「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 愛着的世界観、人間観とは、人間をありのままに見る、ということです。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 ありのままに見るのはかんたんなことではないか?と思うかもしれませんが、これはなかなか難しいことです。

 多くの場合はそうなっていない。

 

 他者を怪物のように捉えてしまって恐れるか、自分を汚れた存在、ダメな存在と捉えてしまって自信を失っているか。

 あるいは、不安から、自分は人よりも優れている、他人は自分よりも下等である、と捉えているか。

 

 あと、よくあるのは、人間は素晴らしい存在である、あるべきだ、より良くなることを目指そう。しかし、既成の概念に染まっているがために、本来の力を発揮できていないから、自己啓発やセラピーによってそうしたものを外していけば、素晴らしい存在になれるはずだ、という考えです。

(参考)→「カウンセリング、心理療法側も「人間は立派なもの」と思っていたりする

 

 実はこうしたことも、“非”愛着的な人間観、世界観といえます。
愛着が傷ついたがゆえに、人を素晴らしいと捉えざるを得なかったり、自己否定から自分を改善しようと考えている。人を支配したい人がそのように唱えて不安な人をひきつけているケースもよくあります。

 「素晴らしい存在と捉えること、目指すことになにが問題か?」と思うかもしれませんが、現実はそうではないのに「素晴らしい」と捉えれば、当然ながら実際とは異なり無理が出ます。
 本当はそうなれないわけですが、なれない原因を当人に帰属させて、その人は素晴らしい存在よりも劣った存在、ステータスだと認識されてしまう。
 本来は素晴らしいはずなのに、なれていないのはその人が根本的におかしいからだ、となります。
 「素晴らしい存在であるはず」というテーゼが崩れるのを防ぐためにそう考えるようになります。

 

 押し出しの強い他者に出会った際に、根源的に素晴らしい存在として過度に理想化するか、あるいは、悪魔、支配者と捉えて、強く恐れるようになったりもするのです。

 

 その背景には、存在(Being)と行動(Doing)との一体視があります。存在(Being)と行動(Doing)を一体と見て、「素晴らしい存在」とします。
しかし、行動(Doing)は不完全で弱い、ということは変わりがありませんので、それが、「素晴らしい存在」ということと整合しない。
 すると、行動(Doing)と一体化している存在(Being)も「劣った例外」として一体で処理されてしまう。
 さらに、行動(Doing)を装飾する他者に出会うと、存在(Being)も理想的で完全だ、と錯覚して、自分が駄目な証拠とするか、ローカルルールに従ってしまう、となってしまうのです。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 

 共産主義だとか宗教といったユートピア運動において、人間を理想的な存在としながら、現実にはそうなっていない人たちを別カテゴリとして排除する、支配欲を持った人たちが自分たちは完全、他人を支配して当然だと錯覚する、
 といったことはしばしば見られることです。

 それと同様のことが私たち個人レベルでも生じます。
 

 
 「人間は素晴らしい存在である」という価値観と、私たちを苦しめるローカルルールとは同根であるのです。

 ローカルルールは、「人は素晴らしい」はずなのに、「あなたみたいなわがままで、扱いにくい人間はよほどおかしいにちがいない」(その証拠に、行動Doingが不完全だ)とします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 
 
 セラピーやカウンセリングの理論や人間観などでは、「人間を素晴らしいもの」とする考えをするものがよくありますが、実は危ない前提であったりする。

 聞いているとうっとりしてよいかもしれませんが、論理の構造はローカルルールと親しく、実は自分の首がしまって、主権は奪われてしまう。

 ローカルルールから離れようとして、別のローカルルールを対置しているような変な構造になっている。

 

 

 カウンセリングの始祖のロジャーズも、人間の素晴らしさを訴えて、同時代の哲学者から手痛い反撃を食らったことがありました。
 哲学者は、人間とは弱く、不完全で、それゆえ社会の中でしか生きていくことができない存在だ、としていたのです。

(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 
 
 実は、「人間は素晴らしい」とすることで愛着的世界観から離れてしまい、他者はモンスターのように感じ、自分はなぜか自信がなくなる。
 人間らしさ、主権が奪われてしまうのです。
 

 人間とは、社会内の存在であって、社会の中で位置と役割を得る必要があります。人間とは弱く不完全だ、と認識した人間が技術や教養を身につけ一身独立し、位置と役割を得ることで初めて公的な存在としてあることができるようになります。
 公的な存在でなければ、人間は独立した人間として存在することができません。
 ひきこもりなどの問題は、このプロセスにおいて、不適切な対応や、サポートがなかったりすることから生じます。
 私たちが感じる生きづらさも、主権を持って生きるための要件に問題が生じているために起きています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 自由というのも、社会の中での位置と役割を持つことと同義です。 
 公的な存在としてあることができなければ、生物的には存在してても、自分が何者かわからないまま、主権を奪われ、焦燥と不安に生きるしかなくなってしまいます。

