“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 
 「理屈」を一度否定して、自分の感情を感じることの大切さをお伝えしてきました。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 自分の感情、考えから発したことについては、「ただ自分がそう思う」「そう感じている」ということですから、基本的に他人を侵害しないし、他人からも侵害されることはない。

 自分の感情、たとえば、「私はそれは嫌い」「私はそれが好きだ」「それが怖い」といったことは、その人が感じていることで、他人が「そんなふうに思うんじゃない!」とか、「それはおかしい!」とは言えないものです。そんな謂れはない。
 
 
 「ふーん、そうおもうんだね」というふうに本来しかならない。

(おかしいというのは、因縁をつけないとできません。)

 

 一方、「理屈」がついた場合は違います。

 「それは、~~だからおかしい」とか、「それは、~~するべきだから、なくさないといけない」といったことについては、「理屈」を通じて他人を侵害し、その「理屈」に反論されたりして、侵害されるおそれがあります。

 なぜなら、「理屈」によって、人間一般のことに話題が持ち上げられているから。「自分は人間一般(という架空の概念)から見て正しい存在だ。反対にあなたはおかしい」という争いになってしまうのです。

 

 自分の感情から発しているだけであれば、「人はそれぞれ違う」という前提があり、各人が独立した領域を保った状態で互いに越境し合うことがありません。

 ※国と国とが互いに異なる文化があり、どっちがいいとは言えないのと似ています。どちらが優れているというためには一般化する理屈が必要で、たとえば昔であれば「中華思想(華夷の別)」であったり、近代以降であれば「啓蒙思想」「人種主義」であったり。

 

 

 感情から発しているように見えても、言語化されていないだけで、暗に「理屈」がついている場合もあります。たとえば、相手を攻撃するために、「私はそれが嫌い」という場合。言葉には出していませんが、「私はそれが嫌い」ということのあとに、(あなたはおかしい)という言葉がついていたりする。

 この場合も、相手を侵害し、さらに相手から反撃される余地があります。なぜなら一般化してこき下ろそうとする「理屈」がついているから。

 

 

 相手を侵害する、あるいは、相手から侵害される ことを分けるポイントはなにかといえば、それは、“自分の”ということであるかどうか、ということがあります。
 
 相手を侵害する感情、あるいは理屈とは、ほぼ他者の感情や理屈をそのままにしている、ということがあります。

 それはなにかといえば、生きてきた中で受けた他者からの理屈や感情(≒ローカルルール)です。親や兄弟や友人など。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 しかもその理屈、感情は不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「I’m OK」を得るために、比較するなどして他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こします。

 それが、他者への支配、干渉といったかたちであらわれるのです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」 

 

 

 

 セラピーを受けたり、「理屈」を切り離し、自分の感情を感じるトレーニングなどをしていると、「自分のものと思っていた価値観は、実は親のものだったんだ?!」ということをしばしば経験します。

 “他者の”価値観、理屈、あるいは感情は、自他の別を越境し、他者を侵害していく。越境しているために反対に他者からの干渉、支配も呼び込みやすくなります。

 

 反対に、 “自分の”価値観、感情、は、他者を侵害する根拠(因縁)がそもそもありません。

 なぜなら、それらが成立するために「Im OK」と自己で完結しているためです。外に求める必要がないのです。

 

 

 アサーションのトレーニングでは、「Iメッセージ」で伝えましょう、というものがあります。「私は~ 」といった形で始める伝え方です。

 「Iメッセージ」だと、伝えにくいことも伝えられたり、相手の同意や共感を得やすくなったりするとされます。   

 

 自他の区別が保たれて、越境しないからです。
さながら、アイデンティティや基本的な物資が自足している国同士のように。

 それぞれ、「私は私」「あなたはあなた」といったかたちで、自他の別が保たれていることは、安心安全を生みます。

 安全が保たれた中でのコミュニケーションですから、安心して意見を交わすことができるのです。 

 
 多くの場合、相手が反対したり、同意しないのは、意見の内容についてではなく、自分の安全が脅かされるからです。同意すれば侵害される、と感じている。

 

 

 自分の中にある、直訳された他人の理屈や感情 を一旦すべて否定する。必要なものは自分で翻訳し直す。
 
 そして、常に、自分の「感情」からスタートする。自分の考えというときも、「好き嫌い」からスタートする。「理屈」からスタートしない。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 理屈で考えるとされる職業でも、実は「好き嫌い」からスタートしていたりします。

