他者の視点は神の視点ではない。

 前回の記事と関連しますが、

 トラウマを負っている人の特徴として、他人に指摘されると、頭が真っ白になってしまう、ということがあります。

 自分が気がついていない事柄を、欠点を他人が指摘してきた、として、顔面蒼白、足元がひんやりするのです。

 他人の指摘をあたかも「客観的な事実」であるかのように、そのまま受け取ってしまいます。

 その背景には、前回の記事でも見ましたように「自分は不注意で、おかしな考えや行動を取る変な人間」といった自己イメージがあり、一方、「他人はもっと立派な真実を知っている」といった他者イメージがあります。

(参考)→「不意打ちの恐怖」 

 

 

 他者を「神化」している。
 

 本来は、世の中は「主観」と「主観」のぶつかり合いです。
 「客観」なんてものはどこにもありません。

 私たちが普段「客観」といっているものは、あくまで「視点B」「視点C」ということでしかありません。

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 例えば今は新型コロナの問題で、いろいろな専門家が発言、提言をしますが、誰が正しいか?ということを誰も判定してくれることはありません。

 すべて、「専門家Aの視点」「専門家Bの視点」といったことでしかない。

 

 であれば、どこにも真実はないか?といえばそうではなく、物理的な現実を見て妥当性を検証していきます。 科学とはそういうものです。

 人間関係の現場では物理的な現実がわかるまでにタイムラグがあり、そこにローカルルールが紛れ込んできます。
 そのために、「事実に対する主権」を持つことはとても重要になります。

(参考)→「「事実」に対する主権

 

 

 私たち人間は、自分では自分のことがわからないこともたくさんあります。

 「岡目八目」といって、他者のほうが問題の所在や背景がよく分かるということもよくある。

 指揮官に参謀がいたり、プロの選手がコーチを雇っていたり、というのもそうです。

 一方で、当事者でないとわからないこともあります。
 スポーツで観戦者としてみていて「もっとこうすれば」というふうに思うことはありますけど、当事者の方が深い考えで取り組んでいることもあります。

 昔、高校野球でPL学園と横浜高校との対戦を当事者の証言などで検証したNHKの特集がありましたが、一球一球にすごく深い読みと考えがあったことを知り、驚いたことがあります。

 解説者でもそこまではわからないことです。  

 

 

 歴史学が、過去の歴史事件の背景を研究したりしていますが、どこまでいっても確定した答えというのはありません。
 
 当事者は、当事者の視点で見て限界がありますが、歴史家の方も視点には限界があります。歴史家は「当事者がどう思っているのかもっと知りたい」と思っていたりします。

 つまりは、それぞれに視点がある、ということでしかありません。
 神の視点(絶対客観)はないということです。 

 

 

 私たちの話に戻してみると、私たちも、自分のことで見落とすことは必ず生じます。
(男性だったらズボンのチャックが知らず識らずに開いていることもあるし、寝癖がついていることもある。)

 しかし、それは、簡単に言えばDoingの問題であって、Beingの欠陥を証明するものではありません。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 Doingが見落としたことを指摘する他人の視点にも限界があって、ある部分を指摘できるに過ぎません。
 私たちの状態を完全にわかるわけもないことは言うまでもありません。

 
 他人を「神」としてしまうのは、多くは幼少期に受けたローカルルールのためでもあります。幼少期はただえさえ、周囲の大人は完全な存在であるかのように見えます。

 その上に支配的な親である場合は、「ほらあなたはなにもわかっていない」「親である私は何でもお見通し」といったような関わりをする場合があり、そこで受けたローカルルールを真に受けたまま成長したということもよくあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもに対して自分は完璧であることを示して、「I’m OK」を得るということをしているわけです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 人間は自分の存在(Being)の不全を埋めるためには、子どもでも(だからこそ)容易に犠牲にするということですね。

 

 さらに、生育の過程で自分がわかっていなかったことを知らされるような体験を通して、「自分はわかっていない」「不意打ちされる恐怖」が強化されてしまう。

 

 

