されるの繰り返し。  

 物理的な現実のもつ「積み上げ」の力、「質的転換」の力を借りることができません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 「物理的な現実」はある時点を超えるとぐっと大きく変化、飛躍をもたらしてくれます。

 しばらく淡々と続けることで、その力を借りることができる。

 

 
 変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→変わらない→質的転換(カットオフ)→大きく変わっていた。

  ↑この変化への長さ、変わらなさが壁となって自分を守ってくれる。我慢できない人は途中で脱落していきます(そして、言葉を唱えたり、イメージトレーニングするだけになってくれる)。一方、続けた自分にはカットオフがやってきます。だから、容易に変わらない取り組みであればあるほど、「よしよし、都合がいいぞ」と密かに企むことを楽しむ。

 

 さらに、積み上げた物理的な現実は他者からの否定的な言葉やイメージからも守ってくれます。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 「変わらない、変わらない」と感じる状況は、私たちにとってはとても良いことです。

 その容易に変わらなさ加減が自分を守ってくれます。

 

 「物理的な現実」は、大きな変化と大きな防御と、その両方を提供してくれる。とっても頼りがいのあるものです。
 

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

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物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 昔読んだ本の中で、「プロは繰り返しの毎日」という言葉が出てきて印象に残っています。

 繰り返し準備を続けて、パフォーマンスを維持したり、今までできないようなことができるようになったり、ということだったと思います。

 ただ、トラウマを負った人にとっては、「繰り返し」には耐えれないだろうな、と思います。

 それはふたつの意味で。
 一つは、ガムシャラに努力をしてへとへとになってしまうということと、もう一つは積み上がる感覚がないために、そもそも繰り返しの先が描けないということ。

 「これ以上どうやって努力しろっていうの?」という感覚。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 
 その背景には安心安全の欠如があります。

 世の中が理屈でできていて、1+1=2 になる、2×2=4 になるという安心感が薄い。

(参考)→「世界は物理でできている、という信頼感。

 

 だから、ガムシャラに努力する、非常事態モードでつらい日常をこなして、誰かに評価されて、そして結果が得られるといった感じ。

 本当は、物理的な結果にフォーカスしなければいけないのに、ついつい他者の目にフォーカスが向かってしまう。
 結果も出しきれず、他人の評価に左右される。
 

 結局、疲弊し「繰り返し」を続けることができなくなったり、積み上がらない、という感覚につながるのです。

 

 

 あまりに結果が出なく辛いために、「言葉が現実になる」といったものに興味を持ち始めたりするのですが、それも、人の言葉やイメージに左右されてきた背景があるから。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 人の言葉やイメージに振り回され、さらに積み上がらないという経験をしているために、「言葉」や「イメージ」を変えることばかりに目が行ってしまうのです。

 

 言葉やイメージというのは、一瞬にしてひっくり返ってしまいます。
 積み上がることはありません。

 そうして、絶望していってしまうのです。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 

 しかし、「物理的な現実」は違います。確実な積み上げがあります。
 

 今私たちの生活が蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば電気が来る。
 手元にはスマートホンがあって、すぐに何でも調べられたり、映画も見れる。他人とコミュニケーションが取れる。有名人にメッセージを送ることもできる。

 かつてであれば信じられないような生活が誰でもできるのも、それは「物理的な現実」の積み上げがあるからです。
 
 近代以前は、宗教などが力を持った時代ですが、こんな積み上げはありません。古代とそれほど変わらない時代が、何千年も続いていました。

 

 

 筆者も街を歩いていたら、「あれ?ここ更地になっているな」「ああ、マンションでも建つんだな」と思っていて、しばらくして気づくと高層マンションができていたりします。

 もちろん、現場の作業は、穴をほって、資材を運んで、という地道なものの繰り返しですが、人生が終わるまでできないか?といえばそんなことはありません。あっという間に完成してしまいます。

 

 

 昔、仕事で大きなプロジェクトに関わっていましたが、日常では、何十人、何百人という人がそのプロジェクトに関わっていて、日々はミーティングとかの繰り返しです。途中トラブルもあったりして、常に順調ではありません。

