あれは自分ではない(because that’s not mine)

 

 昨年のテニスの全豪オープンで、錦織圭の対戦相手が、自分が敗戦したことに激昂して、かばんを投げたり、取り乱して大暴れをしたことがありました。

 いわゆる敗戦の刺激でローカルルール人格にスイッチしてしまったような状態です。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 それに気が付かなければ「自分がしたことだ(Doing)」そして、「そんな自分はおかしい(Being)」と捉えてしまいかねません。

 

 

 実際に、過去に自分が行った(させられた)行為について後悔と恥の感覚が拭えない、ずっとフラッシュバックして苦しんでいる方は少なくありません。

 その背後には、以前も見ましたように、「Doing」と「Being」の一体視 という現象があります。

(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 

 

 弱い人間は、Doingは不完全です。ローカルルールに影響されてしまうこともしばしばです。
 しかし、DoingとBeingが一体であると感じられていると、ローカルルールに影響されたDoingの失敗も、自分そのもの(Being)であると感じられてしまう。
 それが支配というものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 さらに、
 過去の行為への後悔と恥の感覚、自責の念の苦しさから逃れるために自分の主権を明け渡して、さらにローカルルールに支配されてしまう、ということが起きてしまう。

「この苦しみから逃れるためには、反省して、主権は放棄して、正しいもの(実はローカルルール)に従わなければ」というわけです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

 激昂したテニス選手などは、TV中継で全世界が観ている中でのことですから、下手をすれば一生後悔しかねません。

 「あんなふうに取り乱して、感情のコントロールができない人と思われたのでは?」とか、
 「プロとして失格だ!」とか、
 「自分がおかしな人間であることが世間に知れ渡った」とか、

 自責の念でぐるぐるしてしまうかもしれません。
 

 しかし、その選手は、試合後のインタビューでは、自分を取り戻し、サラッとこう言いました。

「あんなふうにコートを去るなんて正しくなかった。本当に申し訳ない。あれは自分ではない(I’m so sorry, because that’s not mine)」と。

 

 
 ローカルルールの呪縛からのがれ、主権を回復するためには、これはとても参考になります。

 Doing とBeing とを一体視せず、あくまでDoing の問題として、さっと、自分のBeing に立ち戻って、Doingの失敗を謝罪し、自分(Being)から切り離した。

(参考)→「過去は、“その時期のこと”として自分と切り離して良い

 

まさに愛着の機能とはこういうものだとという見本のように感じます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 このテニス選手は自然とそれを行いました。
 ちゃんと、出来事(記憶)についての主権が自分にある、と言えます。

(参考)→「記憶の主権

 

 「あれは自分ではない(because that’s not mine)」

 私たちはクラウド的な存在として、環境からの影響(ストレスやローカルルールや)を受けることがあります。

(参考)→「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。

 でも、それは Doing とBeing とが区別されていれば、不完全なDoingの仕業として、さっと謝罪し、あっさりと自分からは区別していく。

 

 

 「人格」とは、実は、Beingではなく、Doingの領域にあるといえます。人格とは本来の自己ではない。

 人格は不完全で弱い。しかし、人格=存在(Being)としていると、おかしな人格や不完全なDoingに支配されてしまう。

 そうではなく、立憲君主制の国のように、無答責な Being を主権の支えとして 雑音はキャンセルし、失敗は自分からは区別し、人格は自分に統合(Beingの配下に置いたり、おかしな人格は除いたり)していくのです。

 

 それが悩みの解決に不可欠であり豊かな人生を生きていくための、自己(Being)の成熟というものだと考えています。

 

 

 

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過去は、“その時期のこと”として自分と切り離して良い

 

 先日、たまたまヤフーニュースを見ていたら、ナインティナインの矢部さんのインタビュー記事が目に止まりました。

「高校卒業する18までは「人間」やったけど、芸人を始めた19から「人間」じゃなくなって無理して無理して……。子供できて40過ぎてからまた「人間」に戻って」といったことが書かれていました。

 

 芸人として売れるために無理をしたり、ピリピリしていたり、というそういう時期というのはあるようです。
 他の芸人さんでもそういう昔のエピソードはよく耳にします。同じ世代同士でケンカしたり、後輩をいびったり、といったようなこと。
 敵意を向けなくていい相手に失礼な発言をしたり、といったようなこと。

 

 明治大学教授の齋藤 孝さんなども、大学院の頃は、ピリピリしていて本当に嫌なやつだった、とご自身が書かれた本で見たことがあります。

 