 例えば、仲の良いと思っていた友達が陰で自分の悪口を言っていた、みたいなこともそうしたケースに当たります。 

 筆者も中学の頃に、親戚のお兄さんが実は筆者を嫌っているというようなことを親から聞かされて人間不信に陥ったことがあります。
 今から思えば親もそんなこと知らせてくるなよ、とおもいますが、とても大きなショックでした。「ああ、自分はわかっていなかった」という衝撃です。

 

 芸人の千原ジュニアが子どもの頃に、友達の親が「あの子(ジュニア)はおかしいから、遊んでいはいけません」というのを耳にして、ひきこもりになった、みたいなことを書いていましたが、その気持は良くわかります。  

 スティグマ感というか、自分が見えない背中に自分がおかしい証拠が貼り付けられているような感じがして、それを他人に見透かされるというような感覚に苛まれてしまう。

(参考)→「「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 

 会社とかでも、なにか物事を見透かしそうな偉い人に接すると過度に恐縮してしまう。
 本やテレビでは、その道のすごい人はちょっとしたことで全てを見抜いてしまう、みたいなことも頭にあって、自分も見透かされるかも、と思ってしまう。

 これらはローカルルールの世界観に過ぎません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 確かに、他者は私たちの背中を見ることはできますが、ただそれだけです。
 足の裏は見ることができない、私たちの内面を捉えることはできない。
 背中を見ている瞬間には前面を見ることはできない。
 

 私たちの身体感覚を感じることができるのは私たちだけです。
 私たちの人生の時間をすべて経験できているのも私たちだけです。
  
 私という人生にログインできるのも私だけです。
  
 
 トータルで見れば、私のことは私が一番捉えることができるし、その権利(筋合い)、その動機は私にしかありません。

 だから、主権というものをしっかり持てていれば、他者も同じ程度に限界のある「主観B」でしかないと捉え、他人から指摘されても、「ああ、ありがとう」「あなたからはそういうふうに見えるのね」でスルーすることができます。
 

 新型コロナのワクチンの治験でも何百万人の反応(意見)を集めても、安全かどうかの「客観」は確定しないのですから。1,2人の指摘なんて何の意味もありません。

(参考)→「「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「他人の言葉」という胡散臭いニセの薬

 

 筆者は、趣味でテニスをしているのですが、先日、同じスクールの人に「(新型コロナの)ワクチンって打ちますか?」って尋ねられました。

 世間話ですから、真剣に答えるものでもないので「いや~どうですかね~。すぐには打たないんじゃないですか。」「自分が打たなくても、たくさん打つようになったら集団免疫ができますし・・・」
なんて、他愛もなく、適当に話をしたりしていました。

 

 ワクチンを打つ、打たないというのは、ニュースでも話題になっています。
もしかしたら、副反応が出たらどうしよう?といったことを考えるわけです。

 もちろん、何千、何万人もの人に治験して安全性をチェックしているわけですが、それでも、「大丈夫か?」となったり、「それだけの効果はあるのか?」とさまざまに検討がなされています。

みなさんも「新型コロナのワクチンができたら、自分なら打つかな?」なんて考えたことはあるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとかんたんな思考実験ですが、

 

 例えば、「新しいワクチンがあります。10人の人が効いたという“意見”を持っています。あなたは打ちますか?」と言ったらどうでしょうか。

 

 ほぼ100%の人が「絶対に打たないよ」というと思います。

「だってあまりにも人数が少ないし、しかも、人の“意見”でしょう?それだけでは信用できないよ」と。

 意見ではなく、なにか疫学的チェックが入っても、治験のサンプル数が10人ではほぼ打たないでしょう。

 100人ならどうか? 「打ってもいい」という勇気のある人が一人二人は出るかもしれませんが、多くの人は打たないでしょう。筆者も打ちません。

 

なぜでしょうか?

