ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールとは何か?

 最近、何年もかかってようやく自殺したお子さんの死の原因がいじめにあったことが認定された、というニュースを耳にしました。

 別のニュースでは、いじめの認定をされた後に学校側が不服を申し立てる、といったこともありました。

 一般の感覚からすると信じられない、と感じるような出来事ではないかと思います。

 

 

 ただ、実は、こうしたことは珍しくなく、実際にいじめがあっても教師、生徒、他の保護者たちが、いじめを強硬に認めない、ということはしばしば起こります。

 一般常識としては「いじめは絶対にいけない」と思っていながらも、教師や保護者たちもいじめられる側に問題があると疑いもなく思っていたりする。

 いじめ研究でしられる社会学者の内藤朝雄氏の著書にも、そうした教師の声が紹介されています。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 常識と、現場とのずれは、なぜ起こるのか?
 その秘密は、「ローカルルール」という存在にあります。

 

 

 ローカルルールとは、規模の小さな共同体のルール、ということを意味するのではありません。
 (かつては、ナチス、中国やカンボジアなどの共産党政権のように国や地域全体を覆うような規模の大きなものもありました。) 

 

 ローカルルールとは、「公的規範のフリをした私的情動」を差します。

 

 不全感を持った人たちが、自分の不全を埋めるために、自分たちのネガティブな私的情動を「これこそがルールだ」「常識だ」として、他人に強制することです。

 

 

 公的規範、常識のフリをしていますが、あくまで私的情動にすぎないので本当はもろく、穴だらけです。自らだけでは「I’m OK」を成立させることができない。  

 

 そのため、ローカルルールが「I’m OK」であるためには、生贄や敵が必要になります。それは他者を「You’r NOT OK」とすることで、「I’m OK」を成り立たようとするのことです。

 

 その”他者”とは、いじめの被害者であったり、被差別者であったり、資本家とか旧体制の社会層、といった人たちです。

 

 被害者とは被害者にされるに足る要素があるのだ(≒自業自得の部分がある)、というのはそれ自体がローカルルールの考え方で、被害者は誰でもなりえます。
 被害者と加害者が容易に反転する、というのはよく知られていることです。
 (例えば、藤子不二雄の「少年時代」という自伝的なマンガ(映画もあります)でも、いじめっ子が終盤では無視され、いじめられっ子になる、というものでした。)
 
 

 ローカルルールは、根拠が薄弱なため、巻き込まれる他者を必要とします。いじめであれば、いじめっ子の論理に感染する傍観者や教師、保護者(「いじめられる子にはいじめられる理由がある」といったこと)。依存症やパーソナリティ障害の当事者が、感情を爆発させたり、対応の冷淡さや欠点を指摘して治療者や家族などを巻き込もうとするようなことです。

 あたかもローカルルール自体が生き物(独立した人格)であるかのように動き、自分を守るために他者や当事者自身をローカルルールのおかしな世界観に巻き込もうとします。※コンピュータウイルスが、まさに「ウイルス」と呼ばれあたかも生き物のように動作するのと似ています。

 

 ローカルルールの感染力はすさまじく、例えば、いじめの事件では教師や保護者、教育委員会レベルまで感染し、事件がなかったことにさせられたり、いじめっ子の論理が正しいとして、「学校を守れ!」と請願が起こったり、といったことも珍しくありません。まともなはずの大人たちもおかしくなってしまうのです。(社会学者の内藤朝雄氏はローカルルールを「群生秩序」と呼んでいます。)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 ローカルルールは、家庭や学校、会社など常識から隔絶されやすい閉鎖的なコミュニティや、歪な人間関係あるいは伝統が揺らいだ不安定な社会、時代では生じやすいとされます。

 いじめというのは伝染していきますが、いじめを行う子供には、やはり家庭などにストレスがある、という指摘があります。
 家庭へのストレスは父が会社から持ち込んだものであったり、夫婦の不和であったり、といったもので、そうしたストレスに晒され、不全感を持つことで、解消先として私情を学校で発散し、それを「常識だ」としてコーティングして、ローカルルールが生まれるのです。

 

 ローカルルールとは、加害者側が、自分の不全感を癒すための行為(未熟な自己治療)ともいえます。

 

 

 職場では、経営者や上司がある種の自己愛の不全を抱えていて、それを解消するために、私情をもっともらしい形に変えて従業員や同僚に対してぶつけ、おかしな文化が形成される。
 例えば、自身がコンプレックスを感じるような人物を「仕事ができない」として攻撃したり、人それぞれの仕事の仕方を価値がないとしたり。
 (愚痴を言わない、口応えしないことを美德して、休みなく働かせる、といったようなこと)

 

 家庭でも、夫が自分の不全感を解消するために、家事や育児にケチを付けたり、自分の価値観からおかしなルールを家庭内で敷いたり。
 妻が自身の不安を解消するために子どもを縛り「あなたのためよ」と過度に干渉したり。