「これは永遠に続くんじゃないか」とさえ思えるのですが、でも、気づいたらローンチ(サービス開始)になっている。

 

 東京の渋谷でも再開発で工事をしていましたが、やっている最中は「いつまでやっているの?」「永遠に終わらないんじゃないの」なんて思うんですが、気づくと、でかいビルが立っていて、きれいになっている。

 

 歴史をさかのぼって、種子島に鉄砲が伝わってきた当時、日本の職人は、ネジということがよくわからずにどうやって真似をしていいかがわからなかったそうです。そのネジの仕組を知るのために、1年後に南蛮人が来るまで待って、教えてもらったそうです。
 「ネジの仕組みを知るのに1年?だったら、100年経っても真似は難しい」と思いたくもなりますが、わずか20,30年後には、合戦で最大8千艇の銃が用いられるようになります。

 

 ライト兄弟が初飛行をしたのが1903年ですが、たとえば真珠湾攻撃は1941年で、わずか30年程度でパイロットを何百人、何千人も育成し、空母も作り、作戦を立て、大編隊で遠くハワイの軍艦を沈めるまでになります。

 

 

 お隣の国中国も、昔、たくさんの自転車で通勤ラッシュというイメージでした。筆者が子どもの頃やっていた「ストリートファイター2」というTVゲームの中国社会の背景は、おじさんは人民服を来て、鶏が鳴いて、自転車が通り過ぎる、みたいなものだったように思います。

 でも、今は、高層ビルがボンボンと建ち、日本企業も圧倒するようにもなり、米国に脅威を与えるまでになりました。

 わずかな期間に、です。筆者の意識の上では、子供の頃というのはついこの間!のことです。

 

 

 以前も記事で書きましたが、実は物理的な現実というのは、「質的転換(カットオフ)」というものがあるのです。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 物理的な現実は、一つ一つの積み重ねでできていくのですが、ある時点に来ると質が変わる。飛躍が起きる。

 

 物理的な現実は1+1+1 積み上がっていくのと同時に、すでに積み上げたもの同士が掛け算のようにもなっている。

 そのために、最初は「永遠に終わらないんじゃないの」というように感じるような繰り返しなのですが、あるとき気づいたら、質が変わっている。
 そのプロセスは魔法でもなんでもなく一つ一つは物理的な現実の積み上げでしかないのですが、ある時点で飛躍する。

 

 上記の真珠湾攻撃の20年後には宇宙に到達していますから。
 これも、物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換」の力です。

 「言葉」や「イメージ」では絶対に宇宙にはいけません。

 

 人間の認知にはバイアスがかかっているために、目の前のものはずっと続くように錯覚する。「知覚の恒常性」と呼ばれるものです。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 だから、「質的転換」が起きつつあってもそれを捉えることができない。 

 さらに、人間の認識能力の容量の限界もあります。
 人間の認知能力は、物理的な現実のおそらく数千分の一化、数万分の1くらいしか認知できていません。
 あまりにも大量の情報は意識で捉えることができないので、脳がカットしているのです。

 

 実は、「機会」や「サポート」というものも、私たちの周りにはたくさん転がっている。奇跡、運命とも思えるような出会いや偶然があるのもそのためです。

 でも、通常の認知能力では、さらに悲観的になってフィルタが歪んでいるうちは、それを捉えることができない。

 

 ただ、「質的転換」が起きること、「機会」がたくさん転がっているということを“経験的に”わかっている人たちもいて、その人達は、冒頭のように「プロは繰り返しの毎日」などとして、繰り返しの果ての「質的転換」をつかもうとする。

 もちろん、努力だけではなく、ただ、のんびりと日常を過ごすことも「積み上げ」になります。

 

 世の中に、紙に書いていたら偶然チャンスが巡ってきて、というような話も、
 もしかしたら、物理的な現実を歪めるフィルタ、ローカルルールが是正されてそれまで認知できていない「機会」というものに気づいた、あるいは、上記のような積み上げてきた果の「質的転換」が起きた、ということかもしれません。
 