 当たり前のことですが、信頼性がないから。安全性が確保されていないから。
その人数では、効く、安全ということが事実であるとは到底いえないと考えるからです。

 

 効果がある、という事実もしくは信頼性がある程度確定するまでには、相当なチェックが必要とされることは言うまでもありません。

 

 人文科学、社会科学でも同様です。
 本当に事実とされるには、査読とか、様々にチェックされてはじめて「妥当」「確からしい」とされます。
 「私、見たんです」「そう思うんです」「10人の人がそう言っています」というだけでは、認められることはありません。
(参考)→「「事実」とは何か?その2」 

 

 

 

では、話題を変えまして、

 3人の人が
 「あなたが変だ。あなたは間違っている。あなたは嫌いだ」と言っていました。信用しますか? と尋ねられたらどうでしょうか?

 

おそらく、ガ~ンと頭を殴られてような感じがして、
「3人もの人が言っているんだったら、本当に違いない・・・」と思ったりしませんか。

 これが10人だったらほぼ確定。もう死刑宣告のような気がしてしまいます。

 

たとえ1人でも、

「他人が言っているんだったら、そうかも?」と思ったりしてしまいます。

 

 

 ワクチンだと、10人でも、100人でも「人の意見なんて信用できない」となりますが、自分に関する否定的な事柄になると、サンプル数が1であっても、信用してしまいます。

 

なぜなのでしょうか?

 

 これが、負の暗示の力、ローカルルールのもつ力によるものです。
ワクチンとか、他のことに置き換えたらもっともだ、ということでも、自分に関する事柄になると、重力が歪むがごとく、ぐにゃ~っと事実の基準も歪んでしまうのです。

(参考)→「「言葉」への執着の根源

 

 自尊心が高い人だと、ここで、ショックを受けながらも、「いいかげんにしろ!」と怒ったり、振り返ってみて「う~ん、なんか肚落ちしない。なんかおかしい」となって、スルーすることができます。 自らの力で“治験”することができます。

 

 その際には、内面化した自分の仲間などを思い浮かべてその人達に頭の中でチェックを通してみるわけです。
 こうした治験、解毒のプロセスが「愛着」と呼ばれるものです。まさに心の中の免疫メカニズムです(アイヒマン実験で同様のことが指摘されています)。

 

 でも、愛着が不安定だと、あるいはトラウマを負っていると、このプロセスが機能しません。そのために、そのままその毒にやられてしまって自分を疑い、否定し、自尊心が低下していってしまうのです。 

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 他人の言葉をチェックなしに受け入れるなんてありえません。それは「素直」ではまったくない。「無防備(免疫不全)」といいます。「素直さ」とは、免疫システムをくぐり抜けて解毒された“後の”ものを消化吸収する機構のスムーズさのことです。ノーチェックで外から入ってきたものを受け入れることではない。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 世の中で、素直と言われたり、物分りが良い、と言われる人というのは、しっかりと免疫メカニズムが備わっている。ガードがしっかりある、ということです。だから、解毒して、必要なものは受け止めることができているだけです。

(参考)→「仕事や人間関係は「面従腹背」が基本

 

 

 「頑固な人」というのがいます。少々乱暴ではありますが、あれはあれで実は健全です。国境に未確認な飛行機が近づいたら発砲する、みたいなもので、それが普通。他人の話をチェックなしに受け入れるほうが、実ははるかに病的なのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 

 でも、トラウマを負っている人は、ノーチェックで人の話を飲み込んでしまう。 

 何万人の治験をくぐり抜けたワクチンでも警戒するのに、人の話はそのまま信用して飲み込んでしまうことの異常さは繰り返すまでもありません。

 

 

 昔の王様などは、不老長寿のために水銀を飲んだり、今の時代から見たら毒でしかないものを服用していたなんてエピソードがあります。それと似たようなことがトラウマ。

 

 自分に自信がない、自分はだめだ、自分はおかしいという場合は、これまで生きてきた中で「他人の言葉」という、治験もされていないニセの薬を信じて飲まされてきた毒素にやられていると言っても良いかもしれません。

(参考)→「人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

(参考)→「人の言葉はやっぱり戯言だった?!

