「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 トラウマを負った人は、私的領域に上がり込むようなコミュニケーションが当たり前だと思い込まされています。

 これは、理不尽な環境で多くは親からの入れられたローカルルールでしかなかったりする。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 子どもに、自分の私的領域を覗き込ませて、巻き込んで、癒やしを得ていたわけです。

 そうした場合によくあるのが、「私の気持ちを察しろ」というメッセージです。
 
 
 不全感を抱えた親が、「自分の気持ちを察しろ(それがいい子である証だ)」言って、私的領域を覗き込むことが当たり前にさせられてしまう。

(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション

 

 

 

 大人になってからも、人の気持ちを察したり(私的領域を覗き込んだり)、あるいは自分の気持ちも言わなくても察してくれるはずだ、ということが当然だと思うようになる。

 すると、例えば、自分が何かを言わなくても、相手が察してくれるはずだ、とおもって、 そっけない周りの人たちにイライラするようになったりする。

 

 「なんでこの人たちは気がつかえないんだ」と本人はイライラしていますが、実は、周りの人は自他の区別をつけて健全に過ごしているだけだったりする。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎」

 

 

 例えば、お店で自分の好きな席に案内してもらえずにイライラする、とか、急いでいるのにノロノロしている人にイライラするとか、

 「も~、言わなくても、私のいらいらした気持ちを察してよ!!」と腹を立ててしまう。

 これはローカルルールに影響されたトラウマティックな症状です。

 

 あおり運転なども、この「察しろよ!」ということもベースにあります。数年前に流行った「KY(空気読め)」なども実はこれです。

 ローカルルールに見られる典型的な精神状態で、自他の区別がない、とても幼い状態です。 

(参考)→「自他の区別がつかない。」「「自他未分」

 

 

 

 物理的な現実から離されて、イメージの世界でやり取りさせられていることがわかります。

 この「私の気持ちを察しろ」の一番の悪影響はなにかといえば、最終的に自分の主体性や主権が奪われる、ということです。

 

 

 本来は、人間はテレパシーは使えないのですから、何をしてほしいかは自分で伝える必要があります。

 してほしいことがあれば、「あの席にしてください」「少し道を開けてください」と伝える。

 

 これは、自分に主体性、主権がある状態です。

 

 もちろん、叶えられない場合もあります。相手があってのことですから。

 

 どうしても叶えてほしければ、それなりのお店に行くか、お金を払ってタクシーでも乗ればいい。

 

 チェーン店は、多くの人と空間やサービスをシェアすることやバイトの人で運営することで、多くの人に安い価格でサービスを提供できるようになっている。

 だから、混雑して時には待つこともあるし、サービスのクオリティが落ちることもある。

 

 でも、それも仕方がない。
 
 嫌ならば、事前に予約でもするか、自分専用のサービスを契約するしかない。

 

 それもせずに、安いお店に“自分で”選んで入っているにも関わらず、バイトの店員さんに腹を立てたりする。

 ローカルルールによって、自他の区別を奪われて、自分の期待と、相手の行動との区分も曖昧にさせられている。

 

 自分の期待通りに相手が動くことが当然であるように錯覚させられている。

 さらに、「自分の期待」「相手の考え」といったような空想の世界が主な舞台となって、物理的な現実から離れてしまう。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 そして、いつのまにか、自分の主権、主体性は放棄させられ、主客が転倒して他者に主権を預けたようになりイライラにとらわれさせられていることがわかります。

 (実はイライラしている状態というのは、ローカルルール人格にスイッチしている状態です。)

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 相手は相手の都合で動いているだけなのに「世の中はひどいやつばかり」とローカルルールの証拠にさせられて、見捨てられ不安が沸き起こり、怒りにかわる。

 

 ローカルロールで自他の区別を曖昧になる → 物理的な現実から離される → 主体性が奪われる → ニセの感情にとらわれる → ローカルルールは維持される
 

 という構造になっている。
 

 

