意味深というのは、ローカルルールに巻き込むための方策

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」

 

 という台詞で有名な「星の王子さま」です。

 素敵な童話というように考えられてきましたが、東大の安冨歩教授によると、これは、モラルハラスメントについて書かれた作品だ、といわれています。 

 
 王子さまはバラとかキツネとか、出会うキャラクターたちの意味深な発言に混乱させられ、罪悪感を植え付けられて、徐々に支配されていくさまが描かれています。

 「ハラスメント被害者の物語」というのが、「星の王子さま」の別の姿です。

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」というのは、一般には素敵なセリフとして紹介されていますが、とんでもない。その逆で、意味深さで王子さまを縛る呪い言葉だったのです。

 

 
 私たちも星の王子さまのように、ハラスメントの呪縛にかかって苦しんでいるのですが、その中でも厄介なのは、身近な人が発する意味深な発言です。

 意味深な発言というのが、さながら、コンピュータに演算不能な関数を打ち込んでダウンさせてしまうように頭をぐるぐるとさせて、私たちを縛り続けてしまうのです。

 

 世の中には、意味深なことを言ったりする人は少なくありません。

 予言めいたことを言う人もいます。

 「あなたは将来こうなる」とか。

 

 特に家族は厄介で、家族からの意味深な言葉がずっと残っていて、クライアントさんを縛っていることがよくある。

 

 実は単に、ローカルルール人格が発した世迷い言でしかないのに。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 現代は人間が理性的な存在である、という前提があるために、私的環境においては、人間が日常的におかしくなるのだ、ということが忘れられている。
おかしくなるというのは、よほどの酩酊、錯乱状態のときだけとされている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 その為、日常で発せられる意味のない意味深な発言を真に受けさせられている。

 

 実際はそんなことはなく、
 たとえ地位のある人の言葉でさえ、日常においては戯れ(戯言)でしかなく意味などない。
 

 それなのに、なぜ意味があるように聞こえるかといえば、ローカルルール人格というのは、“神化”しているから。

 

 ニセ神様のようになってしまっていて、あたかも自分がすべてを知っていて、相手を支配する力があると錯覚した存在だから。
 ただ、認識できる範囲は狭いので、具体的に言うことができない。独自の不思議世界の中にいる。そうしたこともあって“意味深な”発言となってしまうのです。

 

 

 一方、真に受ける側の事情もあります。
 

 長い間、理不尽なストレス環境にあると、安心安全がないために物理的な現実を信頼することができない。世の中というのは理不尽に突然襲ってくるものだ、という感覚があります。
 
 また、あまりにも現実がうまくいかないために、それらを迂回したり、寄る辺を求めるためにスピリチュアルなものに対しても親和性を持ってしまうことがある。

 さらには、トラウマを負った人というのはいつも深刻なのです。リラック史できず過緊張でガチガチです。そのため、真に受けなくても良いことまで深刻に受け取ってしまう。

 すると、意味深な言動というものが何やら聞く必要のあるかのように感じられてしまい、真に受けてしまうようになる。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 相手が意味深なことをいうときは、ローカルルール人格にスイッチしているのですが、実際の治療現場でも意味深発言というのは起こります。

 

 あるセッションで、クライアントさんが“本音”を吐露し始めました。
 幼いことからのこと、治療者への要望や陰性感情などもふくめて、とっても意味深な内容で、治療者としてはなんとか話に耳を傾けて理解しようとします。特に要望は聞かなければとがんばります。

 なんとか、こういうことかな?と意味がわからない部分がありながらも懸命に受け止めた、と思って、セッションが終わりました。

後日、しばらくして何回かあとのセッションの機会で、

 「あのときのことは実は、治療者を巻き込もうとしてやっていたことだったとおもいます」

 とそのクライアントさんがおっしゃったそうです。

 「あれは本当はそうは思っていませんでした」と。

 

 治療者は驚きました。

 「ええ~!一生懸命聞いていたあれは何だったの?」

 やっぱり、人格ってスイッチするし、意味深な発言っていうのは意味がないんだ、ということを示す出来事です。

 

 

 要は、「意味深」というのも、巻き込むための方策でしかないことをあらためて教えられるエピソードです。

 