 若気の至り、といえばそうなのですが、年齢的なことやまだ社会的にも何者でもない状態で、余裕がなければみんなそうなる、ということです。

 

 
 健康な人というのは、その時の環境で起きたことは、「その時期のこと」として流すことができている。

 ちゃんと記憶に主権があって、今の自分からみた解釈ができている。
 
 変に今の自分につなげてしまったりはしていない。ある意味切り離すことができています。

 そこには、「人間は弱い」という前提がありますし、「人間は変化する」ということが当たり前としてあります。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 反対に、トラウマを負った人は、過去の失敗や、痛いエピソードについて、いつまでもフレッシュな状態で変わらず、自分を責める材料にさせられている。
「その時期のこと(今の自分とは違う)」ということがない。

 

 なにより、「理想的であらねばならない」という基準に一度でも抵触した、という感覚から、自分の存在(Being)は汚れたものとして「実態がバレた」、あるいはその罪科を背負っていかねばならないという感覚があるのです。
(参考)→「バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 

 

 「君子豹変」ということばがあります。

 君子とは徳のある人で、豹変は過ちを改める、あるいは自分の意見をガラッと変える、ということです。 

 人間には一貫性の法則、というのがあるように、一貫していないことを嫌いますが、徳のある人は、一貫性にとらわれず状況に合わせて変わっていくし、変えていくものだ、ということです。

 

 君子豹変とは、変化する主権が自分にある、ということだと筆者は捉えます。

(参考)→「記憶の主権

 

 

 

 トラウマを負っていると、一貫性の法則どころか、自分の変化する主権を他者に奪われていて、自分が自由に判断、行動できる権利がないような感じがします。過剰な義理堅さ、に支配されている。

 トラウマによって引き起こされた、過去の失敗を「自分の責任」として引きずり、ずっとそれにとらわれている。 

(参考)→「「終わりがない悩み」こそニセモノである証拠となる。

 

 また、誰かからのイメージを忖度して、そのイメージ通りの自分でなければならない、なろうとしてしまう。

 誰かが「~~は、誰からも好かれない」「~~は、真面目な人間だ」というイメージを持っていると思えば、そのイメージに重力のように引っ張られてしまう。
(多くの場合、父親とか母親とかの言葉、イメージに従っている)

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 変わることがよくないことのような感じがして、固定されたイメージに無意識に沿ってしまう。実はそれは誰にでもあるような気がしているのですが、そうではありません。トラウマの症状です。トラウマとは自律神経の失調でもあり、代謝の異常をもたらします。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る
 

 

 私たちは、人生の直々で状況は変わりますし、苦境にあっては、なかなか痛い行動をすることもあるし、失敗も当然ある。みんなそうです。

 それにいつまでも向き合う必要はない。あっけらかんとするくらいに過去は別の人間、別の時代としてしまってよい。

 時期時期で「あの時代はこうだった」と区切ってしまって、もうそれは自分であって自分ではない。別の人間と捉える。
今の自分からは切り離していく、ということが当然のことといえるのです。
 
 
 主権は「今の自分」が持っていて、過去の自分はあっけらかんと切り離しつつ消化して、常に「今の自分」が統合していくのです。

(参考)→「記憶の主権

 

 

記憶の主権

 
 筆者も、過去の失敗がフラッシュバックのように襲ってきて、自分を否定する衝動が襲ってくることがあります。

 特に、トラウマを強く負っていたときは、顔から火が出るような言動がありました。

 「トラウマのせいなんだから、仕方がないじゃん」ということですし、それでいいのですが、なぜか“自分の問題”だと思ってしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 皆様も、自分の過去について重く引きずっていることは結構あるのではないでしょうか?
 悩みとは、結局、その過去の負債をどうにかしたい、ということだったりします。

 
 でも、負債の重みがなかなかとれない。処理しきれない。

 もちろんこれはニセの責任のせいです。
他人から負わされた負債を背負っている、ということで、本当は自分の負債ではない。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 
 親の借金を負わされてそれを返済した人の話をよく耳にすることがありますが、まさにそんな感じ。

私たちは家系や環境からの負債(ニセの責任)を負わされていることがよくあります。

 いじめで後々まで残るような心の傷を負った。会社のパワハラ、モラハラで自信を奪われた。

誰の責任か?といえば、加害者に決まっています。

 なのに、被害者が負債を背負っている。

(参考)→「悩みとは実は他人(親など)の責任の尻拭いだったんだ?!