 「察してよ!」という気持ちが湧いてきたら、ローカルルールに影響されているサインです。

 意識して、物理的な現実に立ち戻ってみる。

 物理的な現実の私たちとは、自分と他人とは別の物体であって、完全に分かれています。

 自分も相手も、互いの期待通りに動くとは限らない。

 頭の中にあるものは空想であり現実ではありません。

 相手に何かをしてほしい場合は、物理的な音声や文字でその旨伝えて相手の都合を尋ねる。
   

 こうして自分で主体的に選んだものということには清々しさがあり、そこには自他の区別がちゃんと生まれます。

 

 

 反対に、おまかせで察しろ、はローカルルールの空想の世界(私的領域)であり、自他の区別もなく、ニセの感情にとらわれ、人間らしい主体(公的領域)もどこにもないのです。 

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 主体を奪われると私たちは退行し、成熟から離れて、トラウマティックな状態に留め置かれてしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

 

 「人からどう思われるのか?」が気になったり、

 「自分が否定的に思われているのではないか?」と考えて、不安になったり、

 「人からネガティブな考えを持たれているのでは?」と怖くなったり、ということがあります。

 トラウマを負っているととくに、人の考えを考えさせられて、巻き込まれてしまう傾向があります。

 

 人の考えがあたかも真実であるかのように考えさせられて、それに影響されてしまう。

 
 人の考えとはなにか?についても実態を知る必要があります。

 

 人の言葉が戯言だとということは、人の頭に浮かぶことも同様に戯言、妄想でしかありません。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 私たちは、相手からどう思われるか?ということを意識し、恐れますが、相手が考えることにも全く意味はありません。
 

 人間が頭で考えること(とくにネガティブなこと)はすべて、養育環境で負った不全感を目の前のものに自動反応として投影しているだけです。

 「この人はこんな人だ」とか、

 「この人は嫌いだ」という考えが浮かんでも、それは、養育環境からくるものに巻き込まれて考えさせられているだけで、目の前の人をありのままに捉えているわけではありません。
  

 

 ツイッターやインターネットの掲示板とかで披露されている意見もすべて、単なる私的領域(生育歴)の自動反応的な投影です。
 
 
 TVのコメンテーターの意見も全て、単なる私的領域の自動反応的な投影です。

 だから、そこには真実はないし、事実を何も指し示していないのです。

 

 私たちに向けられる意見や考えも、客観的な私たち自身を見ているわけではありません。

 

 以前もご紹介しましたが、
 手塚治虫が同輩や後輩の漫画家について「ここがダメ」と評論していたところ、実はそれらは手塚治虫が自分の地位が脅かされる不安や嫉妬ゆえにそうしたことを書いていた、という有名なエピソードがあります。

 福井英一やさいとうたかおはそれに憤慨し、石ノ森章太郎もショックを受けたと言われていますが、その評論自体は私的感情による戯言であって事実を何も指し示していなかった、単なる嫉妬であったというのです。
 
 漫画の神様と言われる人でもこのような状態であった。人間というのはこのようなものです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 私たちがこれまで生きてきた中で受けた誹謗や暴言、誤った評価といった理不尽な経験もすべて私たちの実態を何も示していない。単なる私的領域の投影であり、ローカルルール、戯言に過ぎない。親から受けた「あなたはこんな子どもだ」というのも全て戯言。だから、そこを真に受ける必要はまったくないのです。

 

 

 では、他者がそうなら私たち自身が考える考えもそうなのか?といえば、私たち自身の考えもそうです。

 単に私的領域(生育歴)の投影でしかありません。

 

 別の言い方で言えば、(とくにネガティブな考えは)ローカルルール人格の考えでしかない。

 

 自分の考えがどこにあるか?といえば、どこにもなかったりする。

 かつては哲学において、最近は、心理学においても「自由意志などない(だろう)」とされていますから。

 