 これらも、私情を「常識だ」とすり替えたローカルルールです。
 
 

 ローカルルールとは、ローカルなルールであることが問題なのではなく、私的情動を公的規範と偽ることが問題なのです。

 

 ローカルルールが起きるコミュニティでは、必ず機能不全が生じています。
 

 「機能」とは、公的な役割を代表することを言います。
 さまざまな役職には、本来期待されている役割というものがあります。

 校長なら校長の、社長なら社長の、父親・母親なら親としての。
 コミュニティによってその内容はさまざまであっても、要素は共通するものがあります。

(参考)→「夫婦、恋愛の悩みも「機能」として捉えれば、役に立つ

 

 

 本来は「機能」を通じて「公的な環境」が現場でも実現することになります。
 各役割とは公的な環境の「代表」であり、「窓」とでもいうべきものです。

 しかし、本来行うべき機能が果たされずにいたり、おかしな理屈で機能が曲げられていたりすると、機能不全となり、公的な環境の光が届かず、ローカルルールを牽制することができなくなります。

 湿気が多いところにカビがはえるように、ローカルルールもはびこりやすくなります。

 
 
 ローカルルールと、常識や社会通念と呼ばれるものとの違いは何か?

 それは、

 ・常識が多元的であるのに対して、ローカルルールは一元的であること
  (善悪が変にはっきりしている、“人それぞれ”ということが受け入れられない)。

 ・常識が奥行きが豊かなのに対して、ローカルルールは根拠が薄弱。巻き込まれた人たちの同調圧力でかろうじて維持される。

  (ローカルルールは伝染する)

 ・常識は諧謔(ユーモアが)があるのに対して、ローカルルールにはそうした余裕がない。ユーモアとは、謙虚と敬意のブレンド。
  (妙にまじめで、堅苦しい)

 ・常識は有限であり、学習、更新されるのにたいして、ローカルルールは代謝がなく無限のもの。
  (「あなたみたいな人はどこにいっても通用しない。いじめられ続けるのよ」といったセリフに代表される)

 ・常識が身体感覚的であるのに対して、ローカルルールは頭が中心。
 
 といったところにあります。

 

 

 ローカルルールと常識との区別はさほど難しくありません。
 普通であれば、感覚としてわかります。

 

 ただし、ローカルルールは、感染力があり、それを内面化してしまうと、
 そのコミュニティ内では、そのおかしさを感じることが難しくなります。

 

 

 実際に、いじめが起きている現場では、冒頭で紹介しましたように、教師や、他の生徒や保護者までが頑なにいじめを否定したり、学校を守ろうとして署名活動までしたりする、といったようなおかしな現象がしばしば起きます。

 

 

 人間というのは、一般的にヒューリスティック(いくつかの情報に代表させて)に判断を行う。例えば、おかしいと身体感覚で感じても、「あの人が賛成しているなら、大丈夫だろう」とか、「これだけたくさんの人が賛成しているなら、私のほうがおかしいのかも」といったように、権威や量で判断する性質がある。

 ローカルルールとは、こうしたヒューリスティックな判断という習性に悪く乗りかかり広まっていきます。

 

 詐欺やねずみ講なども、そうした性質があって、実は信頼できる人(知人、名士など)からもたらされることが多い、といわれます。
 (直感的にはおかしいような気がしても、それを打ち消すような信頼感、“実績”や雰囲気があるので騙される)

 

 学校や職場や家庭などは、価値観が一元的になりやすいために、ローカルルールが生じると感染しやすく、判断も混乱させられやすい。

 

 

 一方で、警察が介入したり、法律的に処断されると(公的な環境が入ると)、ローカルルールは沈静化していきます。
 (自尊心も絡んで判断基準を何重にも狂わされたりしている場合、影響力は強く残り続けますが)
 

 

 

 また、心身のコンディションが低下していると感染しやすい。
 心身のコンディションとは、安心安全の確保のことで、睡眠、食事(栄養)、運動を指します。
 マインドコントロールや取り調べなどにおいて、眠らせない、食事や運動を制限する、のはなぜかといえば、そのためです。
 

 

 

 

 通常の人間関係、1対1でもローカルルールというものは生じることがあります。心身のコンディションが良ければ、影響されることは少なく、常識的な直感によって避けることができます。ある種の「ユーモア、ツッコミ」でキャンセルすることができます。

 
 しかし、ローカルルールによって支配される側に、
  「この関係を壊したくない」
  「見捨てられたくない」
  あるいは、
  「自分はおかしいと思われたくない」
  「認められたい」
  といった感情があると、関係を壊したくない、離れたくないことが優先され、ローカルルールが維持・強化されてしまうことになります。
 
 そうした心情をうまく利用されてはびこることになります。
 

 

 では、ローカルルールの影響から逃れたり、ローカルルールが活性化させないためにはどうすればよいのでしょうか?