 将棋や囲碁の棋士も、最初に「直感」が降りてきて、後で検証するそうです。
 
 ビジネスの現場でも、コンサルタントや経営者なども、「ピンとくる」かどうかで判断していたりする。「理屈」はそれを検証するための道具でしかなかったりする。

 「理屈」からスタートすると多くの人を巻き込めなかったり、「理屈」に溺れたりするものです。

 自分の感情から発すれば、自然と「自他の区別」がついてきて、他者との関わりも侵害されない安全なものになってきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 人に対するイライラで、頭がぐるぐるすることがあります。

 「もっとこうするべきでしょ!」とか、
 「本来は、~~であるはず!」とか、

 その「理屈」は、自分の中では完璧で、それが通らない相手は極端に言えば人間として認められない、くらいに相手を否定したくなります。

 

 さらに、「理屈」を重ね、頭の中でシミュレーションを走らせてしまいます。

 

 でも、いくらそうしても、イライラはさらに増すばかりで解消されることがありません。

 

 実際に、相手に怒りをぶつける場合もあります。
 説教のようにくどくどと相手に「理屈」を伝えますが、イライラはエスカレートしていきます。

 

 さらに、相手はそれで「理屈」を理解して、同じ行動を取らないのか、といえばそうではなく、逆にまた同じくこちらの神経を逆なでするようなことをする。

 「同じ行動をするなんて、どういうこと!?」とまたイライラして怒りをぶつける。
 
 
 こういう繰り返しに陥っている、というケースはよくあります。

 

 

 いくら「理屈」を展開して、相手をねじ伏せようとしても、相手に伝わることはありません。

 なぜなら、その「理屈」はイライラしている本人のものではないから。

 ほとんどの場合は、自分の両親や生まれてきた中で出会った他者の価値観を内面化(直訳)したもので、自分のものではありません。

 目の前の刺激をきっかけに解離して、「理屈」の世界に頭が持っていかれている状態。

 イライラ自身も、生育歴で得たストレスの投影なので、実は現在のものではなく、過去からくるイライラだったりする。

 そのため、イライラされている相手も、無意識にそのことをキャッチしていますから、

 「イライラされていて怖いけど、よくみたらそれは自分の責任ではないし・・」と感じています。

 

 

 展開される「理屈」も
 
 「正しそうに見えるけど、状況にマッチしていないし、言っている本人のものになっていないし・・」と直感しているのです。

 だから、イライラと「理屈」をぶつけられても、行動を変化させる謂れはないのです。

 

 

 イライラしている本人は、実は、生育歴で得たストレスと、親などのローカルルール(「理屈」)に巻き込まれていて、自他の区別を失っている状態です。

 本人は全くの正論を展開しているように見えて、実はそれは自分のものではなく、状況にマッチしたものではなかった。

 「理屈」を考えれば考えるほど、自他の区別を失い、自分の感情と価値観で生きることからは離れていってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 さらに、「理屈」で頭が持っていかれて自他の区別を失っていると、他人が展開した「理屈」(ローカルルール)にも巻き込まれやすくなります。  

 不全感を解消するために他者に因縁(「理屈」)をつけて、その「理屈」の世界でごちゃごちゃとやり取りするようなことに慣れてしまう。
 

 「理屈」で考えることが当たり前になりますから、「物理的な現実」からも離れやすくなる。ありのままにある現実に立脚することが自然とできなくなるのです。  
(参考)→「“作られた現実”を分解する。」 

 

 「物理的な現実」としての自分ではなく、「理屈」で作られて自分で生きることになるため、他人が作ったイメージや評価、言葉にも振り回されやすくなります。

 
 まさに、ブッダが悩みの原因とした「執着」の世界です。 
 
 

 

 こうした状況から逃れ、自他の区別をつけ、ローカルルールではなく、物理的な現実の世界に立ち戻るためにはどうしたらいいのか?

 それが、前回お伝えした「理屈」をつけず「感情」をそのまま感じるトレーニングです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 「理屈」は被せずに、ただ、自分の感情を感じて、それを表現する。

 それをずっと繰り返します。

 すると、自分がいかに自分のものではないものに支配されてきたかが、明確になってきます。

 徐々に自他の区別がついてくる。

 「理屈」に頭が持っていかれて、ぐるぐるとすることが減ってきます。

 

 

 さらにパート2の応用編としては、

 「認知」と「思考」とを切り離すということも行っていきます。

 たとえば、

 道を歩いていたときに、気になる人がいて、「なんだ、変な人だな」と思う状況があったとしたら、

 意識して、「認知」と「思考」を分けます。

 「男性が歩いているのを見た」(認知)

 「なんだか変な人だな、と思った」(思考)

 というふうに。

 

 別の例では、

 信号が赤になって、「しまった!信号に捕まった」と思う状況に出会ったら、

 「目の前の信号が赤になった」(認知)

 「しまった!と思った」(思考)

