仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 
 最近、新型コロナウイルスが問題となっていますが、外国の物や人が国に入るときには検疫があったり、審査があったりします。

何のチェックもなく外国に入れるということはありません。

 信用できる国同士だとチェックを軽くしたり、ということはあるようですがチェックするのが原則。

 

 

 私たち個人も同様に、相手をそのまま信じることはなく、チェックをしています。

健康に発達していれば、言葉を鵜呑みにすることもありません。

 そのまま受け入れるなんて言うのはとても危険なので、必ずチェックが入るのです。
 
 親から受けたしつけや教育についても、わざわざ反抗期というプロセスで一旦否定して、検疫して、翻訳し直して、自分のルールというものにするのです。

 

 

 人間は素直な方がいい、というふうに言われますが、その「素直さ」というのも要注意です。主語をチェックしないといけません。

 素直な方がいいというのは、「(支配する側にとって)」という言葉が隠れていることがしばしばだからです。

 

 「自由貿易とは、強者にとっての保護貿易」という有名な言葉がありますが、国と国との関係でも、「ノーチェックでやりとりしましょう」というのは、強い国にとっては都合が良いのですが、弱い国にとっては実は相手に知らず識らずの間に支配されているということがあります。

 EUでも、結局はドイツのような強い国が得をしている(EU≒ドイツ帝国)のでは?ともいわれています。

 

 

 個人同士の素直さというのも同様に、それは強者にとって都合の良い、ということだったりします。

 もっと言えば、家庭の中での親であったり、配偶者であったり、会社では上司、経営者であったり。過干渉やモラルハラスメントというのは、相手を否定することでノーチェック状態を強制することです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 反抗期を経て健全に発達した大人であれば、相手の言葉をそのまま受け取ることはありません。

 例えば、会社で会社の上司に言われたことでも、そのまま受け取るなんてしません。

 でも、あからさまに従わないなんてこともしません。

 基本は、「面従腹背(表面的には従っているが、本心はそうではない)」です。

 

 もちろん、業務として決められたことや、しなければならないことはしますが、「心から臣従」なんてしない。

 (個人同士の人間関係で言えば、裏表があるとか、心のなかでいつも相手を悪く思ったりとかそういうことではありません。)

 

 「でも、結構上司と部下が仲が良くて、尊敬されているいい環境の職場もあるよ」と思われるかもしれませんが、それは、それが当たり前なのではなく、環境が整った結果であるということ。

 上司や会社が尊敬されるに値する正統性と役割を果たしている結果、部下がそれに敬意を払い、いい関係になっているということ。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 例えば戦国時代のお侍さんでも、主人の言うことを何でも言うことを聞くなんてことはありませんでした。 主人がそれ相応の力を示して尊敬されなければ、言うことは聞いてくれなかった。

 武田信玄などもそうだったようで、部下から尊敬されることに腐心していた。
 
 

 戦前の軍隊でも、山本五十六(連合艦隊司令長官)の有名な言葉に、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
 

というものがあります。

 

 戦前の軍隊という絶対服従のイメージのある職場でも、上官が言ったから部下が何でも聞いてくれる、なんてなかったのです。

 これだけ、丁寧に関わって初めて人は動く。

 人というのは、やはり基本的には「面従腹背」なのです。

 

 ただ、面従腹背なのですが、そのほうが結果として、「素直だ」と捉えてもらえたりする。
 「面従(表面的には従っている)」しているためです。

 人間は心からやり取りをしているわけではなくプロトコル(外交儀礼)でやりとしているので、プロトコルに従っていれば良く評価される。
 

 普段、挨拶しているだけで、罪を犯した人でさえも、「あの人はいつも挨拶してくれて、いい人そうだったけどね~ 残念ね~」とご近所の人から言われるものです。

 

 それに対してトラウマを負った人はどうか?
 「面(反)腹()」という感じで、人の言葉をそのまま受け取りすぎる。心からやり取りしようとしてしまう。

 他者が大きく見えているので、へりくだりすぎてしまったりして、ちょっと言われた言葉を大きく捉えてしまったりする。

 会社の会議でも指摘があると、黙ってしまったり、深刻に受け止めすぎてしまったり。

 
 人に振り回されることに疲れているし、傷ついてもきたので、本当は距離を取りたい、人の言葉に動じない強い自分になりたいと思っています。心からやり取りしたいと思っていたりもする。
 結果、それが表情に現れて「面(反)」となり、上司から「なんだ、気に入らないのか」となって、「あいつは素直じゃない」と悪い評価されてしまう。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 本当はめちゃくちゃ素直で柔軟なのですが、それが仇となるのです。