 

 大切なのは、「ニセの責任なんだ」と気づくこと。「自分の問題ではない」と気づくことです。

 

 

さらに、重要なことがあります。

 それは、「記憶の主権」を自分に取り戻す、ということです。

 過去の記憶について、公開や恥、自責の念がある、というのは、過去の自分の記憶を解釈する権利を他者に奪われている、ということ。

過去の自分の記憶について、それを解釈する権利は、本来自分にあります。

 しかし、いじめや虐待、ハラスメントといったことは、他人にストレスを与える、ということだけではなく、過去の記憶の主権を私たちから奪います。

そして、ローカルルールのおかしな理屈で私たちの記憶を解釈してしまう。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

  
 時間が経っても、いろいろな取組をしてもなかなか過去について自責の念や、後悔が抜けない、といったときには、必ず「記憶の主権」がなくなっている、ということがあります。

 そして、「これは、記憶の主権が奪われているのだ」と気づくだけでも、自責の念や後悔はぐっと減ります。

 

 結局、弱く不完全な人間でできている社会の中で、自分の記憶を解釈する権利は自分にしかない、という当然のことに気がつくと、自分の体に力が戻るようなそんな感覚になってきます。

(参考)→「弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

弱く、不完全であるからこそ、主権、自由が得られる

 経営学者として有名であったP.F.ドラッカーは、社会が成立するための一般理論、全体主義の研究において、非常に優れた書籍を残しています。
 人間が自由であるためにはなにが必要なのか、をわかりやすくまとめています。

 

 『産業人の未来』という本の中で、

 「人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる」
 「人間を完全無欠のものとするならば、自由は完全に否定される。」

 反対に、

 「人間を基本的に不完全で、はかないものとするとき、初めて自由は、哲理上、自然かつ必然のものとなる。」と述べています。

 

 どういうことかというと、
 ある人間が完全無欠である、あるいは、自分たちが完全無欠な真理に到達できる、という考えの前では、疑ったり、自由に選択したり、ということが愚かな行為とみなされ否定される。

 反対に、完全無欠な真理とは存在するかもしれないが、それは人知の及ばないところにあって、私たちは、自ら懐疑し、選択する存在である。

 「多元的で多様な社会、人間」という連立方程式を解ける人間は存在しません。 
 だから、それぞれの多様さを認めて代表しながら、自らの役割の中で意思決定を行っていく。そうしたことが「自由」というものです。

 

 完全無欠、という考えの中には、多様さはありません。
 

 

 

 
 と、難しい理屈は置いておいて、実際に私たちが感じる生きづらさをみればこうした事はよくわかります。
 他者が自分よりも正しいように感じて、自分の考えや選択にいつも自信がない。
 「あなたの考えや行動は間違っている。これが真理だ」といわれるのではないかと、ビクビクしている。

 完全無欠へのあこがれがあって、しゃにむに努力したりもしますが、結局、完全無欠は得られない。 

 むしろ、自分の態度が力みすぎたり、傲慢になったりして、そのことを他人に指摘されて落ち込む。

 
 他者に完全無欠を見出そうとして、恐れを感じたり、反対に、依存的になったりする。

(参考)→「「素晴らしい存在」を目指して努めていると、結局、人が怖くなったり、自信がなくなったりする。

 

 そうして、気がつくのは、自分に「主権(自由)」がないということ。

 植民地の住人があくせく動き回っているみたいに、見かけの行動(Doing)の自由はあるかも知れません。でも、存在(Being)の自由はない。

 トラウマを負った私たちは、行動力は他人よりありますが、そこに自由(私)はないのです。
(参考)→「「私(自分)」がない!

 

 興味深いことは、哲学や社会学や政治学レベルの考察でも、弱さ、不完全さと自由とは密接につながっている、と考えられていることです。
 (自由とは、主権と言い換えてもよいでしょう。)

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 弱さ、不完全さを認めるとは、「こんなダメな私でもがんばって生きます」といった感傷的なことではありません。ローカルルールから自由になり、現実を見る、事実を捉えるということです。

 弱さ、不完全さを認めることで、「私」というものが立ち上がってくる。
(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 弱さ、不完全さを必死に隠して、自分が立派だと必死に証明しようとすることは、実は、ローカルルールの世界を肯定し、知らない間にそこに巻き込まれてしまうことになります。

 反対に、弱さ、不完全さを当然の前提とすることは、自他の区別をつけ他者の干渉を遠ざけ、自分の主権を取り戻すことになるのです。