 ここでのポイントは2点(追記もあわせれば3点※別の記事を参考にしてください)
 1.「安心安全の確保」

 2.「関係(常識、公的環境とつながる)」ということです。

  +

 (追記)3.「人格(モジュール)単位でとらえる

 

 

 1.「安心安全の確保」とは、まずは睡眠、食事、運動をしっかり確保ことです。 これらを欠くと、対応がとても難しくなります。

 相手をはねのける力が身体のどこからくるかといえば、一つは副腎から分泌されるストレスホルモンです。
 その力が弱っていてはローカルルールをはねのけることは難しくなります。
 睡眠、食事、運動が制限されると途端に身体がストレスをはねのける力は下がり、解離しやすくなったり、判断力が低下したり、
 極端な場合は過労死といったような自体にも至ります。

 そして、あまりにストレスフルな環境からは距離を置く。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 

 次に、2.「関係(常識、公的環境とつながる)」とは、問題となるコミュニティ以外の人たちとたくさん、薄くつながることです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである」

 「間違った選択を同調圧力によって正しいと信じ込ませようとする」心理学の実験においてもローカルルールに対抗できた人は、頭の中で、友人・知人を思い浮かべていたと言います。つまり、外の関係とつながることができていたわけです。

 いじめにおいても、学校以外の趣味の世界がある子は抵抗しやすかったりします。
 

 

 職場のストレスで苦しんでいても、外の空気に触れて、気楽な人との何気ない会話に救われたり、といったことは私たちも経験することがあります。
 
 そうした外の関係とつながることで、「公的な環境」の光、空気が差し込んできて、それがローカルルールによって人格を全否定された自分の気持ちを“我に返してくれる”効果があるのです。

 
 本当の意味での常識というのは、私たちに抵抗する拠点を与えてくれるものです。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 

 その際に注意しないといけないのは、「家族や親」に相談したりすることです。機能している家族は抵抗のための基地になりますが、機能していない「家族や親」は、常識の参照元にはなりえない。

 もし、ご自身がローカルルールに影響されやすい場合は、ストレス障害(≒トラウマ)を抱えているケースがあります。
 そのトラウマの原因というのが、家族であったりすることがあるのです。

 

 家族は味方のフリをしているだけで、実は暴言、悪口というストレスを浴びせられていたり、過干渉によって「あなたは何もできない」というメッセージを投げ続けられていたり、といったことはよくあります。
 なぜか妙に自信がない、自分がない、という状態にさせられてしまいます。

 外での悩みを家族や親に相談しても、「あなたにも問題がある」といったような余計なアドバイスで苦しめられます。
 これも結局は、親の私情を常識のように騙って“アドバイス”としているローカルルールでしかない。

 

 

 このように、家族(場合によっては友人なども)が真に味方ではないことはとても多い。彼らも、不安定な自己愛、恨み、嫉妬、支配欲といった不全感を抱えていたりするからです。

 家族など身近な人がもたらすストレスによって内的、外的な「安心安全」を奪われてきたために、外で遭遇するローカルルールに抵抗する力が低下ししてしまっているのです。

 

 

 もう一つ注意が必要なのは、ローカルルールに、ローカルルールで対抗しないこと。
 具体的には、例えば、自己啓発やスピリチュアルなものに気を付けることです。それは、(もちろん、本当に良いものもあるかもしれませんが)、それ自身も単なるローカルルールでしかないことも多く、ローカルルールから抜け出すために、別のローカルルールに移る、といったことにしかなりません。
 そこには、やさしそうだけど実は支配欲のあるグルが待ち構えているといったケースや、メンバー同士が競争的な場所だった、なんてことは珍しくないことです。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 

 別のローカルルールに頼ってしまうケースで多いのは、ローカルルールと常識との違いに気が付いていない場合や対人恐怖や社会恐怖を植え付けられてしまっている場合。

 
 ローカルルール=社会と捉えてしまっているので、社会というものへの恨みを持ってしまって、戻るべき場所がなくなってしまっているのです。

 社会という足場を奪われて、反対に恨みを向けさせられているのもローカルルールの恐ろしさとも言えます。

 でも、ローカルルールと、社会とは全く違う、ということ。ローカルルールと常識とは全く別物であると知れば、恐怖からも自由になれる。

 ローカルルールから抜け出すためには、常識の力、公的な環境が必要。
 造花と生花が全く異なるように、その深さ、多様性は比べ物になりません。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 
 私たちがローカルルールを活性化せないということは、自然の環境保全とも似ています。
 

 水や栄養を確保したり(安心安全)、
 光が差し込んだり、よい空気が循環している(公的な環境)。

 そして、多様な植物、生物、微生物が存在していてバランスが取れている(関係)。 何か特定のものに偏ると、変化に弱くなります。

 