 

 ノーチェックで相手の言葉を通してしまうことで、公的環境ではなく、私的環境になってしまって、相手の理不尽さ(ローカルルール)を招いてしまう、ということもあります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 TVや本で取り上げられている活躍しているプロフェッショナルを見ると真に受けて、実際の責任以上に仕事を引き受けてしまう。

 活躍している人は、それを支える環境があったり、負の側面もあるのですが、そのことは見えない。
 (もちろん、TVで取り上げられる人の中には自己愛性パーソナリティ傾向のあるワーカホリックな人もたくさんいますが)
 
 表面だけ真似して、すごく気を利かせたり、何でも自分の責任だと捉えたり。
 

 とても頑張っているのに、
 「~~さんは、最初はいいんだけど、結局は駄目だね」と悪く評価されてしまう。
 

 頑張ってその結果ですから、もうどうしていいかわからなくなる。
 自信をなくして、人や仕事が怖くなったりしてしまいます。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

    →「あなたの人間関係の悩みの原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 ちょっとしたことから始まりますが、「面従腹背」と「面(反)腹()」というように、トラウマを負った人と、健康な人とでは、見えている世界が180度違っていたりするのです。

(参考)→「トラウマを負った人と健康な人とでは、人の話の聞き方、対人関係観が全く異なる。

 

 仕事や対人関係の基本は、「面従腹背」。そして、自分の体の範囲より大きな責任は負わない。 

 しっかり「面従」はする。

 

 「面従」というのは、挨拶であったり、ポイント、ポイントでの愛想であったり、「OK,BOSS(かしこまりました)」といったり、などプロトコルに従うということです。
  

 そうしていれば、自他の区別もちゃんと保てますし、人からの評価を得ることもできます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。

 
 昔日本は戦争に負けましたが、補給を確保することを怠ったからだと言われました。

 軍隊もいくら強くても、補給が続かなければ闘うことができない。

 よく考えれば当たり前のことなのですが、目先のことに目が行くとプロでもそのことがわからなくなってしまう。

 ナポレオンも補給がうまく行かなくなり破れてしまいました。

 当時は、現地調達で食料などを確保していたそうですが、フランスは侵略者であると考えられるようになり協力が得られなくなったり、
敵が先に食料を奪うなどして調達できなくなってしまいました。

 

 

 企業活動も同様に、インスタグラムやLINEとそっくりにまねて作れば誰でもすぐに追いつけるかと言えばといえばそうではなく、それをささえる「しくみ」がないとだめだと言われます。

 

 ラグビーやサッカーなどの球技もそうですが、得点シーンだけを見ると、得点をとった人の手柄に見えますが、何手も前から始まっていて(多くはボールを奪うところなどから)、パスを繋いで繋いで、囮になる人もいたりして、結果点が取れる。

 

 反対にミスも同様で、ゴールキーパーやディフェンダーは点を取られる場面にいるので一見すると犯人にされることがありますが、実はそれ以前に周りのサポートがなかったり、そもそもフォーメーションがうまく言っていなかったりして、その結果ミスが生じる。

 さらに、普段の練習環境がどうか、チームとしてのサポートがどうか、経営はどうか、など、実は多くの要因が関係している。

 最近なくなった野村克也さんなども、「強くなるためには(選手、監督以前に)フロントが大切」といったようなことを言っていました。

 

 

 このブログでも繰り返し述べていますが、人間は環境の生き物です。

 環境で殆ど決まっているといってもいい。

 

 「いい人」である、ということもそうです。

 いい人とは、その人の性格、気質のことではありません。
 
 実はその人を取り巻く環境の集積物です。 

 
 例えば、ストレスフルなコミュニケーションがあった際に、巧みに応答することができれば、「神対応だ」ということになります。

神対応のうらには、その人を支える環境、仕組みがある。

 家族のサポートであったり、友人の言葉であったり。いわゆる“愛着”というものであったり。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 もっと言えば、身体のコンディション。睡眠不足、栄養不足、運動不足では良い対応はできません。