 

 愛着的人間観、世界観というのは、生きるための土台ともなるものです。

 ローカルルールから離れようとして、「より強く、より完全に」と努力することは、実は反対に方向に進んでいることになっていたりする。
 ローカルルールの世界観をなぞる結果となってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 私たちが頭の中で、自分をなじって責めるのも結局、何やら理想的な状態と比べて自分を罰しているわけですからね。

 本来、解決の方向とは、「弱く、不完全に」(現実を知る)というもの。
それは、自分だけではなく、すべての人間がそもそもそうだ。だから自分の存在(Being)に罪などない、という世界です。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「どうせ言っても無駄だ」と言葉が重くなると、まわりまわって人の言葉がスルーできなくなる。

 
 言葉偏重 ということには、いくつもの事が影響すると考えられます。

(参考)→「「言葉」偏重

 

 それは、ローカルルールというものが、現実ではなく私的な感情を覆い隠すために「言葉」でつくられているということ。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 なんら現実に足場がなく、言葉やイメージによって自分の価値が左右される理不尽な経験を通じて、言葉を信じるようになってしまう。

 例えば、「~~ちゃんは、意地の悪い子ね」なんていうのも、単なる言葉でしかありません。

 自分の物理的な実態は何ら問題がないし、揺るがないはずですが、
 言葉に振り回される経験をすると、現実や事実よりも「言葉」ということが重んじられ始め、言葉やイメージの世界(空想界)に巻き込まれるようになります。

 さながら、陰謀渦巻く伏魔殿のように。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 そして、それを後押しするのが、前回も取り上げましたように、「自分はおかしい」という根源への疑いです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源
 
 それは、虐待やハラスメント、愛着によってもたらされます。
 
 生じた根源への疑い(ニセの責任)を免責するために、解消するために、言葉を求めようとするのです。

 人の言葉にその解決の鍵があると思ってしまう。

 イメージの世界に巻き込まれている、ということも相まって、さながら他人の言葉が事実であるように、救いであるように感じてしまう。

 しかし、救いにはならず、さらにガツンとやられて、苦しむようになってしまいます。
 

 

 こうしたことに加えて、「言葉偏重」を促進する要素としてもう一つあるのは、「言っても無駄」と言った感覚や、「言って誤解される恐れ」というものがあります。

 自分が誤解されたり、理不尽が生じたりした際に、「どうせ言っても無駄だ」「言ってもなんにもならない」と思い、口を閉ざしてしまう。

 あるいは、自分が発言したことでその内容を無視されたり、「~~さんてキツい」とか「~~さんて言い訳が多い」などと、自分が意図したこととは全く異なる受け止め方をされた経験が重なる。
 

 

 すると、もう二度と誤解されまい、と言葉が重くなってしまう。
人といるときも口数が少なくなったり、他の人がワイワイとおしゃべりに興じているときも参加できない。

 重くなるとどうなるかといえば、結果として言葉の価値が高くなってしまう。
 喉が詰まるような感覚が生じ、発言したくても発言できなくなる。

 とっさに言うべきときに言えなくなってしまう。

 (ペラペラしゃべているときは、人格がスイッチして、躁的になってしまっているだけだったりします。 本来の自分として気軽にしゃべることができていない。)
 

 トラウマケアをしていて、のどに反応が出るケースが多いのは、こうした事も影響していると考えられます。

 親から、「~~は、減らず口ね」「生意気ね」なんていわれて、親に反抗しないように、仕向けされてきた、ということもあるかもしれません。
 映画「千と千尋の神隠し」で、魔女に主人公が口にチャックをされるシーンがありましたが、まさにあのような感じ。
  

 言葉を奪われている。
 独裁国家のように、まさに言論を奪われる。
 

 自分の主権を奪われたような状態。主権がなくなると、言葉は重~くなる。

 

 本人は、それを、自分は言葉を大切にしているからだ、なんて思っているケースもありますが、それは本当の信念ではありません。
 言葉を大切にしているのではなく、ローカルルール(他人の嫌な言葉)を守らされているだけ、主権を奪われているだけです。

 

 

 昔、筆者が、大きな会社に勤めていたときに、社内風土改革の取り組みがありました。その際にアンケートに答える機会があり、同僚が「大切なのはおかしいことに対して声を上げることだ」と書いているのを見て(聞いて)、「そんなこと意味あるかなあ?」なんて懐疑的に思っていたことがありますが、まさにそれは、この「言葉の重い状態」に染まっていたから。

