目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 ローカルルール人格の特徴として、目の前の人を攻撃したくなる(文句を言いたい、否定したい、非難したい)、ということがあります。

 ローカルルール人格にスイッチしていると、あたかも目の前の人がそのとおりに悪い人のように感じます。
 

 もちろん、それは真実ではなく、ローカルルールによる因縁でしかありません。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 どうして、目の前の人を攻撃したくなるのか、ということですが、ローカルルールが成立する要件を考えるとその理由がわかります。

 

 ローカルルールが社会を覆うような状態をファシズムとか、全体主義といわれるものですが、特徴として、必ず「敵」を必要とする、ということがあります。

 

 ローカルルール自身は、中身が全くありません。
そのために、ローカルルール自身がを成立させるためには、正統性を偽り、人々を巻き込み協力させ、中身が無いことに気が付かせないようにしないといけません。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ナチスだと、敵は、「ユダヤ人」と「共産主義」でしたし、
 共産主義は、「資本主義」や「帝国主義」でした。

 

 特にナチスなどは主体的な教義や主張というのはなにもなく、すべてが「反(アンチ)でできていた」と言われています。

 

 全体主義を描いたジョージ・オーウェルの小説「1984年」でも、「人民の敵」という敵が設定されていて、それを憎むための「憎悪週間」なるキャンペーン期間がありました。
 
  

 「敵」が存在するとそれに対処するために、「(たとえ間違っていたとしても)ローカルルールが必要だ」ということになり、ローカルルールは、「敵」が存在する間、延命できることになります。

 

 個人の中で内面化されているローカルルールも同様で、それが成立し、延命するためには「敵」が必要なのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 そのために、トラウマで苦しむ方の多くは「身の周りの人へのイライラ」という症状に苦しんでいます。
 

 職場の人が許せない、とか。
 楽しそうにしている人を見ると腹が立つ、とか。
 治療者に怒りや文句、イチャモンを付けたくてしようがなくなる、とか。
 

 愛着の不安やトラウマが重い人ほど、ローカルルール人格の影響は真に受けやすく、目の前の人を攻撃したくなる、ということは強く出ます。

 それは、ローカルルールが大きいために、「敵」もより必要になる、というためです。

 

 人格がスイッチしてしまって、自分でも自覚できない場合もあります。

 これは結局は、ローカルルール人格が起こしたことで、その方本来が起こした行為ではない。
 だから真に受ける必要はない。

 怒り、イライラを真に受けると結局は、ローカルルールに協力していることになり、悩みの原因は延命することになります。

(参考)→「「本当の敵」から目をそらされる

 

 人に因縁をつけたくなるのは、ローカルルール人格によるものだ、ということに気がつくと悩みは変わってきます。

 
 
 こうしたローカルルールの構造に気がつくことは、生きづらさから抜け出すためにはとても大事です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 最近、いくつかのケースに共通して気がついたことですが、

 
 社会を“外”、自分の家族や実家を“内”としたときに、

 守る必要のない“内(ローカルルール)”を一生懸命守らされている人が多いということ。

 “内”とは、特に家族から強制され、内面化されたローカルルールのこと。

 これを一生懸命に守っている。

 

 

 本人は、家族のことをちゃんと否定しているつもりでいる。
 客観的に見ているつもりでいる。

 でも、実際はそうではない。

 
 さながら、家族や親の守護者・救済者、カウンセラーとして、家族の否定的な感情を癒やし、家族の期待に応え、家族の秘密を守らされている。

 家族の秘密は、とんでもない極秘事項のように思わされて、大事に大事に守らされている。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む

 

 

 “内”を守れなくなると、世界が崩壊する、といったくらいに感じている場合もあります。

 一方、(家の)外に対しては、不信感があったり、疑わされて、一体が得られずに苦しんでいる。

 

 そのため、カウンセリングを受けているし、治療者を信頼していないわけではないけど、本当の問題(内を守らされている、ということ)は俎上に乗っていない、なんていうこともあります。

 なんてたって、“極秘事項”ですから。

 

 実際に、その極秘事項というのは、他人が見たら、すごくもなんともない。
 本当につまらないことだったりする。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 

 家族が安全基地だと思っていますが、実際はそうではありません。
 家庭は、機能が正常に発揮されていないと安全基地にはなりません。

 トラウマを負った人にとって、(機能不全の)家庭とは、緊張や呪縛をもたらす場所です。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 