 特に睡眠不足になると人間は余裕がなくなり、すぐにおかしくなる。
 (子どもはてきめんで、人が変わったようになってグズグズになりますが、大人でも同様です。)

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「いい人」になれる、というのも、環境の集積物で、意識してなれるものではありません。

 環境の支援がないまま、意識して「いい人」になろうとすると、どうなるかといえば、過剰適応になり、生きづらさを抱え、ローカルルールに支配されてしまうことになります。
 
 補給が続かない軍隊、チームのアシストのない選手、会社のサポートがない社員のように疲労困憊して潰れてしまいます。

 

 もっと言えば、「いい人」になると意識している時点で、ローカルルールの影響が働いている可能性が高い。
(ローカルルールに巻き好もうとする人にとって、都合の“いい人”になっているだけだったりする)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間は、発達の過程で、エゴを等身大にし、反抗期を経て自他の区別をつけ、社会的な役割を得て、公的人格として、健全な形でエゴを表現できるようになります。

 こうしたプロセスも、「いい人」を支える仕組みです。

 

 この仕組みがないまま頑張っても、上に書いたように、ローカルルールの奴隷になるだけ。

 人を支配するために一番狡猾な手段は、支える環境を奪ってしまうこと。

 もともとトラウマとは、ストレスに拠るダメージももちろんですが、支えてくれる環境を奪われてしまうことです。
  
 家族であったり、仲間であったり、社会であったり。

 

 支えてくれる環境を奪われながらも、「頑張れ」「努力しろ」「ちゃんとしろ」というメッセージが飛んでくる(メリトクラシーといいます)。

 

 支えてくれる環境がないまま頑張った結果、補給が続かず敗北し、「はい、負け犬、決定!」「さあ、支配する側に従え」とされ、ローカルルールの呪縛が強まってしまいます。

 意識高い系と言って、努力する人が揶揄されるのもこうしたことを警戒してのことではないかと思います。仕事ができる人というのも環境の集積物なのに、意識を高く持とうとすると、逆に変なものに支配されしまう。
 

 

 大切なのは、環境を整えること。
 家族など他者はコントロールできませんから、自分の体内の環境をしっかり整える。

(参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 ガットフィーリングから来る感覚を大切にする。  

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」

 感じたことを表現する。

 自分の体の輪郭を越えた責任は負わない。

 他人の心の中は覗き込まない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 
 体内の環境を整えながら、エゴから出発して、ローカルルールに反抗して否定して、自分を表現していくことで、プロセスが整ってくる。

 

 そうした先にほんとうの意味で「いい人」はあるかもしれませんが、意識していい人(できる人とか、頭のいい人、とかも含む)になろうとすることは要注意。
 ローカルルールにとって都合の“いい人”になるだけです。

  

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

足場もないのにすべてを疑おうとする~「自分を疑う」はローカルルール

 

 私たちが重いものを持ち上げるとき、自分の体を支える足場が必要になります。

 足場がグラグラしていたら持ち上げることができません。

 宇宙のように無重力だと、力を入れると自分の体自体が浮いてしまうことになってしまいます。

 

 それと同様に、私たちが生きていく上でも足場が必要になります。とくに何かを考えたりするときは。

 

 西洋(欧州大陸)の哲学とは、人間は真理を認識できるか、人間の認識とはどこまで可能なのか?を主要なテーマにしてきました。

 近世ごろからキリスト教が明らかな限界を迎えて、代わりに「世の中はどうなっているのか?(神はいるのか?)」を人間の認識(理性)を使って知ろうとしたのです。

 

 そこで大切になるのは、はじめに私たちの認識(理性)はどこまで正しいのか?を疑う(批判)ということ。

 
 もしかしたら、今この現実は夢かもしれない。幻覚かもしれない。その恐れがあるわけです。

 夢だとしたら、認識したものも幻となり、考えたことも意味がなくなってしまいます。

 

 

 そこで哲学者たちは、人間はどこまで疑えるのか?(可疑性)を検討しました。

 デカルトの「我思う故に我あり」というのもその一つで、「徹底的に疑っても、思っている私まで疑ったら疑うことさえ成立しなくなる。」ということ。
たとえ、夢であったとしても、この思っている私、ということを疑うことは意味がない、としました。 

 カントは人間の理性の限界を示しました。

 

 現象学のフッサールなどもどこまで疑ってよいのかを研究していました。
 「私たちが物事を認識する志向性自体については疑うことは意味がない」としたのです。

 そうして、思考の「底(足場)」を定めてから、哲学を組み立てていきました。

 