 代謝があって、循環している。それぞれが機能を発揮することで、住みやすい環境が作られていきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 私たちが日常で出会う「ニセの公的領域」について書いてきましたが、視点を社会に移した時、社会的な現象としてのニセの公的領域の典型は、ファシズム、全体主義というものです。

 

 ファシズムというのは、本来多元的であるはずの社会の規範を一元的に単純化して、ニセの公共を作り出す現象です。

 

 社会の状況が深刻な際は、問題が輻輳して閉塞感が覆っている中で、問題が単純化されるので、その社会にいる人々は一気に問題が解決したような気になります。

 

 ただ、実際は解決したわけではないですし、多元的である現実世界とは不適応を起こします。そこで、一元的なニセの公共を維持するために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とします。

 

 ナチズムであれば、反ユダヤ主義、反資本主義、反社会主義、反軍国主義、反平和主義、反キリスト教、反無神論・・
 何についても「反」で、互いに矛盾していてまったく合理的ではありません。
 内容はめちゃくちゃなのですが、「反(You are NOT OK)」とすることで成り立たせています。
 (ドラッカーは「全体主義には、前向きな心情がないかわりに、おびただしい否定がある」(「経済人」の終わり)としている。)
 

 「反((You are NOT OK))」を必要とするのは、それがなければ一元的に単純化した規範を維持できなくなるからです。
 だから、ファシズムというのは常に敵を必要とします。
 (これがファシズムというもので、日本で素朴に理解されているように、必ずしも、ファシズム=軍国主義というわけではない。
 「反」であればなんでもよいので、平和主義のファシズムもあるし、民主主義のファシズムもあるし、人道主義のファシズムも成り立つ)

 

 

 私たちの身近な現象に視点を戻した時に、私たちが接する「ニセの公的領域」もまさにこうしたことが当てはまります。

 たとえば、「いじめ」。
 いじめは典型的なニセの公的領域、ファシズム的現象です。

 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 「いじめられっ子」のいない、いじめというものは存在しないように、「いじめ」でいじめる側が主張する「空気が読め」「ノリに乗れ」といったことは、多様な人間の在り方には全く反します。
 ノリに乗らないマイペースも人間の素晴らしいリソースであるし、人間のタイプは様々です。暗い性格でもよいし、運動ができなくてもよい。
 

 

 しかし、「いじめ」は社会の多元性を否定して、一元化して、人を裁きます。

 

 実際に、いじめについての研究書の中で、インタビューされた学校の先生の発言に「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかないし、それはわかるんですよ」といった発言があります。
 いじめがおきると、教師もその空気に支配されて、一元的な価値観で人を判定するようになってしまいます。
 

 一元的な価値観(ニセの公的領域)というのは現実と齟齬を起こしますから、「敵((You are NOT OK))」を作り出して、一元的価値観が正しいことを維持しようとします。
 (「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかない」≒だからいじめには正当性がある)

 

 

 いじめまでいかなくても、私たちが日常で接するハラスメントも同様です。
多元的であるはずの人間の在り方を、一元化しているために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とする。
 だから、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」というメッセージを私たちに投げかけてきます。

 

 「ニセの公的領域」は、もっともらしく見えても、直感的には矛盾だらけですから、直感的に矛盾を感じたら、「You are NOT OK」といわれていても、真に受けずに、「I’m OK」と受け流す必要があります。

 

 

 例えば、親から投げかけられる「You are NOT OK」も、ニセの公的領域の典型といえます。
 「あんたは理屈っぽい」
 「あんたはかわいげがない」 
 「あんたは文句ばかりで、やかましい」

 といって、親の不全感から、子供を否定する親というのは少なくありません。

 ただ、よくよく見ると矛盾だらけで、たとえば、兄弟がいるケースだと、ある兄弟にはダメだけど、同じことをした別の兄弟は許されたり。親自身に非があっても謝らずごまかしたり、といったことが起きています。

 そうした矛盾があっても気が付かず、子供への否定を繰り返すのは、
 私的な情動から生まれたニセの公的領域を正当化するためなのです。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 本来、多元的な社会の中にある、真の「公的な領域」というのは、成員すべての「I’m OK」を成り立たせるために存在しています。そのため、すっきりもしませんし、ある意味あいまいなところも多い。

 法律に反するなど他者の「I’m OK」を侵害すると制されますが、極端に何かを否定(You are NOT OK)することもありません。 

 

 私たちが日常で、
 「You are NOT OK≒I’m NOT OK」を感じたときは、
 その元となっている「公的な領域」が本当はニセモノではないか、
 あるいは、自分の中にある過去に形成された規範がニセモノではないか、と疑ってみる必要があります。

  (※例えば、目の前にある人は「You are NOT OK」とはいっていないけど、過去に親や学校から受けたトラウマによって、
   「You are NOT OK」と捉えてメッセージを受け取っていることもあります。)
 

 

 