 人間が、物事をありのままに見るためには、かなり意識的にトレーニングをする必要がありますし、公的な役割を代表している状況下においてでなければ、基本的になされることはありません。
(教養や職業によって、人格を涵養する事が必要)

 

 人格的に一定程度成熟し、職業的な知識・経験、役割、あるいは教養をもった状態であれば、その意見はまだ耳を傾けるに値します。
 (昔の人達が、教養や人格の涵養を重んじたのはこうしたことのためだと考えられます)

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 
 しかし、プライベートな環境下では、現実にそうした事ができている人はほぼいないと言っていいのです。

 

 では、私たちは救いがないのか?とおもうかもしれませんが、そんなことはありません。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!」

 考えや意見が戯言に過ぎないとわかったときに、初めて私たちに自由と主権が宿る。
 

 自分の考え、と思っているものも結局ローカルルールを真に受けているだけではないか?ということを疑ってみる。

 養育環境で負ったローカルルールを相対化していく。

 そのために、正しい知識を得て、現実を見ようと務める。
 社会的な役割を得て、普遍的な何かを代表し、アウトプットする。

 通常はそれが、
  安心安全な環境を背景に
  ・反抗期  
  ・職業に就く
  ・(教養を積む)

 という2段階(3段階)で自然となされるようになっている。
そうした作業が、健全な成熟ということです。

 
 人の考えもすべて戯言だと気づいたあとに初めて、世界に対する自分の自由や主権を回復させることができるのです。 

 
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 


 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 真に受ける必要はない。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 これで言われてきた理不尽な言葉、自分への悪口、指摘もすべてローカルルールでしかない。

 他の人から見て立派な人でも、人間は容易に解離してしまうもの。

 


 すると、なんとなく思えるのは、

 「すべてが戯れ言なら、真実はないの??」

 という不安がよぎります。


 「そうです。真実はありません。」と答えると、価値相対主義になります。

 


 反対に、
 「真実はあります。他の人の言葉は戯れ言ですが、私の言葉は信じてください」と答えると、怪しげな宗教になってしまいます。

 


 では、どう考えればよいのか?

 

 この問題は、実は、デカルト以降、カント、ヘーゲルなどなど、錚々たる哲学者が取り組んできた問題でもあります。
 ヨーロッパでも、近世から近代にかけて「キリスト教の言っていることがもしかしたら戯れ言だったのでは??」という精神的な危機が訪れたからです。

 

 権威ある言葉もどうも戯れ言であった、という恐ろしい事態。

 ただ、人類の英知とは便利なもので、こうした難問にも答える知恵が見いだされてきました。

 

 


 宗教のようなこれが唯一の真実という答えはもちろんありませんが、
 実は、ちゃんと人間が安心して生きていく上での土台というのはあるのです。

 健康に生きている人がよって立つことのできる“普遍的な何か”というものが。

 

 

 まず、個々の人間の言葉には真実はありません。すべて戯れ言といって間違いがない。

   
 ただ、社会全体には、なにやら”真実”とでも呼びたくなるような普遍性のあるアイデアや感覚というものがどうやらある。

 


 例えば、世界の人々を魅了するような歌や、文学、絵画などは、そうした、普遍的な”何か”をアーティストが、あたかもシャーマンのように降ろしてきて表現したものです。

 わたしたちの身体的な感覚としても腑に落ちて、しっくりきて感動し、魅了される。

 

 
 そうした普遍的な“何か”のことを、プラトンは「イデア」と呼び、ヘーゲルは「歴史」「世界精神」、ルソーは「一般意志」などと呼んでします。
 (このブログの中では、それらを「常識」「社会通念」あるいは「パブリック(グローバルな)ルール」と表現してきました。)

 


 それらを目に見える形で表現することを「代表」といいます。

 
 “普遍的な何か”というのは、直接に表現することはなかなか難しい。

 
 作家や画家、作曲家といった人たちも、苦悶しながら、それを降ろそう(代表しよう)としています。

 