 

 ちょっと難しそうな話からスタートしましたが、私たちが疑うためには「足場」が必要です。足場がなければ疑えません。

 

 日常に生きる私たちは哲学者ではありませんから、そもそも深く疑う必要はありません。自分の存在は是認、肯定した上で具体的な行為や思考のみを疑います。これが健康な状態です。

 

 

 しかし、トラウマを負った人は、疑いえないもの、疑う必要のないものまで疑わされてしまっている。

 それは、「自分」というもの。
「自分はそもそもおかしいのではないか?」とか、「自分の考えは異常なのでは?」といったような感覚にとらわれさせられてしまっている。

 これは養育環境で理不尽なコミュニケーションを繰り返された結果です。

 

 例えば、人からなにか気になることを言われたら、自分の存在までさかのぼって疑わされてしまう。

 仕事でちょっと失敗したら、自分の存在や前提まで疑う。

 そうやって、疑ってすべてを相対化して焼け野原のようになるまで疑わされてしまう。

 その結果、世の中を見通す最高の哲学者になれればよいのですが、そういうわけでもない。

 徹底した相対化とは、実は暗黙の前提の絶対化を意味します。

 つまり、焼け野原を支配しているのは実はローカルルールということです。

 

 何もない状態には人間は耐えられませんから、自分を疑って無になる、のではなく、実はおかしなものを絶対化してしまう。
 自分を疑う、ということは、イコール、ローカルルールを信じさせられる、ということです。

 

 

 健康な状態の私たちは、自分を疑う、ということ自体、原理的にできないし、する必要がない。

 

 「自分」という足場をもとに、「行動」や「考え」を修正したりすることはありますが、そもそも「自分」を疑うようなことはできない。

 

 ハラスメントや虐待というのは、このできないはずの行為ができるかのように錯覚させること
 そして、それを通じて、ローカルルールで支配することです。
 

 

 洗脳セミナーなどでは、罵倒や睡眠不足などを通じて、「自分」そのものを疑わせるようなことをして、主催者の都合の良い考えを刷り込みますが、まさに原理的には同じことです。

 親などが「あなたはだめな人間だ」「根本的におかしい」というメッセージを出すのは、「自分」を疑わせて、親にとって都合の良いメッセージを刷り込みたいということ。それによって「自分の不全感を発散させたい」ということです。

 

 

 しかし、ローカルルールを真に受けてしまった人は、自分を疑うことがあたかも正しく、誠実で、客観的な行為だと錯覚させられたまま、大人になっても、自分を疑う、ということを当たり前としてしまう。

(参考)→「「過剰な客観性」

 

 

 仕事や勉強においても同様で、「定理」や「公式」や確認された「事実」はお約束(前提)として、考えるものですが、それができなくなる。

 

 前提を前提とすることができず、いつも疑いを向けて、不安になります。
 
 疑うということで真理に到達するわけではなく、反対にローカルルールに絡め取られる。

 

 計算ミスがあったら、計算ミスをしたポイントに立ち返って再度間違えないようにして答えにたどり着きますが、計算ミスがあったら、「自分はだめだ」と足場まで疑い始めて、不安になり、絶望的になり、勉強が嫌になる。

 

 公式や定理そのものへの信頼も持つことができない。何か不思議な力によって、不意打ちのように間違いが起こるような気がして安心できない。
 さながらこの世の中が自分を駄目にする不思議な力が支配しているようなオカルトのみたいな感覚にとらわれるようになります。

 

 安心してコツコツと積み上げていくことができなくなる。コツコツとは、一度確かさが確認できたものは再度疑わない、ということです。

 それができなくなる。すべてを再度疑わなければならなくなる。頭はヘトヘト、仕事も勉強も嫌になってしまう。

 

 

 その結果、「自分はだめだ」「世の中は不確かだ」というローカルルールの世界に陥ってしまうのです。

 足場がないまま、根性で努力をして頑張ってそこそこに成功する人もいますが、エネルギーは続かなくなり、壁にぶつかることになります。

 「巨人の肩を借りる」といいますが、私たちは、先人たちの知恵(前提)にうまく乗っかかり、答えにたどり着くものです。

 さらに言えば、他者に代わりに確認してもらうなど協力してもらえばもっと楽に生きることができます。

 