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「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 私たちが悩みとすることは、自分にとっては、動かしようもない事実であり、それはとてつもない恥として感じられています。

 

 ある人は、幼いころに負った記憶。家庭の中での出来事。

 ある人は、親から言われた言葉。

 ある人は、学校での出来事。いじめや、おもらししたといった失敗や。
 

 
 
 常識や、本当の意味での公的な感覚でとらえれば、
 「(親の言動や、環境は)それは常識に反する。おかしい。あなたは悪くない」となりますし、

 

 過去の出来事も、
 「そんなことはだれにでもある。何も気にしなくていい」
 という風にとらえられます。

 

 人間というものは、だれしも弱くて、どうしようもないもので、表向きはそう見えない人も、ただそれを見栄で隠し通しているだけで、内状は大差がないもの。

 人生はミスや失敗もたくさんあるもので、そういうもの。

 (失敗がない、と思っている人は、自分の失敗が目に入っていないだけ。あるいは、失敗しないために得た援助や犠牲を理解していないだけ)

 

 
 現実をありのままにとらえれば、自分が負ったどんな悩みも消化されていきます。

 

 

 しかし、私たちのまわりには、ローカルなコミュニティがたくさんあり、その中では、人々の私的な情動が渦巻いている。 嫉妬とか、支配欲とか。
  
 沸き起こる嫉妬から、自分の私的な情動を、あたかも公的なルールであるかのように偽装して、それをもとに相手を支配しようとすることが起きます。

 

 

 一番は、「家庭」、次に「学校」、「友人関係」、そして「会社」

 親も当たり前のように子供に嫉妬をします。えこひいきもします。支配もします。それらは、私的な情動からなされます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ただ、まさか「自分の個人的な感情によるものです」とは言わず、本人も気が付かず、「お前のためだ」「お前がおかしいのだ」「お前の言っていることは屁理屈だ。理屈っぽい」「どこに行っても通用しない」といって、自分の私的な情動を隠して、子どもや家族を非難して強弁するようになります。

 

 

 それが家の常識となり、子供にとっては、あたかも社会のルールのように感じられて、「自分はおかしい」という自己否定、自信のなさが大人になってもぬぐえずに続くようになります。
  

 
 「親が言うのだから、それは常識に違いない」と思っていますが、それは単なる親の嫉妬や支配欲でしかなかったりします。

 

 

 学校のいじめもそうで、最初は、家庭などほかの場所で不全感を負った子供が始めることが多いです。これも嫉妬や支配欲が関係します。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 誰でもよいのですが、標的を見つけて、いじめを開始する。

 「くさい」とか、「空気が読めない」でも何でもよいのですが、もっともらしい理屈をつけて正当化する。

 さらに、同級生や先生も周りを巻き込んで、リアリティを形成する。

 いじめられたほうは、「これだけみんなに否定されるのだから、自分は本当に空気が読めず、おかしいに違いない」として、自分を責めるようになる。

 もちろん、直感的には周りがおかしいとは感じていますが、どうしてもぬぐえない。

 なぜなら、自分を責める理屈や人々が「公的な領域」に見えるから。

 (「自分の直感と世の中を比べたら、世の中の意見のほうが正しいに違いない」という感覚)

 

 

 いじめる側も、「これは自分の不全感や嫉妬からのものですよ」といってくれればよいですが、「公」を詐称するために、「私的な領域」にすぎないものが、あたかも「公的な領域」であるかのように移り、その「ニセの公的領域」は被害者を長期間呪縛することになります。

 おとなになっても、いじめの記憶がじわじわ影響しているという方は多いです。
 

 

 

 会社もそうです。

 単に社長や上司のコンプレックスからくる偏った常識でしかないものが、あたかも公的なルールであるかのように偽装されて、そして、それに基づいてハラスメントが行われている。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 ハラスメントは、仕掛ける側が、「これは自分の嫉妬によるものです」なんていうわけがありませんから、もっともな理屈をつけて正当化します。
 「ノルマが達成できていない」「ミスをした」、「スタンスが悪い」「積極さが見えない」といったような言いがかりをつけたりすることはよくあります。

 

 

 とても学歴が高い方が、それゆえにいじめられるということも珍しくありません。例えば「東大を出ているのに、そんなこともできないのか」といったようにいびる上司は実際にいたりします。

 

 これも、たんなる嫉妬によるハラスメントにすぎないのですが、もっともな理屈をつけて行うために、受けた側はずっと呪縛されるのです。

 
 こうした「ニセの公的領域」とは、セラピーでは、ドミナントストーリーと呼ばれますが、あくまでそれらはニセモノにすぎません。

 

 

 自分の頭の中を触っていても、なかなか解消することは難しい。
 
 本当の「公的な領域」につながり、ニセの領域から移行することによって、ニセの公的領域によってもたらされた悩みは解決されていきます。

 

 

 

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ニセの公的領域

 