 民主主義では、世論調査や選挙を通じて一般意志を「代表」させようとしていますが、なかなかうまくいかず、「自分たちの気持ちがわかってもらえていない」と不満を持つ人も多い。

 

 科学などの専門的な知見もある意味、普遍的な“何か”を「代表」させる方法です。

 

 最近では、統計、AIを使って、“普遍的な何か”を表現しようという試みもあります。
 
 ※ルネサンス(近世)以降の西洋の取り組みというのは、半ばローカルルール化した宗教から離れ、“普遍的な何か”を自ら作り上げようとしてきた歴史とも言えるのです。

 

 個々の人間の言葉は戯れ言だ、というのは、AIやビッグデータで言えば、個別のデータには意味がない、ということと同じ意味です。

 

 アンケート調査でも、ひとりひとりの意見は意味がありません。逆に真に受けると惑わされたりします。

 

 ただ、それらを集計して、単なる合計ではなくその背後にある母集団、法則といったものを見出した際に、“普遍的な何か”に近づくことができます。

 


  
 個別データも意味がないように、個々の人間には嫉妬や支配欲、不全感と言った能動的なバイアスがかかります。つまり、意図的に相手をコントロールするために自分の言葉を使おうとするのです。

 それらが強く現れている状態を「ローカルルール人格」と呼びます。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 特に、私的環境では頻繁に現れます。真に受けるなんて危険極まりない。

 

 


 一方、公的な環境では、マシになります。

 なぜなら、公的環境では、上記で書いたような「代表」という機能が働くからです。
 
 人間は公的環境で、公的な役割・責任を背負うと、普遍的な何かを「代表」するという力が働きます。   

 例えば、仕事に没入しているとき「私」というものは背後に下がり、
 その職務で果たすべき機能を自分が表現している、という実感をわたしたちは感じます。
 
 さらに仕事に習熟し、没入していると、なにやら仕事の精神が自分に宿ったような、全体とつながって世界の一部になったような不思議な感覚になることがあります。

 こうした感覚が「代表」という状態です。

 


 そうしたときに発せられる言葉は、まだ信じることができます。


 専門家の言葉が信用に足ると思われているのは、専門知識や職業意識などが普遍性を代表してくれていると思うからです。 

 
 
 ただ、もちろん生身の人間ですから、ちょっと気を抜くとノイズも入りやすいです。
 公的な環境においてもそうです。
 専門家でも、専門領域の内輪の理屈を優先したり、過度に専門的すぎて普遍性から離れてしまうと「専門バカ」と呼ばれて、信頼されなくなります。
 
 だから、公的環境の言葉も真に受けすぎずに、できる範囲で都度吟味はします。

 


 でも私的領域に比べれば、かなりマシです。

 

 

 気をつけておかなければいけないのは、公的環境とはハコ物が揃っていれば成り立つものではないということ。学校、会社や職場という環境は実は、公私が曖昧です。
 なぜなら、組織に機能不全がない学校や会社はなく、機能不全な環境では、私的領域(ローカルルール)が生まれ、モラハラ、パワハラが横行し始めたりもするからです。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」

 

 

 以上は、理屈を整理したものですが、私達が現実に生きていく上においては、難しく考えなくても大丈夫です。

 世の中の「常識」や「社会通念」というのは、思っている以上に、信じるに足る“普遍的な何か”であります。
 特に、社会がバランスが取れて、多元性が保たれていれば、かなりの程度、普遍性を代表してくれています。

(参考)「常識、社会通念とつながる


 
 
 このように、わたしたちは、「常識」という名の“普遍的な何か”を拠り所にして生活をしています。


 常識を拠り所にできるためにはいくつかの条件があります。


 それは、
 ・健全な愛着が土台としてあること。
 ・そして反抗期を経て、自他の区別がついていること。
 ・社会の中で位置と役割(いわゆる仕事)を得て、社会の中で自己を解消していること。 
 ・さらに、睡眠、食事、運動が適切に満たされ、心身が安定していること。