 

 心理主義やポップ心理学、俗な自己啓発の影響なのか、こうしたことを「言葉」「イメージ」の成果だ、と捉えられてきましたが、どうやらそんな話ではない。
 「言葉」「イメージ」の成果だと捉えて、願望を紙に書いていても「物理的な現実」の力に乗ることはできず、「言葉」「イメージ」の世界に閉じ込められてしまう。

 

 そうした状態の人にとっての「現実」とは、実はローカルルールによって作られた現実なので、現実は敵対的で恐ろしいものに感じるのです。

 でも、実は助けてくれるはずの「言葉」「イメージ」も別のローカルルール世界であることも多いものです。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」 

 

 「言葉」「イメージ」には積み上げもなければ質的転換もない、他人から容易に翻弄されてしまうものなのです。

 本当は、「物理的な現実」こそが圧倒的に私たちを守ってくれているし、力を与えてくれるもの。
 「わらしべ長者」という寓話でも、言葉やイメージではなく、「物理的なモノ」同士を交換していくわけですから。

 技能や知識の習得も同様に「物理的な現実」の一つです。

 

 トラウマを負っていると、積み上げている感覚は麻痺します。
 ただ、それでも経験してきたものという「物理的な現実」は確実に存在します。

 ECサイトに久しぶりに、ログインしてみたら「あれ?結構、ポイントが貯まっていた」ということがありますが、まさにあんな感じです。

 

 「私にはなにもない」とおもっていても、生きてきたものは確実に残っています。
 みにくいアヒルの子のように、本来の自分から大幅にディスカウントされているだけです。

 それを信頼すること。そして、自分のIDでログインするように取り組んでいくことです。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 繰り返しに見える平凡な日常を通じて、「物理的な現実」の流れに乗ることができる。

 私たち個人においても、5年、10年もすれば景色はガラッと変わっているものです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

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私たちにとって「物理的な現実」とはなにか?

 

 今年、新しい『エヴァンゲリオン』の映画が公開されるそうです。
筆者が学生のときにテレビで放映されていたものですが、だいぶ息が長い作品ですね。
 (そのため、主人公はいまでもカセットテープのウォークマンをしています。)

 

 『エヴァンゲリオン』は、評論家などからは「セカイ系」と分類されるような作品です。セカイ系とは、複雑な社会は抜きにして主人公の内面と世界の危機が連動している、といった内容のものを指すそうです。

 実際に、主人公の行動と連動して大変動が起きたりします。

 

 自分にとって思うようにならない社会というものを中抜して、自分の心と世界が連動する(ことを望む)というのは、トラウマチックな心性と近しいものです。
 (『エヴァンゲリオン』の主人公も明らかに愛着不安というか、トラウマ的なキャラクター設定ですね)

 

 

 人間は、幼少期に自分の意志に共感するように養育者が反応してくれる経験を通じて「愛着」が形成されます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 もちろんズレもありますが、概ね自分の意志に対応するように「おっぱい」であったり、「おむつ」であったり、「だっこ」であったり、が提供されることで世界が自分に応えくれる、理屈の通った、という経験をするわけです。

 成長するにつれて、なんでも自分の思い通りには行かないことも知るようになります。

 しかし、自分が現実的に働きかけることで現実は確実に変わっていく、ということも学んでいきます。

 世の中が理屈にあったもので成り立っていることを基本として、理不尽な例外もある、というかたちでとらえていきます。

 自分も学業や仕事でコツコツと積み上げていくことで、高いところにも手が届く、ということを体感していくようになります。

 

 こうしたプロセスが不安定だったり、理不尽なことが多いストレスが高い環境だと愛着が安定せずに「複雑性トラウマ(慢性的なストレスによる障害)」と呼ばれるような状態になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分にとって周囲の環境は、思うにまかせないもの、というふうにしか感じられず、積み上がる感覚がありません。
 だから、努力が空回りしてヘトヘトになるか、ショートカットして自分の願望と結果を結びつけるしか手段がなくなってしまうわけです。