 インターネットでは、偽のサイトに誘導して情報を盗んだり、という犯罪があります。銀行とかECサイトとか、「公的な」会社を偽装して、「パスワードを変更してください」といったようなメールを送ってきて信用した人がログインすると情報を取られる、というようなことです。

 よく、会社のホームページには「当社を騙るメールにご用心ください」といったような注意書きがされています。
 

 世の中には、使い人を陥れるために、ニセの公を騙る行為が存在します。

  

 これまで「公的な領域」の大切さ、についてお話してきましたが、私たちにとっての「公的な領域」にも「ニセの公的領域」というものが存在します。

 

 例えば、クライアント様からのご相談でしばしば「“世間の目”がこわい」というケースに出会います。世間が常に私を見ている、気になって外出できない、といったことです。

 私たちも世間の目というものを感じることはあります。世間の目というものがあたかも事実であるかのように、自分を圧迫し、厳しく評価し、行動をしばるように体感されることがあります。

 

 その世間の目に合わせて自分の行動を抑制したりしなければならない、自分を品行方正に変えなければならない、と思って苦しくなります。
 

 ただ、これは実は「ニセの公的領域」に当たります。

 実際には“世間”なるものは存在しませんが、あたかも存在するかのように思わされ、そこに接続されることで、呪縛されてしまっている状態です。

 

 このニセの“世間の目”とは何からくるかといえば、しばしば親や祖父母など家族の価値観からくるものだったりする。

 親や祖父母がなかば妄想的に世間をとらえていて、家族を「巻き込み」、ニセのリアリティを形成する。

 
 「家族価値」といって家族の中でのローカルな価値観が縛ることもあります。
「~~でなければならない」「~~といった人間はダメだ」といったようなことです。

 
 家族の呪縛はとても強いのですが、一方で、単なるニセモノですから、本当の公的領域とつながってニセモノと気が付けば、容易に離れていってもくれます。

 

 別のケースでは、例えば、私たちが過去について「恥ずかしい」「思い出したくない」といった嫌な記憶を持っていて頭から離れずに困っていることがあります。あまりに強いとトラウマと呼ばれたりもしますが。

 これも実は、「ニセの公的領域」です。

 

 

 記憶の中で、自分の行為を評価するニセの規範が存在していて、自分の行為を縛っている。現実には当時の記憶は他の当事者たちも覚えていないことも多いですが、本人の中ではクリアに反復されている。
 

 

 筆者も経験がありますが、例えば同窓会などで、昔の仲間と再開する。
自分の中でははっきりしているような記憶でも、同じ仲間は全く覚えていないことはとても多く戸惑うことがあります。
 人間の記憶というのはこのように移り変わっていくものなのだ、と実感します。

 自分の中でいつまでも消えないような恥ずかしい記憶も、実は自分の中だけのもので、それはある種の「ニセの公的領域」なのだということを痛感するのです。
 本人には「クリアすぎて、偽物とはどうして思えない」かもしれませんが、ほかの当事者も忘れているようなことがホンモノなわけがありません。

 

 

 さらにいうと、当時いた環境が非常に生きづらかった場合。家庭、学校や会社などが典型ですが、それは、その環境が「機能不全」を起こしていた、ということです。

 本来は、本当の「公的な環境」へと仲介するはずなのですが、その環境のローカルルールをあたかも「公的な環境」であるかのように装って、メンバーの「私的な情動」を解消するために、ほかのメンバーにハラスメントを仕掛けるようになるのです。

 それがいじめなどという形で現れます。

 

 いじめは、私情を常識とすり替えて「ニセの公的領域」を作り出して、そこにメンバーを巻き込みます。それによってハラスメントを正当化する。
 被害者は、大人になっても、当時の「ニセの公的領域」につながったまま、離れることができず、それに適応できない自分を責め続けたり、自分を委縮させるということが起きていたりします。

 これも「ニセの公的領域」です。

 

 

 私たちは、誰もがどこか「ニセの公的領域」とのつながりがあり、苦しみを感じていたりする。
 「つらい過去の記憶」も実は「ニセの公的領域」です。

 なぜなら、つらい過去の中には必ず“世間”があり、“社会”、人の目というものがあるからです。

 

 私たちはクラウド的生き物で、どこかにつながっていないと生きていくことができない存在です。そのため、ニセ物にも接続してしまう。トラウマとは、それが更新されないこと。

 健全な状態であれば、真の「公的な領域」の支えを感じ、ニセモノのおかしさに気づき、学習し、関係が更新されていき、健康さを維持、成熟することができます。

 十分な支えがない時には、「ニセの公的領域」から抜け出すことが難しい。
あたかも映画「マトリクス」の住人のようにそれを本物ととらえ続けてしまう。
 

 カウンセリングのゴール、目的というのは、「ニセの公的な領域」から抜け出して、本当の「公的な領域」とつながっていくためのお手伝いをする、というところにあるのかもしれません。