 

 政治的な動きしかしない上層部とか、パワハラとかを目の当たりにしていたので、「言っても変わるわけない」という気持ちになっていたことで、言葉が重くなっていた。でも、それが回り回って、言葉の価値を高くして、自分が苦しむことになっていたのです。

 

 自分は絶望して言葉を放棄して(奪われて)、そうではない人は気ままに言葉を使って好き放題に言っていたりする。言葉が重くなると並行して、言葉の価値が重くなり、その言葉にやられて自分が悩み苦しむ、というおかしな構図。

 絶望するというのは、単になにかの価値観を放棄して“無”価値になるのではなく、ローカルルールの世界観に染まること、入会するということ。言葉が重くなるというのも、同様に、ローカルルールの世界に入会しているということ。

 そして、入会に際して、自分の主権はローカルルールの主に預けることになります。“言葉の重さ”の背景にはこうした事がある。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 言葉を重く捉えたり、大切にしてはいけません。言葉の価値がどんどん重くなって、他人の言葉にやられてしまいます。

 
 言葉とは軽く、戯れに使うものです。
 大切なのは現実。言葉の価値はとことん低くあるべきものです。

(参考)→「人の話は戯れ言として聞き流さないと、人とは仲良く社交できない。

 

 価値があるのは、言葉を扱う人の側にあるのです。言葉には価値がなく単なる道具であり、無価値なものです。

 
 できるかぎり、戯れに、さっと発せられるものであって、そのためには、言葉の自由、主権を取り戻さないといけません。

(参考)→「人の言葉は戯言だからこそ、世界に対する主権・主導権が自分に戻る

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

他人の感情や言葉は他人の責任

 

 前回の記事で見ましたように、私たちが力を発揮するためにはニセの責任から自由であることが必要です。

(参考)→「無責任で本当に大丈夫? ~無責任かつ位置と役割があると人間は力を発揮できる

 

 そういう観点で見ると、 
 
 仕事で活躍できる人、というのはニセの責任を免責することがとてもうまい、といえるかもしれません。

 さっと自分の責任の範囲を自然に感じとるところができる。

自分の責任が「これだけ」ということを感じて、役割に集中することができる。

 ニセの責任が飛んできても、「ニセ物だな」と感じて、さっと免責してしまう。

 

 責任が自分のものだけに限定されるから、腹をくくれて、「逃げない」「言い訳しない」なんて人から見られる。

 反対に、トラウマを負っている人は、それがとても難しい。

 相手の機嫌も、相手の頭の中で起こることも、職場の雰囲気も、何もかもが自分の責任だと思っている。

 その裏には、すでに過去に背負ってきたニセの責任の山があって、それが投影されていることは言うまでもありません。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」

 

 ニセの責任でいっぱいいっぱいになってしまっているために、目の前の役割に集中できず、膨らんだニセの責任に恐怖を感じて、及び腰になり、結局「仕事に入り込めていない」とか、「当事者意識がない」だなんて反対の悪い評価をくだされて、本人もどうしていいかわからなくなる。

 

 仕事以外でも同様です。

 日常生活でも、あまりストレスなく人と付き合える人というのは、責任の範囲の見極めが自然とできている。

 基本的に相手の頭の中にあることや相手の機嫌は、自分の責任ではない、という感覚があります。  

 行うのは、自分ができる範囲を守って、公的な環境を作り出すことくらいまで。

 あとは気楽に言葉と戯れている。相手の言葉は相手のものなので、責任を持たない。

(参考)→「人間の言葉はまったく意味がない~傾聴してはいけない

 

 

 

 特にポイントは、「感情と言葉」です。 
  

 その人の感情や言葉の責任はその人のものです。

 確かに、その勢いに圧倒されることもありますが、結局は因縁をつけているだけです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 その人の感情や言葉はその人のものだ、とわかっていると、巻き込まれにくくなります。すると、感情的になっていたり、気になる言葉が飛んできても、スルーすることができて、相手もトーンダウンしてきます。

 

 理不尽な環境では、特に家族が自分の感情を子どものせいにして、子どもはそれを真に受けてしまって、巻き込まれてしまう。そして、ストレス障害(トラウマ)になる。
 
 
 自他の区別がつかなくなり、責任の分解点がわからなくなってしまう。

(参考)→自他の区別がつかない。

 

 