 

 

 

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コロナ禍に見る「自分の感覚」とトラマティックな感覚

 

 悩みから抜け出すためには、自分の感覚を感じる、ということはとても大切です。

フォーカシングとか、マインドフルネスなどそのための心理療法があるくらいです。 

 

 たとえば、「他人の言葉」というものがあります。

 他人の言葉で「あなたはこんな人ね」といわれても、「自分の感覚」を感じることができれば、それに対して、「自分の感覚」が違和感を伝えてきますから、「いや、違うと思う」と言えます。

 でも、多くの場合それができないのは、「自分の感覚を感じる」ことができていないためです。

 もっと言えば、自分の感覚を疑わされてしまっている。感じることを曖昧で下等なものだとしてしまっている。

 
 
 私たちの土台として大切とされる、「愛着(アタッチメント)」というものは、まさにこの自分の感覚を形成するための核となるもので、親と子供との間で、感覚を確認、承認するやり取りを身体レベルで行うものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「自分の感覚」が信頼できなければ、身体ではなく、思考という不安定な道具で対処しなくてはならず、他人からの影響に左右されてしまいます。

 

 

 

 今はまだ新型コロナウイルスで大変な時期ですが、例えば新型コロナウイルスを材料として、「自分の感覚」とはなにか?について考えてみたいと思います。

 

 新型コロナウイルスのリスクをどう評価するか? どこまで恐れるのか? というのは、まず科学的な知見があり、そして次に個人の感覚があります。

 個人の感覚には個人差があります。個人差は単に感覚の差、というだけではなく、年齢や既往症の有無などでの実際的なリスク差もあります。

 TVやインターネットからの情報などを私たちは浴びるように受けています。
  

 そうした情報と「自分の感覚」とをあわせて、「まあ、こんなものかな」とそれぞれリスクを判断しています。

 

 病気を持っている、あるいは高齢なために家でじっとしている、という方もいらっしゃるかと思いますが、筆者の周りでしたら、街でもマスクをしながら普通に買い物したり、食事をしている方が多いように感じます。

 政府からは外出は控えるように、といわれていますが、出張や旅行に行く方もいらっしゃいます(その是非はともかく)。

 
 日本で「まあ、こんなものかな」と感じさせているものこそ、山中教授などが言うファクターX なのかもしれません。

不謹慎と批判されましたが、首相や大臣までもが「会食しても、まあ大丈夫だろう」とおもうのも、肌感覚だと言えます(その是非は、さらにともかく)。

 

 

 それに対して、「気の緩みだ」という意見もあります。

 ただ、カウンセラーからすると、各人が「肌感覚(自分の感覚)」で適切に判断しているのだろう、と感じます。
 

  ※適切というのは100%正しいという意味ではなく、生きる上で「それなりに正しい(妥当だ)」という意味です。

 

 こうした肌感覚でのリスク判断や感覚を「常識」と呼ぶのだと思います。

 「常識」とは、科学的な知見そのものではありません。「理想」でもありません。専門的な知識も参考にしますが、生活での感覚など実際的なもので掛け算して出された生きる上でムリのない総合判断です。
 ですから、多くの場合は極端にならず、中庸なものに落ち着きます。

 医療関係者からすれば、「そんな常識では困る。もっと対策を」ということかもしれませんが、多くの人は自分の身体、肌感覚でリスクを判断して、マスクや手洗いなど対策をしながら、それぞれに適度に経済活動、消費活動をしながら、日常を過ごしている、というのが実際のところではないかと思います。
 実際に、今年はインフルエンザは例年の何万分の1レベルの発生状況だそうで、「常識」「肌感覚」で動いていても、かなりの効果が伺えます。

 残念ながら、「肌感覚」以上のことは人間は長くは続けることはできなさそうです。

 ※筆者も、春頃には、知人に「スーパーで買ってきたものも除菌したほうがいいみたいよ」みたいなことを伝えたら、「確かに頭では理屈はわかるが、今でも対策しているのに、もうこれ以上の対策は疲れて、難しいよ・・・」と言われて、そうだよなぁ・・と感じたことがあります。

 やりすぎると疲れる、無理は続かない、というのも「常識」「肌感覚」の特徴です。
 (やりすぎる、疲れないというのは、依存症の特徴です。)