 “内”を守らされていることで、一番良くないことは、自他の区別がつかなくなること。

 自我というのは、自分の中に秘密ができ、家族を一旦否定し、社会に参画していくことで形成されていく。

 自分を“内”として自我が確立していれば、社会に参画して自分も保ちつつ、他者と付き合うことができる。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

 以前も書きましたが、本来の人間というのは、パブリックな場面においてはじめて可能になります。

自分とは、社会に参画して普遍的な何かを代表して、はじめて成立するもの。

 

 一方、

 家族を“内” そして、社会が“外”だとすると、
 両者にまたがる自分の中に“内側”は存在しなくなってしまう。
 

 さながら、家族のローカルルール自体が自分となって、自分がないために苦しみ。
 さらに、社会に出ては、自他の区別がないために他者のローカルルールへの防壁がなく苦しむ。
 ひどい場合は、パニック障害といった身体症状に現れることもある。

 

 トラウマを負った人というのは、多くの場合、「自分がない人」です。
自分がないというのはつまり、自他の区別がなく、ローカルルールを代表させられている、ということです。

 ローカルルールを代表させられているので、自分があるようで自分がない。
 

 

 自分の中に“内”がなく、そのために、社会のストレスを浴びて、仕事ができなくなったり、対人関係に苦しんだりする。

 
 いったん、家族から与えられた“内”(ローカルルール)を捨てる必要がある。
 その上で、自分の中に“内”を作って、社会に参画していく。そうして、パブリックな存在となっていく。

 人とうまく付き合うというのは、決して心の壁を取り払うことではない。
反対に、自分の内と外を明確にしていくことです。

(参考)→「自他の区別がつかない。」

 

   
 ニセモノの“内”を懸命に守らされていないか、“外”を敵とされていないかどうか?確認し、自分の中に本当に自分の“内”を作っていくことで、生きづらさを解消していくことができます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

すべてが戯れ言なら、何も信じられない?!

 

 これまで書いてきましたように、 人の言っていることがすべて戯れ言 です。

 (参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 特にプライベート(私的な領域)な場面では100%戯れ言と考えて間違いない。

 公的環境では、心身のコンディションが良ければ、人の発言は信じられる余地があります。
 
 それは公的な役割をまとって、“普遍的な何か”を代表しているから。  

 「すべてが戯れ言なら、何も信じられなくなってしまうのでは?!」 と不安になる方もいらっしゃいます。

 

 「医師やカウンセラーの言っていることも戯れ言ということになる」

 と。

 たしかにそうです。

 

 すべてが戯れ言というなら、そうなります。

 治療者が「私の言うことは正しいですよ」といえば、宗教になってしまいます。そんな事を言う人の言葉は信じてはいけない。

 このブログの言葉でさえ、戯れ言です。

 本に書いてあることも戯れ言です。
 

 ローカルルールから逃れるために、自分の感覚、常識に立ち戻るのではなく、スピリチュアルなものやカリスマセラピストと言った、別のローカルルールにただ移ってしまう人も多い。
  (参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 健全な成長を遂げた人というのは、反抗期を経て、世界というのは等身大なのだ、でもなにやら普遍的な何かというのがあることもなんとなく感じています。

 

 そのために、目の前の情報を真に受けたりはしません。特に人の言葉は。カリスマなんて言うのは胡散臭いと感じる。
 

 なぜなら、人は等身大だと知っている。言葉が戯れ言と知っているから。
 

 では、「この世には正しいものはなく、すべては無意味だ」といって虚無的になるかといえば、そうではありません。

 

 自分に軸を持ち、普遍的な何かを感じて生きていくことができる。

 言葉を吟味して、信用度を体感で測り、専門的な知見などをうまく利用できたりする。人の意見の背後にある普遍的な何かを感じ取ったりすることができる。

 特別なことではなく、普通の生き方です。

 

 トラウマなどで悩んでいない人に、この話をすれば、おそらく

「そんなの自分でチェックして、判断すればいいじゃん」「なんとなくわかるでしょ?」とかえってきます。

 

 もちろん、絶対の正しい判断というものはありませんが、生きていくのに支障のないレベルで、真偽を分けることができる。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 

 一旦全てを疑うことを「方法的懐疑」といいます。
あくまで、「方法的(手順として行うこと)」なので、その手順が終わったら、次は信用できるものを受け入れることになる。