 いつしか、家族以外の人についても、相手の感情も自分の責任と思い、常にビクビク、と相手の感情や言葉を自分のものとして、気を回してへとへとになってしまうのです。

 基本的に相手の感情や言葉はその人のもので、その人の責任です。

 

 たとえば、“言葉”で「あなたの態度が悪いから、私はイライラしている」「あなたが悪いから、私は怒っている」といっても、真に受けてはいけない。

 不良やヤクザが「おうおう、メンチきってんじゃねえよ」と因縁つけて絡んでくるのと同じことです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 愛着が安定している人は、免責の仕組みがうまく働きますから、無意識に「それはあなたの責任ですよね」というメッセージが働いています。
 

 

 ポジティブな感情について、例えば、相手の「期待」なども同様です。
 

 相手がどのようにこちらに期待を持つか、ということもあくまで相手の勝手、責任です。

 たまたま、こちらのパフォーマンスや条件がよくて、期待に応えれることもあれば、そうではないときもある。その見極めがうまくできる。

 トラウマを負っていると、ニセの責任でいっぱいいっぱいですから、相手の期待も自分の責任だと思い、逃げ出したくなってしまいます。

 

 ちゃんと免責の仕組みが機能すると、ニセの責任を取り除くことができますから、仕事でも日常生活でも、本当に自分の役割だけに限定して、集中することができるのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルール(ニセの責任)は誰にでも飛んでくる

 

 たまたまネットのニュースを見ていましたら、「嫌いな男優(女優)ランキング」というのを目にしました。

(参考)→「「嫌いな男優」2020 アンケート結果発表(文春オンライン)

 

 すると、例えば、菅田将暉さんについては、「嫌いというより演技が薄っぺらくて浮いて映って見える」(女・34)「持ち上げられすぎて苦手」(女・35)とか、

 大泉洋さんについては、「ネチャネチャした喋り方が大嫌い」(男・45)とか「失礼だけど、“あざとい感”がどうしても拭えず、作品の感動が半減してしまう。トークもしつこいし、“喋りは任せて感”も鼻につくときがあります」(女・51)とか、

 二宮和也さんについては、「ジャニヲタの敵。嵐の番組を観てても、彼が映ると萎える」(女・43)とか、「器用なのかもしれないが、演技や表現力に小手先感がある。大人の俳優としての魅力に欠ける」(女・49)とか、

 ディーン・フジオカさんについては、「イケメンだけど歌も演技も微妙」(女・31)「上から目線な物の言い方に腹が立つ」(男・20)とか、

 木村拓哉さんについては、「年相応な落ち着きもなく言葉遣いが酷い。CMでの若作りは寧ろ滑稽」(女・59)「裸の王様状態が気の毒なくらい。『キムタク今幸せ?』と聞いてみたい」(女・53)とか、

 福山雅治さんでも、「あの自信たっぷりな表情が嫌い」(女・69)とか、「自分はイケメンだとうぬぼれ感が身体じゅうからあふれているいやらしさ」(女・72)

 

 

 

 女優さんでも、同じように、テレビで目にする女優さんについて同じように嫌いだ、苦手だ、ということが書かれていました。

(参考)→「「嫌いな女優」2020 アンケート結果発表

たとえば、

 新垣結衣さんについては、「30超えてもアイドル女優で、演技力や演技の幅やストイックな努力は感じられない」(女・54)とか、

 

 綾瀬はるかさんについては、「計算されて演じているようにみえる。出過ぎてもうあきた」(男・57)「普段は普通に話せるのに、CMなどの甘えた喋り方が苦手」(女・55)とか、

 本田翼さんについても、「あざとい演技に、見ていてイライラする」(女・20)「CMを観ててもどこか投げやりな感じがあって苦手」(女・36)とか、

 橋本環奈さんは、「笑い方が下品。もともとハスキーな声もますますハスキーになった」(男・36)「態度がデカい。インタビュアーや共演者の先輩に敬語を使わず話していた」(女・30)

 

 

 これを見ていると「おいおい、何をやっても批判されてきりがないぞ」と感じてしまいます。

 

 福山雅治さんなんかは筆者から見ると完璧な感じがしますし、大泉さんも人に好かれてうらやましく見えるのですが、それでも嫌いな人は嫌いということです。

 

 これらは、このブログでも紹介しています私的領域(ローカルルール)が投影されたものです。そこにもっともらしい理屈をつけているので根拠のあるように見えますが、個人の内面にある不全感が表出したもので、全く意味がありません。すべて戯言です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 意見を言っている人も、それぞれ親などの影響で内面化されたローカルルールを目の前にいる人に投影しているだけです。