 

 

 

 新型コロナウイルスに限らず、私たちの人生はリスクだらけですが、ほとんどのことはこのように「まあこんなものかな」「最悪のことが起きても仕方がない」と、ある意味鷹揚に構えているものです。

 医学的に見て完全に健康な生活をしているわけでもありません。タバコ・お酒はもちろん、甘いものもたくさん食べるし、ある程度身体を犠牲にしても自分が求める何かを獲得しに行くこともある。

 車の運転も事故の可能性を考えればとんでもないリスクですが、毎日仕事や日常生活で使っています。

 
 地球の反対側に飢えている子供がいても、私たちは直接救に行くことはせずに、罪悪感もなく楽しんで生活しています。
 自分の仕事、経済活動をそれぞれしながら、余力のあるときに関心を向けたり、専門家に対策を託したりしながら、自分として社会の中でわずかながらも貢献している、という実感を持っています。
 (「いつも、飢えている子供のことが頭から離れません」となっていると、お医者さんからも、「うつか不安障害かもしれませんね」と言われてしまうでしょう。)
 

 この感覚は健康で健全な感覚です。

 トラウマを克服した先にあるのはこうした感覚です。

 

 

 一方、トラウマを負うと、そうはなりません。

 「肌感覚なんていっていて、リスクを見落とすかも?!」とか、「昔から自分は独りよがりに考えて失敗して怒られてきたから、自分の感覚、肌感覚なんて信用できない」という気持ちが湧いたりする。
 

 誰かから「お前はおかしい」とツッコまれる不安にも苛まれている。
ヒステリックな大人から怒られるようなイメージがある。罪悪感も感じている。

 例えば、「医療体制が逼迫しているのに、のんびりしているとはどういうことだ!!」と怒られるような恐れ、不安を感じてしまう。

 ※「火垂るの墓」というジブリの映画で、主人公の兄妹がピアノを弾いていると、身を寄せた先の親戚のおばさんに、「よしなさい!」と怒られる場面がありますが、まさにあんな感じですね。
  おばさんはローカルルールで意地悪しているのですが、「戦況が逼迫している中、皆、お国のために働いているのに、あなた達は!」ともっともなことを言っています。

 

 それがさらに強くなると、「私ってわかってなかったのかしら?自分はおかしいのかしら?!」と自分の感覚を疑いだして、頭で考えるようになってしまう。
あるいは、「もっと、人の気持ちを考えなきゃ」と人の心の中を想像して覗き込もうとしてしまう。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 頭で考えると、過去の不全感が疼いて、自分の感覚を我慢しているフラストレーションがたまり、マスクしていない人や、飲食店でのんきな若者を見ると怒りが湧いてきたりしてしまう。
 インターネットで自粛していない飲食店の名前を書き込んだり、、、みたいなことをしてしまう(これはローカルルール人格へのスイッチです)。
  

背景には、非愛着的世界観も潜んでいます。世の中はひどい人ばかりで、自分は脅かされている、という不安感です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 

 トラウマというのは、近代に入り惨事や戦争で注目されるようになったものですが、新型コロナウイルスが起こしている情勢というのは、まさにトラウマティックといって良いと思います。

 そうした状況であるからこそ、反対に本来の自分の感覚とはなにか?がわかりやすい。

 

 戦時中に、不謹慎とされても、パーマやおしゃれを楽しもうとしていた人がいたそうですが、「おしゃれをしたい」という感覚は自分の感覚といえそうです。
反対に、「戦時中だから、押し殺して我慢をするべきだ」というのは、どちらかというとトラウマティックな感覚です。

 