 そうして、「常識」を拠り所にして違和感なく生きることができます。
 


 本来の親の養育や、社会の教育、というのも、“普遍的な何か”を、身近な大人が代表して伝える営みです。そうして、常識を伝えていくものです。決して、親の個人的な信念を伝えるためにあるのではない。
 健全な教育を受けていき、さらに、反抗期で一旦それを総否定することで、自我が形成されて、自分で再編成した「常識」を支えに社会に出ていく。
 さらに、職業など公的な役割を得ることで、“普遍的な何か”を代表する。
 それにより、ほんとうの意味で自己一致という状態に至ることができるのです。

(このような人格陶冶をヘーゲルは「教養(ビルドゥング)」と呼びました)

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある」

 

 


 別に特別なことではなく、愛着に問題がない健康な人であれば、自然とできていることです。


  
 反対に、上記の条件に欠けがあると、生きづらさを感じたり、「ローカルルール」に巻き込まれたりしてしまうのです。

 つまり、私達が悩みや生きづらさを抱えていたりするのはこうしたことが背景にあるのです。トラウマとは”普遍的な何か”から切り離されている機能不全状態のこととも言えます。

 


 人の言葉はすべて戯れ言であって、真実はそこにはありません。
 (人の言葉はビックデータのための個別データとしてならかろうじて活用できるかもしれませんが)

 


 
 人の言葉というのは、戯れ言として聞き流していると、ローカルルールに巻き込まれずにスルーすることができます

 そうしていると、“普遍的な何か”を身体で感じることができるようになる。

 別に“真実”などという大げさなものではなく、「常識」といわれるようなもの。
 

 

 

 身体感覚で感じる“普遍的な何か”を拠り所にしながら、
 人の言葉は戯れとして適当に楽しむ。フリをしながら付き合う。
 そうして初めて人との一体感、つながりが生まれてきて、「気が合う」「一緒にいて楽しい」と感じられるようになる。


 人の話を真剣に耳と傾けていたときには「疎外感」「生きづらさ」を感じていたのに、
 ‘戯れ言”としていい加減に聞き流し始めると、楽しく感じられるようになる。

 
 マジメに人の中に‘真実”を追い求めていたときは、「絶望」を感じたり、自己啓発のグルの言葉でかりそめの癒やしを得ても満たされなかったのに、人の言葉はすべて戯れ言であり、世の中に真実はないとわかると、「代表」が機能し始め、普遍的な何かを感じることができるようになる。
(参考)→「「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。


 
 戯れ言とは、「戯れ(遊び)の言葉」ということ。
 戯れ言とわからなければ、人の言葉は楽しく感じることができないのです。

 

 このような感覚が、みなさんが悩みが解消した先にある、普通の世界なのかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

「言葉には心を越えない~♪」というのは昔大ヒットした歌の歌詞です。

言葉には意味がないのよ、というのは昔から人間が感じていたことです。

 一方、言葉が最初にあった、というように言葉の価値の大きさもわたしたちは知っている。

 

カウンセリングでも、「傾聴」ということが重んじられるわけです。

では、本当の傾聴ってなんだろう?と考えたくなります。

 

 傾聴とは、鵜呑み、真に受けではありません。

 人間が解離しやすく、内的な人格が分かれているという性質を持つ以上、すべて真に受けることはありえません。発せられた言葉を吟味し、選別し、本来の人格の声を見つけること。それも治療者の役割と言えます。

 

 ハラスメントやローカルルールといったものを見るにつけて、強く思うのが、「日常の人間の言葉は本当に意味がない」ということです。

 