 

 

 

「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 これまで、「公的な領域」の大切さ、というものをお伝えしてきました。

 

  じゃあ、「私的な領域」は重要ではないのか?といえばもちろんそうではありません。「私的な領域」がなければ「公的な領域」もうまく機能しない。

 「私的な領域」とは、一つには「公的な領域」のリソース、エネルギー源となる存在です。

 

 

 たとえて言えば、鉄鉱石とか原油のようなもの。
素の状態では、利用できないし、生で食べるとおなかを壊すようなもの。
 加工して、利用できるようにしないと世の中では有用なものとはならないですが、資源がなければ、製品もできない。

 

 「私的な領域」とは、エゴとか欲とか呼ばれる場合もあります。
 かなりわがままに、「~~がしたい」「~~が欲しい」と思えることは大切。
 それがエネルギーになって、生物としての人間を支えてくれます。

 私たちは「私的な領域」の力が低下すると、調子を崩します。

 

 例えば「(本物の)うつ病」は、「私的な領域」が枯渇したような状態。そのため運動とか、投薬、人生の方向転換を通じて、「私的な領域」を養うことをします。

 「私的な領域」が回復してくると、ふたたび公の世界で活動することができるようになります。

 うつ病からの回復でも指摘されるのは、ずっと「私的な領域」にいても回復はできず、むしろ悪くなるということ。徐々に体を動かしたり、働きに行く訓練をするなど、「公的な領域」へと復帰していくことをしていく必要があるとされます。

(参考)「うつ病を本当に克服にするために知っておくべき16のこと」

 

 「私的な領域」というのはあくまで一時的な避難場所である、ということです。   

 

 生きづらさ、というのは、「私的な領域」のエネルギーを「公的な領域」で発揮するサポートや接続が提供されないような状態のこと。

 家族が機能不全で、自分のことを正しく認めてくれない。

 十分な仕事がない、仕事についても今度は職場が機能不全である。

 社会の中で「位置と役割」がうまく得られない

 などなど
 
 

 よく、「やる気が出ない」「自信がない」という言葉がありますが、
 
 やる気=「私的な領域」×「公的な領域」となっているもの。

 

 やる気とか自信は、個人の内面の問題だけではなくて、家族が提供する「愛着」や会社や学校といった、自分が出会う社会の組織がうまく機能しているかどうか、といったことが絡み合って成立するものです。

 実際に、学力というものも、所得や周囲の環境によって決まってくることがわかっています。

 

 ですから、よほど不健康で「私的な領域」が下がっているのでなければ、やる気がない、というのは、「公的な領域」との接続が十分ではないために起こっているということなのです。

 

 

 

 このように、「私的な領域」と「公的な領域」とは相互的で、それぞれがあるから成り立っているのです。
 ただ、互いに等価か?ととわれれば、あえてそうではないと答えます。

 

 なぜなら、成人した後の人間は、あくまで「公的な領域」から捉えるものだからです。
 

 

 「私的な領域」のことについては「公的な領域」へと整え、変換されないと扱うことができません。

 

 また、以前の記事にも書きましたが、
 自分や相手の「私的な領域」には立ち入らない、というのは大原則。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 立ち入っても、それを健全に扱うことができませんし、逆にやけどしてしまいます。

 
 「私的な領域」も大切だけど、あくまで「公的な領域」のためのエネルギー源として存在している、という理解が必要。
 

 しかも、私たちが原油とか鉄鉱石を手にしてもなにもできないように、素人では扱いにくいものでもある。 

 

 悩みを抱えている方の多くが、「私的な領域」を「公的な領域」と等価かそれ以上のもの、と誤ってとらえてしまって、扱い方に困り、本当の自分を見失い、その資源の生の磁力や熱風にあたって調子を崩してしまっているからです。

  
  
 「私的な領域」のエネルギーは、「公的な領域」を築き、維持することで、初めてパワーとなって発揮することができるのです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

常識、社会通念とつながる

 

 私たちが成長する、というのは、私的な状態を脱して「公的な環境」に身を置くようになることです。

 

 親とのかかわり、大人たちとのかかわりの中で、私的な情動を公的に表すための適切な表現方法を学んでいく。

 

 逆に言えば、「公的な環境」がなければ、私的な情動を自分にも他人にも分かるかたちで表現することはできない。表現できないものは身体にネバネバと滞留して、それがいわゆるトラウマ(ストレス障害)になる。 
 あるいは理不尽に漏洩して、境界性パーソナリティ状態と呼ばれる

 

 トラウマとは、長期にわたってそうした「私的な環境」に置かれてしまうこと、とも言えます。 

 

 
 震災など災害がトラウマになるのも、災害の衝撃もありますが、それ以上に、災害後に私的な状況に置いてきぼりにされてしまうこと(孤独)。実際に、自殺が多いのは災害が起こった直後ではなく、数か月、数年以上たってからとされます。