 その結果、「セカイ系」のように、自分の意志が世界とつながるようなことを願うようになるわけです。

 
 もちろん、現実には、連動することはありえない。そんな事になったら大変なことになります。

 結局、思うようには動かない世界があって、積み上がらない自分の経験だけが残る、という結果になります。
 

 

  
 1945年8月に敗戦を聞いた(いわゆる玉音放送を聞いて)日本の人々がどう感じたか?という体験談の中に下記のようなものがあります。

 

「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」(伊東静雄という詩人の日記)

 

 国を総動員した戦争に、国民は勝つと考えて臨み、負けました。
 負けるとは考えていなかったし、考えたくなかったわけです。
 
 悲しい事実の前に、自分を取り巻く物理的な自然も合わせて崩壊でもするのかと思っていました。

 しかし、自然は、全く変わることがない。

 ただ、「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼっている」というだけ。

 

 当時の人々も、それだけのショックな出来事が起きれば、それに対応して、物理的な自然も変化すると思ったわけです。
 でも何も変わらない、動かない。 それどころか、穏やかな風景がつづいているだけ。

 

 「物理的な現実」は、歯がゆいくらいに、私たちの意思とは関係なく、そこに存在する。

 

 私たちも同様の体験をします。

 生きづらく、自分が思うようには人生は進まない、やりたいことも明確にならない。

 でも、外に出たら、何の変わらない日常が広がっていて、太陽は照っている。
 ゴミ収集車がメロディーをのんきに流しながら走っている。公園では保育園の子供が走り回っていたりする。
 
 野良猫が車の上であくびをしている。

 
 それを聞きながら、いいな~とも思わず、ただお腹の中のジワジワする焦燥感と胸の不安のやり場もなく歩いている自分がいる。

 自分の気持ちに合わせて嵐でも吹いてくれればまだ落ち着くのですが、そうではない。

 「物理的な現実」は、私たちの精神とは関係なく、何も動かない。ただ変わらずそこにある。

 そして、冒頭のセカイ系のように、自分の願望が現実に反映されることを願う。しかし、反映されることはなく、「やっぱり叶わなかったか」と失望することを繰り返します。

 

 では、「物理的な現実」というのは残酷な存在なのか? といえば、実はそうではありません。

全く反対なのです。

 精神とか、言葉とかイメージには関係なく自然、「物理的な現実」が存在することは、実は私たちにとっては大いに救い、希望になることです。

 なぜなら、「物理的な現実」には、言葉とか心とかイメージにはない、大きな機能、特徴があるからです。

 

 

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 

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あなたは素直じゃない 怒りっぽい、という言葉でやられてしまう~本来私たちはもっと閉じなければいけない

 

 人間の「人格」とは、家に例えたら、塀であったり、壁であったり、ドアであったり、窓であったりします。
 自分を守ってくれるために存在する。 その上で他社と交流する場(応接室であったり、玄関先であったり)を提供するものです。

 私たちは、成長する中で、その「家」を作り上げていく。

 しかもその家は、社会的な役割をまとって、「公的な建築物」としても機能するようにしていくことで、最後は完成します。

 
 荷物も収納があるから収まるべきところに収まるように、家が完成することで私たちの精神も収まっていきます。

 私たちは、本来、社会の中で他者と関わりながら、自分を開くのではなくて、まずしっかりと閉じる。
 塀を作る。壁を作り、ドアには鍵がかけられるようにする。

 それがなければ、生きていくことはできません。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 

 しかし、トラウマを負っていると、その反対のことをしてしまっている。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 自分の家の塀をなくそうとする。壁をなくそうとする、ドアには鍵をかけないでおこうとする。