 これは普通のことです。
 

 「全ては戯れ言」と聞いて、虚無的になったり、不安になったりするのは、トラウマを負っているケースに多い。

 これは、もちろん、「寄る辺がなくなるのでは?」「ローカルルールとはいえ、それがなくなったあとに信頼に足る世界はあるの?」という不安のためであることがまず挙げられます。

 安心安全がなく、世の中が自分にとって危険と感じられている以上、まず疑って、吟味して、なんて悠長なことはできない。

 トラウマの処理で頭がいっぱいですから、「これ以上負担になるような考え事はしたくない」のです。
 
 
 とにかく信じられるものを、ということで「絶対のもの」を探そうとしています。

 その結果、ローカルルールというニセモノを掴まされてしまう。

 

 

 そして、次には、
 ローカルルールがもたらすニセの相対主義に陥っているためでもあります。

 ニセの相対主義とは何か? といえば、それは隠れた呪縛のことです。

 つまり、「すべてを相対化する」といいながら、ローカルルール自身は「絶対化」している。 

 

 全ては戯れ言なんでしょ、と言い、外部のものすべてを否定したまではいいですが、そのまま「自分の感覚も信じられない」と自己も否定し、不安になった暁に、「結局、これしか信じられない」と、これまで慣れ親しんだローカルルールを絶対化してしまうのです。

 具体的に言えば、世間(外)にある様々な知恵や自分の感覚は相対化(否定)したあとに、内面化した親の教えや言葉は絶対化してしまう。
 親から「あなたはダメな人間だ」「良い子であれ」という価値観は絶対化してしまう、というようなことです。
 

 
 迷ったときは、
 「相対化の果に、結局ローカルルールに戻っていないか?」をチェックする必要があります。
 
 方法的懐疑(すべてを戯言だといったん否定し)のあとに、自分自身の軸、常識に戻ることができているか?
 
 を見ることがとても大事です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「代表」が機能するために必要なこと

 

 私たちは、普通に生きているだけでも、実は何かを代表しています。

 
例えば、

 TVの視聴率は、1億強の人口に対して、わずか300サンプルで計測していると言われています。

 1サンプルに、約33300人の意見が「代表」されていることになります。

 

 なにげなくTVを見たり行動したりしているわけですが、実は、自分の考えではなく、その背後には、大きな母集団が存在している、と考えられるわけです。

 

 決して不思議なことではなく、生きていく中で日本語を話し、TVやネット、書籍からさまざまな情報、規範を内面化して生きています。

 

 食べ物の嗜好でさえ、社会的に形成されたもの。

 遠く海外ではタコは気持ちが悪く、食べない国が多いようですが、日本では普通に食べます。

 大阪では納豆は好まれませんが、関東や東北ではたくさん食べられます。

 「俺は納豆食べへんのや」と自分の好み、考えのように言っていても、実はそれは「文化の影響」だったりする。

 

 パリ大学の小坂井教授は、「人間は、外来要素の沈殿物」と言っていますが、まさにそうです。

 「クラウド的な存在(社会的動物)」として、外からの影響というのはじんわりと常に受けている。

 

 私たちが日常で頭に浮かんだ考え、ちょっとした行動も、自分オリジナルではなく、実は、”普遍的な何か”を「代表」している。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 だから、研究やマーケティング調査では、全数を調べなくても100~300サンプル程度で、実質的に全体を知ることができたりする。
 質的研究などは、極端に言えば1サンプルでも成立するとされるのです。

 

 「よろしければ、アンケートにご協力いただけますか?」と街頭やインターネットで依頼をされるのは、私たちが、何かを「代表」しているから。

 この様に「代表」というのは、決して特別なことではなく、普通に生きているだけでも働いているものです。

 

 そして、「代表」は”普遍的な何か”をインプットするだけではなく、アウトプットすることが必要。アウトプットされることで、つながりや生きやすさを感じることができるようになります。

 

 

 ”普遍的な何か”というものをちゃんと体感し、アウトプットしていくためには、いくつかの要件があるようです。

 要件が満たされた状態で機能するのが、「社会的な位置と役割(≒仕事)」というものです。

 私たちは、「社会的な位置と役割(≒仕事)」があることで、”普遍的な何か”をアウトプットすることができる。それがないと、機能不全に陥ってしまう。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。」

 