 絆を強調したり、コミュニティでの声掛け、死者に対する合同での慰霊祭といったことは、「公的な環境」を維持するための工夫です。

 

 私たちは「公的な環境」にいることで、トラウマはその中で癒されていくと考えられます。私的な環境にいるとトラウマを処理することができず、身体などの不調となって現れます。

 

 ストレスは、まずは、自分の体内のストレスホルモンで処理をしますが、それができない程に大きなものは、社会のネットワークに流して処理をしていくものだからです。
 よく、「ファン、サポーターの応援が力になりました」とスポーツ選手などが言うのは、大舞台のストレスをネットワークに流すことで対処しているからかもしれません。
 これも、「公的な環境」を作り出す工夫です。
 

 

 身近な親などを通じて、私たちは社会への橋渡しをされますが、家庭とは社会へ出るための準備の場、ローカルネットワークですから、ある時、そこから自分を思い切って切り離して、社会というクラウド「ワールドワイドウェブ」につながる必要がある。

 

 そのための儀式がまずは2度にわたる「反抗期」であり、世に出る「就職(しごと)」になります。

 

 反抗期で、ローカルネットワークの象徴である親を精神的に“殺して”、自我を確立していく。そして仕事を通じて、本当の意味で社会とつながっていきます。

 

 もちろん、現代は“会社”社会、会社という組織を介したつながりであるため、会社が機能不全を起こして歪んでいると(モラハラ、パワハラ)、会社がおかしな私的環境(ローカルネットワーク)となってしまって、社会というクラウドと十分につながることが妨げられてしまうことにもなりかねません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 私たちが意識する際に最も大切なことは、「社会通念」「常識」とつながる、ということ。

 
「社会通念」「常識」というのは、長い歴史や伝統の中で紡がれたもので、現在も、社会を構成する無数の人のネットワークでできているもの。

 古代から芸術や政治、経済の理想というのは、その目に見えるようで見えない「社会通念」「常識」(輿論)≒イデアというものをいかに具現化するか、というところにあるといわれています。
 

 

 天才的な芸術家や政治家がイタコのようにそれを降ろしてきて表現する存在とされます。

 

 凡人である私たちも天才的とまでいかなくても、普段言葉には出せませんが、「社会通念」や「常識」というものを体感して生活しています。
 心身が健康な常態であるとき、私たちはそれを中心軸に感じ取って、落ち着いて生活することができます。
 「公的な領域」で生活している状態です。

 

 心身が不安定な時、「社会通念」や「常識」を十分には感じ取ることができません。外部からやってくる否定的な感情に振り回されてしまって、イライラして、バランスを欠いた感覚にとらわれてしまいます。
 自分が何やら常識から離れているかのように感じてしまい、自信を失ってしまいます。

 社会が自分の敵に回ったかのような、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあります。
 「公的な環境」を維持できず、「私的な領域」で生活している状態です。

 

 

 「家」の中というのは、避難場所としては機能しますが、実は、「社会通念」や「常識」≒イデア とつながるにはとても不向きな場所です。
 家系、親の偏った常識、価値観というローカルネットワークの呪縛されてしまうからです。

 

 学校や会社も実はとても難しい場所で、正しく機能すれば「社会通念」や「常識」への仲介となる場所でもありますが、中間集団として、偏ったローカルネットワークとなりやすい場所でもある。それがハラスメントやいじめとなって現れる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 そのため、小中学校などでも、できる限りローカルネットワーク化しないように、社会学者などがクラス単位ではなく、科目単位で編成するような組織作りを提案していたりします。

 

 
 社会に出ていくときには、支配しようとしてくる人がいたり、機能不全のローカルネットワークにからめとられたりすることがあります。それらはすべて公的環境を騙った「私的な領域」です。

 

 世にあるノイズに対抗するために、自己啓発などの考え方では、個人の成長によって果たそうとしてきました。
でも、それはとても難しい。
 なぜなら、自分の頭だけで自分のアイデンティティを確立させてという作業は、天才的な哲学者でも難しいことだから。なにより、人間は構造的にクラウド的存在だから。

 

 

 機能している社会には、「常識」や「社会通念」というものが悠然と存在している。
 

 

 「常識」や「社会通念」は、何気なく街や職場で出会う素朴な人たちとのかかわりで感じることができます。

 

 本来の「常識」や「社会通念」とは、多元的であり、“人それぞれ”というわきまえがあって押しつけがましくなく、でも、人々に太い幹のような基準を与えてくれるもの。

 そうしたものを内面化する。自分は「公的な環境」という光の道を常に進む。「私的な領域」の闇をのぞき込んだり、かかわろうとしない。
(もっともらしく見えても、生きづらさを感じるならば、それは歪な「私的領域」です。)

 

 そうすることで、ハラスメントや生きづらさから解放されていきます。 

 

 

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について