 なぜかといえば、繰り返しになりますが人間は容易に解離してしまう存在であり、おかしくなってしまうからです。
 これは誰でもそうです。

 とくに私的環境では簡単に人格スイッチしてしまう。 

 そして、私的な情動(不全感)をもとに、相手を支配しようとしたり、攻撃しようとして、おかしな発言をする。

 

 人間は、公的な環境で、公的な役割を背負ってはじめて理性的でいられる。
 実際に、古代ギリシャでは、公的な役割がなければ完全な人間ではない、と考えられていました。

 
 それは、私的な環境では人間がいかにおかしくなってしまうのか、ということを経験的にわかっていたからかもしれません。

 日常生活で人間は、夜中に食べたくもないラーメンを無性に食べたくなるくらい、本心というのはわからない存在。本心って一体何?と不思議に思います。
 

 言葉はもっといい加減。

 

 日常で発せられる言葉、とくに責任を負わない消費者という立場には、ローカルルールが頻繁に介入してきます。そのため、無駄な買い物をしたり、クレーマーになってみたり、おかしなことだらけ。

 

 臨床の現場でも、言葉を吟味せずに治療者がすべて真に受けては、クライアントさんにとっても危険で本来の人格とローカルルールからきたものとを、よほど吟味しないといけない。

 

 悩みを抱える、とはなにかといえば、ローカルルールを内面化した状態、と定義できます。

 

 
 例えば、クライアントさんが
 「仕事でミスをする人がどうしても許せない」と言ったとしたら、

 それは、「ミスをしてはいけない(ミスをする人は存在してはいけない)」という内面化したローカルルールから来た言葉だとわかります。

 

 その「ミスをしてはいけない」はどこから来るか?といえば、

 養育環境で親などが、イライラする自分の不全感を発散させるために感情を子どものぶつけることを正当化しようとして、「お前がミスをするからだ!」「ミスをしてはいけない、というのは常識だ。だからお前を叱責しているのだ(自分の私的感情からイライラしているのではありませんよ)」ということから始まり、

 それを「期待に応えなければ」と思う真面目な子ども(クライアントさん)が真に受けて、内面化し、忠実に実行してきた。

 そして、親のローカルルールに感染した「ローカルルール人格」が子ども(クライアントさん)の中に形成されます。

 
 そうして長い年月を経て、発した言葉が「仕事でミスをする人がどうしても許せない」ということ。

 

 そうなると、それはその方の本来の発言ではありません。ローカルルールに言わされている、ということです。
 ”ローカルルールの現れ”として捉える必要があります。

 
 そして、治療者が「それ、ローカルルールのようですね」と区分けしたり、本来の自分ではない、とあえて否定したりする必要がある。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 治療者が、まさか「傾聴が大事」なんて真に受けてしまっていたら、クライアントさんは良くならない。
 クライアントさんの本音は、「今私が話している言葉は本来の私ではなく、ローカルルールに言わされているんです~。誰か気づいて、助けて~」と思っているのですから。

 
  
 別の場面で、
 「治療者の言葉や態度が気に入らない」と言ったとしたら、それも内面化したローカルルールから来ている。
 まさか真に受けて、治療者が「態度を改めよう」なんていうことは全く必要ない。勘違いして、もし態度を改めたら、クライアントさんは余計にローカルルールに呪縛されてしまう。
 

 それも、「ローカルルールから来ているようですね」といって、区分けしてあげないといけない。

 

 ローカルルール人格というのはまさに、ウイルスによって、パソコンが乗っ取られているような状態です。社会学者の内藤朝雄氏の本でもいじめに加担した生徒の声が載っていますが、「何かそれ、うつっちゃうんです」という状態。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 だから、乗っ取られた状態を真に受けて「そうなんですね~」なんて傾聴で応じていてはいけない。

 しっかりと観察して、区別して、指摘して、ローカルルール人格というものの影響を明らかにしていかないといけない。
 それによって、クライアントさんも本来の自分に戻ることができるようになる。
 

 

 