 昔、「白洲次郎」というNHKのドラマがありましたが、その中で、白洲次郎が召集令状が来たのを拒否して、裏から手を回して徴兵を逃れます。
 それに対して「多くの国民が高潔な魂を胸に戦地に赴いている。恥ずかしいと思いませんか?」と非難されますが、白洲は「それは自分の役割ではありません」といい、自分の信念を貫きます。
 後日、そのことを、刑務所から出てきた吉田茂に報告した際に、白洲次郎は徴兵を逃れた自分の判断への後悔、迷いを見せます。
 そのときに、吉田茂に「自分の決断に自信を持てよ!」と励まされて、「はい!」と気を取り直す、というシーンがあります。
 法的にも、道義的にも当時、徴兵から逃れるというのは良くないとされたことですが、その結果、生き残り、戦後のGHQとの交渉などで白洲次郎は大活躍をすることになります。
 

 

 こうした例も、自分の感覚を感じる、と言えるかもしれません。

 
 

 

 こういうと、「無限定に自分の欲望のままになるのでは?」「なんでもかんでも思い通りではいけないのでは?」という気持ちが湧いてくる。実はこれもトラウマティックな感覚なのですが、でも大丈夫。

 人間は「社会的な動物」ですから、だまっていても社会の常識を代表して生きる存在です。ですから、社会の常識から逸脱しようにも離れることはできない。スマホのような存在。自分の感覚に従えないと、社会を代表できない。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 大事なことは、それが、主権を持った自分の身体を通して、翻訳されて、自分の内側から湧いてくるものか否か、です。反対に、上に挙げたような、「こうするべき」という頭ごなしに、罪悪感とともに湧いてくる感覚は、ニセの常識であり、言い換えればローカルルールのものです。

 これを区別することはとても大事です。
 区別できないことが、生きづらさや、悩みの根幹とも言えます。それは人格構造の機能不全から来ます。

 

 そうしたことから抜け出すために大切なことは、頭でではなく、自分の身体(肌感覚、ガットフィーリング)で判断するということです。
 「自分の感覚」とは、社会の何かを代表して身体に湧いてくるものです。
その際に罪悪感とか義務感といったことは「自分の感覚」を感じる邪魔になります。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 くれぐれも、「他人の目」とか、「こうするべき」という感覚からではありません。それは結局、自分の親とか他者に自分の主権を明け渡すことになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

あらためて、「運動」はとても大切

 

 新型コロナウイルスの自粛の影響もあり、生活習慣が乱れてしまったり、特に運動不足が心配されます。

 クライアント様の中にも、あきらかに自粛の影響でうつっぽくなってしまったり、悲観的になって自分で戻せなくなってしまっている方も、散見されました。

 

 以前の記事にも書かせていただきましたが、 
(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 運動、食事、睡眠のいずれかが下がると、心身のコンディションはテキメンに下がります。
(マインドコントロールも運動、食事、睡眠の制限が基本ですから、わたしたちにとってその影響の大きさが伺えます。)

 

 コンディションが下がると、ローカルルールや過去の嫌な記憶といったものにも囚われやすくなります。
 (さらにローカルルール人格にスイッチしていまうと、自分では自分の考えとそうではないものが区別できなくなってしまいます。)

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 たまたま、新聞で書籍の広告が目に入ったのですが(「スタンフォード式人生を変える運動の科学」という本)、そこにも、「毎日の平均歩数が「5649歩」を切ると、不安・落ち込みが増大」という言葉がありました。
 

 

 これはそのとおりで、エビデンスでも裏付けられていますが、いわゆるうつ病でも、薬で回復する人は2割程度ですが、週3回20分程度ウォーキングすることで、9割が回復することがわかっています。

 反対に言えば、運動が不足するとうつや不安に簡単に陥ってしまうのが私たち人間の性質であるということです。
 

 自粛とは関係なくても普段、うつとか、不安などを感じたら、セラピーを受けるよりもまず、運動をしてみる。とにかくしっかり寝て、じゃぶじゃぶに栄養を取る。

 

 栄養については、下記のような本を参照ください。

奥平 智之 「マンガでわかる ココロの不調回復 食べてうつぬけ」

藤川 徳美「うつ・パニックは「鉄」不足が原因だった

 

 運動については下記のような本があります。

ジョン J. レイティ, エリック ヘイガーマン「脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」

 

 宣言も解除されましたので、あらためて「運動」の習慣も戻していきたいところです。

 

 

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

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