 そのために、他者の影響を受けても跳ね返すことができない。言葉をそのまま鵜呑みにして、傷つくようになってしまう。

 それどころか、自分の家の敷地と他人の家の境界線すら曖昧になってしまいます。

 こうしたことの背景には、親などからのローカルルールの暗示があります。

 よくあるのが
 「あなたは素直じゃない」といったような言葉。

 人間というのは上記で見たように、「外に向かって閉じている」ことが普通です。 ドアには鍵がかかっているものです。

 明るい外交的な人ほど、意外にこだわりが強く頑固だったりします。

 それはそういうものです。
 

 しかし、「素直じゃない」という言葉を真に受けて、もともと曖昧だった自分の人格の輪郭をさらに弱めてしまう。
 閉じなければいけないのに、反対に開いてしまう方向へと舵を切ってしまう。

 「もっと素直に、もっと素直に」というふうに。

 そうするとどうなるかといえば、他人に容易に支配されてしまう。
 言葉への免疫がなくなってしまうのです。

 「あなたは素直じゃない」というのは、「私の言うことを聞け!」という、相手の支配欲求から来る言葉なのです。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 

 

 
 「あなたは怒りっぽい」という言葉も同様です。

 怒り、というのは私たちを守るためには必須の感情です。
 

 怒りがあることで、ローカルルール人格へと解離している相手の目を醒まさせたり、自分の自尊心を明確に示すことができます。

 健全な怒りというのは、私たちにはなくてはならないものです。

 しかし、そのなくてはならないものが「あなたは怒りっぽい(怒ってはならない)」という言葉を真に受けると、機能しなくなる。

 

 そうすると、ニセ成熟のような状態のまま、いい人なんだけど、なんか割と食ったようなイライラを抱えたまま、でも、自信がなく、罪悪感をもちながら生きていくようになります。

(参考)→「親からの暗示で、感情、怒りを封じられる。

 

 さらにややこしいことが、自分の生きづらさを解決しようとして、悩み解決の本、自己啓発の本とか、セミナーを受けると、「ワンネス」だとか、「心を開く」「怒らない訓練」といったように、「もっと開け」あるいは「反応するな」といったようなことが書かれてあったりします。

 

 これも中には役立つものもありますが、実はそうしたことを主唱する人自身の不全感であったり、支配欲からくる発言であることも多いものです。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 人格を完成するためには、「外に対してしっかりと閉じる」あるいは「怒りなどの感情を表現していくこと」が必要なのに、反対に「どんどん開く」あるいは「感情を抑制する」ようにさせられて、自分の家(人格)が完成せず、それによって他者が怖くなってしまうのです。

 

 ニセ成熟のような状態で、反対の方に反対の方に日々努力して苦しんでいる方はとてもたくさんいらっしゃいます。

(参考)→「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 反対のことを実行していると、一瞬は心地よくなっても、結局は生きづらさが増してしまうのです。

 

 

 

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「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 筆者は、趣味でテニスをしているのですが、先日、同じスクールの人に「(新型コロナの)ワクチンって打ちますか?」って尋ねられました。

 世間話ですから、真剣に答えるものでもないので「いや~どうですかね~。すぐには打たないんじゃないですか。」「自分が打たなくても、たくさん打つようになったら集団免疫ができますし・・・」
なんて、他愛もなく、適当に話をしたりしていました。

 

 ワクチンを打つ、打たないというのは、ニュースでも話題になっています。
もしかしたら、副反応が出たらどうしよう?といったことを考えるわけです。

 もちろん、何千、何万人もの人に治験して安全性をチェックしているわけですが、それでも、「大丈夫か?」となったり、「それだけの効果はあるのか?」とさまざまに検討がなされています。

みなさんも「新型コロナのワクチンができたら、自分なら打つかな?」なんて考えたことはあるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとかんたんな思考実験ですが、

 

 例えば、「新しいワクチンがあります。10人の人が効いたという“意見”を持っています。あなたは打ちますか?」と言ったらどうでしょうか。

 

 ほぼ100%の人が「絶対に打たないよ」というと思います。

「だってあまりにも人数が少ないし、しかも、人の“意見”でしょう?それだけでは信用できないよ」と。

 意見ではなく、なにか疫学的チェックが入っても、治験のサンプル数が10人ではほぼ打たないでしょう。

 100人ならどうか? 「打ってもいい」という勇気のある人が一人二人は出るかもしれませんが、多くの人は打たないでしょう。筆者も打ちません。

 

なぜでしょうか?