 というふうに。

 これを繰り返して、 「認知」と「思考」を分けていくと、漫然と自他の区別なく、環境に巻き込まれるようになっていたことがなくなり、自分の認知や感情が明確になってきます。

 

 「そういえば、このせっかちさは、父に怒られたからだな。」「父はせっかちで、いつも車の運転で赤信号になったら舌打ちしていたな」といったことに気がついたりもします。

 「あっ!自分の考えと思っていたものは、父の価値観だったんだ?!」と気がつくようにもなってくるのです。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 さらにローカルルールの影響から離れ、自他の区別が明確になってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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加害恐怖(強迫)

 あらためて、最近気がついたことに、トラウマを負っている人は加害恐怖(強迫)を持っているケースは多いかも、ということです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 加害恐怖(強迫)というのは、「自分の言動が相手を傷つけたかも?!」という不安を持ってしまうということ。

 例えば、自分の言動がきつくなってしまったかな、と思ったら不安になってしまったり、相手からどう思われているかな、傷つけていないか、と確認したくなったりする。

 

 

 健康な人は、自分の気持ちに任せて怒ったり、自分の考えを伝えることで自尊心を守ったり、自他の区別を適切に保ったりする事ができていますが、トラウマを負っていると、加害恐怖のためにそれができなかったりする。

 

 その背景として、もともとの気質のやさしさや、理不尽なことをする人を見て「あんなふうになりたくない」という反面教師や理想主義からくる面もありますし、ローカルルールで縛られていたりもする。

 

 

 「あなたはきつい」とか、「言い方が悪い」とか、みたいなダメ出しをされてきていると、だんだんと自分が出せなくなってくる。

 自分を出そうとすると、他者からの評価、評判が意識されて、意見が言えなくなる。

 ブレーキとアクセルを両方踏むみたいな感じになって、前に進めなくなる。

(参考)→「気持ちを理解しろ、物事を先回りしろ、あなたは冷たい、傷ついた!などもローカルルールや巻き込むためのメッセージ

 

 

 本当は感情を吐き出したり、意見を言ったりして、スパッとその場の空気を公的なものにしたり、相手との距離をとったりすることが必要で、本来そこに変な反省はいらない。

 

 「言い方が悪かったかも?」なんて思うと感情が相手に届かず、相手に巻き込まれて、なめられたり、支配されたりする。

 

   
 怒っているときは「怒っている」でそのままで良い。

 そういう時は清々しさがあったりする。

 

 

 ローカルルールに巻き込まれている場合は、自分の考えや感情と同時に、他者に意見や価値観が湧いてきて、「傷つけたかも?!」とか、「どう思われているかな?!」とか、「相手との関係が悪くなるかも?!」みたいな余計な気持ちが湧いて、アクセル&ブレーキ状態になり、自分という車はくるくる回り始める。

(参考)→「評価、評判(人からどう思われているか)を気にすると私的領域(ローカルルール)に巻き込まれる。

 

 

 もちろん、健康な人は、感情を出して変な後悔がないというのは、冷たいとか情がないということではない。
  
 ただ、自分の感情を出すときと、相手のことを考えるということが別々のこととして区分けされている。

 もっといえば、「主権」がある。

(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎

 

 

 野球に例えると、野球は先攻、後攻と攻守が入れ替わりますが、そのように攻守の「権利」が切り替わるような感覚。

 攻撃のときには攻撃だけをする。守備のときは守備に専念する。

 攻撃に時に同時に守備につくようなことはありません。

 

 

 トラウマを負っていると、ほんとうの意味で攻撃の権利は自分にはなくなる感覚。なんか、ずっと守備につかされているような感覚。
 
 攻撃になっても守備のことを考えさせられている。
 
 それどころか、最後は相手チームのベンチに座らされているような感じになり、自分がなくなってしまうのです。

 
 

 「トラウマを負っている人が怒り出したり、相手のことを考えない言動で平気で相手を傷つけることがあるじゃないか?」と思うかもしれません。
 例えば、境界性パーソナリティ状態になって、相手に因縁をつけたり、クレームをぶつけるようなことが。

 

 でも、それはよく見れば、自分そのものではなく、まさにローカルルールに巻き込まれている状態、ローカルルール人格にスイッチした状態であって、その人本来ではない。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 結局主権を奪われた状態で、内面化した他人の価値観(ローカルルール)を表現させられているだけで、やっぱりそこに自分には主権はないのです。

 さらに、ローカルルール人格がしでかしたおかしな言動の責任を取らされて、「ああ、やっぱり自分は人を傷つけてしまう」として罪悪感(加害恐怖)を刷り込まれ、自分を表現できない~ローカルルール人格にスイッチしてローカルルール人格の感情を吐き出させられる~自分を表現できない、という悪循環に陥らされてしまいます。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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