 私的領域とは、「Your NOT OK」で成り立っていますから、何かを批判していなければ存在することができないものなのです。

 批判とはその人のローカルルールが自身を維持するために「言いたいだけ」「吐き出したいだけ」という域を出ません。

 読んでいる自分のローカルルールと近いものがあると、「わかるわかる」なんてうっかり思ってしまいますが、それも本来の自分の意見、感覚ではありません。

(参考)→「人の考えも戯れでしかない~考えや意見は私的領域(生育歴)の投影でしかない。

評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 俳優さん以外でも、例えば、東大を出て言いようが、医師や弁護士であろうが、MBAを取ろうが、金メダルを取ろうが、容姿が良かろうが、それぞれに批判する切り口はかならずあります。

 
 クライアントさんの中でも、誰からも批判されないように、勉強や仕事で頑張ってきました、という方がいらっしゃいますが、ローカルルールの世界観を真に受けている限り、誰からも批判されない安住の地はどこにもありません。
 
 どれだけ容姿が良くても、資格やキャリア、実績を積んでも、批判はついてきます。

 「ニセの責任」がボンボンと飛んできます。

 それらに応える義務は当然ながら全くありません。

 

 冒頭の、俳優さんへの批判の宛先が自分になったと思ってみるとどうでしょうか?

「あなたのその喋り方が大嫌い」
「あなたは仕事の仕方に、小手先感がある」
「あなたは態度がデカい」

 など、

 このように見ていくと、これまで家庭や学校、職場で私たちにいわれてきた批判、意見に責任を感じて真に受けて悩んできましたが、どれだけ意味があったのか?

 批判する個々人の不全感からくるもの、投影でしかなく、ベタに言えば「あなたが好き/嫌い」ということでしかなかったということかもしれません。

 その「好き/嫌い」も内面化した他者の価値観(ローカルルール)でしかないものだったのかもしれないのです。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 冒頭に紹介した記事も週刊誌の企画ですから、読む人も常識から「まあ信憑性なんてない」と思いながら戯れに読むものです。日常での批判や心無い言葉も、結局はその程度のものでしかありません。

 

 いじめなどハラスメントの本当の影響とは、相手の戯言やローカルルールの責任を自分が負ってしまうこと。
 
 

 そのためにはその戯言が、「自分だからだ」と思い込まされること(個人化)が必要になります。「自分だから批判される」「批判されるということは、自分に欠点があるからだ」「努力しなければ」と。

(参考)→「“たまたま”を「因果、必然」と騙る~「自分だからハラスメントを受けた」はローカルルール

 

 しかし、冒頭の俳優さんへのダメ出しを見てもわかるように、ローカルルールにかかれば、どんな人でも批判されるということ。

  ローカルルールとはウイルスのようなもので、社会を飛び回っていて、不全感を抱えている人や真に受ける人のところで長く留まるようになっている。

 

 

 私たちが子どもの頃に親から心無い言葉を浴びせられて、「自分が悪い子だから」「自分は本性として愛されない」と思っていたことは、単にローカルルールの因縁によってそう思わされていただけだった。

 

 

 ただ、批判する相手は、まさか自分が不全感、ローカルルールに動かされているだなんて絶対に認めませんので、もっともらしい理屈をこねます。  しばしば他の人を称賛してみせたり、仲良くしたりして「個人化」をもっともだと見せようとします。
 (「私の判断がおかしいというけれども、他の人は褒めているということは、ちゃんと善悪の区別がついているし、まともだよ。~~という理屈だ。やはり、あなたがおかしい」と)

 

 私たちもしばしば、批判する人が人望があったり、社会的な実績があると、「やっぱり、その人のほうが正しいのでは?」と思いがちですが、不全感や嫉妬から自由な人はいません。社会的な地位のある人や人格者に見える人が、案外シンプルに、嫉妬に動かされているなんてことはよくあります。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 気がつくとなんだかんだと根拠を集めてきて、「自分だから」と自分がニセの責任を負わされてしまっている。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 そして、素直に相手の批判に応えて、努力をしてきた。しかし、蓋を開けてみたら、その批判は全く意味がありませんでした。 

 

 意味がないことの理由として、実際に、批判に答えて努力してみても楽にならないし、ほんとうの意味で自分がより良くなるという実感がありません。

 

 そこから逃れる方法は、努力して批判されないようにするのではなく、ローカルルールのニセの責任(因縁)については戯言と知り、「知~らない」「私の問題ではありません」と責任を放棄(スルー)することです。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 ウイルスのように誰もが世の中を生きていると因縁をかけられることがありますが、それらを区別し、免責するメカニズムがあれば、日々新に主体性を持って生きていくことができるのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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