 当たり前のことですが、信頼性がないから。安全性が確保されていないから。
その人数では、効く、安全ということが事実であるとは到底いえないと考えるからです。

 

 効果がある、という事実もしくは信頼性がある程度確定するまでには、相当なチェックが必要とされることは言うまでもありません。

 

 人文科学、社会科学でも同様です。
 本当に事実とされるには、査読とか、様々にチェックされてはじめて「妥当」「確からしい」とされます。
 「私、見たんです」「そう思うんです」「10人の人がそう言っています」というだけでは、認められることはありません。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」 

 

 

 

では、話題を変えまして、

 3人の人が
 「あなたが変だ。あなたは間違っている。あなたは嫌いだ」と言っていました。信用しますか? と尋ねられたらどうでしょうか?

 

おそらく、ガ~ンと頭を殴られてような感じがして、
「3人もの人が言っているんだったら、本当に違いない・・・」と思ったりしませんか。

 これが10人だったらほぼ確定。もう死刑宣告のような気がしてしまいます。

 

たとえ1人でも、

「他人が言っているんだったら、そうかも?」と思ったりしてしまいます。

 

 

 ワクチンだと、10人でも、100人でも「人の意見なんて信用できない」となりますが、自分に関する否定的な事柄になると、サンプル数が1であっても、信用してしまいます。

 

なぜなのでしょうか?

 

 これが、負の暗示の力、ローカルルールのもつ力によるものです。
ワクチンとか、他のことに置き換えたらもっともだ、ということでも、自分に関する事柄になると、重力が歪むがごとく、ぐにゃ~っと事実の基準も歪んでしまうのです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源

 

 自尊心が高い人だと、ここで、ショックを受けながらも、「いいかげんにしろ!」と怒ったり、振り返ってみて「う~ん、なんか肚落ちしない。なんかおかしい」となって、スルーすることができます。 自らの力で“治験”することができます。

 

 その際には、内面化した自分の仲間などを思い浮かべてその人達に頭の中でチェックを通してみるわけです。
 こうした治験、解毒のプロセスが「愛着」と呼ばれるものです。まさに心の中の免疫メカニズムです(アイヒマン実験で同様のことが指摘されています)。

 

 でも、愛着が不安定だと、あるいはトラウマを負っていると、このプロセスが機能しません。そのために、そのままその毒にやられてしまって自分を疑い、否定し、自尊心が低下していってしまうのです。 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 他人の言葉をチェックなしに受け入れるなんてありえません。それは「素直」ではまったくない。「無防備(免疫不全)」といいます。「素直さ」とは、免疫システムをくぐり抜けて解毒された“後の”ものを消化吸収する機構のスムーズさのことです。ノーチェックで外から入ってきたものを受け入れることではない。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 世の中で、素直と言われたり、物分りが良い、と言われる人というのは、しっかりと免疫メカニズムが備わっている。ガードがしっかりある、ということです。だから、解毒して、必要なものは受け止めることができているだけです。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

 「頑固な人」というのがいます。少々乱暴ではありますが、あれはあれで実は健全です。国境に未確認な飛行機が近づいたら発砲する、みたいなもので、それが普通。他人の話をチェックなしに受け入れるほうが、実ははるかに病的なのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 でも、トラウマを負っている人は、ノーチェックで人の話を飲み込んでしまう。 

 何万人の治験をくぐり抜けたワクチンでも警戒するのに、人の話はそのまま信用して飲み込んでしまうことの異常さは繰り返すまでもありません。

 

 

 昔の王様などは、不老長寿のために水銀を飲んだり、今の時代から見たら毒でしかないものを服用していたなんてエピソードがあります。それと似たようなことがトラウマ。

 

 自分に自信がない、自分はだめだ、自分はおかしいという場合は、これまで生きてきた中で「他人の言葉」という、治験もされていないニセの薬を信じて飲まされてきた毒素にやられていると言っても良いかもしれません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 

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