 

 「ドクターハウス」というアメリカの医療ドラマがありますが、その主人公の口癖は、「患者はウソをつく」といいます。

 

 さすがに、「治療者が患者さんの話を嘘と思って聞いてはまずいでしょう」「そんなひどい治療者にはなりたくない」と思ってしまいますが、「私はクライアントさんのすべてを受け止めます」とやっているとでも、はじめのうちは良いのですが、しばらくすると本当にやられてしまいます。ある日ひどいクレームにさらされて、治療者を辞めないといないところまで精神的に追い込まれます。

 これは、カウンセラーなどの治療者あるあるですね。

 

 ベテランの治療者はそのことを知っていて、うまく流して本質を捉えようとします。特に依存症などを扱う(依存症は人格が顕著に変わる症状です)医師やカウンセラーなどは、真に受けないように、巻き込まれないようにトレーニングをされているそうです。

 

 ドクターハウスの主人公は、要は「本質に目を向けろ」といっているわけです。人間というのは弱い生き物でいろいろな事情を抱えていて本当のことが言えない場合もあるし、人格もスイッチするから真に受けていたら二進も三進もいかなくなる。

 
 カウンセリングでも同様に、クライアントさんの本来の人格の言葉を聞くためには、表面的な言動に惑わされてはいけないし、その奥にあるものを捉えないといけない、ということになります。

 

 治療場面だけが特別ではなく、私たちは日常でもにとってもこうしたことはしばしば接します。特に親族、友人、知人、会社の上司、意味深発言、というのはまともに聞いてはいけない。

 スルーするか、「なにうさん臭いこと、いってるねん!」と突っ込み返さないといけない。相手は神様ではなく人間なんですから、分をわきまえない意味深な言葉なんて発する力ありませんから。

 

 実際に、よくあるお笑い芸人の漫談で、すごく伝統や権威のある、と思っていた人とか占い師めいた人の話を真剣に聞いていたら、ただのおじいさんだったとか、実はそうじゃなかった、いい加減だった、みたいな笑いばなしがありますが、まさにそんな感じ。

 

 

 人間の言葉は本当に意味がない。
言葉が意味を持つのは公的環境においてのみです。

 

 特に意味深発言は耳を傾けてはいけません。意味を考えてはいけません。前回の記事でも書きましたが、日常の会話というのは戯れとして流していくものなのです。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。

歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。

 歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。

 史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。

 

 理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
 

 

 このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。

 

 

 
 「目利き」という言葉があります。
 例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。

 最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
 

 鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。

 
 世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。

 

 

 

 そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。

 それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。

 

 トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 特に、
 「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。

 

 しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。

 

 

  
 例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。

 腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
 だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。

 食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。

 

 
 この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。

 

 

 そうした常識の中、
 私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。

 そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。

 

 なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?

 

 

 臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。

 

 DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策
 

 

 いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。

 その勝手な理屈をローカルルールといいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。

 

 ローカルルールは人から人へと感染していきます。
 特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。

 

 

 また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。 
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。

 こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。

 

 

 
 人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。 

 

 

 ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
 なぜなら、実態は個人的な感情だからです。

 以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
 ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
 人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
 

 

 

 世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。 

 そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?

  
 当然ながら、全く正しいものではありません。

 

 人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。

 

 

 食べ物に置き換えてみれば、 
 「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。

 

 実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。

 人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。

 本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。

 

 

 これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
 毒を食べてからでは遅いのです。

 

 そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
 

 

 正しくは、

 「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」

 

 もっといえば、
 「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。

 

 特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
 聞く価値はありません。

 以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。 

 間違って寄り添うと
 「誤った共感」になってしまいます。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。 

 

 

 学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。

 「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。

 

 同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。

 世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。

 人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。

 

 

 トラウマを負っている人たちは、
 「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。

 それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
 理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
 

 直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
 
 あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。

 恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
  
 トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。

(参考)→「“裏ルール”が分からない

 でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。

 

 

 私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。

 

 聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。

 

 それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
 日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。

 

 “戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。

 日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。

 

 仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。

 真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。

 

 

 東大教授が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。 

 反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
  

 日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
 すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
 

 

 ※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について