 

 私たち人間は本来、「自分」というものは原理的に疑うことができない。その必要もないし、意味もない。

 デカルトも言うように、思っている「私」を疑っては疑うことさえできなくなってしまうのですから。

 

 「自信がない」という現象それ自体が論理的にはありえず、実はローカルルールの産物なのです。

 

 ローカルルールによって本来は疑うことができない自分を疑うという作業を強いられている。

  「自分」というものを疑っているときは、実はその足場は「ローカルルール」に置かれているということなのです。

 

                 足場       疑う
 (通常)            自分※ → 実際的な行動・思考
              
               ※自分というのは原理的に疑えない

  
          足場      疑う       疑う
 (トラウマ) ローカルルール → 自分  → 実際的な行動・思考

 

 

 ローカルルールがひどい場合になると、関係妄想などにとらわれて、事実も歪められてしまい、戻る足場がどこにあるのかさえもわからなくさせられてしまうのです。
  

                              
 (ひどい場合)  ローカルルールが自分のように振る舞う(いわゆるローカルルール人格にスイッチ) → 世界や他者はひどいと捉え、疑い否定する → ローカルルール世界を肯定する
       

 

(参考)→「ローカルルール人格が感情や記憶を歪める理由

 

 

 

 生きていると、フィッシングメールのように「自分を疑え(あなたは変だ)」と言われることがありますが、論理的にも成立しないことを要求されているということです。
(裏のメッセージは「私のローカルルールに服従せよ」ということ。)

(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている

 

 私たちは本来、無前提に、自分を肯定していてよいのです。

 (足場は常に自分において、疑いを向けるべき対象はローカルルールです。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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焦燥感、せっかちな態度、慌ただしさ、不安、ビビリなどもすべて巻き込まれるためにあるニセの感情に過ぎない

 以前もすこし触れましたが、

 私たちは、相手の私的領域に巻き込まれることが正しいコミュニケーションなのだと錯覚させられたまま行きていたりする。

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情

 

 不全感で相手が巻き込もうとしてくることに応じることが正しいとさせられてきた。

 

 例えば、「どんくさいな!」と言われて急かされたり焦らされたり、相手が機嫌が悪そうにしていることに対してビビったり、ドキドキしたり。
 
 
 これらのことは、自然な生理的反応だと思ってきましたが、実は不全感を抱えた人が私たちを巻き込むために刷り込んだニセの感情でしかなかったということがわかってきました。

 

 例えば、ビビる、ということも、自分はビビりだから仕方がない、と思っていたら実はそうではなかったりする。

 
 人と接するときに相手が機嫌が悪そうな気がすると、ついつい心が焦って相手に合わせすぎてしまう、というような反応も、本来の自分のものではない。 
 
 
 将来について不安になったりするのもそう。
 そうやってローカルルールに巻き込まれるためにある。
 

 

 

 ヤクザが、机をドンと叩いたり、大きな声を出したりするのはなんのためか?といえば、相手の感情を動かすため。そうしてドキドキしたり、ビビったら、巻き込まれてそこに因縁ができる。

 

 この現象を逆回しで言えば、感情を動かさなければ因縁が生まれないから→感情を動かそうとしている→ では、その感情は本物かといえば、人為的に作り出されたものです。

 

 

 理不尽な親やいじめっ子も同様です。
 機嫌を悪くしたり、暴言などの嫌がらせを浴びせることで私たちの感情を動かして、因縁を作り出している。
そうして巻き込んでローカルルールの世界を維持して、自分の不全感をかりそめに癒そうとしているだけ。

 やはり、その感情は本物かといえば、人為的に作り出されたものでしかない。

 

 こうしたことが繰り返された結果、「ビビリの私」「人に気をつかう私」「未来が見えない私」ができてしまう。これらは本当の私ではないし、自然な反応でもない。

 自分のものだと思っている否定的な感情を、「これってローカルルールに巻き込むためにあるニセの感情ではないのか?」という視点で見てみると、とても面白いことが見えてきます。

 

 自然だと思っていたものが、単に「巻き込まれ」でしかなかったということ。そして自他の区別や、自分の主権が奪われていたことに気づくようになります。

 

 「この感情もそうかな?」「この動きもそうかも?」とチェックしていくと、自分の内側がだんだんと静かになり、他者から切り離されて防壁ができてくることを感じるようになります。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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