人からふいに何かを聞かれても、とっさに言葉が出ない。
言葉が出ても、なにか上ずったようで、自分の肚から出ている感じがしない。
言葉を出しても、その後に恥ずかしさや自責感が残ったりする。
人から失礼なことを言われても、とっさに言葉が出ない。
あとから怒りが湧いてきて、相手を頭の中でボコボコにしたり、
次回言い返すシミュレーションをしたりする。
でも実際にその場面になったらできなくなってしまう。
こうしたことは、「私」が奪われていることから生じます。
(参考)→「「私(自分)」がない!」
話す段になっても、私という主語がなく、常にまず、「他者の眼、他者の価値観」を参照しようとしてしまう。
他者から見て問題ない発言をしようとする。
さらに、発言した際の罰で身体が緊張する。
さらに、我に返る。
何かを言おうとする。タイミングを逸しているし、胸や喉が詰まって声が出なくなっている。
言葉が出ない、というのも、単に発声の問題なのではなく、内面ではこうしたプロセスがあると考えられます。
いわゆる、「人見知り」というのも同様で、人と接するのが苦手だとか、億劫だ、と感じることの裏にはこうしたプロセスが展開していたりする。
筆者も、少し前まで、ご近所の人と「挨拶」ができない、という症状がありました。
仕事では挨拶しますが、ご近所の人とはうまく挨拶ができないのです。
上に書いたようなプロセスもありますし、過去にそのことを理解してもらえずに、形だけ「挨拶したほうがいい」といわれたことへの抵抗感みたいなものもない混ぜになったような感覚があって、結果挨拶するのに躊躇して、結果できない、ということが起きていました。
まさに、言葉を奪われたような感じ。
(当然余計に誤解されたりすることもあるでしょうから、損を引き受けるのは自分です。そうすると理不尽さがさらにまします。)
上に書きました「他者の眼、他者の価値観」の他者とは、多くの場合母親や父親だったりします。
結構自分では、母や父のことは相対化して、否定しているつもりでも、結構影響を受けていたりする。
まだまだ内面化していて、自分の考え、だと思っているものが、そうではない、ということはたくさんあります。
(参考)→「内面化した親の価値観の影響」
自分の考えで話をしたとしても、「私」という主語がない状態で話をさせられてしまう。
トラウマを負うと、「私」が奪われ、そして言葉も奪われるのです。
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