 経営学者のドラッカーが言っていることですが、 

 「位置と役割と持たない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、かつとらえどころのない存在である。位置と役割を持たなければ社会からつまはじきにされる。根無し草の目に社会は見えない。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界に過ぎない。」

 

 「半分は暗闇という予測不能な魔物の世界」という表現は、まさにトラウマを負った人、あるいは発達障害などによって生きづらさに苦しんでいる人が感じている社会の姿です。

 

 さらに、その位置と役割が機能するためには、大きく言うと2つが必要です。

 それは、「身体の安定」と「自他の区別」です。

 身体の安定とは、特にストレスに対処する機能の安定を指しますが、自律神経系、免疫系、内分泌系の3系が働いていることが必要です。

 そのためには、睡眠、食事、運動が大切です。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 発達障害の方などが生きづらいのはなぜか?といえば、決してパーソナリティに問題のあるのでも、社会性に問題があるのでもなく、感覚過敏やストレス応答系の不安定さもあり、「身体の安定」がうまく取れていない、ということにあります。

 
 
 次に、「自他の区別」です。

 「代表」が機能するためには、自我が成熟していることが必要ですが、特に「自他の区別」がちゃんとついていることがとりわけ大切。

 

 子どもの頃に自分の嘘や秘密を持ったり、反抗期になって親の価値観を否定したりして自他の区別がついてくる。
 反対に、理不尽な環境だと、家族の秘密を持たされたり、反抗期が適切に通過できなかったりして、「自他の区別」がつかなくなってしまう。

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 自他の区別がつかないために、他人のもの=ローカルルールを代表させられるようになってしまい、「自分がない人」になってしまうのです。

 

 「身体の安定」と「自他の区別」がつくと公的な環境を保ちやすくなりますし、自分の中でも(モジュール/人格の)秩序を維持しやすい。

 内的にも安定が取れて、「代表」が機能している状態のことを「自己一致」といいます。

 

 反対に、自分ではなく、ローカルルールを代表させられたり、振り回されている状態は「自己不一致」。

 こうしたことが、ワンパッケージで提供される(プリインストール)のが「愛着」という便利なものなのです。

 

 愛着不安の何が面倒か、といえば、PCに例えれば何も入っていないPCに「OSをインストールして・・」「ドライバをダウンロードして・・」「オフィスを入れて・・」と全部自分でしないといけなくなることです。

 ただし、人間がよりよく生きていくために必要な要件というのはわかってきていますから、愛着が不安定でも、PCのたとえのように自分で成人してから回復させることはできるのです。

 そして、「代表」が機能するようにすることで、自己一致して生きていくことができるようになる。 
  

 “普遍的な何か”というのは、万人に同じ様にインプットされるのではなく、百人いると百人ともインプットされるものが少しずつ異なる。 
 だから統計でもばらつきが出たり、説明できる量に限界が出る。
 

 実は、私たちがインプットする”普遍的な何か”には、それぞれ異なる”問い(課題)”が隠れていると考えられている。問いとは、別に不思議なのものではなくて、社会が抱えている課題のこと。

 「代表」が機能していると、社会の課題も、それぞれ「代表」しているその人の特徴に沿ってやってくる。その“問い”に気づいて、“問い”に答え、その結果を”世に問う”ように社会に返すことで、「代表」の機能は満たされるのです。

 

 世に問うというのは、けっして芸術家みたいな作品を作ることでも、派手な事業をすることでもありません。普通に世の中で生きて働いているだけでよい。

 

 反対に、ローカルルールを代表してしまっていると、自分の問いではなく、家族などの”問題”を解かされてしまい、苦しむようになります。その”問題”は単なる私的な情動に過ぎず、不毛であり、そこになんの意味もありません。
 

 「身体の安定」と「自他の区別」が得られないことで、“自分”というものが、
 位置と役割が得られないことで、“社会”というものが、それぞれ異物のように感じられる。

 それが生きづらさ、というものです。
 

 

 「自分は仕事もしているし、位置や役割はあるはずだけど、やっぱり、生きづらい」といった場合は、

 身体の安定は得られているか?
 (具体的に言えば、睡眠、食事、運動が十分に取れているのか?)

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 自他の区別はついているか?
 (人の気持ちや考えを自分のものとしていないか?)

(参考)→「自他の区別がつかない。

 

 ローカルルールを代表していないか?

 
 
 といったことをチェックして、一つ一つ解決していく必要があります。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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