 繰り返しになりますが、日常で発せられる言葉というのは本当に意味がない。
 

 冒頭に書きましたように、言葉の価値は本来大きいのですが、「言葉が尊い」という場合のそれは本来は「神の言葉」という意味。人間はそれを承るだけの存在だし、完全には理解できない。
 その言葉の価値を悪用しているのがローカルルールです。ニセの神様のようになって、言葉を弄んでいる。

 人間の言葉はすべて戯言です。

 

 公的な環境になると人間の言葉がかろうじて意味を持ってくるのは、それは公的な役割を通して「一般意志」をいくらか”代表”できるようになるから。
 一般意志とはルソーの概念ですが、社会の普遍的意志のことです。
 (普遍的意志は、近代以前は、シャーマンや聖職者が、神がかって降ろしたりしていました。占いなどもそうですが、なんとかして神の言葉を読み取ろうとしていたのです。)
 

 作家や歌手の言葉が感動を呼ぶのは、普遍的意志を降ろしてくるから。
 でも、それができるのは瞬きのような一瞬で、いつもではない。だから、しばしば薬物に手を出すようなアーティストも出てくる。

 

 一方、日常では「悪貨は良貨を駆逐する」というように、価値のない悪貨だらけの世界であることを知らなければならない。
 東大の安冨歩教授は「世の中はハラスメントでできている」といっています。ハラスメントの言葉だらけ。本当に価値のある言葉が埋もれている状態。

 

 目の前の貨幣(言葉)が本物か偽物かを吟味することをせずに、すべてを受け取らなければならない、という間違ったルールに従わされている。 

 

 

 「傾聴が大事」と思いこまさせられている人たちが、まさにハラスメントの犠牲者になっている。親やいじめっ子や、上司の盲言を真面目に受け止めさせられて、カウンセラー役をさせられてしまっている。
 

 

 反対に、健康な人ほど日常の言葉は意味がないと知っていて、やり過ごしていたりします。

 東大の教授が書いた本はまさにその様になっています。
 (参考:高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」日経ビジネス人文庫)

 やり過ごすことが勢いのあった時代の日本企業を支えていた、というのです。

 

 
 カウンセリングでも、本来大切なのは傾聴ではなく観察。

 治療者であれば、クライアントさんの様子を、よーく観察する。
 言葉は真に受けない。あくまで観察のための材料。基本的にはやり過ごして、聞き流さないといけない。

 良い料理人が目利きをするみたいに、素材を選り分ける。
 良い研究者やジャーナリストみたいに、証拠を吟味して、取捨選択をする。

 

 言葉が1000あれば、そのうち本来の言葉はかろうじて3つあるかないか、かもしれません。
 日常であれば、ほぼ0といってもいいくらい、言葉には意味がない。言葉は本来神のものですから。

 

 ローカルルール人格とはニセの神様になった状態のことです。
 (いじめを行っている人たちや、あおり運転の人たちも、まさに神のような全能感を持って他人を裁いている様が最近であれば動画で記録されています。)

 日常の言葉とは、その方の生育歴からくる雑多な感覚を目の前のものに投影してただ吐き出しているだけ。何も”代表”していない。

 
 悩みを抱えている人にとっても、こうしたこと知るのはとても大事。

 

 自分自身がローカルルールの影響から逃れるためにも、ですが、日常でハラスメントにあわないためにも、です。
 人が発する言葉にはすべて意味がないと知れば、「~~さんって嫌なところがあるよね」みたいな気になる意味深な言葉も、全く意味がないとスルーできるようになります。

 

 日常の言葉は戯れ言としてすべて聞き流す。言葉は何も表していない。
 (聞き流してはじめて本当のコミュニケーションが取れるようになります。)

 

 

 今までは理想化して、恐れていた人が、大したことがない存在であること、「解離しやすいおサルさん」でしかなく、話す言葉も意味深なだけの意味のない言葉であることがわかってきます。人に対する怖さがなくなってきます。

  
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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